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科学哲学ニューズレター

No. 49, February 4, 2003

Graduation Theses and Master's Theses, 2003

Editor: Soshichi Uchii


2003年修論・卒論特集


佐野勝彦「時間様相の非反射性について」(On the Irreflexivity in Tense Logic)

時制表現がもつ論理的性質を様相論理の枠の中で扱おうという「時制論理」を始めたのはイギリスのA. N. プライアーである。彼が基本と見なしたのは、未来時制を表す「Aであるだろう、FA」と、過去時制を表す「Aであった、PA」という、文Aに様相演算子をつけた表現法だった。その後、60年代に現れたクリプキの可能世界意味論を応用して、時制論理のためのモデル理論が多くの人々によって展開された。そういった流れの中で論じられてきた問題の一つに、このような様相アプローチで時間のどのような性質(可能な、考え得る性質)が表現できるかという問題がある。

論者がこの論文で取り上げるのは、とくに時間の非反射性の問題である。 非反射性とは、「どのような時点も、みずからの未来には来ない」という性質、換言すれば「時間は決して止まらない」という性質である(同じ時点の繰り返しが、止まるということにほかならない)。様相アプローチでは、これの表現が意外とむずかしい。これに対し、時間の前後関係を関係述語で表し、時点を量化して扱う一階述語論理の言語によるアプローチでは、非反射性の表現は簡単である。とはいえ、様相アプローチには別の長所もあるので、Tense Logicという業界内では、それなりに支持者も多いわけである。

前置きが長くなったのは、論者の記述が不親切でテクニカルな記述(自分にはいかに使い慣れた記号でも、他人にはきわめて読みにくいデ!)に終始し、時間の流れならぬ「話の流れ」がわかりにくくなっているので、一般読者のために問題の背景を補う必要があったからである。 では、論者はこの論文で何をやったのだろうか。彼は、幾つかの先行研究に依拠しつつ、様相アプローチのなかで非反射性を表現可能にするための新しい様相演算子を導入し、これを加えた幾つかの公理系の完全性、すなわち公理系内の証明可能性とモデル理論的妥当性の等価性、を示した。つまり、一階述語論理の道具立てを表現を変えて持ち込むという(筆者に言わせれば)いかがわしい手段に訴えないで、様相演算子だけを用いることで非反射性も表現可能となることを示したわけである。

論者が提案する時制演算子を仮にDで表すなら、DA は「今ではない、過去または未来の時点で、A」を表す。これは、M. de Rijkeの先行研究に少々の改変を加えて得られる演算子である。これのためのモデル理論と、対応する幾つかの公理系を示し、それらの性質を明らかにしたのが、この論文における論者の主要な成果である。これはそれなりの成果であり、P. Blackburn, D. M. Gabbay, de Rijkeらの先行研究との比較も有益である。だが、定理と証明の(無愛想な)ラレツにはうんざりするので、他人の成果などは引用するだけにし、自分のウリのところだけは詳細で丁寧な証明を強調するという風に、叙述に強弱をつけられんかね!

もう一つ、本論文が目指すような、いわゆる「哲学的論理学」と呼ばれる分野の研究について気がかりなのは、哲学や物理学での問題と分離した、「業界の土俵」で仕事が行われているという印象がしばしば強いことである。例えば、時間の非反射性を問題にするなら、ミクロとマクロの二層をもつ統計力学(あるいは分子運動論)では、マクロなレベルで時間が止まっても(いわゆる「熱死」状態となって変化がないので、おそらく時間の非反射性が破れる)、ミクロなレベルでは時間経過は継続している(分子の運動は止まらない)という事態が考えうる。このような、具体的な時間の問題との接触を保った哲学的論理学(元祖プライアーはそうだったはず)に踏みとどまってもらいたいというのが、(もちろん、本論文に対しては、理不尽な「無い物ねだり」であるが)「業界」の外の人間からの要望である。

小野田波里「一般相対性理論について」(On Einstein's "General Relativity")

アインシュタインの言う「一般相対性原理」に多義性とある種の混乱が含まれていることは、科学哲学における時空論の専門家にはよく知られている事実である。しかし、論者はこういった概念的な問題に焦点を合わせるのではなく、一般相対性理論の実際の形成過程ををたどることによって、アインシュタインが「一般相対性」に込めようとした実質的内容を確認する、というのが論者の目指す目標である。その過程で重要なものとして浮かび上がってくるのは、初期には「慣性の相対性」と呼ばれ、1918年にいたって「マッハ原理」と命名し直された原理(この原理の定式化は、一般共変性は一般相対性とは違うというKretschmannの批判に答えてなされた)ではなかったか、というのが論者のメインの主張らしい。

では、「慣性の相対性」とは何を意味するのだろうか。これは、大まかに言えば、「物質の全慣性は他の物体との相互作用によって引き起こされる」という主張である(ただし、ここで言われる「慣性」が何を意味するのか、多義的であることに注意しておかなければならない。「全慣性」という表現からすれば、慣性質量が主たる意味であろう)。論者によれば、これが初めて現れるのは1912年の論文「電気力学的誘導と類比的な重力効果は存在するか?」である。一定の質量Mが均等に分布した大きな球殻を考え、その中心部分に質点mがあるとする。このとき、球殻に一定の加速度が働いたとしたなら、中心の質点にも何らかの力が働くだろうか。アインシュタインは、相対性理論によれば答えはイエスだと論じ、質点の質量は、球殻のあるなしによって変化をこうむると論じたのである。それだけでなく、この考察をマッハの有名なニュートン批判のなかでなされた主張と関係づけている。と、ここまではよいのだが、直ちに出てくる疑問は、「マッハのどのような主張か」ということ。この点で論者の分析があやふやになっているのが惜しまれる。

マッハの議論は、(1)慣性質量の運動学的定義と、(2)慣性法則を絶対空間に関係づけるのではなく宇宙全体に関係づけるべきだという主張の、少なくとも二つの異なる主張を含んでいたはず。アインシュタインの問題の箇所、そのほかの箇所が、この点でマッハの異なる主張を混同しているのではないかという指摘は、すでにジュリアン・バーバーによって強力になされており、論者もこれを知っているはずだが、なぜかほとんど言及がない。この点、「一般相対性」の意味や、それを目指した理論自体の特徴に絡んでくるはずのことなので、やはり不備が惜しまれる。

アインシュタインが、グロスマンとの共著論文(1913年)以後、一般共変な重力場方程式にたどり着くまでの2年間に陥った「穴の議論」(一般共変性を満たせば重力場の一義性が失われる、という誤解)についても、きわめて表面的な解説しかなされていないことが惜しまれる。この点も、「一般相対性」の意味を解明する際に不可欠のものではなかったか。「一般相対性 = 一般共変性」という混同は、現代に至るまで多くの人に引き継がれているのである。

結局、論者の中心的な主張は、一般相対性理論が他の理論よりも優れているというアインシュタイン自身の主張において、慣性の相対性が満たせるということが一つの決め手にされている、ということの確認で終わる。しかし、この確認だけでは、たいていの読者は納得しかねるであろう。慣性の相対性が仮に満たされたとして、それがなぜアインシュタインいうところの「認識論的な長所」になるのだろうか。この点が解明されないと、アインシュタインの主張も、論者自身の主張も宙に浮いたまま中途半端に終わる。面白い題材で着眼点はいいのだが、よい素材を料理する道具立てと、論点を最後まで追究しようとする執念を欠いたのが残念。


田中泉吏「感情の由来と機能」(The Descent and the Function of Emotions)

感情の起源と働きを進化的視点から考察し、感情が人間において道徳の基盤になっていることを論じようという野心作。ヒュームの情念論から説き起こし、ヒュームの分類を現代の生理学や心理学における感情についての知見と突き合わせて、まず「感情」で何を意味するか定義する。では、そのように定義された感情はどういう機能を持ち、どのように進化してきたのだろうか。感情の機能については、アントニオ・ダマシオの『生存する脳』が援用され、「感情が個人的、社会的領域における意思決定を合理的にさせる」働きを持っていると主張される(「合理的」とは適応度を上げる、という意味)。つまり、社会的動物としての人の個体が生き抜いて子孫を残していくためには、感情(的反応)が不可欠である。この主張は、「由来」の問題にもすでに大部分答えたものになっているはずだが、3章以下では、現代の進化心理学での標準的な見解がおさらいされる。そして、なぜか論文の最後にダーウィンの道徳起源論が出てくる。ヒュームもまた出てくるが、ヒュームの道徳論は全然読みこなせていないようだね。フゥ・・ーム?

杉本 舞「C. E. シャノンの暗号理論」 (C. E. Shannon's Theory of Cryptography)

シャノンは、情報理論の生みの親の一人とされる数学者。このシャノンが1949年に発表した暗号理論の先駆的な試みを取り上げて解説・分析したのが本論文の内容。シャノンの中心的なアイデアは、普通の通信過程において、もとのメッセージにノイズが入って信号が乱されるプロセスと、メッセージの暗号化によって信号が変えられるプロセスとを類比的に扱って、暗号解読の難易度を確率論的に扱う方法を提示したことである。ノイズと暗号化とでは、もちろんメカニズムがまったく異なる。しかし、受信された信号からもとのメッセージを復元する難易度に着目するという視点をとれば、復元されるべきメッセージが(受信者にとって、何も情報のない場合に)もつ事前確率と、受信されたデータに相対的な事後確率との変化に注目して、暗号解読を「事後確率1となるメッセージを求める」という問題に置き換えることができる。また、この観点からすれば、実質的に解読されない暗号とは、受信した信号に基づくメッセージの事後確率が、事前確率と変わらないものだ、ということになる。こういったメインのアイデアに加え、シャノンは暗号理論の様々な先駆的アイデアを盛り込んでいた。ウーム、マンダム!

山口健太郎「E. ローレンツとカオス」 (E. Lorentz and Chaos)

気象学者エドワード・ローレンツの名前は、カオスを語るとき必ず言及される。しかし、現在ではカオスと呼ばれる特徴を持った微分方程式に基づいて、長期的気象予報の不可能性を結論したとされる1963年の彼の論文をきちんと分析した仕事は意外と見あたらない。論者は、その微分方程式導出の過程も含め、ローレンツのこの論文を分析して、この仕事がなぜカオス理論の先駆と見なされるにふさわしいのか、ローレンツの研究のどのような側面が斬新だったのかを示そうと試みる。ローレンツは、「レイリー-ベナール対流」と呼ばれる流体モデルから出発した。このモデルの流体運動を記述する偏微分方程式を、変換と近似によって、次数を下げた常微分方程式で置き換えたものがローレンツモデルだった。このモデルは、決定論的な方程式からなる「力学系」の特徴を備えている。そして、この系の解を抽象的な空間にプロットした「解軌道」が、ある条件の下では驚くべき特徴を示したのである。すなわち、初期条件のわずかな違いが、きわめて不安定な振動状の軌跡を生み出す。それは、アトラクターと呼ばれる二点の周りを複雑に往復する軌跡である。それだけでなく、ローレンツは、この複雑な解軌道から新たな規則性が生まれることも見いだした。ローレン、ローレン、ローレン!

谷尻和宣「ヴェサリウスの泌尿器官研究--ガレノスとの比較を中心に--」 (Vesalius on the Urinary Organs)

この論文は、16世紀の解剖学者ヴェサリウスの『人体構造論』の中から、腎臓と膀胱に関する所見を取り出して、古代の、そして16世紀当時においても、権威と見なされていたガレノスの所見と比較検討したものである。比較は、解剖学的な所見と、生理学的な機能についての所見の二つの分野にわたって行われる。比較の結果、解剖学的知見においては新発見がありガレノスの誤りが批判されたが、生理学的な知見についてはヴェサリウスはガレノスの見解を多く引き継いだ後継者であった、というのが論者の結論。しかし、この時代、肉眼による観察しかできず、生理学的あるいは化学的な分析手段がまだないという状況の下で、一体どのようにして新しい生理学的洞察が打ち出され得たであろうか?問題の立て方、目の付け所をもっと工夫しないと、せっかくラテン語を読んでまとめた研究でも、面白い結論はなかなか引き出せそうにない、のダッチュウの!


編集後記 本年度も論文口頭試問を終えて、恒例の論文特集をお届けすることができた。これで、ニューズレターも49号となり、いよいよ次回は10周年、50号記念号となる。原稿募集と依頼は出してあるのだが、原稿はまだいっこうに集まってこない。各々がたの得意技、「駆け込み提出」に期待するほかあるまい。わたしが大学で教えるようになって以来、学生諸君には「何でも先先やれ。今日しようと思ったことはいますぐやれ、明日しようと思うことは今日やれ」と指導してきたつもりだが、なかなか誰も身につけてくれない。定年がそろそろ近づいてきたわたしは、「何でも先先と」という方針にしたがって、定年より前に辞めてもいいのだが、「退職金」の額に響いてくるので、まだ決めかねている。早期退職者には、退職金を削るのではなく、逆に奮発してくれんかね!どこか、日本国内外を問わず、わたしに声をかけてくれるところはありませんかね?スペースシャトル、コロンビアの事故を悼む。(内井惣七)


February 4, 2003. (c) Soshichi Uchii

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