科学哲学ニューズレター |
No. 57, February 2, 2005
Theses 2005, and How to Write a Thesis? by Soshichi Uchii
Editor: Soshichi Uchii
卒論・修論 2005
論文の書き方
本年度の論文が出そろって審査も終わったので内容を紹介しよう。今回はわたしのコメントはなし。代わりに、わたしの任期も残り少なくなったので、「論文の書き方」(日頃から言い続けてきたことだが)を伝授いたそう。(内井惣七)
卒業論文
中尾 央 「利他的行動の進化について──互恵性の視点から」
生物における「利他行動」の進化を説明するために、ロバート・トリヴァースの「互恵的利他性」のモデルが一つの突破口を開いたことはよく知られている。中尾論文は、血縁淘汰の概念から出発して互恵的利他性のモデルをおさらいしたのち、これを現実の事例に適用するケースをいくつか調べて、このモデルの妥当性を検討する。実は、これまで互恵的利他性の適用例と見なされていたいくつかの事例は、「疑似互恵利他性」という、当事者の一方に行動のコストがかからないモデルの方が適切ではないか、というのが一つの結論。こちらのモデルの方が条件は弱い。
修士論文
椿井真也 「熱力学における時間非対称性」
時間は過去から未来に向かって流れる──時間は過去と未来に対して非対称であると考えられる。この日常経験では当たり前のことも、物理学に基づいてきちんと説明することは難問である。19世紀の気体分子運動論から統計力学に発展する流れの中で幾人かの物理学者や哲学者がこの難問にチャレンジしてきた。椿井論文は、マクスウェル、ボルツマン、ライヘンバッハと引き継がれてきたこの流れをたどり、時間の非対称性を密輸入しない前提から時間の非対称性を説明しようとする試みがなぜ失敗してきたかを語る。
田中泉吏 「道徳性の進化について──エソロジーと社会生物学の視点から」
道徳性はどのような構成要素を持ち、どのように進化してきたと考えられるか。田中論文は、安楽椅子の哲学ではなく、動物行動学(エソロジー)や進化生物学(とくに社会生物学)の成果をふまえ、また哲学的な分析も加えて道徳の起源を考察する。人間以外の霊長類における「道徳感情」の研究は、エソロジーの伝統を引くド・ヴァールらによって始められているが、その研究の一端であるオマキザルの「公正感」についての検討が前半。後半は、文化人類学者べームの路線の上で、研究を拡張していくためのシナリオを探る。
杉本 舞 「情報量概念の成立」
クロード・シャノンが「情報量」という概念の生みの親の一人であることはよく知られている。しかし、彼はいったいどのような先行研究をふまえ、どのような発想を加えることによってこの概念に到達したのだろうか。未公刊の資料をふまえ、通信理論と暗号理論の両方にまたがって使えるよう意図されたシャノンの概念形成の跡を明らかにする。言語的情報を離散的なモデルでとらえ、しかも記号の統計的な頻度や統計的な相関だけに着眼点を絞って大胆に抽象する、そして暗号の解読可能性を分析するために、情報を得る前と後での事前確率と事後確率を導入する、というシャノンの手法を解説する。
論文の書き方
(1) 卒業論文編
学部の卒業論文にわれわれが求めるものは、それほど難しい条件ではない。
- まず第一に、取り上げられたテーマがきちんと提示されていて、そのテーマに関する論者の結論がきちんと出されて適切に述べられているか。
- 第二に、論文にした研究が自分自身の調査や論考によって裏づけられているかどうか。ここでいう「研究」とは、先行研究や二次文献に依存したものであってもかまわない(出典の明示や引用がきちんとしているなら)。他人の研究結果であっても、論者がそれを自分なりに消化して使っているのであれば、その理解の仕方、まとめ方、あるいは使い方などが評価の対象とされる。
資料や文献に当たるときは、問題のテーマに関してどれが一次資料であるかをはっきりさせること。一次資料とは、たとえばカントやニュートンの見解を論じる場合には、彼らが直接書き残したもののことである。彼らの同時代人や後世の人たちが彼らについて書き残したものはすべて二次以下の資料である。できるだけ一次資料に当たってみるということが、学問をやる姿勢。二次資料の翻訳ものだけ使ったのでは、大変に評価が下がる。
- 具体性と一般性。ある主張や見解などが抽象的だったり一般的だったりした場合、その内容をできるだけ具体的に敷衍してみることが必要。われわれ人間は、大学教師も含めて、一般的な内容の主張を直ちに理解できるほど頭がよくない。とくに、論者自身が理解に苦労したような内容は、その理解のステップがわかるように具体的に説明してみよう。そうすれば、たどり着く内容が同じであっても、「わかった」という感じがはるかに強くなるはずである。
- ある主張に対する批判や、ある結論の論証などは、論拠をできるだけ明確に示すこと。「・・・ではないだろうか」などと、疑問形の文章や感想などをいくら連ねても、これは論証とは見なされない。
- 流れと筋書き。卒業論文のように、一定の長さ(400字詰め50枚相当)を持つ論文で大切なことは、全体の流れと筋書きである。複数の短いリポートをいくつ列記しても論文にはならない。章なり節なり、部分となるものが結論に向かう流れの中にきちんと位置づけられていなければ、論文としては失敗である。全体の流れがよければ、部分的に少々の問題があっても、全体の印象は格段によくなるはずである。
(2)修士論文編
- 卒業論文と違って、修士論文にはある程度のオリジナリティが要求される。そこで、他人の研究、先行研究などに何を負うかを明確にした上で、自分が新たに明らかにしたこと、発見したことなどをはっきりと示すこと。
- テーマの選び方。例年うんざりするほどよく見られるのは、修論を書く段階になってまだテーマが絞り切れておらず、フラフラしているアホ院生ども。テーマが絞り切れていないどころか、11月、12月になってテーマを急遽変えるなどという暴挙をやる連中がいるので、われわれもお手上げなのだ。自分の設定したテーマがモノになりそうかどうか、見当がつかないようなら、研究者としてのセンスが悪いとしか言いようがない。もちろん、一向におもしろくないテーマやツマラないテーマを選んでいるのにそれに気づかない連中もご同様。ではどうすればよいか。(一)まずはネタの蓄積。漫然と文献を読んだりものを考えるのではなく、「やりたい」と思うネタ探しに普段からつとめておくこと。(二)でかいネタをやりたいという野心は大変結構だが、自分の能力をわきまえること。修論に収まる程度の手頃なネタに絞り込むこと。(三)ネタが手頃かどうかかわからなければ、教師に聞いてみること。先行研究などがあれば教えてくれるかもしれない。
- 執筆のための下準備。修論は、いわば「駆け出し」研究者の初仕事みたいなものだから、準備が肝要。たいした蓄積もない「駆け出し」に、一月や二月で論文が書けるはずもない。できれば夏休み前にはだいたいのテーマの見当をつけて、夏の間に関連の分野を調べておくという下準備が必要。休みが明けたら、いろいろ目移りがするのを「エイヤッ」と振り切って、一つに絞る。そして(教師などに相談して)一つに決めたら論文は半分できたようなもの(キミに見合った能力があれば、の話)。後は脇目を振らずに調べを進め、やがて執筆に入って邁進すればよい。とにかく書き始めないことには論文ができるはずはない。また、路線変更がどこで必要になるかも、書いてみないことにはわからない。秋になってまだ書き始められないのは、黄信号どころではなく赤信号やゾ。
- 執筆期間には余裕をみること。これもできる人は少ない(院生だけでなく教師も含めて!)。しかし、論文の締め切りは「待ったなし」なのだ。12月に入ったら「清書」に入れるように執筆を進めよう。「火事場のクソ力」という格言もあるが、これは地力のある人にのみ適用される格言だと思え。準備不足の奴らには出せるような「クソ力」はない──最初の二字ならあるがね。
- ダメ論文を自分で見分ける眼をもて!研究者に必須の能力の一つに、論文の善し悪しを見分けるという力がある。完成に近づいた自分の論文を見て、「これでイケそう」と思えなければどうするか。道は基本的に二つしかない。(一)これまでに蓄積した自分の力を信じて、それこそ「火事場のクソ力」を出して改訂に励む。(二)それができないと思えば、潔くあきらめてもう一年やる。「だめもと」で出してみて審査委員の判断を仰ぐというのは、一見合理的(自分に都合がよいという意味で)のように見えて、実は研究者としての自分の眼力を鍛えることを怠った下策。ダメな論文に淡い期待をかけたり、審査委員のお情けを当てにしたりするな。ちっとも自分のためにならない。ただし、修士でキッパリ研究者の道をあきらめておさらばするというのなら、まったく問題はない(とにかく出して修了しましょう)。
Feb. 2, 2005. (c) Soshichi Uchii