第一回研究会

清初のオランダ使節の北京上京記

中砂 明徳

発表要旨

オランダ東インド会社が組織した使節団の一員として、順治13(1656)年に北京に上ったヨハン・ニューホフ(1618−72)の『大タルタル汗へのオランダ東インド会社使節派遣の記録』(1665初版)は、150枚以上に及ぶ豊富な図版の力を借りて、西欧の読者に具体的なシナのイメージを提供した書物として名高い。本書は、使節行の記録とシナ概論の二部構成からなり、草稿を託された兄弟のヘンドリクの編集を経てアムステルダムで刊行されたものである。近年ニューホフの草稿とスケッチが発見されたことにより、本書への注目度は再び高まりつつある。しかし、わが国では、かつて江戸期の蘭学者たちが熱い眼差しを注いでいたにもかかわらず、今では稀覯書として言及されるに過ぎない。本報告は、この骨董品を賦活することができるのかを探ろうとするものである。

かねてから中国本土との自由交易を希求していたVOCのバタヴィア総督は、捕虜となったイエズス会士マルティニから、王朝が漢人から満州人に代わったことで外国に対する態度にも変化が生じている、との示唆を受けて、使節団を組織した。本書の著者がその選に入ったのは、1640年から9年間ブラジルで滞在した時(この頃、ブラジルの北東角をオランダが一時占拠していた)の記録とスケッチの優秀さが買われたからだと考えられる。彼は広東から北京に上る22名、さらに上京後皇帝への謁見を許された6名にも入って、道中や紫禁城の状況をヴィヴィッドに描き出している。使節団における彼の肩書きは「執事」であったが、同時に「随行記者」の役割を担わされていたのである。

従来、そうした記述の中でも、北京での交渉や、他国使節との接触の部分に焦点が当てられてきたが、今回の報告は王朝交代直後の各地の状況(とくに南方)や具体的な地誌情報(都市のサイズ、城壁の高さ、街路の舗装、牌坊・寺廟の配置等)に着目した。これらの情報は、当時もっとも詳細な地理情報を有していたマルティニの『シナ新地図帳』(1655)にも見られず、また、17世紀の他国の使節で(西洋に限らず)これに比肩する記述を残したものはない。この後、組織された第二次使節団の道中記録と合わせれば、中国の地誌記述の欠をも補いうる。

北京での交渉の経緯についても、なお検討の余地がある。オランダ人が望んだのは広東等の海港での交易だった。一方、中国側は朝貢を交易の前提としていた。使節派遣の結果得られたのは「荷蘭国王」による「八年一貢」の承認のみであった。「八年一貢」と決まった表向きの理由は「遠路であることを考慮して、間隔をあける」というものだったが、これはオランダ本国との往還の距離を計算に入れたものだと考えられる。しかし、中国側は使節の派遣主体が本国でなく、バタヴィア総督であることを十分に認識していたし、総督の書簡を持つに過ぎない使節の朝貢を認めていた。朝貢の形式は尊重されつつも、実際の運用には柔軟性があったのである。

また、同じく朝貢と言っても、陸続きの朝鮮・モンゴル・チベット政権と異なり、海路からアクセスする場合は、内陸での旅行(当該使節団の場合、広東・北京間の往復に7ヶ月かかっている)に加えて、モンスーンによる往還の季節的制約や、使節上京のあいだ港に残っている船の保全等の問題を考慮に上さざるを得ない。この点、東南アジア諸国の事例との比較・対照が必要となるであろう。

その他に、今後の課題として二点を掲げた。

  1. 本書出版直後の反響を追跡すること。本書に載る図版が、18世紀のシノワズリーに大きな影響を与えたことはよく知られている。しかし、イエズス会の情報寡占を打ち破る意義を持つ本書に対する出版直後の反響、17世紀後半のシナ研究に与えた刺激については、十分な調査が行われていない。本書は蘭語初版が出ると同時に仏語版が出され、その後まもなく羅・独・英語版が出ている。それらが欧州の読書界にいかに迎え入れられたか、また、先行するイエズス会提供の情報と組み合わされてどのように受容されていったのかを追尾したい。
  2. 従来、17世紀のオランダ・アジア交渉史の記述の力点は、VOCの交易活動、パワー・ポリティクスに置かれてきた。それに比べて、アジア諸政権に送られた外交使節団の比較研究や随行員の情報収集活動の吟味は、17世紀末に江戸参府旅行に加わった『日本誌』の著者ケンペルに関する研究が飛びぬけて豊富なのを除くと、不十分と言わざるを得ない。日本・ムガル・サファヴィー朝への使節団が残した記録、ニューホフと同じく両インドを体験したワーヘナールの足跡との比較・対照を行うことにより、17世紀オランダの世界認識の広袤を確認したい。

討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

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