第十回研究会

異本「海寇議」―一郷紳万表の見た海―

山崎 岳

発表要旨

明代嘉靖年間の倭寇資料として知られる「海寇議」には、二種の版本が存在する。一つは、嘉靖年間に蘇州府で編纂された叢書『金声玉振集』に収められ、『玄覧堂叢書』等に継承された版であり、他方は、著者である万表の個人文集『玩鹿亭稿』に載せられたものである。しかしこれら二つの版本には、単なる字句の異同にとどまらない、当時の社会的情況に根差した問題が秘められていると考える。

これまで「海寇議」は、「倭寇王」汪直の海上覇権確立の過程を描くとともに、明初に発布された海禁制度が、明代中期の寧波等沿海地方において、いかに退廃していたか、という文脈を主調として読まれてきた。それ自体は決して誤りではない。『金声玉振集』の編纂者である袁?自身の解釈も同様であった。彼は、その按語において、この「海寇議」と浙江巡撫朱?の『甓余雑集』とが相表裏するものとして併せ読むことを勧め、海禁問題を後者の立場に引きつけて解釈したようである。

確かに「海寇議」は海禁の徹底を主張する見解において、朱?の政治方針に通ずるものである。「海寇」問題を明朝中国にとっての国家的課題の一つとして位置付ける同叢書の問題意識からすれば、海禁論者たちの立場上の同一性は、もとより自明のことであった。しかし、『玩鹿亭稿』版を一読することによって、『金声玉振集』版においてはささやかな言及に過ぎないと見えた失敗者朱?への批判が、そもそも「海寇議」全篇を貫いて張られた伏線ではないかという可能性が浮かび上がってくる。

著者万表は寧波衛指揮僉事の家に生まれ、正徳年間に武挙に及第、一武官として一生を終えた人である。その生平については、万暦年間に子孫の手により刊行された『玩鹿亭稿』、並びに王龍渓の手になる「行状」が、欠かせない手がかりとなる。南京都督付きの武官として万総戎を通称するいかめしげな印象とは裏腹に、彼自身は当時漕運総督として知られた行政キャリアであった。また、彼の文集に残された詩文は、到るところ心身の病苦にまつわる愁訴でみたされており、事実彼はその官歴において、何度か病のため職を辞して郷里に引きこもることを繰り返している。儒者として「陽明学派」に連なる人士と親交を厚くする一方、医療に向かう関心から仏僧や道士などの「方外の士」と交わることを特に好んだという。彼より数世代あとに生きた黄宗羲などが抱く「武人」として万表の人間像を裏付けるのは、おそらく最晩年に参加した、江南における対「倭寇」戦役のみであったと思われる。

明代中期以降、国制上の軍事警察権の責任者として、文官の重要性が増していったことは、周知の事実に属するだろう。しかし、国初以来の不磨の大典として、あるいは犯罪者を良民から隔離する一種の監獄として、衛所制度は明代を通じて存続する。衛指揮をはじめとする世襲の武官の身分は、一種の特権であると同時に、そこに生まれついた者が必ず負わなければならない重責であった。万表の父親は、その地位に耐えることができず、おそらくは家庭内においてその「父性」を十分に発揮することなく一生を終えている。「行状」等を見る限り、彼はその幼少期をもっぱら母親の教導の下に過ごしたと言ってよい。神経質で身体の弱かった少年万表にとって、男勝りでしっかり者であったこの母親への感情こそが、彼の「孝道」の原体験であった。

彼が「海寇議」を著したのは、嘉靖31年(1552)、その最晩年のことである。時に、彼の故郷である寧波周辺の東南沿岸海域における治安の悪化にともなって、明朝の規制力は有名無実となっていた。日本や東南アジアを結ぶ航路上には、徽州人汪直を首長とする新たな政治勢力の胚胎が危ぶまれており、折しも江南デルタ地方の水郷は、「賊」の上陸をうけて無政府状態に陥りつつあった。人々はこれを「倭寇」と呼んだが、呼称の当否はそのものが当時から一種の政治問題であった。必ずしも同一人物の犯行とは見なし得ない一連の強盗事件を総称するにあたり、「倭寇」と「海寇」とは、当地の治安悪化の原因に対する見解に従って、厳密に区別されるべきものであった。

朱?の厳格な海上封鎖は、「海寇」内因論に立って行われた。朱?にとって、任地である浙江・福建両省の住民は、一介の漁民から政界に幅をきかす郷紳まで、すべての人々が、国家的平和を私利私欲の赴くままに掻き乱す「賊」となり「寇」となりうるものと考えられた。万表が「海寇議」を著した頃、朱?は無実の商民を虐殺したとの廉で失脚しており、すでにこの世の人ではなかった。自身、寧波の郷紳そのものでありながら、万表もまた「海寇議」というその篇名が示すように、「海寇」内因論に与するものであった。しかし、彼の周辺で声高に叫ばれたであろう「倭寇」外因論とも一線を画しながら、彼は朱?の政治手法に著しい反感を表明する。いやしくも一郷紳として、朱?の死に同情する人々から寧波の士大夫が「国賊」視されることは、彼にとって心外なことであった。海禁を徹底しようという朱?の目的は正しくとも、彼の政策はむしろその意図とは逆の方向へ作用したものではなかったか。そもそも、郷里の士大夫民衆をさしおいて行われる官の専制が、本当に土地の人々の生活のためとなりうるのだろうか。

都督府に在職中、万表は病によりたびたび職を辞している。彼の心身は、唯一王朝国家によって保証された出世街道をまっしぐらに上昇するのに堪えられるほど強靱なものではなかった。彼が好んだと言われる「方外之交」は、官界への違和感に悩む心身にとって、一種のモラトリアムであり、社会的軋轢からの逃げ場所と言えるものであった。半ば良民でありながら、どこか別の世界に通じたような無頼の人々に惹かれるのを感じたのであろうか、胡宗憲の意をうけて「倭国」に使いした豪傑蒋洲も、もともと彼が推挙したものであり、江南の戦役には少林寺の僧兵や海上島嶼の漁民たちを自ら率いて臨んでいる。

海禁は可能である、と彼が本当に心から信じていたかは、実は分からない。残された資料から、彼自身が朱?の言うような「衣冠の賊」でなかったことを決定的に証明するのは不可能であろう。最も極端な想定が許されるなら、彼が総督張経の下で対「倭寇」戦線に自発的に加わったことは、一種の血塗られた裏切り行為であったかも知れないのである。ただし、彼にはそうする義務と言ってよいほどの理由があった。寧波の一郷紳として、国初の功臣の末裔として、そして民衆の名望を背負った士大夫としてである。

朱?の失脚の後、沿海地方の士大夫による下海通番こそが、諸悪の根源であるといった見解は官界に一定の支持を得ていた。加えて、海上における暴力の蔓延に対して有効な手を打てない衛所官軍に対して、社会的な非難が高まりつつあった。さらに、当時の江南地方の混乱は、浙東の住民にとって「対岸の火事」以上のものであった。万表は思わざるを得なかったであろう。そもそも、自分が武官として官禄を食んで来たのは、一体何のためであったか。世のため人のため我が一身を擲って累代の国恩に報いてこそ、家名の誉れであり、亡き父母への孝養であり、子々孫々の師表となるべきものではないか。

万表の死は、戦線から退いて数年後のことであった。江南の混乱こそ鎮静化したものの、対「倭寇」戦役は収束の兆しを見せることなく、責任者の更迭を繰り返していた。彼は、海禁徹底論がやがて劣勢に立たされることを予期していただろうか。ましてや、自分の行いが、経済的自由を求める民衆に対する頭ごなしの弾圧行為として、後世の史家から断罪を蒙ろうとは。

「海寇議」『玩鹿亭稿』版は、官の無謬性に対する一種の懐疑表明である。それは寧波における法行政、とりわけ「海禁」の遵守において、官よりも士大夫が主体性を発揮すべきことを主張としている。清代以降、一般に明末の悪習として知られた郷紳による「把持官府」を、万表はむしろ積極的に意味づけようとしていた。時代を超えた善悪是非は必ずしも自明なものではない。万表は彼が生きた当時、彼にとっては自明であったと思われる彼自身の社会的責任に、忠実に従っただけであった。

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