第11回研究会

近代における湖南省教育会について

宮原 佳昭

発表要旨

 報告者は以前、論文「清末湖南省における民立学堂設立と新教育界の形成について胡元タンと明徳学堂を中心に―」(『東洋史研究』62-22003.9』を発表、清末の抜貢にして留日後に私立学堂を設立した胡元タンを中心に据え、湖南省における新教育界の形成を論述した。

 のち、報告者は2005515日より1ヶ月間、湖南省図書館・省档案館にて、清末から1920年代にかけての湖南省教育会に関する史料を多く収集することができた。今回の発表では、これらの史料をもとに、清末民国期を通じて湖南省の教育および社会に影響を与えつつも、その実態が深く検討されることのなかった湖南省教育会について、会の成立から1927年にかけての同会章程(=規約)・職員構成・職員選挙の諸点について通観。同時に新聞史料(『大公報(長沙)』・『申報』)を用い、各時期における章程改訂の要因について考察することで、湖南省教育会を把握するための足がかりとしたい。

 湖南省においては、提学使呉慶テイの方針は、既存の学堂の整頓に主眼が置かれている。つまりは、「腐敗した」学堂管理の強化である。この呉慶テイの方針が湖南教育界人士の意図と異なるところから、教育会設立の動きが始まったと思われる。

湖南教育総会の発起と設立時期については、現時点では、湖南教育総会は三十三年四月に発起人二十人とともに設立、設立当初の会長は劉人煕で、その後に黄忠浩が会長となったと考えられる。会員数については、宣統『湖南教育総会会員一覧』によると、553人。発起人・会員の紹介者から見る中心人物は、譚延ガイ・易宗・曾熙ら諮議局議員、誥慶・仇毅・蕃同・胡元タン・陳潤霖・周家純ら留日経験者および私立学堂運営者などである。

 辛亥革命直後の改組の様子は史料によって記述の混乱が見られるが、辛亥革命前後の教育会は以下のようであったと言える。宣統二年(1910)六月に選挙された幹事は一年で任期満了となり、本来は宣統三年(1911)年九月二十日に大会を開いて選挙が行われるはずであった。しかし、辛亥革命により、この選挙は行われず、旧幹事たちも多くが政界に流れた。このため、新旧会員や学務代表たちは新たに教育総会を組織しなおすことにし、「中華民国湖南教育総会簡章」を作成した。そして、民国元年一月十一日に全体大会を開催、会章の規則に沿って、投票により正会長符定一および副会長黎尚ブンが選挙された。また、十三日に幹事五十四人を選挙、二十三日・二十五日・二十七日に議案を議決し、報告書を作成して各界に公布した。

民国二年に改訂された湖南省教育会章程については、会の目的および会務は、1927年以降までほぼ変化なし。選挙結果については、民国元年より継続して幹事に当選した者は符定一・黎尚ブンをはじめ22人。宣統二年幹事のうち、今回も幹事になっている者は貝允マのみであった。

 民国四年八月下旬、湯キョウ銘や湖南官僚・紳士により、籌安会湖南分会が設立。保守派郷紳の葉徳輝を会長に、符定一を副会長に推挙、袁世凱の君主立憲に賛成した。このような政治状況下において、民国四年九月、湖南省教育会に改組の時期が訪れる。教育界は、胡元タンと符定一の両派に分かれて対立。符定一は、1898年戊戌変法で西学をそしり光緒新政にも全く参与しなかった保守派の巨頭葉徳輝を招聘、ここに今回の選挙は、教育とは全く関係のない、袁世凱帝制を主題にした代理戦争の感を帯びる。結果、葉徳輝が会長に当選した。

民国初期においては、会長は政治動向によって交代し、胡元タン・陳潤霖・周家純ら清末期以来の教育界人士が幹事に選出されないなか、方克剛・何炳麟・張錦雲ら、民国九年以降の中核となる教育界人士が、民国二年から四年にかけて幹事に当選していることが注目される。

 民国五(1916)年七月、反袁世凱運動により湖南督軍湯キョウ銘が失脚。八月、第二次譚延ガイ政権が成立した。省教育会会長の葉徳輝はすでに逃亡。民政庁長は、「教育会は全省教育の関わるところであって、速やかに新しく改組すべきだ」とし、文啓泉・杜業南を派遣して籌備員とし、改組の事宜をすみやかに準備させた。民国五年秋の選挙結果は、陳潤霖・朱剣凡ら、これまで政治に関与してこなかった清末以来の湖南教育界人士が会長および幹事に当選。民国五年秋の幹事は、以後の省教育会の中核となる。

 民国八年 改選の時期が訪れるが、省長張継堯は「湘江道尹王丙坤を教育会改選籌備長とする」との批示を下す。ここにおいて省教育会は、「省署はにわかに出てきて越権干渉し、官に委任して代理させている。本会同人はその非法を承認しない」として、宣言書を発表した。「教育会規程」によると、会運営や改選の際には省行政官庁や省視学の監督を受け、また行政官庁からの補助金で運営すると規定されていたが、省教育会は自らを「民意を代表する機関」として官庁と対等であると考え、行政官庁からの干渉を決して許容しなかったのである。「民意を代表する機関」という考えは、反張継堯運動を契機として大きく取り上げられたのだが、これが、従来の湖南省教育会章程がはらむ問題点を浮き彫りにし、以後の会運営に大きく影響することになる。

 駆張運動後、1920年以降の湖南省において、連省自治構想をはじめとする各団体の民主化運動が活発化した。湖南省教育会においても、民国九年十一月、省教育会の幹事改選において、各県代表から選挙方法に対する異議が提出され、これを期に、湖南省教育会章程の改訂が議論されることとなった。章程改訂の主要因は、過去の会運営における省城偏重、職員選挙における私人・政府による操縦の弊害であり、真の「民意を代表する機関」となるべく、各県評議員を設置するほか、会長制を廃止して合議制を採用することとしたのである。 この新章程に沿って、民国十年初頭に職員改選がなされたが、方克剛・何炳麟をはじめ、幹事はほとんど全員が各校校長・職員であった。

 湖南省教育会の幹事らは、このたび改訂された新章程と会運営の「民主性」に大変な自信を持っていた。それは、民国十二(1923)年の湖南省憲法公布後、省議会が各法団組織法規を改訂する過程における湖南教育会法草案に対して、省教育会が提出した意見書によくあらわれており、駆張運動後の民治の気風、さらに、これまでの省城人士のみによる会運営や、過去の選挙における私人・政府による選挙操縦といった実例が、民国十年の省教育会章程改訂に生かされていることを再確認できる。発布された「湖南教育会法」全九章五十条は、湖南省教育会の主張はいずれも反映されているといえるが、ただ、省教育会の評議員の定数は「暫定的に80人にする」(第二十条)とされた。各県評議員は県ごとに一人ずつ選出され、県の数は変化しないため、この条文が意味するものは省会評議員の定員減額である。これもまた省城偏重主義を避けるための措置であることは確かであろう。

 民国十年の湖南省教育会章程改訂以降、幹事選挙結果や『湖南教育雑誌』の継続刊行に象徴されるごとく、会運営は非常に安定していたと思われる。しかし、民国十四年、評議部と幹事部はお互いの職権をめぐって、それぞれが教育会章程の条文を根拠に、激しい対立を引き起こす。発端は、民国十四(1925)年二月、段祺瑞の「善後会議」に代表を派遣するかどうかという、またしても教育事業と全く関係ないところであった。表向きは、評議・幹事両部の会議運営における違法性が主題となっていたが、紛糾の根本は、余銜ら一部評議員らが善後会議に反対し、省教育会からの代表派遣をとにかく阻止する、この一点にあったと見られる。半年後の九月になっても 評議部と幹事部の対立はまったく解決せず、この間会運営は停頓することとなった。民国十五年四月の職員改選以降もしばしば両部の連絡不備が絶えないまま、民国十六(1927)年五月二十一日 馬日事変によって職員が四散。湖南省教育会は活動を停止した。

湖南省教育会は、民国十年の章程改訂において、合議制を採用し、民意の代表たる各県代表を評議員として会運営の中核に据え、また幹事部は最終的には評議部の議決に従うことと規程した。しかし、評議員の「暴走」を抑止し、これに対処するための規程は存在しなかった。また、幹事部も、評議部の「違法」行為に対し、評議部の議決に従うこととする教育会章程の規程にも関わらず、一歩も引くことはなかった。ここにおいて、評議部と幹事部がいったん対立すると、長く会務が滞る事態に陥った。

 また、民国初期の場合、符定一・葉徳輝らの引き起こした省教育会内の紛糾は、いわば省城内部のみの出来事であって各県教育会にまで波及することはなかったが、民国十年の教育会章程改訂により、省教育会の紛糾が各県教育会ひいては湖南教育界全体をも巻き込む結果を生むことになったのである。

以上、会章程・職員構成から見た清末より1927年にかけての湖南省教育会の概観をまとめると以下のようになろう。 

●光緒三十三(1906)年四月  
黄忠浩・譚延ガイ、胡元タンや陳潤霖ら私立学堂運営者を中心に。

●民国元(1912)年〜四(1915)年 
符定一・黎尚ブン、清末幹事ら不在。選挙操縦と言われるも、会内は分裂なし。 

●民国四(1915)年九月
葉徳輝・蔡湘、袁世凱帝制を背景とした選挙。

●民国五(1916)年〜九(1920)年
陳潤霖・孔昭綬、清末幹事らの復活。張継堯との対立・選挙干渉。
→従来の会運営の問題点(省城偏重、選挙操縦、会長独裁)浮き彫りに。

●民国十年(1921)年〜十四(1925)年 
方克剛・何炳麟、各県評議員・合議制採用。真の「民意を代表する機関」へ。
→評議部の「暴走」による会内対立、会務停頓。

●民国十五(1926)年〜十六(1927)年
李希賢・何炳麟、衰退・四散


  本報告は会章程や職員構成・選挙に重点をおいたため、今後の展望としては、教育会における教育方針策定や省政府との折衝について、湖南省で収集した各資料を用いて考察を深めることにしたい。また、民国十七年に再建された湖南省教育会は、国民党の指導を強く受けており、会組織や運営もこれ以前と性質を異にしている。この時期の研究は後日の課題としたい。

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