第11回研究会

朝貢と互市――非「朝貢体制」論の試み――

岩井 茂樹

発表要旨

 

「達虜を駆除して中華を恢復した」明朝は,「王法」*[1]たる朝貢以外の関係を排除し,理念をそのまま現実化することを選択した。しかも,「海禁」を通じて貿易などを目的とする中国人の越境と出海も禁止されたため,帝国の対外通交は外夷諸国からの遣使来朝と朝鮮や琉球など限られた国への册封使の派遣に限られるという朝貢一元の様相を呈することとなった。明初まで税関として機能していた市舶司が,やがて朝貢使節の受け入れ機構となってしまったことは,こうした体制転換の結果である。貿易を管理する機構もなく,朝貢使節に認められた会同館での交易と附搭貨物の買い上げ――商業的な取り引きではなく官府による買い上げ――を例外として,公認された貿易もないというきわめて特異な体制が選択されたわけである。
 
 しかし,こうした明朝の朝貢一元体制を安定的に持続させることは望み得なかった。朝貢一元への収斂と制度上の弛緩が小さな波動を刻み始めたのは,16世紀初頭のことであった。広東では,朝貢船の「附搭貨物」に課税したうえで商業取引を認めるか否かをめぐる綱引きが20年ほどつづいた。この小さな波動は,1530年(嘉靖九),広東で附搭貨物を対象とした互市が公認されることによって落着した。しかし,ほんらい朝貢船を対象とするこの措置は,朝貢船ではない商船やポルトガルのごとき非朝貢国の船にも互市を認めるという方向に拡大適用されることになった*[2]。また,これに前後して日本銀の増産や西洋の冒険商人という攪乱要素に導かれた中国人の出海貿易が拡大した。この事態は,福建方面では1540年代から顕著となった。朝貢一元体制が揺らぎ始めると,「王法」が許さない非法な貿易を禁圧しようとする反作用がはたらいた。福建・浙江方面での貿易禁圧策の実施は「嘉靖の大倭寇」を呼び起こすこととなった。16世紀初頭の小さな波動は,こうした大きな波動の豫兆であり,また前駆であったと考えられよう。大きな波動が一時的に静まり,やがてまた励起される過程について詳述することは控えるが,1644年の明清交替の後には,東北辺境に成長した商業軍事集団に起源する清朝と,海上の商業軍事集団たる鄭氏の角逐が,最後の大きな波の高まりをもたらした*[3]

清朝は,1655年(順治十二)以降,海禁令を実施した。この時期の政策が明代の朝貢一元=互市の否定の政策への回帰であったことは興味深い。オランダは,中国との正規の貿易に割りこむために使節を北京まで派遣した*[4]。これに対し,禮部は,1656年(順治十三)に次のように上奏した。

オランダ国が,訳使を送って来朝した。これは,朝廷の徳化の致すところであり,險遠なる道途をへてきたことに鑑み,五年ごとの朝貢を許して広東から入貢させるが,海港での貿易についてはすでに不許可の裁定がなされているので,北京の会同館で交易させることとし,規定どおりに禁制品の取り引きは厳禁することとしたい*[5]

オランダは,マカオに拠るポルトガルの妨害を避けるため,直接の貿易関係を開くための便宜を期待して使節を送ったのだった。ところが,清朝から得た回答は,朝貢ならよろしい,というものであったうえに,舶載してきた貨物についても,港での貿易を拒否され,朝貢使節が北京まで上ったときにその宿舎となる会同館で交易するよう指示された。これは実質上,貿易を拒否されたに等しい。海禁のなかで,明代の朝貢一元への回帰が,貿易を抑止する手段となったのである。

入貢地点における附搭貨物の貿易は,いわゆる「朝貢貿易」の典型をなすように言われる。しかし,附搭貨物を対象とする互市の公認(1530年)こそ,朝貢一元を求める礼制にもとづく天下秩序と,現実的な経済的利害との相克のなかで,朝貢体制を互市体制へ移行させる動力の種となったのである。150年をへて,1684年(康煕23),清朝が海禁を解除し,つづいて各地に海関を設置したことは,朝貢体制から互市体制への転換の軸をなす歴史的事件であった。

朝貢体制から互市体制への転換という歴史理解は,学界でひろく共有されているとは言いがたい。むしろ,濱下武志の議論のように,東アジアの秩序のあり方を「朝貢システム」という概念で括ろうとする発想はなお根強い*[6]。また,何をもって互市体制とするのか,また,朝貢と互市の関係はどのように推移したのかを検討する作業は緒についたばかりであり,なお議論を深める必要があろう。ここでは,まず清代を対象とした朝貢体制論の由来とその根拠について論じよう。

フェアバンクが構想し,マンコールによって精緻に理論化された“tribute system(朝貢体制)”についての議論は,海禁の解除が清代貿易政策の転換点であったことは承認するものの,明代以来の朝貢体制から脱却する歴史的な一歩であったことを認めない*[7]。朝貢体制は,「伝統的」なものであり,それは清代をつうじて本質的な変化を遂げることがなかったと見るわけである。清末まで周辺国との朝貢関係が存在し,かつ列強間の競争がそれらを個別に解体した。しかし,「近代的」な条約体制が「伝統的」な体制を終焉させたという歴史観からすると,こうした事実を個別に評価することに止まることはできない。事実評価を支えると同時に,西洋諸国もかつてはそのもとに押し込められていたところの旧体制を,条約体制の対概念として措定することが要請される。こうして近代的な国際関係の対概念として,「伝統的な朝貢体制」をめぐる議論が構築された。条約体制と「朝貢体制」相克のドラマは,まず貿易をめぐって演じられた。したがって,南京条約以前に西洋諸国がおこなっていた海上と陸路の貿易が,いずれも「朝貢」の行為を前提としておこなわれたという主張は,朝貢体制論にとっての鍵をなす。マンコールは,清代には朝貢に附随した貿易――いわゆる朝貢貿易――のほか,朝貢を伴わない貿易があったことを認めたうえで,次のように論じている。

したがって特定の国による朝貢は,その国と中国との商業取引の前提ではなかった。・・・しかし両者はいくつかの異なった次元において結びつけられていた。・・・中国世界での貿易活動は,誰かによって,いずれかの場所で皇帝にたいする朝貢がおこなわれることを求めたということが,必須条件(a sine qua non)であった。・・・朝貢における貢ぎ物と賞賜の交換の儀式が,普遍的に貿易の基礎として求められた*[8]

マンコールの議論は,学界に大きな影響をのこした。ここでは海禁解除(1684)後においても,こうした論理が,清朝の対外通交政策の実行を導く理念となっていたか否かという問題を検討する。朝貢体制とは,政治的な儀礼と交易の制度についての論理の体系である。朝貢と貿易との関係についても,現実の制度や政策についての理解にもとづいて議論されるべきであるし,その制度や政策に関与した同時代人の認識をその言説のなかから掘り起こす作業をつうじて,われわれの歴史理解が獲得されるべきである。マンコールは,経済人類学や宗教学の知見を援用して,解釈学的な議論を展開している。しかし,清代に朝貢や貿易に関与し,あるいはそれを考察した同時代人の認識に迫ろうとする態度は稀薄である。

 康煕帝は1684年(康煕二三)から海禁の解除,海関の設置などの措置を講じて,海上交易の拡大を求めた*[9]。この措置が,実質的に諸外国の船舶による貿易をひろく認めるものとなった。1685年(康煕二四),寧波にも海関が設置された。沖合の舟山が「入り江も広く,風波も穏やかであって,外国の大型船舶を入港させて,各省に貿易を通じさせることができる」,つまり,国内各地の港を結ぶ中継港として最適であることに目をつけ,舟山に置かれた定海県に「?關公署」を置いた。1698年(康煕三七)のことである。それと同時に,商人の便宜をはかって関税収入を増大させるため,「紅毛館」なる商館を建造した。この舟山開港を伝える雍正『浙江通志』卷86,?税の項目には,編者の手によって「これより海外の番舶がぞくぞくと来航した。紅毛の一国だけが忠誠を示して貢市をおこなっただけではない」と按語が加えられている*[10]。関税収入の増大を求める浙江省当局は,「輸誠貢市」の国であるか否かにかかわらず,ひろく諸外国の貿易船に港湾施設と商館の便宜を提供して貿易の拡大をはかった。これは貿易の拡大に熱心であった康煕帝を戴く朝廷の方針でもあった。貿易を「朝貢体制」の一環として位置づける思考は,ここには見られない。

 1716年(康煕五五),福建浙江総督の任にあったマンボー Mamboo が,福建省の厦門で起こった貿易をめぐる騒擾事件を報告するため満洲語の奏摺を康煕帝に送った。

・・・Wang jiyoo liyoo 国の船が貿易をおえて帰国のため回航せんとするところ,H?wang jeo という商人から買った生糸が未領であるとして,Li de hingの商船を拿捕し,大担()の海口を出て行った。・・・Wang jiyoo liyoo国は「黄毛」の一種であり,ただ一隻の小型夾板船(いわゆるジャンク)で,水手(乗組員)を含めて60人ほどであり,力は強くない。・・・*[11]

ここに登場する「Wang jiyoo liyoo 国」は商船の所属する国名である。「紅毛」ではなく「黄毛」の一種だとある。東南アジア方面から来航した商船が「Wang jiyoo liyoo 国」を名乗ったという可能性が高い。一度でも朝貢をしたことがあれば,記録が残る。しかし,史料にはまったく見当たらない国である。にもかかわらず,この未知の国からの貿易船の来航それ自体については,総督Mambooも,康煕帝も気にとめた形跡はない。西洋諸国であれ,東アジアの諸国であれ,朝貢と関係なく貿易をすることを,当然のことと見ていたことになる。

 17世紀の末から18世紀にかけて,清朝の外交上の相手として,もっとも厄介であったのはロシアだった。ネルチンスク条約の締結をへて両国間の緊張はやや緩和されたが,その後も使節や親書をめぐる儀礼上の問題,さらにはロシア隊商の取り扱いにいたるまで,両国は外交上の神経戦を繰り広げた。1693年(康煕三二),ロシアのツァーリの使節が到着した。親書の翻訳を読んで,康煕帝がもらした感想が『清世祖実録』に記録されている。

外藩の朝貢に至っては,盛事に属するけれども,恐らくは,伝えて後世に至るならば,これに因って反って事端を生じることがないとはいえない*[12]

 諸国の朝貢は,中国にとって輝かしく誇るべきことだが,この制度をつづけていれば,将来にそれが紛争の種になるであろうという危惧,康煕帝はロシアとの紛糾を体験することによって,こうした認識に達していたわけである。

 天下において至上の存在たらざるを得ない中国の皇帝として,外国からの使節があれば,これを朝貢使節として扱わざるを得ない。この実録の記事も「鄂羅斯察漢汗,遣使進貢」と書きだされている。1793年(乾隆五八)のマカートニ使節団,1816年(嘉慶二一)のアマースト使節団の事件を考えてみても,清代においてもこのような認識と作法がなお生きていたことは確かである。その一方で,清朝は海外貿易の拡大へ舵をきっていた。朝貢を受け入れ,あるいは使節を朝貢の儀礼に従わせて一方的に朝貢国だと認定することは,中華の天子の権威の発揚の場を提供するけれども,それは他国との紛糾の種でもある。このような透徹した認識をもちながら,旧来の「朝貢体制」によって貿易拡大の政策目標を追求したとは到底考えられない。

 『明史』の編纂に関わった姜宸英が,『大清一統志』のために執筆した「論日本貢市入寇始末」という論説がある。日本を中心として明代の対外関係をひろく視野に収めながら,倭寇の顛末と16世紀中葉以降の貿易問題から,1684年の海禁解除後の問題におよぶまで包括的な議論を展開している。姜宸英は議論を総括して,朝貢政策における失策に加えて,通商と朝貢を一体のものとして,朝貢の禁絶にあわせて通商も停止する,これが明朝の大失策となったと述べ,その一方で,対照的な成功例として清代の海禁解除後の通商制度を讃美している*[13]

 中国を中心とする東アジアの通商の制度は,中国と,多くはその朝貢国であった内陸と海外の周辺諸国,さらにこの通商圏にあらたに参入してきた西洋諸国の間における複雑な相互作用の過程のなかで,互市の体制を拡大していいった。これに並行して,朝貢体制からの実質的な脱却の傾向を示した。康煕帝や姜宸英が示したような,朝貢と絶貢――朝貢の断絶は通商の断絶であった――がもたらす危害にたいする認識は,この流れに棹さして,清朝の政策,ひいては東アジアにおける通商と外交を互市体制に向けて押し出す動力の一つとなった,と考えられよう。


[1] 鄭若曽の『籌海図編』巻12,経略二,に「貢舶者王法之所許,市舶之所司,乃貿易之公也。海商者王法之所不許,市舶之所不經,乃貿易之私也」(頁88)と見える。

[2] 詳しくは拙稿「十六世紀中国における交易秩序の模索――互市の現実とその認識」(岩井編『中国近世社会の秩序形成』京都大学人文科学研究所 2004年)を参照されたい。

[3] 拙稿「十六・十七世紀の中国辺境社会」(小野和子編『明末清初の社会と文化』京都大学人文科学研究所 1996年)。

[4] オランダ東印度会社と中国との関係については,John E. Wills, Jr., Embassies and Illusions : Dutch and Portuguese envoys to K'ang-hsi,1666?1687 (Harvard University, 1984)など。

[5]『清世祖實録』順治十三年(1656)六月戊申の條,卷102,頁15a。ここで使われている語彙や,朝廷の態度は,朝貢制度の性格をあますところなく示している。

[6] 濱下『朝貢システムと近代アジア』(岩波書店 1997年),『近代中国の国際的契機』(東京大学出版会 1990年)。

[7] J.K. Fairbank ed., The Chinese World Order: Traditional China's Foreign Relations (Harvard University Press 1968).

[8] Mark Mancall, “The Ch’ing Tribute System: an Interpretive Essay”, in Fairbank ed., op.cit.p.77. マンコール氏にRussia and China: : their Diplomatic Relations to 1728, Harvard University Press,および清代から現代におよぶ中国外交史の概説,China at the Center : 300 Years of Foreign Policy (New York : Free Press,1984) も同じ視角である。マンコール氏の朝貢システム論については,佐々木揚「清代の朝貢システムと近現代中国の世界観(一)――マーク・マンコールの研究について」『佐賀大学教育学部研究論集』34-21987年)が詳しく紹介している。

[9] 海関の設置の前史およびその後の貿易制度については,岡本隆司『近代中国と海関』(名古屋大学出版会 1999年)第一章を参照のこと。

[10] 雍正『浙江通志』卷86,?税,頁5b,頁7ab

[11] 『宮中?康煕朝奏摺』第九輯,頁507この奏摺は満漢合璧ではなく,満文のものだけが上呈されたようである。漢訳は,中国第一歴史?案館編『康煕朝満文奏摺全訳』(中国社会科学出版社 1996年),頁1079にある。

[12] 『清聖祖實録』康煕三二年(1693)十月丁酉,卷160,頁19ab

[13] 姜宸英「論日本貢市入寇始末 大清一統志」『湛園未定稿』巻一,頁一一aまた,岡本前掲書,頁76-77

討論内容