第三回研究会

モンゴル命令文の世界―ヴォルガからの手紙・ローマへの手紙

杉山 正明

発表要旨

西暦13・14世紀のモンゴル世界帝国においては、モンゴル大カアンの命令をジャルリクjarliγ(モンゴル語で「おおせ」。テュルク語ではヤルルクyarlïq)、その他の各ウルス君主をはじめ皇后・諸王・将相らの命令をウゲüge(モンゴル語で「ことば」といい、モンゴル治下の諸地域やアフロ・ユーラシアの各国・各地域に発出された。これら複数の命令者たちから不時に出されたモンゴル命令文は、遵守遂行すべきものとして絶大の権威をもった。なかでも、唯一至上の君主である大カアンのジャルリクは、その他のあらゆる命令とは全く別次元の絶対命令であった。モンゴル帝国では、支配諸国民をも包みこんだ法体系を成文法のかたちでは遂に整備することはなかったので、これら折々に出される命令文がモンゴル治下の諸地域における法規制の根源となった。

これらのジャルリクやウゲはまず口頭でモンゴル語によって発せられ、普通にはウイグル文字で書写されたのち、非モンゴル語の人間・地域を命令対象とする場合には、しばしば当該地域の言語・文字に訳された。従って、文書化された命令文のうち、モンゴル語と非モンゴル語転訳との対訳形式のものも相当数あったと考えられ、時には三重言語・五重言語・六重言語のものもあった。また、モンゴル政権の初期には、特にアラビア文字ペルシア語ではじめから文書化されることも少なからずあったと推測される。おなじく初期のこととして、中華方面への下令に限っては、モンゴル語より漢訳された文書だけが単独で送付されたらしいが、ただしこの場合はウイグル文字による添え書きが必要であった。さらに、支配層までが急速にテュルク語化したジョチ・ウルスでは、時代が降ると当初からテュルク語で文書発令される事例も出現する。転じて、元代中華地域やティベット方面においては、大元ウルス帝室の篤い帰依を受けて帝師もしくは国師と尊称されたティベット高僧たちも命令者となりえたが、彼らの命令原文はティベット語でつづられている。

これらの諸言語による命令文は、文書現物のほか、碑刻やその拓本、ないしは碑影・拓影および各種の石刻書・地志類への移録や、さらに各種の諸語典籍への直接・間接の引用など、さまざまなかたちで伝えられている。また、その内容も対外国書や各モンゴル・ウルス間の書簡など支配者間の政治文書をはじめ(なお、これらの国書・政治文書は結果として外交文書の意味をもつことになる)、各種の布告・諭旨・叙任・旅行証明・駅伝使用許可・保護特許・免税免役・土地物産寄進など実に多岐にわたる。とりわけ、宗教関係者とその庇護にかかわる事例の伝存が頭抜けて多い。文書・碑刻など、「モノ」としての命令文の保持・伝存がはかられやすい場合とそうでない場合という物理条件も見逃せない。

モンゴル語以下、漢語・ティベット語・テュルク語・ペルシア語・アラビア語・ラテン語・シリア語・グルジア語・アルメニア語・古代ロシア語・朝鮮漢語などでつづられたこれらのモンゴル時代命令文は、用語・体式・概念などの諸点において顕著な共通性がある。そればかりか、きわめて重大な事実として、その後のユーラシア諸地域(エジプトも含まれるのでアフロ・ユーラシアかもしれない)への影響も実はいちじるしいものがある。具体的には、明清帝国・朝鮮王朝・ティムール帝国・ムガル帝国・カラコユンル・アクコユンル・サファヴィー帝国・オスマン帝国・ロシア帝国・中央アジアイスラーム諸政権などである。モンゴル命令文の研究は、モンゴル帝国とその時代の歴史についてだけでなく、近代以前のユーラシアにおける文書システム(外交文書システムをも包含する)とそれに伴なう多言語翻訳機関という時代をこえた歴史現象にもかかわってくる。こうした時空をこえた全体研究の推進の結果、たとえば従来の通念では主権国家体制は1648年のウェストファリア(ヴェストファーレン)条約以後のヨーロッパにおいて始めて出現したものであり、それ以前には明確なかたちでの国境や条約関係、それに伴なう外交システムや文書システムは認められないとする人類史理解は誤りであることも指摘できるだろう(ちなみに、国境・条約などについても近代以前のアジアでもいくらも存在が実証できる事例があり、ユーロ・セントリズム式の"常識"は虚妄というほかはない)。

なお、当日の報告では以上のことを前提としたうえで、ごく初期のモンゴル命令文の実例として極めて注目される2件について概述した。「ヴォルガからの手紙」は、1237年にあたる丁酉の歳の紀年をもつ「霍州経始公廨橋道碑」の現存碑刻拓本(漢文)をもとに、それがカザフ草原方面の制圧を終え、いまやロシアに打ち入らんとしてヴォルガ河畔に駐営中のバトゥ(いわゆるバトゥのロシア・東欧遠征はカザフ草原作戦の継続展開の結果として出現した)から発せられたウゲにもとづくものであること、霍州を含む山西地方の南半は1236年の第二代オゴデイによる華北一帯の属領分割のさいにジョチ家に与えられた分領であり、その権限者であるバトゥが直後の1237年に遙か遠いヴォルガから中華におけるジョチ一門の所領地に指令を出している紛れもない具体物であること、そしてまずまちがいなく敷設したばかりの駅伝ルートを使って極めて短時日にヴォルガから山西地方の霍州にもたらされたと考えられること、つまりモンゴルによる属領支配はこうした帝室・諸王家の各分領管理の集合体としてとらえられる一面を明確にもつことなどを述べた。

いっぽう、「ローマへの手紙」は、1246年モンゴル帝国第三代グユクからローマ教皇インノケンティウス四世へ送られた有名な返書を再検討したものである。ペルシア語でつづられたこの"国書"は、1920年ヴァティカン図書館のカステッロ古文書庫から発見され、1923年にフランスの東洋学者ポール・ペリオによって解読・訳注・研究が公表された結果、東西交流と文明観の相克を伝えるまたとない現物史料として多くの人々が言及してきた。だが、この返書もまたモンゴル命令文の体式にのっとるものであり、用語・概念の面でも当時のモンゴル帝国についてのきちんとした理解のうえで扱わないと正確には把握しにくい。しかも、重要なことはここでつづられているペルシア語はモンゴル語の"原文"を濃密に引きづったいわばモンゴル語直訳体にちかいペルシア語であって、ペリオをはじめ従来の読みは大小さまざまな誤読と誤解(さらに時には意図した曲解)の複合体といわざるをえないことである。こうした誤読のうえに積み重ねられた多様な文明論めいた"考察"や王権神授説などと連動させたがるかずかずの言説は、根本からあらためなければならない。日本の東洋学者はとくにそうだが、ペリオを巨大視したり崇拝するあまり、ペリオの仕事を"聖化"する傾向がなくはないが、この有名な返書についても正面から見すえてやり直す必要がある。

以上の2件のモンゴル命令文については、いずれなんらかのかたちで研究結果を公刊したい。

討論内容