第三回研究会

日本人植民地者と原住民の交流問題―台湾の『蕃界』における通事と通訳をめぐって

Paul D. Barclay

発表要旨

はじめに

 1907年に台湾総督府の警察幹部、大津燐平は次のように述べている。

「今日ニ於テ蕃語通訳養成ノ準備ヲ為スハ極メテ急務ナリ今蕃語通訳ヲ養成スルニ最モ捷径トスルハ適当ノ者ニハ若干ノ補助ヲ与ヘテ公然蕃婦ヲ娶ラシムルニ如クハナシ蕃婦ヲ娶ルハ多少弊害アルヲ認ムルモ(蕃人ハ猜疑心深キヲ以テ蕃婦ヲ娶リタル者ハ其蕃社若シクハ其家族ニノミ利益アルガ如ク偏頗ノ処置アリトイウモノアルベク又当人ガ他ヘ転任等ノ場合ハ蕃婦ヲ放置シ蕃人ノ感情ヲ害スル等)猶通訳ナキニ優レリ而シテ蕃婦ヲ娶レバ失費ヲ増シ薄給者ノ堪ヘザル所ナルガ故ニ若干ノ手当ヲ給セザルベカラズ蕃語通訳養成ノ方法ヲ講ズルハ目下ノ急務ナリト思料ス」[1]

 上記の『理蕃誌稿』の部分は、台湾原住民と日本人との交流に関して、二つの問題を提起している。

  1. 蕃婦を娶る政策には、どのような原因や理由があったのか。
  2. 台湾総督府が創設された後12年も経って、なぜ蕃語通訳の養成が急務となったのか。
『理蕃誌稿』、総督府の記録、人類学の記事、管理職の日記、台湾原住民の証言等を調べた結果として、私は次のような解釈を提示したい。

 1907年まで、台湾原住民と日本政府との交流を仲介したのは近世的な「通事」であったが、そのような「通事」は近代植民地体制には適合しなかった。清朝時代の台湾において、原住民との「外交」のための役人としては、漢族と原住民の結婚がもたらした「蕃婦」や「蕃婆」の通事が多かった。領台時代の初期には若干の日本人官吏や「浪人」が原住民の女性を娶ったが、その結婚はまだ組織的なものではなかった。大津の「政略結婚」の目的は、「通事体制」から「通訳体制」への転換であった。

 その頃、日本人と本島人に対する原住民の反抗と蜂起が本格的になり、大津と佐久間総督は所謂「蕃界」を徹底的に討伐する計画を実施した。そこで、「蕃情」を探求するため、又「蕃界」の味方を得るため、「政略結婚」が南投廰で実施された。短期的に見れば大津の政策は成功だったが、長期的には大津が予想した通り、「蕃人ハ猜疑心深キヲ以テ蕃婦ヲ娶リタル者ハ其蕃社若シクハ其家族ニノミ利益アルガ如ク偏頗ノ処置アリトイフモノアルベク又当人ガ他ヘ転任等ノ場合ハ蕃婦ヲ放置シ蕃人ノ感情ヲ害スル等」ということが現実となった。

一方、大津燐平の『急務』に対して『窮策』は、清朝時代から行われてきた、原住民と移植民の交流の仕方に基づくものであった。しかしながら、ここで大事な点は大津が言う「若シ不適当ナル通訳ナランカ到底理蕃ノ目的ヲ達スルコト能ハザルベシ」ということである。清朝時代から日本領台の初期まで、原住民と政府の間を取り持つ通事は所謂『蕃産』の交易によって儲けていた。そのため、政府と原住民との衝突があった場合、「通事」は自分達の利益を守るために、時には原住民の肩を持つこともあったようである。その状態を改善するために、大津は政府の配下にある下級警察官の「通訳」を「蕃界」に派遣する計画を立てた。

1. 清朝時代の「通事」

 康煕36年、郁永河の『裨海紀遊』には、清朝時代の「通事」について以下のような描写が見られる(Laurence Thompson先生の英訳による)。

“In each administrative district 郡県 a wealthy person 有財力者 is made responsible for the village revenues. These men are called ‘village tax-farmers’ 社商. The village tax-farmer in turn appoints interpreters 通事 and foremen 夥長 who are sent to live in the villages, and who record and check up on every jot and tittle [grown or brought in by hunting] of all the barbarians 番. … These [interpreters and foremen] take advantage of the simple-mindedness of the barbarians and never tire of fleecing them, looking on whatever they have as no different than their own property ... Moreover, they take the barbarian women as their wives and concubines 納番婦為妻妾.”[2]

 上記によると、清朝の初期における台湾の「通事」の特徴は次のようであった。

更に、『裨海紀遊』によると、「通事」や「社棍」等の中には大陸から逃げてきた犯罪者も多くいた。しかし、その「通事」や「社棍」が原住民の言語と「番情」を学ぶ方法はどういうものだったのであろうか?

「支那人の台湾に在る者家眷を招致するを准さず是に於いてか蕃地に入りて拓墾に従ふ者は往々蕃婦を娶るに至り為に、其の弊を醸するに至り番俗雑記に所謂る『蕃女を納れて妻妾と為す以て蕃民老いて妻なく各社の戸口日に衰微に就くを致す』…且つ蕃地侵佔の弊根は茲に状在しき… 乾隆二年巡台御史白起圖等の奏疏により嗣後支那人は擅に蕃婦を娶るを得ず蕃婦も又支那人と婚するを得ず違ふ者は即ち離異を行ひ支那人は杖一百に処して離異し土官通事は一等を減じ各杖九十に処し」[3]

 上記によると、1737年までに所謂「民番結婚」は一般的になっていたと思われる。このような結婚の際、移住民側には二つの動機があった。それはまず漢族の婦人が台湾にいなかったということ、次に「母系社会」にいた「番婦」を娶ることによって「蕃地侵佔」を図るということであった。一方、原住民側の動機は交易だったと思われる。19世紀の欧米人の紀行や日記には、漢族人に娶られた原住民の婦人が「交易の代表」としてよく登場する。さらに、そのような夫婦は「通事」体制と強い関係があった。また、「通事」は「頭目」のような役割があったが、清朝政府との関係は強かったとは言えない。

 1857年に英国領事 Robert Swinhoeは台湾原住民についてこう書いている。

“I had the pleasure of seeing a few [原住民] women, who were married to Chinese at Pongle and Langkeaou. …a Chinaman named Bancheang, of large landed property, traded with the Kalees [高山族] of the hills… He was constantly at variance with the Chinese authorities who had outlawed him, but could not touch him, as he was so well defended by his numerous Chinese dependants, and the large body of Aborigines at his beck. This man was wedded to a Kalee...”[4]

 また、1865年には英国の国際貿易大会社の通訳 W.A. Pickering が、台南の周辺について下記のように描写している。

“The chief is a “T'ong-su”通事, “headman of the tribe, reponsible to the Chinese government.” “The women had some knowledge of the Celestial tongue (漢語), from being employed as go-betweens in their bartering with the Chinese.” “This old woman [our interpreter], named Pu-li-sang, was no novice to the ways of civilisation, as she had, years ago, been married to a Chinese, and also had lived from some time with the Bangas, a tribe who formed part of the confederation.”[5]

 1874年には、米国動物研究家 Joseph Beal Steere が次のように書いている。

“The Pepowhans 平埔蕃 are in the habit of holding a market with the savages of the mountains every third day, …they are assisted in this by their habit of buying the young women of the savages for wives… The trading was principally done by the women.”[6]

 明治七年の台湾出兵と清仏戦争をきっかけに、清朝は1880年代には台湾の重要性を認識し始めた。1886年に巡撫劉明伝は撫墾局という、「蕃界」を集中的な官吏体制で統制する機関を創設した。撫墾局の出張所には「通事二名乃至十余名」がおり、「蕃人に対する通訳を掌る」仕事を担当した(伊能1904:265-267)。この「通事」は今日の「通訳」という意味があったと読み取れる。しかしながら、他の1886年の規則により、近世的な政府と原住民との仲介をした「通事」が同時に残った。「土目を任令するものとす而して是れ等官選の土目及び通事には其の命令の範囲内に於ける職権の確保を為すため「載記」といへる一種の公印を給付し公に関する重事及び蕃租の収領蕃地の給出等に捺用せしめたり」。

 その後、台東廰では「生蕃通事ハ…所謂月支口粮ヲ給シ大抵月額五圓ヲ以テ普通トシ…且多クハ…山野開拓ノ認可状ヲ受ケ生蕃人を驅リテ拓殖ノ利計ヲ営ム者寡カラズ故ニ一旦通事タリシ者ハ其所管生蕃人ノ帰服スルト否トニ拘ハラス各庄ニ於テ一種ノ潜勢力ヲ有シ」[7]

 日本領台の前、1891年には「二等領事」上野専一が漢族人と原住民の結婚、そして原住民婦人が外国人との交流に慣れて来たことを再び確認している。

「平埔[番]ノ婦人ハ…北部ノ海岸ニ住居スル支那ノ漁夫等ト漸ク結婚シテ支那ノ服装ヲ用ユルト雖モ全体ノ動作上ヨリ容易ニ通常支那婦人ト識別スルヲ得ヘシ畢竟スルニ平埔番婦人ハ沈着且ツ謹慎ニシテ支那婦人ノ初テ外国人ヲ見ルヤ忽チ恐怖心ヲ起シ或ハ外国人ニ向テ悪口シ或ハ其面ヲ隠クシテ逃走スルカ如キコトナシ故ニ何等ノ人ト雖モ彼等ニ向テ言ヲ通スルハ彼レハ悦テ答フルニ躊躇セサルナリ」[8]

 撫墾局が創設された時の「一区々域に於ては蕃婆を置き蕃人の応接待遇に与らしめ(重に蕃婦にして支那人に婚嫁したる者より取る)蕃人の山を出で局に来るや酒食を饗し」の条は、「民蕃」夫婦が原住民と交流する役割を担っていたことを示している。

2.日本領台初期の「通事」

 台湾が割譲された1895年5月、台湾総督に属した最初の中国語「通訳」が大陸から渡台した。日清戦争に従軍したその通訳は、大抵「官語」を話したが、殆どの台湾人が話していたのは福佬語或いは客家語であった。そこで、筆談以外に意志疎通を図るため、日本人「通訳」の他に台湾人「副通訳」が必要になった。日本人「土語通訳」は試験に合格し、相応の等級と給料を貰った。しかしながら、「蕃界」に行くためには、「通訳」と「副通訳」の上に「蕃語通事」が必要だった。「蕃界」の言語状態は複雑だったので、地元に住んでいた者以外、誰も「タイヤル語」や「パイワン語」や「ブヌン語」等が分からなかったのである。そのため、日本人の守備隊や撫墾署(清撫墾局の模倣)の探検隊や樟脳商人等は、「蕃界」に入る際に「通事」を雇った。

 下記の1896年『太陽』に掲載された記事は、19世紀末の過渡期における「通事」体制を的確に描き出している。

「通事とは、土人の蕃語を能し蕃情に通ずる者にして、一社若くは数社(社は番人部落の称)に一人あり、貿易、交通、交渉等何によらず両間に周旋するものにして社丁は即ちその下に属し、一社に必ず一人あり。されども通事、社丁とも常に蕃社に在るにあらず、要なきときは家居して別に業を営み、自己の要あるか又は人に雇はるるに及んで出でで事を弁ずるなり。又此通事社丁となるには、志望者之を官に稟し、官之を准じて蕃人に通ずるの慣例にして、蕃人は官の通知を信じて万事を委任するものなりという。其収入の如何は知らねど、一旦通事社丁となりたる者は終身已むることなしと聞けば、思ふに少なからざるものなるべし。」[9]

 1895-96年に派遣され、宜蘭、大嵙崁、苗栗、台東の「初蕃会見」に参加した「通事」の多くは、「民番」夫婦と関係があった。日本人の探検隊と原住民が出合った際、「土語」(台湾語)が出来る「蕃婦」が毎回来ていた。1895年9月に橋口文藏殖産局長が、総督府民政部の代表として初めて頭目との面会に参加し、そして「ワシェーガ」というタイヤル族の女性と4人の大嵙崁社住民が橋口と一緒に台北に戻って来た。「ワシェーガ」は当時19歳、「十六歳の時或支那人に嫁し昨年故ありて離縁となり今は後家なりといふ少しく台湾土語を解し得て其服装も支那婦人服の古着を着け髪も怪しげなる束髪に結べり」[10]。その探検隊は日本人の「通訳」も使ったが、「通訳」は直接原住民の相手と話せなかった。日本人の最初の「蕃語通事」は原住民頭目の娘を娶ったが、その「蕃通」(近藤勝三郎)は官吏ではなかった。むしろ近藤は「蕃産」の商人として、たまに総督府に雇われることもあった。[11] 台東県では、相良長綱撫墾署長のもとで、清朝時代の「土目及び通事…公に関する重事及び蕃租の収領蕃地の給出」に相当する通事に対して、小額の手当を毎月支払っていた。

 上記のように、領台初期の「通訳」は政府に身分と給料を保証された官吏であり、相応の語学試験に合格した者であった。一方「通事」は「蕃語」が出来た漢族人、又は日本語や漢語が出来た原住民や「民蕃」夫婦等で、役割は原住民と非原住民の仲介をすることであった。

 以上のことから、清朝時代と同様、「通事」のイメージや評判はあまり良くなかったといえるだろう。1896年には斉藤賢治という樟脳商人が、次のように述べている。

「通事のことを台湾では『トンツウ』と申し…生蕃語を学んで通事を使はぬやうにするが第一の急務です、此の訳は…通事を使ふを不利益と申す訳は何時も通事は生蕃の方の肩を持つとが多く、製造人の方の利益を図るものは少ないです」。[12]

また、1896年、殖産局長押川は次のように述べる。

「蕃民撫育に最必要なるものは適当なる通事得るに在り蓋し言語不通の蕃民をして能く我が誠意の存する所を知らしむるは独り通事の力に頼らざるを得ず然るに既往の実歴に徴するに通事中往々言語の通ぜざるを奇貨とし中間に在りて…」。[13]

 言語が通じないのを「奇貨とし中間」で不正をなすとの疑念がつきまとう「通事」の他に、総督府は「蕃婦」を探偵や「使」として利用していた。以下の例はその代表的なものだと思われる。

残念ながら、上記の「蕃婦」が日本人官吏とどのような交流の方法を持ったかについては、はっきり記録されていない。恐らく、その原住民の女性は日本人に娶られたものと思われる。「生蕃近藤」以外にも、1896年頃に最初の埔里社撫墾署長檜山鉄三郎がパーラン社の頭目の娘を娶り、また軍人及び辨務署長である「竺紹a」という日本人も頭目の娘を娶っている[『報知新聞』;『台湾協会会報』]。1899年までに、日本人と原住民との婚姻率は上昇していた。「蕃地ニ於ケル事業ノ興起ニ伴イ蕃界ニ入リテ居住スル者ノ漸ク多キヲ加フル結果内地人或ハ本島民ニシテ蕃婦ヲ娶ル者ナキヲ保セズ」をきっかけに、地方辨務署長里見義正が台北知事村上義雄にこのように言った。「蕃人ト結婚シ又ハ蕃地内ニ家屋ヲ建築スル事等ハ実ニ不測ノ紛擾ヲ生ジ延キテ蕃人間ノ争論トナリ再ビ転ジテ掠首ノ凶行ヲ惹起スルコト有」。1737年の清朝規制のように、里見は原住民を娶ることを規制するべきだという案を提出した。村上の返事に記された調査項目の草案を見れば、里見の恐怖が理解できる。

 一、内地人ノ妾ト為リタル者ハ再ビ蕃人ニ嫁スルコト能ハザルカ
 一、遺棄セラレタル者アルヤ否若シ有リトセバ其ノ後該蕃婦ノ動静及ビ蕃人感情如何」[理蕃誌稿]。

 「遺棄せられた蕃婦」問題と他に、蕃婦を娶った内地人は「通事」として、様々な怪しい活動に参加した。檜山鉄三郎は1897年の「強盗事件」で退職させられ、近藤勝三郎は政府の「蕃産交易禁止」を犯したため容疑者となり、「竺紹a」は管轄下の原住民を偽ったため住宅が焼き払われた。1897年に総督府は日本人通訳の不足を改善するために「土語通訳兼掌特別手当」体制を実施した[理蕃誌稿]。「土語通訳兼掌」は語学試験に合格した警察官に対して毎月一円から七円までの手当を支払うという規定だった。その時、「土語」は「蕃語」をも含むという勅令が出されたが、蕃語兼掌の希望者は閩粤語兼掌通訳より少なかった。更に、蕃語の銓衡の仕方は難しかった。そのため、1907年に政府が「土語」と「蕃語」を区別し、蕃語兼掌通訳の水準を変更した。「蕃語ニ付テハ試問ヲ省略シ又ハ口述試問ノミヲ行フコトヲ得…試問ヲ実行シ難キ場合ニ於ケル特別変通ノ処理ヲ為シ得ルノ途ヲ開ケルモノニシテ一ハ銓衡委員ニ於テ本人ノ履歴及ビ実務ノ審査ノミニテ銓衡シ一ハ其銓衡ノ際機関トシテ通事其他蕃語ヲ解スル者ヲ介シテ之ヲ行フニ当リ便宜上口述試問ノミニ止マルヲ得ルコトトナシタルナリ」[理蕃誌稿]。しかしながら、同年に大津麟平が言うように、「各線ヲ巡視スルニ何レモ蕃語通訳ノ欠乏ヲ感ズ然ルニ漸次包容蕃人ノ増加スルニ従ヒ益々之ガ必要ヲ感ズルニイタル」[理蕃誌稿]。

3.佐久間佐馬太時代と大津燐平の『政略結婚』政策

 「政略結婚」の証拠は色々な史料に見いだせるが、その中から以下の事例をここに紹介する。

「旧南投庁時代に於ては蕃情の不穏打続き、蕃地の擾乱絶へざる為め、当局に於ては窮余の策として、有為なる職員に対しては受持部内の頭目、勢力者等の娘を妻として迎えしめ、以て蕃情を収拾を策したる例あり。」[14]

 この政策は1910年に始まったと考えられる。三つの有名な「政略結婚」は全て霧社の周辺で行われ、それらは佐久間総督の「五箇年計画理蕃事業」と関係があった。

 近藤小次郎や佐塚・下山等の名前と身分は、「生蕃近藤」と違い、『旧植民地人事総覧:台湾編』に見いだせる。そして、山辺健太郎(編)の『現代史資料(22):台湾(二)』や戴國W(編)の『台湾霧社蜂起事件研究と資料』には「政略結婚」が公文書で言及されている。さらに、丸井主治朗の「撫蕃に関する意見書」(1914)もその政策を的確に指摘していた。また、最近の日本語で書かれた「証言」の中で、高永清(ピホワリス)の『霧社緋桜の狂い咲き:虐殺事件生き残りの証言』やアウイヘッパハの『証言霧社事件:台湾山地人の抗日蜂起』や林えいだいの『台湾秘話:霧社の反乱民衆側の証言』等が「政略結婚」について論じている。

 一方、大津麟平の『理蕃策原義』(1914)には、その政策に関する文章が全くない。『台湾人口動態統計』(1905-1935)の「種族(細別)に依り分ちたる結婚」の中には、「生」又は「熟蕃」妻と「内地人」夫の結婚が存在していなかった。佐久間総督の「五箇年計画理蕃事業」を記録した『理蕃誌稿』第三巻にも、「政略結婚」が言及されていない。つまり、「政略結婚」は一定の範囲を超えて「公然」の政策であったというわけではなかった。そのため、このような「結婚」もしくは「蕃婦関係」の実数は確認し難いと思われる。以上見てきた中で、私がもっとも指摘したい点は、「政略結婚」は清時代前半から続いた「通事問題」と密接な関係があったということである。

--Dept. of History, Lafayette College, USA 18042 慶応義塾訪問研究員(2002-03)

[1] 大津麟平警察本署代理の深坑宜蘭蕃界視察復命書、4/3/1907 『理蕃誌稿』(1918).
[2] Laurence G. Thompson, “The Earliest Chinese Eyewitness Accounts of the Formosan Aborigines,” Monumenta Serica 23 (1964).
[3] 伊能嘉矩(編)『台湾蕃政誌』1904.
[4] Robert Swinhoe, Notes on the Ethnology of Formosa (London: Frederick Bell, 1863) quoted from Henrietta Harrison, ed. Natives of Formosa: British Reports of the Taiwan Indigenous People, 1650-1950 (Taibei: Shung Ye Museum of Formosan Aborigines, 2001).
[5] W. A. Pickering, Pioneering in Formosa. London: Hurst and Blackett, Ltd., 1898 [Reprint 1993, Taibei: Southern Materials Center]
[6] Joseph Beal Steere. Formosa and Its Inhabitants. Paul Jen-kuei Li (ed.). Taipei: Institute of History (Prepatory Office) Academia Sinica, 2002.
[7] 『台東植民地予察報文』中国方志叢書・台湾地区・第三一〇号.
[8] 参謀本部『台湾誌』(1895.1).
[9] 中島竹窩、「生蕃地探検記(上)」『太陽』2,21(10/20/1896).
[10] 『東京朝日新聞』.
[11] Paul D. Barclay, “In Search of Iwari Rōbao and Kondō the Barbarian: Solving the Interpreter Problem on Taiwan's “Savage Border”, Women's History Workshop, Academia Sinica, Taipei, March 20 2003.
[12] 斉藤賢治『台湾協会会報』4(1899.1).
[13] 『撫墾署長心得要項』(6/1896)『理蕃誌稿』(1918).
[14] 台湾総督府警務局、『務社事件誌』1930 『台湾務社蜂起事件:研究と史料』(1981).


討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

第三回研究会の概要

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