第二回国際シンポジウム(第五回研究会)・第一日目

1269年「大蒙古国」中書省の牒と日本側の対応

張 東翼

報告要旨

    

 ユーラシア大陸をまたにかける世界的な帝国を建設した大蒙古国による日本招諭と、これに続く2次にわたる日本遠征すなわち蒙古襲来は、これまで異民族の侵入を経験したことがない日本にとって、大きな衝撃であった。したがって、日本の学界では比較的早い時期からこの問題に対する関心が傾注され、現在に至るまで数多くの業績が蓄積されてきた。また、その研究レベルにおいても非常に深度の高いものとして行われてきたといえる。今日では、江戸時代以来最近までの研究成果に対する学術史的な研究(川添、1977)もなされており、既往の研究が日本中心の一国史的な理解に傾倒したのではないかとの批判的な見解(杉山、2002)もあって注目される。また最近、鷹島の海底から第2次日本侵攻の際台風によって大きな被害を受けた麗元連合軍に係わる多くの遺物が引き上げられ、この分野の研究に新たな活力源として作用するものと期待が寄せられている。

 かかる蒙古襲来に関する研究は、日本学界の主導のもと中国および韓国学界においてもある程度なされている。しかし、前者が中国および韓国側の資料を比較的に幅広く利用している反面、後者の場合は主に自国側の資料のみを利用しているため研究の視野が自国史の範疇にとどまる傾向にある。今日の国際化時代をむかえ、蒙古襲来に関する問題は、一国史の範疇を飛び越えアジア史全体の問題として取り扱う必要がある。また、日本の学界で蓄積された研究成果および批判的見解に基づいて、より次元の高いレベルへと研究の質を向上させることはもちろんのこと、そのための新しい認識を整えることと、既往の研究で看過してきた資料の発掘が優先的になされるべきである。

 本稿では、既往の研究成果において見過ごされていた資料に基づいて、蒙古襲来の前段階として蒙古政権による日本招諭、特に1269年(至元6、文永6)蒙古国中書省が高麗を通じて日本に送った牒を中心にして、日本側の対応について考察を行っている。ここで考察されたことを簡単に整理すると、以下のようにまとめられる。

 1269年大蒙古国中書省および高麗慶尚道按察使の牒は、韓・中両国に当時の文書の原形が残されている例がほとんどないことを考えると、古文書学的にも非常に注目される資料の1つであるといえる。中書省の牒案は、当時の蒙古国の最高政務機関である宰相職運営の一断面をよく示しており、慶尚道按察使の牒は、他の日本の資料に収録されている高麗の外交文書とともに当時の地方官らがもっていた官職の状況を理解する手助けになる。

 さらに、これら牒案は、蒙古国の日本招諭のための提案がより鮮明に収録されており、この時期に緊迫して展開された中・韓・日の3国の外交関係をより具体的に浮き彫りにする資料ということができる。その中で蒙古国中書省の牒は、この時期前後に日本に送られたクビライの国書に近いレベルで穏健な文面になっているが、これより3年前クビライが日本を招諭するために発給した国書の内容より、具体的に闡明すると同時に若干の脅迫性を持っている。これもまた日本の来属を要求したもので、日本に隣接した高麗の状況を伝えながらも日本も臣属した場合高麗のような待遇が受けられると説得したものである。あわせて、同年2月蒙古の使臣団が対馬島に到着したとき、日本側が武力で応じたことを寛大に受け入れながらも、この過程で捕まえた日本人2人を送還することを通告した。そして、最終的に日本側が臣属を拒否する場合、軍隊が動員され戦争が起りうることを明らかに示している。これとともに送られた慶尚道按察使の牒により、高麗が友好的な関係にある日本に蒙古の使臣団を案内することになったのは蒙古の圧迫によりやむを得ないことを示しながら、黒的・殷弘らによって逮捕された倭人2名を送還するとの事実を通告したのである。

 この2通の牒に対する日本側の具体的な対応を見せてくれる資料は見当たらないが、これに対処した返事の草案のみが残されている。その中で、蒙古国中書省に対する太政官の返事は、使臣団の到着、蒙古との交渉がなかった点、そして歴代以来の日本の状況などを記述しているが、抽象的な面があることは否めない。次いで臣属を要求してきた中書省の牒に対しては如何なる対応も示さなく、武力の使用については批判的な立場だけで叙述しているが、これは蒙古と直接的な接触関係を結ばないという日本朝廷の意志を表わすものと推測される。これに比べ、慶尚道按察使に対する大宰府守護所の返事は比較的具体的に作成されており、これは両国が一定の外交関係を維持していた結果と思われる。しかし、高麗に対しても不満がなくはないことを暗示する痕跡も見受けられる。

 最後に、早い時期において蒙古侵入について多くの関心を持っていた日本の学界が、何故これら牒の存在を把握できなかったか、ということが疑問として残る。さまざまな推測が可能であるが、まず綿密な資料の調査が行われなかった可能性を、その要因の1つとして挙げることができる。もう1つは、神国と自負していた日本の王城を、武力でもって踏みつけようとする夷狄‘蒙古’の牒は、江戸時代以来日本の知識層にとっては決して許すことができないことだった、という理由からかも知れない。

[参考文献]

討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

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