第二回国際シンポジウム(第五回研究会)・第二日目

清朝と漠北モンゴルにおける政略結婚の諸問題

杜 家驥

報告要旨

    一、清朝と漠北モンゴルの婚姻概況

 婚姻関係によって辺境の各少数民族のリーダーを抱き込み、これによってその中央との隷属関係を強化するのは、清朝満洲皇帝が辺境を統治する一つの長期的な国家政策である。その中でも大砂漠の南北の「藩部」であるモンゴルとの婚姻は、重要かつ主要なものである。

 このテーマであつかう漠北モンゴルとは、現在のモンゴル共和国の領域であるが、当時は清朝の領域の内にあり、その主体は次の四つの大きな部―(東から西へ順に)チェチェン=ハン部、トシェート=ハン部、サイン・ノヤン=ハン部、ジャサク=ハン部である。この中でサイン・ノヤン部は雍正三年にトシェート=ハン部より分かれて独立の部となっており、これ以前は三つの部であった。

 『玉牒』の記載によれば、清朝満洲の皇族はかつて漠北モンゴルのリーダーの一族と三十九回にわたって婚姻関係をむすんでいる。康煕三十六年から清末に至るまでの二百十年の中で、四人の公主(皇帝の娘)、二十六人の宗室王公の娘(ゲゲ)がモンゴルへ嫁ぎ、そのほかの九回はモンゴル王公の娘が満洲王公の子弟に嫁いでいる。

    二、いくつかの重要な政治的婚姻についての紹介と分析

 〔一〕康煕三十六年、康煕帝はその娘である恪靖公主をトシェート=ハンのチャハンドルジ=ハンの孫であるドンドブドルジに嫁がせている。トシェート=ハン部は漠北モンゴルのなかでも勢力が大きい部の首長で、チャハンドルジはこの部のハンであり、漠北モンゴルに崇拝されている活仏ジェブスンダムバは、チャハンドルジの弟である。ドンドブドルジもまたチャハンドルジの直系の孫であり、この部のハンを将来継承すべき存在であった(ドンドブドルジの父は当時すでに世を去っていた)。それゆえ康煕帝は婚姻によってその部をあやつることで、漠北モンゴルに対する統括を強化しようとしたのである。

 〔二〕清朝とセレン(策凌)一族との婚姻
 セレンは元々トシェート=ハン部のリーダーの弟であり、幼少期は康煕帝によって宮中で養育されたため、皇室に対して緊密な感情をもっていた。成長した後、康煕帝はその第十番目の娘である純愨公主に対して彼に嫁ぐよう指示し、数年後彼を漠北モンゴルの故郷に帰している。雍正三年、清朝はトシェート=ハン部を二つに分けて、別にサイン・ノヤン部を設け、セレンを大ジャサクとしてこの部を統領させた。その後、また定辺左副将軍を授けて漠北四部モンゴル兵を統領させ、漠北モンゴルの西部のウリヤスタイなどに駐屯させた。清朝のこれらの動きは、漠北モンゴルに対する統制を強化し、西部のジュンガル部モンゴルを食い止める重要な意義を有していた。

 乾隆二十一年閏九月、まさに清軍が漠南漠北のモンゴル兵と一緒に漠西のジュンガル部モンゴルを討伐しようとするとき、漠北モンゴルのチングンジャブが清朝に対して叛乱を起こした。そこで、乾隆帝は急遽セレンの子チェングンジャブに命じて兵を率いて叛乱を平定させ、並びに「娃娃親」と呼ばれる形式でチェングンジャブと姻戚関係を結び、この叛乱を平定した将軍をあやつろうとした。チェングンジャブは清朝に忠実に従い、兵を調達して討伐し、すみやかにチングンジャブの乱を平定した。

 〔三〕清朝とドルジ・セブテン及びその末裔の婚姻関係
 雍正七年、清朝が両路大軍を配置して漠南漠北モンゴル兵とジュンガル部モンゴルを征伐したこの年、雍正帝が自分の養女を和恵公主に封じ、ダンジンドルジ・セブテンに嫁がせた。トシェート=ハン部のジャサク郡王であったダンジンドルジは清朝皇帝がその将才を高く評価した将軍であり、当時は漠北モンゴル兵を統領する副将軍の職に任じられていた。和恵公主とエフドルジ・セブテンが相次いで世を去ると、乾隆帝は孤児になった和恵公主の子サンザイドルジを引き取って北京の皇居の中で養育し、彼が大きくなった後エフとした。彼の妻は乾隆帝の父方の従姉妹である。サンザイドルジの子もまた幼いころから皇居で育てられ、大きくなったあと皇帝の指名により結婚し、皇室のエフとなった。父子ともに結婚の後、漠北モンゴルに戻されて、要職を担任した。

    三、清朝皇帝の漠北モンゴルエフ・姻親に対する重点的な役割

 清代、中央の漠北モンゴルに対する統御は漠南モンゴルに比べて厳しかったことは、主に次の点に表われている。

  1. 軍隊は清朝が派遣して任命された官員が握っている。各部には中央が任命した副将軍がおり、しかもウリヤスタイ将軍に統轄される。
  2. 行政上は、ウリヤスタイ将軍と後に設置したクロン大臣が直接管理する。
ウリヤスタイ将軍は当初漠北モンゴル人が任命されたが、後に満洲旗人が充てられるようになった。クロン大臣は満洲大臣とモンゴル大臣合計二人で、咸豐十一年以前、モンゴル大臣が印を掌り、筆頭におかれていたが、以後は満洲旗人の大臣が印を主管し、位はモンゴル大臣の前におかれた。

 ここで注意すべきは、その前期すなわち漠北モンゴル人の任用が主たる段階では、前述三家の皇室の姻戚が重点的に任用されていたことである。ウリヤスタイ将軍(定辺左副将軍)は雍正十一年の設置より乾隆三十八年に至るまでの四十年間、基本的にセレン・チェングンジャブおよび同じくセレンの子のチェブデンジャブが担当している。乾隆三十四年以前というのは、まさに漠西のジュンガルが清朝と漠北モンゴルで対立したときであり、清朝が出兵し最終的にその部を平定したとき、漠北モンゴル兵を統轄し漠北西部に駐屯したのはウリヤスタイ将軍セレンとチェングンジャブ父子であった。彼らはひたすら清朝に忠実に職責を果たし、漠北モンゴルを安定させて清朝に隷属し、清朝の対北疆統治の安定及び最終的にジュンガル部を平定したことに重要な役割を果たした。クロン大臣はトシェート=ハン部のクロン(現在のウランバートル)に設けられ、トシェート=ハン部・チェチェン=ハン部およびロシア辺境の貿易、そして活仏ジェブスンダムバなどに関する事務を行なった。ジュンガル部が平定された後、これらの事務は清朝が漠北モンゴルおよび北疆を管理する上で重要なものであった。乾隆二十二年のクロン大臣設置から咸豐十一年までモンゴル大臣が印を掌り、首位におかれていたが、この百年あまりの間、清朝皇帝が任用したのは、基本的に和恵公主と恪靖公主の子孫であった。歴任のサンザイドルジ・ユンタンドルジとその子ドルジ・アラブタン、およびロンブドルジとデレクドルジはみな満洲皇室のエフまたはエフの子である。咸豐十一年以後、クロン大臣には満洲旗人(漢軍八旗旗人・モンゴル八旗旗人を含む)が主に印を掌ることとなり、清朝による直接統治が実現するが、これ以前のモンゴル人クロン大臣が実権を握っていた過渡期を通じて、両家の皇族姻戚はもっとも清朝皇帝の信任を得て、この主要な役割を果たしたのである。

    四、婚姻関係によるマンジュ・モンゴル混血の末裔及びマンジュ・モンゴル・漢族混血の末裔問題

 清朝満洲皇室と漠北モンゴル貴族の通婚は数十回に達しており、生まれた混血の末裔も少なくない。満洲皇室からモンゴルへ嫁いだ人の方が多いため、彼女らが漠北モンゴル王公の家で生んだ漠北モンゴルに属するモンゴル・満洲混血の末裔は、その中の主要な部分を占める。漠北モンゴルに嫁いだ娘の中には、満漢混血、すなわち満洲皇帝や王公が漢軍旗人の娘を娶って生まれたものもおり(これは『玉牒』の中に明記されている)、それゆえこれらの満漢混血の娘が漠北モンゴルの王公の家に嫁ぎ、生んだ子女はすなわちモンゴル、満洲、漢族三族の混血になる。

 異なる民族の男女が結婚して生まれた混血の末裔は、民族融合の現象に属し、満洲の公主、ゲゲらが漠北モンゴルに嫁いで、漠北モンゴルにモンゴル・満洲・漢族三族の混血の末裔を生んだことは、注目に値する。このような民族の融合現象及び具体的な史実や人物については、現代の人々も知っておくべきことである。


討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

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