第二回国際シンポジウム(第五回研究会)・第二日目

危機のなかの王朝と幕府(一)

河 政植

報告要旨

    1.はじめに

 アヘン戦争と太平天国という清朝の内憂外患は、東アジアの伝統秩序が近代の国際秩序への変容を遂げる出発点となった。同時に、それは、各各の体制が機能不全に陷っていた朝鮮と日本にとって、‘危機としての現代’以外何ものでもなかった。

 19世紀半ば、両班官僚制国家朝鮮と幕藩制国家日本は国内矛盾と対外的危機の激化によって体制崩壊の危機に直面する。支配層にとって、体制の保持は、差し迫った課題であった。異様船と黒船、農民蜂起と一揆はその危機を、内修外攘と尊王攘夷はその課題への対応を象徴する。このような状況で、大国清国の内憂外患―アヘン戦争と太平天国―に対する情報が伝わる。危機意識は拡大・深化し、体制保持はより切迫した課題となる。

 本研究は朝・日両国の支配層が入手した対外危機情報の性格、それに対する認識、対応策の樹立過程、認識と対応の背景をなす支配層と支配構造の性格、歴史と国内外現実に対する支配層の認識などを、構造的かつ有機的に分析し、その類似性と相異点を明らかにする。一国史の観点から事案別に、ミクロ的に進められてきた従来の研究を止揚し、東アジアの観点から朝・日両国の近代の出発点、そしてその出発点の土壤を見直そうとするものである。

 本研究は前半部で第一次アヘン戦争を、後半部では太平天国と第二次アヘン戦争を取り扱う。本報告はその前半部である。19世紀半ば、東アジア国家にとって、西洋は強い軍事力、邪教(基督教)、アヘンを持って押し寄せて来る夷狄であった。なかでも一番大きくて直接的な圧力は軍事的脅威であった。西洋の軍事的脅威を如何に認識して、またそれにどう対処したのかというのは、東アジア各国の近代への展開様相を決める最も大きな要素であったと言えよう。第一次アヘン戦争は東アジア国家に対する西洋からの軍事的侵略であった。そしてこの清朝の外患は、隣接国にとっても対岸の火事ではなかった。ならば、体制崩壊の危機に直面していた朝鮮王朝と徳川幕府は、第一次アヘン戦争についてどのように認識し、また、いかなる対応をしたのか。

 日本のそれについては、すてに1960年代から活溌に研究され、その成果も数多く、多岐にわたる。アヘン戦争の情報が危機意識を高揚させ、幕府の天保改革の契機になったことが明らかにされている。それに関する韓国の研究は、1980年代から始まって、その成果も豊富とは言えないが、西洋の侵略に対する朝鮮支配層の認識は徹底しておらず、その対応も安易であったとする。

 本報告が扱う第一次アヘン戦争時期は類似性よりは相違点の方が目立つ。類似した状況で、同じ事案についての情報であったにも拘らず、何故あい異なる認識と対応になったのか。そのちがいは、情報そのもののためであったのか、体制と状況によるものであったのか。あい異なる認識と対応の背景にも注目してみたい。

    2. アヘン(戦争)情報と朝鮮王朝

 朝鮮王朝は、燕行使節を通じてアヘン及び第一次アヘン戦争関連情報を持続的に入手した。また国境地域の湾府(義州)の官員も情報を伝える。国境地域の情報網まで動くということから、関心の強さと持続性が示される。

 1832年、アヘンに関する情報が入るが、1837年からは持続的に情報が入る。アヘン輸入の増大による害毒の拡散、銀価の騰貴、その対策の講究、清英間の対立と第一次アヘン戦争の経過等が主な内容である。1840(憲宗6)年、李正履は“清朝の危機は朝鮮の危機でもある。海防を堅くすべし”と主張する。同年8月、清・英間の軍事的衝突の第一報が伝えられる。1841(憲宗7)年3月、“英咭唎国によって乱が起こる。大したことではないが、騒擾は少なくない。戦争になったのは、英咭唎国人に交易を許さなかったため”と認識される。

 1842年4月、戦争の続報が、同12月には戦争の終結と南京条約の締結に関する続報が伝わる。1843(憲宗9)年3月、“既に和親したと言うが、‘侵漁之弊’はない”と報告される。翌1844(憲宗10)年2月、“英咭唎に広東始め四処での互市を許可した。侵擾之端無く中外は晏如である”と伝わる。1845(憲宗11)年3月には“英夷は広東・福建・浙江等省の濱海の地で拠住しながらほしいままに振る舞う”事も伝わるが、朝鮮王朝は、清国の敗北を一応 ‘領土を失わない敗北’と認識した。

 戦争が終り和約が結ばれたにも拘らず、アヘンはますます氾濫していることが連続的に伝わる。朝鮮へのアヘンの流入可能性は、当然ながら一層高まった。1848(憲宗14)年3月、アヘン吸煙道具を携帯して帰国する画員朴禧英が義州で逮捕された事件は、アヘンに関する警戒心を一層高める契機になる。アヘン問題は次の哲宗代にも警戒される。

 ≪海国図志≫初刊本50巻は1845年に伝来される。それ以後、相当量が受入され、国内では抄略本も製作された。アヘン戦争の関連情報が知識人の間に流布され、ソウル地域の知識人達の間では西洋に対する危機意識が拡散されたことも知られている。しかし危機意識の拡大は朝鮮政府の海防対策には繋がらない。このように海防書籍の受入と普及、一部の知識人の危機意識にも拘らず、政府次元での海防論議とか対策の模索はみあたらない。

 1845(憲宗11)年6月、英国軍艦(Samarang号)等四隻の異様船(乗組員200余名)が済州近海の島から西南海域の島々を転伝したことが知られる。清英間の交戦以降であっただけに大きな衝撃であった。この事件はただちに清の礼部に通告された。こうした処理方式は、1832(純祖32)年の英船ロード・アマースト号来航時の対応例に従ったものである。また徳川幕府にも知らされた。

 異様船に対して、このような措置を取ったのは、異様船対策はこれからも全体的には東アジア国際秩序に従うことにしながら、必要な場合、独自的判断により、それなりの補完対策もともに取ったことを意味する。

    3.アヘン戦争情報と徳川幕府

 徳川幕府は第一次アヘン戦争の情報を唐国風説書と和蘭風説書を通じて入手した。極めて大きな関心事であったたけに、別段風説書も提出させてさらに詳しい情報を得ている。

 1839(天保10)年8月、和蘭風説は広東でのアヘン取締りの情報を伝える。翌1840(天保11)年7月、同じく和蘭風説によって英清間の戦争の情報が伝わる。戦争の原因は“唐国の無理非道な行為”と断定されていた。ほぼ同じ時期に唐風説も入る。その内容は、英人によって清国にアヘンが流布していたこと、林則徐によるアヘン取締りがあったこと、またそれが原因となり道光十九(1839)年秋九月、清英が交戦に至ったこと等を伝えた。

 清英の交戦の情報が入って間もない9月、長崎町年寄高島秋帆は、清英の戦争は清朝の敗北であると断言し、清朝敗北の原因は武備にあると指摘し、日本も砲術を西洋化すべきであると幕府に上申した。老中水野忠邦は、これを目付一同に検討させる。12月、保守派の意見を結集した鳥居耀藏の反対意見書が出た。これを受けて、伊豆韮山代官江川英龍は駁論書を書き、西洋砲術の採用を主張した。水野忠邦は西洋砲術の採用を企図し、1840年12月、高島秋帆を幕府官吏に任命し、翌年5月に西洋砲術の示範を行わせる。

 同年12月の唐風説は、六月にあった乍浦港と定海県での戦闘を伝える。この風説では清国の領土の一部が英軍に占領されたと記されている。そして、1841(天保12)年には3月、6月、12月の3回の唐風説が入った。

 隣国である大国の清国がイギリスの軍事力によって領土の一部が占領されたという風説は、幕府の一部に大きな衝撃を与えた。1841年1月、老中水野忠邦は、側近の佐渡奉行川路聖謨に宛てた手紙の中で危機意識を示す。そこで水野は“清国の出来事を自国の戒めにしたい”と記す。佐藤信淵もアヘン戦争を‘天地開闢以来未曾有の珍事’とし、海防論を主張する。8月に徳川斉昭は、改革推進意見書を水野忠邦に提出する。

 1842(天保13)年6月、和蘭から二つの秘密情報が入る。その内容は、英国は日本に軍艦を派遣して通商を要求するが、もし拒否されたら武力に訴えるつもりである、というイギリスの侵略可能性であった。この情報は幕府の危機意識を拡大させ、改革推進の必然性を高め、対外政策転換に決定的な影響を及ぼすことになった。その結果、幕府は7月、異国船打払い令(無二念打払令)を撤回し、薪水給与令に転換した。そして8月からは江戸湾防備体制の改革を本格化させた。

    4.情報・構造と状況

  (1) 朝鮮王朝

 朝鮮王朝に伝えられた第一次アヘン戦争に関する情報は、朝鮮政府の通常的な情報体系に依って入手したものであった。燕行使節が直接清国現地で探知した情報ではあるが、第一次アヘン戦争は、短い期間であったし、戦闘地域は使行路からも離れていたので、使節の直接見聞はできなかった。主な情報源は清朝の官辺であったが、京報は特に重要視された。それ故、清朝の状況認識が京報のような官辺文書に表れ、それがまた朝鮮使節の情報探知に反映されるのである。

 19世紀中葉になると、朝鮮政府は、清朝中国を中華秩序の主宰者として確実に認識する。政権掌握の正統性を欠いており、政権を握り続けようとする勢道政権にとって、やむを得ぬ選択であったと言えるだろう。17世紀から続く、朝鮮知識人たちの大明義理論、反清的北伐大義論、小中華意識は、次第に清朝の繁栄と安定さを確認し、その一方で、18世紀以来の朝鮮社会の複雑な諸変化があったことによって、その虚構性が露呈されて変化と屈折が余儀なくされたのである。このような対清意識の変化は長期間にわたる清朝との交流を通して確認され、理念的な葛藤をへてなされたものであった。

 第一次アヘン戦争期間は憲宗代(1834〜1849)に当たり、勢道政治が本格化していく時期である。19世紀中葉の勢道政治下では、少数の権力集団が備辺司を通じて国政を掌握していたので、文班政治構造はそのまま維持されていたが、それはすてに形骸化していた。王権の弱化は著しいが、観念的な王の権威は高められていた。政治運営の論理は保守論理で一貫しつつ変革の波を遮断し、政敵の浸透や新しい政治勢力の進出を統制していた。

 憲宗代の政局は金祖淳家門と趙萬永家門がおおよその均衡をとっていた時期である。これという程の明確な政治の争点もなかったし、社会経済的な諸矛盾はまだ爆発しない内燃状態であったから、表面的には安定していた。民衆の抵抗も未だ本格化されていない段階であった。基督教徒の増加と異様船の出没は、支配層に危機感を持たせたが、その危機感は必ずしも深刻ではなかった。国防体制は、その実際の機能はともあれ、体制として存在するのは儼然たる事実であった。

  (2) 徳川幕府

 徳川幕府は、長崎に来る和蘭商人と清国商人が齎す風説書を通して第一次アヘン戦争に関する情報を得た。和蘭風説は清英間の紛争から南京条約の締結までの戦争の経過を詳しく記していた。英国の入城がそのまま反映された情報であって、特に清朝の敗北が強調されていた。それに比べて唐風説は局地的な内容に止まり、また、流説や希望的観測が混ぜ込って客観性を欠いている。しかしそれはたまたまアヘン戦争の激戦地の一つである乍浦の商人が伝えたものであったため、臨場感と速報性に富む。それはまたオランダ語のような和訳が要らない漢文でもあったので、戦闘に関する記述は生々しく且つ強烈な印象を与えた。そしてその情報は、日本国内の危機意識が非常に高まっている時期に伝わったのである。

 徳川幕府にとって、大国清国はより観念的に認識されている存在であった。徳川幕府の中国認識の基になる情報は凡て間接情報であった。その情報は琉球、長崎、対馬を通じて入ったものであり、幕府の官吏が直接唐国に行って探知したものではない。そのため、より新しく、より刺激的な情報に遇えば、中国観も変わる可能性が多かった。

 第一次アヘン戦争期の間は幕藩制解体過程の最後の段階であり、祖法である鎖国もその根本が問われることになった。すなわち内憂外患の体制的危機が本格的に現れた時期である。その危機を建て直そうとした幕府の天保改革とも時期的にほぼ一致している。

 幕藩体制は分権体制でありながら、将軍専制の強い統制力をもって高度の中央集権を実現した。統制の対象は朝廷、大名、寺社、農民と町人であった。緊張と葛藤が内在する構造であった。その緊張と葛藤が表面化し、幕府の権威と統制力が低下したのである。18世紀末から朝幕間の緊張が高まる。幕府支配の補強の為に形成された尊王論が、そこでは幕府を批判する根拠の論理として展開されて行くことになる。幕藩の間にも亀裂が生ずる。幕藩両方ともに深刻であった財政難の打開策をめぐって生ずる葛藤が代表的であった。民衆の抵抗も全国的に広がる。全般的な体制矛盾の累積の上、天保の大飢饉(1833, 1836)と米価暴騰が重なり、一揆・騒動がつづく。1833年、1836年、1837年には一揆・騒動が年間100件を越えた。36年から38年の間、甲州郡内一揆、三河加茂一揆、大坂大塩平八カの乱、越後柏崎の生田万の乱、能勢一揆、佐渡一国騒動等の大一揆と蜂起がつづく。

 対外関係の危機も深刻化した。文化年間(1804〜18)に起こったロシアとの蝦夷地紛争では、将軍の武威が問われた。1808年にはフェートン号事件が起ったし、相次ぐ外国船舶の到来で、幕府は1825年に異国船打払い令を出した。1837年に起ったモリソン号事件は、異国船打払い令の危険性と内実を供わない強硬な攘夷策の持つ矛盾とが表われた事件であった。島国日本は鎖国を固守してきたにもかかわらず、海そのものが防衛網であった。長崎を除くと然るべき防衛施設がなかった。外国船による海運の阻止、または江戸湾の封鎖は大きな恐怖であった。江戸湾防備は焦眉の急となっていた。

 1820年代から支配層は内憂外患の危機を認識しはじめるが、1830年代にはいるとその危機意識は一層高まる。松平定信は1825年6月、その危機を、"泰平二百年、只おそるへきは蛮夷と百姓の一揆也Wと簡単明瞭に整理した。この危機は時間とともに拡大、深化していく。そして1838年、水戸藩主徳川斉昭は、戊戌封事を出して、現在の時局を深刻な外憂内患であると、より具体的に診断し、速やかに改革を行うべきであることを建議した。

 アヘン戦争に関する情報、特に清朝の劣勢という衝撃的な情報は、このように日本国内の危機意識が非常に高まっている時期に伝わったのである。その結果アヘン戦争の情報は支配層に差し迫った危機を実感させ、対外的危機感を増幅させる役割をはたしたのである。

 そしてアヘン戦争の情報は、天保改革の重要動機の一つとなった。改革の使命を帯びて出帆したのが水野政権であった。しかし、水野政権には改革を推進し得る権力基盤が弱かった。改革の敵対勢力である保守派と共存しながら改革を推進しなければならなかった弱体の水野政権にとって、幕閣や諸大名を改革に動員するためには、切実な改革の当為性が必要であった。英国による大国清朝侵略の情報は、水野忠邦の改革の推進力にもなったはずである。

    5.むすびにかえて

 東アジア国家に対する西洋からの軍事的侵略であった第一次アヘン戦争は、体制崩壊の危機に直面していた朝鮮王朝と江戸幕府にどう伝えられ、またどのように認識されていたのか、また朝鮮王朝と江戸幕府はいかなる対応をしたのかについて整理してみた。類似した状況で、同一事件の情報であったにも拘らず、その認識と対応においては相違点が目立つ。相異なる認識と対応の背景をそれぞれの情報、体制と状況によって説明を試みてみた。

 清朝の内憂外患は1850年代から1860年代に本格化される。太平天国と第二次アヘン戦争である。その清朝の内憂外患の餘波は当然ながら朝鮮と日本にも及ぶことになる。朝鮮王朝と徳川幕府には太平天国に関する様々な情報が入る。内憂の鑑であったはずの太平天国に関する情報は広範に伝播され、支配層と先覺者達の歴史と現実に対する認識及び思想形成に影響を及ぼすことになる。

 日本の場合、太平天国の情報は幕末の激しい変化の過程であまり大きな影響力を持たなかったかに見える。しかしそれは、1853年のぺリー来航、開国の問題等の複雑な政治社会的変化にだけ眼が向けられていただけのことで、実際は影響力があったと考えられる。すなわち、それは伏流化されていたのである。一方、朝鮮王朝は太平天国を非常に危機的なものとしてとらえ、情報の蒐集と管理に力を尽くす。1860年の北京陥落と重なって危機意識が一層高潮する。そして1862年の壬戌農民抗争を契機に、三政釐整という改革を進めることになる。

 そして、本研究の後半部である太平天国時期までをともに考察してみることによって、朝・日両国の支配層がアヘン戦争と太平天国という清朝の内憂外患についてどのような認識を持ち、如何に対応したか、またその認識と対応を生んだ背景は何であったかを構造的に考察し、その類似性と相異点を明らかにすることが出来ると思われる。それは、また、朝・日両国の近代の出発点の地盤に対する理解を深めることにもなると期待される。


討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

第二回国際シンポジウム(第五回研究会)の概要

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