第三回国際シンポジウム

十八世紀の都市広州―長崎との対称性と「澳門学」の意義―

村尾 進

発表要旨

鄭氏鎮圧後、広州・廈門など五つの港が民間貿易のために開かれ、海関が設置された。これによって西洋民間商人は五港に自由に来航し、開港都市内であれば自由に行動することができるようになった。また、彼らはしばしばカトリックの宣教師を同乗させたから、宣教師たちは、以後、五港を通じて国内外を自由に出入・移動し、各地に定居を作った。五港内で西洋民間商人たちはしきりに教会を訪問して宣教師たちと親密な関係を保ち、宣教師たちの方は有能で信頼できる中国商人を紹介するなど、事情に疎い西洋民間商人たちのためにさまざまな便宜を図っていた。

五港が開かれて20年がたった康煕四三(1704)年に変化の最初の兆しが訪れた。それまで東南沿海地方の舟山・広州、そしてとりわけ廈門に来航して交易を行っていたイギリスの民間貿易船が、自主的に舟山・廈門を捨て、以後、広州のみに入港することが慣例化したのである。宣教師については、康煕四四(1705)年、康煕帝が教皇の使節トゥルノンと福建代牧メグロを謁見してから典礼問題が本格化し、康煕四七(1708)年までに「給票」政策が施行された。グレイゾーンとしての都市広州を境に内と外を隔てるというこの処置によって、先立つ時期にきわだっていた国境を越える宣教師たちの自由な移動はほとんど切断されたと思われる。

宣教師たちの決定的な排除は、雍正元(1723)年十二月、各省の宣教師を北京と澳門に集中させる雍正帝の上諭から始まった。これに対して、雍正二年五月、宮中の宣教師ケグレルの請願があり、結局、移送先として澳門と都市広州のどちらかを選ばせることを宣教師に許すことになった。しかし、雍正十(1732)年七月、都市広州における大規模な布教が発覚し、宣教師を澳門に送り船を待って帰国させること、天主教の房屋は公所とするか、住居として良民に官売することなどが決定され、宣教師の澳門への排除はただちに実行された。これによって、すでに広州に集中していた西洋民間貿易船に引き続き、宣教師たちも澳門に集中されたのである。またこの時、商船の停泊地を都市広州から遠ざけるため、まず広東右翼鎮総兵李維揚が、黄埔ではなく虎門の海口に西洋船を湾泊させることを上奏し、これをうけて署理広東総督鄂彌達は、澳門の商船とともに「澳門海口拉青角地方」に停泊させることを主張したが、これは澳門議事会の反対決議のため実行されなかった。

西洋民間商人の澳門への排除は、ほぼ同時に進行した、(1)澳門に対する管理の緻密化と、(2)乾隆十一(1746)年福建省福安県における布教の発覚とその後の一連の摘発、の二つを背景とし、(3)フリントの北上・申訴事件を直接の契機として、(4)西洋民間商人の都市広州における「住冬」の禁止と澳門への移動を決定した乾隆二四(1759)年の「防範外夷規条」で完成した。

まず、乾隆九(1744)年末に、澳門そのものに対する管理を緻密化すると同時に、珠江をさかのぼる西洋船をも統一的に管理する目的で、澳門県丞を関閘内の望廈に移動させ、さらに肇慶府同知を前山寨に移駐し澳門海防同知とした。その統属系統は、澳門県丞―澳門海防同知―広州知府とされ、職務は(1)「弾圧澳夷」、(2)洋船(虎門―黄埔)の出入を稽査、(3)「専司海防」であった。さらに、澳門海防同知の設置後ほどなくして、「照票」を発給しての西洋民間商人の都市広州と澳門との往来の開始が確認される。澳門議事会側の抵抗にもかかわらず、広東官僚の一貫した意志で、乾隆十年代のある段階にこの「在省夷商赴澳探親貿易」の制度化がなされたものと思われる。

乾隆十一年四月、福建省福安県で密かに行われていた布教が福建巡撫周学健によって摘発された。これに対して乾隆帝は「甚為風俗之害」として全省に悉皆調査を命令し、その結果、両江地方においても、澳門から潜入したエンリケス・アテミスなどが布教を行い、多くの中国人信者がいることが判明した。さらに乾隆十九(1754)年には、同じ両江地方において、やはり澳門から内地に入ったアラウヂョによる布教が摘発され、その布教に尽力した中国人信者が、すでに乾隆十一年に一度摘発されたことのある者たちであることがわかった。また布教のための資金はヨーロッパからマニラ、マニラから澳門へと送られ、澳門から特に雇われた中国人を通じて、連絡の書簡などともに各省の宣教師たちに配分されていたことも判明した。このように十年にわたる布教をめぐる懸案の継続と、西洋人と中国人の「往来交接」が強く意識されていたときにフリントの事件が起こったのである。

乾隆二十(1755)年六月、広州貿易における「規礼」の重さ、商品の売価の高さに不満を抱いたフリントが、澳門のポルトガル船に乗って寧波に到達し、貿易を要求した。翌年にはやはりフリントを載せた東インド会社の船1隻と地方貿易商人の船1隻がふたたび寧波に到着、これが朝廷の注目するところとなった。フリント事件後における西洋民間船の「一港集中」については、浙江省の海防・「粤民」の生計・内地関の収入の維持などがその原因とされることがしばしばある。しかし、同時期に問題となっていたキリスト教の布教の問題を念頭に、澳門のような居留地があらたに生まれることによる「海疆重地・風民土俗」上の懸念と、西洋人と中国人の「往来交接」に対する危惧こそが乾隆の一貫した態度であった。フリント事件後、乾隆二四(1759)年に両広総督李侍堯によって「防範外夷規条」が策定され、乾隆帝によって認可された。これによって、以後、澳門を借りものの根拠地として滞留している西洋民間商人たちは、貿易のシーズンになると、来航船と同時に都市広州のファクトリーに赴いて、ファクトリー内で行商・通事による管理のもと貿易を行い、シーズン後にふたたび澳門へ帰る、というスタイルを余儀なくされることとなった。雍正十年に一度試みられた、宣教師たちに続く西洋民間商人たちの澳門への排除は、乾隆二四年にいたって、当初とはやや違ったかたちで実現されたのである。

「防範外夷規条」によって最終的に形成され、アヘン戦争後の南京条約まで続くことになる、都市広州と澳門がつくるこの領域においては、「朝貢の空間」としての都市広州と、宣教師・西洋民間商人が滞留する澳門との明瞭な差異化が行われていた。このような差異化は、都市広州の士大夫からは「中外の大防」と意識され、宣教師と西洋民間商人を澳門に排除し、朝貢の儀礼のみが展開された都市広州は、天子の徳の「光被」と「中外一統」を表象した空間であった。儒教的秩序と抵触すると意識された宣教師と西洋民間商人を排除し読書人たちの支持を回復することができてはじめて、朝貢という行為が天子の徳の「光被」と「中外一統」を十全に表象することができ、さらにそのことによって「華夷の辨」を否定できる、という雍正帝のねらいが、乾隆二四年の「防範外夷規条」によって最終的にその目的を果たしたといえる。

都市広州の城外の一角に設けられたファクトリーと長崎の出島は、ともに来航した西洋民間商人が厳しい規制の下で唯一貿易を許可されていた居留地として、恰好の比較の対象であるかのように見える。しかし、その見かけにもかかわらず清朝はファクトリーを居留地として認めていなかったから、このような表層的な比較は多くの誤解を生むことになるだろう。むしろ意味があるのは、近世長崎と都市広州/澳門を一つの視野に入れることで、時期的には1世紀ほど前後するけれども、ともに政権確立期において、キリスト教の排除を契機とする港市形成の過程を共有し、それぞれその過程において「成果」を得ていた、という点を確認することであろう。日本史においては、周知の通り、このような研究はすでに古典的なトピックスであり、たとえばこの過程にあって、幕府の指導者は、ことさらに宗教的な習俗のちがいを強調して、「神敵仏敵」であるとキリスト教を排撃し、「きりしたん国」と「神国」を対比することによって自国のアイデンティティーを自覚していった。一方、清朝の方はこの過程の中で、漢人読書人の支持を確立することによって、政権の確立にあたって喫緊の課題であった「華夷の辨」を克服するという作業を行ったのである。また、たんに共有していたというにとどまらず、1世紀ほど遅れた清朝が、どれほど江戸幕府の禁教と長崎の出島・唐人屋敷の情報を入手し、それがどれほど都市広州/澳門の領域の形成に影響を与えたか、ということも具体的な課題として考えられる。

さらにキリスト教の排除を契機とする港市形成という点において、東アジア近世における長崎と広州が対称的な位置にあるとするならば、その二つの排除のベクトルの到達点に位置する十七世紀前半から南京条約までの時期の澳門は、研究の対象としてもっと重視されてもよいと思われる。受け入れられたものではなく、このような排除されたものの諸相の方を、澳門というまとまりのよい都市において集中的に検討することによって、逆に東アジア全体にとって近世とはいったい何であったのか、という問いに答える一つの手がかりが得られると思うからである。

澳門に対しては、1980年代末から、中国の学者を中心として「澳門学」を立ち上げようという動きが始まっている。「敦煌学」や「徽学」の場合と同じように、これまで存在を見すごされてきた大量の歴史文書の発掘・整理にともなう新しい学問分野の創設をしようというのである。「敦煌学」「徽学」に比べて「澳門学」に特徴的なことは、450年近くアジアにおける国際関係の要であったという特質から生まれた、大量の多言語・多カテゴリーの史料の存在である。おそらく近代に入る以前の東アジアにおいて、澳門という一都市は量と質の両面において飛び抜けた情報量を有していたということができるであろう。

討論内容