第三回国際シンポジウム

清朝末期における「衛生」概念の変遷について

余 新忠

発表要旨

今、歴史上の衛生問題については、中国史学界では、まだ充分に注目されているとはいえない。あまり多くはないがいくつかの先行研究によって、「衛生」概念の変遷については、我々は少なくとも以下の二点の認識が得られる。第一、近代的意味での「衛生」という語句はまず明治初頭の日本に現れ、それからしだいに東アジア世界に広がっていった。第二、中国では、清末の新政以後、特に民国期に、日本式の衛生機構はすでに形式上は作り上げられていたけれども、中国社会では衛生観念の理解と認識は依然として多様、複雑、甚だしきに至っては混乱するという現象が存在していた。そこで、私が今回の報告で問うべき問題は以下のようなことになる。日本の近代的「衛生」概念はどのようにして中国に入ってきたのか。清朝末期における中国社会の衛生概念は、いったいどのように変遷していったのか?さらには、この変化の過程と民国期の複雑で混乱した現象の間にはどのような関係が存在していたのか?それ以外にも、この機会に、中国社会が近代に移行する過程の中で、中国自身の伝統と、西洋・日本という外来文明の間の絶え間ない相互影響関係についても見てみることにしたい。

一、伝統文献中の「衛生」

近代以前には、衛生は現在のように常用される語句ではなく、養生と意味的に相当重なるところのある語句であった。そして中国の伝統的な養生思想は、基本は内斂式であって、自然主義を重視して、みずからの調節と回避とを強調して、能動的に外部の環境を改造するという意味はほとんどなかった。この点については、養生の意味で使う衛生という言葉の含意も同様であるが、しかし衛生は養生にはない含みをもっている。すなわち生命の救済・治療、そしてはっきりと明示されているわけではないが、身体と健康の保護といったものである。養生と比較して、衛生という言葉の方が積極性を備えていると言うことができる。

ニ、日清戦争前の中国社会における衛生観念と「衛生」概念の変動

1、日本における近代的意味での「衛生」の使用の開始と中国に対する初期の影響

日清戦争以前、まず日本でHygieneに対応する「衛生」という言葉が使われはじめ、大体1880年代以降に次第に中国の一部の知識人と官僚のあいだに影響を与えはじめたが、中国社会における「衛生」という語句の使用に対してはまだ根本的な影響はなかったということが分かる。

2、西洋衛生学知識の浸透と「衛生」概念の静かな変化

衛生の実際の変動だけではなく、西洋衛生学の知識の浸透もまた「衛生」概念の変化に対して重要な影響を与えた。西洋の宣教師の中には中国の衛生状況が良くないことに気づいた者が多く、中国に対して西洋の「科学」文化知識を翻訳して紹介する際に、衛生学の内容を含めることが多かった。1870年代から、いくつかの近代衛生に関することを紹介したものや「衛生」という言葉が冠された西洋の訳著が相次いで出版された。これらの訳書の出版は、明らかに比較的西学を重視している人びとに対して影響を与え始めていた。日清戦争前には「衛生」という言葉が使われることは依然として稀であって、その上、当時の人々の多くはまだ伝統的な意味で「衛生」という言葉を使っていたのである。しかし、間違いなく伝統的な「衛生」の概念が拡大したものだと言っていいだろう。「衛生」がすでに現代と同じ意味を含んでいる場合もあったということがある。

三、日清戦争以降の「衛生」概念の変動の深化と普及

1、日本の影響の拡大と国家衛生行政の登場

日清戦争の敗北によって、中国社会は日本を注視し始めざるをえなくなり、衛生行政は明治維新以来の新政の一部として、自ら多くの注目を集める。日本の衛生行政と教育も、中国社会の日本へのあらゆる方面にわたる学習にともなって徐々に取り入れられた。光緒31年には、主に日本の衛生行政を参考にして、新しく巡警部警保司を創設し、その中に「衛生科」を設けた。ここに至って、「衛生」という言葉が正式な国家行政機関の名称に組み入れられたことは、「衛生」が健康の保護、疾病の予防という内容をあらわすことがすでに社会の標準的な用法になったことを示している。

2、「護衛生命」から「衛民之生」へ――「衛生」概念の変動の深化

日清戦争以降に、中国社会には西洋の衛生知識に関する紹介と議論が折りにつけてあらわれることがわかる。これらの時人の議論はすでに西洋の衛生に関する学識を取り入れた基礎の上に、衛生の事業が個人に関係するだけではなく社会と国家にも関係していることを十分に説明したのは明らかである。つまり「衛生」の概念における「個人性」は弱まり、「社会性」は大いに強まった。この点で、日本の衛生概念と合流することができた。1905年以後の文献中に、我々は、人々が衛生問題を議論する際、これを「衛民之生」と解釈しているのがわかる。もとは一般に「護衞生命」とみられていた「衛生」を「衛民之生」と見なしていることは、当時の人々がすでに「衛生」という言葉の「社会性」を認めていたことをはっきりと示している。これと同時に、伝統的な「衛生」中の数多くの内容と個人的色彩も決してこれによって色あせてはいないこともわかるであろう。しかし、以前と異なることは、たとえ個人の衛生であっても、もはや隣人と社会の口出しを必要としない私事ではなく、社会や国家によって大がかりに各種の衛生知識を宣伝しなければならなくなっていた。

3、種族の危機と「衛生」の「流行」

日清戦争後、特に20世紀に入ってから、「衛生」という言葉の使用頻度は明らかに増加した。その原因は、西洋と日本の影響が幅広い方面で深化したことだけでなく、主に、日清戦争後、中国社会がいまだかつてなかった「亡国滅種」の危機感を抱きはじめ、人々が「保種」、「強種」の道を求め、「保種」、「強種」を欲するようになって、その際に衛生が明らかに最も重要な位置にあったということによる。

四、結び

第一、衛生が初めてHygieneの訳語とされたのは、長与専齋が翻訳の際にひらめいたことによるように、もとより偶然性があった。しかしこれが最終的に日本と中国で受け入れられたのは、明らかに衛生という言葉が比較的高雅で、養生などといった語句と比較しても、意味するところは広範囲に渡り、曖昧で、そして更に能動性を備えていることと関係する。

第二、近代中国の衛生観念と行為の変動は嘉慶道光期にはすでに端緒を見せていたが、しかし、衛生という言葉の変動は、光緒年間以降に始まり、日清戦争以前に、衛生という言葉は西洋と日本の影響のもとで、静かな変化がおこり、衛生の「科学」と公共性は、一部の知識人に受け入れられはじめた。しかし全体的には、社会における衛生という言葉の使い方は明らかな変化はみられず、このような変動は基本的に一筋の伏流でしかなかった。日清戦争後に、この変動の流れは次第に暗がりから明るみに出て、日本の衛生行政が部分的に受け入れられ、国家の衛生行政機関が確立されるに随って、社会の標準用語へと変わっていった。同時に、中国社会に強烈な「亡国滅種」の危機感が現れはじめたため、「強種保国」のため、衛生という言葉が流行し始めたのである。

第三、近代「衛生」概念の変動は、西洋近代衛生学の知識、日本における衛生という言葉の使用および国家の衛生行政と教育、伝統的な衛生の概念といった数多くの要素が作用した結果であった。日本の国家衛生行政と教育機構が導入されたのに伴って、最終的には、個人、社会、そして国家が健康を守り、疾病を予防することを表す際の意味が、衛生という言葉における第一の地位を確立した。西洋の近代衛生学の知識は、衛生という言葉の概念を豊かにして、中国が日本語の衛生という言葉の用法を受け入れるのに役立ったなどといった非常に大きな作用があった。これだけでなく、欧文著作を最初に取り入れる際、基本的に採用したのは西洋の新しい知識を伝統の土台にはめ込むような方法であって、そのため西洋衛生知識は決して伝統的な衛生の内容を消し去ることなく、伝統と近代の良い橋渡しとなり、もともとは存在しなかった公共性の色彩を与えただけでなく、個人みずからの調節・養護の意味を強調する面も残した。そのため清朝末期以降の「衛生」概念はかなり多様なものとなったのであった。

討論内容