第三回国際シンポジウム

近代天津における廟会と社会組織

吉澤 誠一郎

発表要旨

現在、天津の古文化街のなかほどには、天津民俗博物館がある。ここは、もともとは天后宮つまり媽祖廟の場所であり、今でも廟の建物は残されている。この場所は、天津旧城地区のすぐ東にあたり、また、かつては渤海湾から船が遡航してきた海河にも臨んでいる。

天后宮は、清代から民国初年に至る時期には、天津の寺廟のうちでも最有力のものの一つであった。このことは、媽祖という神格からいって、天津の港市としての性格を示すものに違いない。

この天后宮の廟会が、農歴三月に催された「皇会」である。皇会は、多数の自発的結社によって推進・運営されていた。これが最高潮を迎えるのは、「巡香散福」という媽祖像の市内巡回であったが、その前後にも、音曲など藝能を担当する結社が盛んに活動している。もちろん、皇会にあわせて参拝する者は多く、河畔は「天后進香」という旗を掲げた船で満たされた。

皇会は、清末には繁盛を極めたが、民国に入ると、しばしば停止されることになる。その理由は、戦乱ということがまず挙げられるが、1924年の天津県教育会の提議にみられるように「破徐迷信」という論点も無視できない。つまり、「共和の時代になってからも、通商大埠の天津が公然と皇会を開催している。…もし速やかに根本的解決を図らなければ、将来的にもますますそれに倣う傾向が広がり、今後のことが心配でならない」として「迎神賽会」の禁止が要請されたのである。

しかし、1936年には、この皇会が再開されることになる。天津市商会など有力商人団体が天津市政府に再開許可を請願した文書には、廟会のもつ経済効果が強調され、当時の深刻な不況への対応という目的が明示されていたので、市政府もこれを批准した。「今回、皇会を行なった動機は、その意義は宗教的なものから政治的なものに変わったのだ」(『天津皇会考記』)という当時の説明は、半ばは旧弊な廟会という批判をかわすためのものだったとも言えるが、やはり皇会の意味の変化を正当に指摘したという側面があろう。

1936年に編まれた『天津皇会考』『天津皇会考記』は、過去の皇会の由来についての考証と紹介を意図した書物であり、清代以来の皇会を支えた自発的結社についての興味ぶかい記述を多く含んでいる。一方で、このような記述が現れること自体、守るべき伝統として皇会を意識的に擁護する態度に基づいており、その懐古的姿勢に歴史性を見て取ることができる。ここに、南京国民政府と日本帝国主義に対する微妙な対抗意識を読み込むべきかどうかについても、考えてゆくべきであろう。

討論内容