歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ
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No.2  2004年11月26日発行  

 -CONTENTS-                                            
 プログラム(研究会大会第1回国際シンポジウム
 エッセイ (青谷秀紀)
 今後の予定・後記


             
研究会大会プログラム
  
  
日時 : 2005年1月9日(日曜日) 午後1時〜5時30分
会場 : 京都大学大学院文学研究科・文学部新館2階第7講義室
 
研究会大会統一テーマ
  近代ヨーロッパにおける人文学研究・教育と大学の意義
 
 
【基調報告】(報告順、題目は現時点での仮題)

 司会進行 金澤 周作(川村学園女子大学)

南川 高志(京都大学)
   「近代イギリス・ドイツの大学における古代史研究の発展とその背景」

上垣 豊(龍谷大学)
   「フランス第三共和政初期における人文学の変容」

小山 哲(京都大学)
   「宗派体制化と人文学の行方 ―― クラクフ大学とイエズス会の対立をめぐって」

橋本 伸也(広島大学)
   「ヨーロッパ的『知の世界』の拡大と大学ネットワーク」

服部 良久(京都大学)
   「ドイツ中・近世の大学と人文学」

【論点開示】 コメンテーター  佐々木博光(大阪府立大学)
【全体討論】

 

         
第1回国際シンポジウム
 
近代ヨーロッパにおける人文主義の継承と変容
― 政治文化・古典研究・大学 ―
 
日 時 : 2005年3月6日(日曜日)午前10時30分〜午後5時30分 シンポジウム
                                 (午後6時〜午後8時 懇親会)
会 場 : 京都大学大学院文学研究科・文学部第3講義室
 
参加費: シンポジウム、懇親会とも無料
 
プログラム
 
【開会の辞と開催趣旨説明】  南川高志(京都大学)
 
【基調報告とコメント】(報告順、題目は現時点での仮題)

1. エドヴァルト・オパリンスキ(ポーランド・ワルシャワ科学アカデミー 歴史学研究所)
    「16・17世紀のポーランドにおける政治文化と人文主義的教養」
       (報告は英語でおこなわれ、英語原文と日本語の要約が会場で配布されます)

2. 森村 敏己(一橋大学)
     「教訓としての古代 ― 商業的繁栄は亡国への道か? ―」

〔コメント その1〕
  皆川 卓(早稲田大学)

3. ヴェルナー・エック(ケルン大学)
    「20世紀ドイツにおける古代史研究:その中心的局面」
       (報告はドイツ語でおこなわれ、ドイツ語原文と日本語の全訳が会場で配布されます)

4. 葛西 康徳(新潟大学)
    「19世紀イギリスにおける古典学の戦略とライバルたち
       ― オクスフォード大学ベイリオル・コレッジを例として ―」

〔コメント その2〕
  栗原 麻子(大阪大学)

【論点開示】   小山 哲(京都大学)

【全体討議】(日本語と英語を使用。通訳が付きます。)
   討論司会  服部 良久(京都大学)

【閉会の辞】    服部 良久

【懇 親 会】    学内 café restaurant Camphoraにて




        
■ エッセイ

  大学を建て損ねた街 
     ― フランドルの大学と人文主義について ―
                     青谷秀紀(日本学術振興会海外特別研究員〔ベルギー・ヘント大学〕)



   「人文学知」なるコンセプトやこのプロジェクトの構想については、遠くフランドルの地に居る私には「研究会の趣旨」を読むことでしか知ることはできないのだが、果たしてこれらに関連して私に何が語れるだろうか。どうやら、人文主義の展開や大学における人文学の発展といったテーマがこのプロジェクトの柱であるようだ。こうしたテーマについて感じ、考えたことを記せといわれるなら、私はある大学を建て損ねた街についての話から始めたいと思う。

  西暦1300年頃ジェノヴァからフランドルに移り住んだとされるアドルネス家は、15世紀ブルッへの最も有力な都市エリート層に属していた。なかでもエルサレム巡礼を果たしたアンセルム・アドルネスは、同行した息子ヤンの手になる巡礼記が人気を博したこともあり、同家系のなかでもよく知られた人物である。このアンセルムは1468年、悪化した商業関係を回復するために、ブルッへ、フランドル四者会議、そしてブルゴーニュ侯の代理人として、スコットランド王ジェームズ3世のもとに派遣される。この交渉を無事に成功させたアンセルムだが、その際の演説で彼はブルッへの国際商業都市としての重要性をアピールするために「大学」の喩えを持ち出し、他の国際的な大学都市と比較した後、都市ブルッへそれ自体を「商業の大学」mercature universitasと名づけた(注1)。各地の商人が滞在し様々な物品が取引されるこの地で、人は商人に必要なあらゆる知識と技術を身につけることができるといったところか。しかし、アンセルムが打ち出したこの「ブルッへ商業大学」のキャッチフレーズが暗示するように、中世のブルッへに本来の意味での大学は存在しなかった。これを遡ること27年、1441年にブルッへは、フランドルに隣接するブラーバント地方のレウヴェン大学(1425年創立)に対抗すべき大学の設置運動を展開するが、これは挫折の憂き目を見ていたのである。最終的に認可を下すべき立場のブルゴーニュ侯フィリップ・ル・ボンは、同一の環境において同一の気風をもった官僚候補を養成するシステムの崩壊を嫌ったというのが主たる理由とされている。こうして、19世紀前半ブルッへではなく、ヘントに大学が創立されるまで、旧フランドル伯領の中枢部(フラマン語圏のフランドル)に大学が誕生することはなかった(注2)。

  古典の知と精神の復興を旨とする人文主義の発展に、大学が重要な役割を果たしたことはいうまでもない。低地地方では、レウヴェン大学が創設からまもない15世紀後半にパリと並ぶ北方人文主義の拠点を形成していたことはよく知られている。では、上記のように大学設置に失敗したブルッへをはじめ、フランドル都市でそうした文化的発展は見られたのだろうか。一般的には商工業と都市の発展によってイメージされる中世後期のフランドルだが、なにもこの地は人文主義の潮流と無縁ではなかった。その意図はさておきエラスムスはブルッへをAthenae Belgicaeと呼んだし、彼と親交の深かったスペイン出身のJ・L・ビーベスもブルッへと所縁の深い人文主義者である(注3)。前述のアドルネス家は、同家とイタリアとの関係からブルッへにおける人文主義の一つの拠点となっていたし、アンセルムの「ブルッへ商業大学」とのレトリックそれ自体が彼の人文主義的教養から生みだされたものであった。また、フィリップ・ル・ボンの私生児で、後にヘントのシント・バーフ修道院院長となる愛書家のラファエル・ド・メルカテッリスは、低地地方では珍しいマルシリオ・フィチーノの一連の翻訳・著作を所有している(注4)。このような例はまだ挙げられよう。しかしやはり、ブルッへはじめフランドルの人文主義が北ヨーロッパでもっとも高度に洗練されたものとして十全に展開されたかと問われると、どうも否と答えるしかあるまい。かつてブルッへの人文主義を検証したA・ドウィッテが自らの論稿を「ブルッへの人文主義。誇張された概念か?」と題したことは、こうしたインパクトの弱さを暗示している(注5)。もし、かつてブルッへに大学が誕生していれば…。大学を建て損ねた街=ブルッへを訪れ、鐘楼と聖母教会を望む運河沿いの絶好の地に位置するヨーロッパ・カレッジの前を通るたびにあれやこれやと夢想してしまうのだった。

  しかし、ブルッへに大学が誕生していればフランドルにおける人文主義の展開、少なくともブルッへにおけるそれが異なる展開を見せたかもしれないにせよ、実際には地元の大学の存在と人文主義の発展が必ずしも不可分なものではないのはいうまでもない。大学で学んだ者がそのままその地域に残るわけではないし、ブルッへやヘントにもさほど遠くないレウヴェンで学んだ者は多かった(注6)。また、ドウィッテの研究によれば、中世末期から近世初頭のブルッへには大学はなくとも複数の教会参事会学校やラテン語学校が存在し、キケロやウェルギリウス、オウィディウスをはじめ古典がテキストとして用いられてきた。ギリシア語に関しては、ビーベスの弟子で後にコレージュ・ド・フランスで教鞭を執る著名な教師ヤン・ファン・ストラゼーレが、16世紀前半この街でルキアノスやプラトン、アリストファネスやホメロスを教えている。また、貧民の子供や孤児を対象としたボガールト(ベガルト)学校では、優秀な子供はラテン語コースへと進みさらに大学進学へのコースも開かれていた。さらに、俗語学校でも、俗語に翻訳された形でエラスムスの著作がテキストとして使用されていた(注7)。女子のための学校も含め、こうした古典や人文主義者の著作が教えられた学校の存在は、大学とは異なる様々な場で古典が教授=享受されていったことを示している。また、修辞家集団の存在も重要である。15世紀後半から16世紀全般にかけて低地地方全域の都市や農村に広がった修辞家集団は、様々な職種の人物によって構成されていた。彼らは定期的に俗語による詩作とその批評会を行い、都市の祝祭をプロデュースし劇を演出することもある。これらの集団には大学出身者も多く存在したが、しばしば初等・中等教育のみの者もおり、互いに作品を批評し合い文芸的技能の習得に努めた。大学教育を受けていない者のなかにはブルッへのアントニス・ド・ローフェレのように、ラテン語を解さない者もいた。しかしサークル内における互いの教化のうちに古典的知識が習得され、また都市の祝祭において古典を用いた劇で民衆教化が試みられることもあった。さらにこれら各地の集団は北、南を問わず低地地方全域でネットワークを形成しており、しばしばコンテストを行ったし、なかには各地を股にかけて詩作・出版することで活躍する者もいた。彼らはこうして「第二の文芸共和国」A second Republic of Lettersを形成する。こうした修辞家たちは、エラスムスなど第一線級の人文主義者たちには遠く及ばず、しばしばラテン語さえ理解し得なかったけれども、大学知識人と民衆の間で古典的教養に関する教育者としての機能を担うこともあった(注8)。このようにフランドルでは(そして低地地方全体でも)、従来指摘されていた人文主義的教養を身につけた官僚が活躍する公式の政治的空間とは異なる場で人文主義的教養が普及していたのである。

  中世ブルッへの大学設置運動が成功していたならば…。以上のような(こういってよければ)民衆的人文主義の発展を振り返った後、それでもやはりこれを想像するのは楽しいが、当然ながら誰もその結果を知ることはできない。しかし、これとは反対に大学設置の失敗=大学の欠如が近現代フランドルの人文学の発展に与えた影響は明らかなように思える。ここで近代に目を移してみよう。前述のように、フランドルに大学が誕生するのは19世紀のことである。1816年オランダの王政支配下で設置が公布され1817年に開設されたヘント大学は、ヨーロッパの大学のなかでは比較的若い大学である。しかし、そのため近現代ベルギーにおける人文学発展のある一つの特徴をきわめて明瞭に映し出しているようにも思える。現在私が在籍するこの大学の中世史部門は5人の教授に4人の助手、そして共同研究員として採用された10人の若手研究者によって構成されているが、こうした中世史部門の充実ぶりは、ヘント大学文哲学部においてこのディパートメントがいかに重視されているかを物語っているだろう。現在、文哲学部の建物の5階を占める中世史部門の廊下には、過去に教鞭を執った教授たちの遺影が誇らしげに飾られているが、そこにはF・L・ガンスホフやA・フルヒュルストといった日本でも名を知られた研究者も含まれている。そしてこの遺影の2番目に位置する教授こそ、このディパートメントの礎を築いたH・ピレンヌである。1886年に若干24歳で教授に就任したピレンヌは、1930年大学がオランダ語化された後ヘントを去るまで、その研究及び史料編纂活動で中世史研究に巨大な業績を残した。そのピレンヌが1900年に刊行を開始した全七巻の『ベルギー史』は、『マホメットとシャルルマーニュ』や中世都市論ほど日本では知られていないが、ベルギーにおける歴史叙述や歴史意識の形成に大きな影響を与えた書物である。この第一巻序文でピレンヌは、ベルギー国家が近代ヨーロッパ政治外交の偶然の産物などではなく、中世以来の基盤をもったものであることを提示しようとして、「ベルギー文明」の定義を行っている。このベルギー文明とはドイツとフランスに代表される「ゲルマニズム」と「ロマニズム」、ゲルマンとラテンの融合により実現されたものであり、中世以来二つの言語を異にする民族がこの文明を共有してきたことが「ベルギー史」の存在を根拠づけている。「ゲルマニズム」と「ロマニズム」の融合からなる文明とは、じつはヨーロッパ文明に他ならないが、たしかにベルギーはヨーロッパのミクロコスモスである。しかし、多くの点でドイツ・フランスとその性質を共有するとはいえ、「われわれの歴史」をそれらから区分し特徴づけているものとして都市生活と経済活動が存在する。したがってピレンヌはこれらに重点を置いて叙述することを宣言するのである(注9)。この偉大なる歴史家の歴史観に規定されたベルギー人の歴史意識が、近世に重点を置く隣国オランダ人のそれとは異なり、中世の都市と経済に焦点を当てることになるのは必然の成り行きである(注10)。さらに、ヨーロッパがこのようなものとして定義されている以上、ドイツ・フランスよりも遡ってヨーロッパ文明の源流としての古典古代なるものが見出されるのは難しかったのではないだろうか。前述のように、ヘント大学はベルギー国家同様に若い大学である。それゆえにこそ、20世紀のこの大学で中世社会経済史研究が高度に発展したという事実は、二つの言語を抱えた若く未熟な国家の中で、ピレンヌという巨大な才能を触媒として国民国家形成と近代史学発展が取り結んだ関係を制度的な側面で如実に反映しているのではないかと思わせる。中近世との連続性をもたず、しかも中世史研究が世界的規模のものに発展したヘント大学における人文学の発展は、人文学の発展そのものが近現代ベルギーの歴史的条件によって大きく規定されていることを物語っているだろう。大学の人文学の発展を視野に入れる場合、古典的教養とは無縁な発展を遂げたこのようなケースも存在することは考慮に入れねばならない。と同時に、こうした事例は「人文学」のそもそもの定義・内実に関しても考察を迫るのである。

  私が単なる未熟な中世史家に過ぎないこともあるが、フランドルの地で、人文主義の発展や古典の知識と結びついた近代の人文学的教養のあり方について語ることはなかなかに難しい。大学とは離れた民衆的世界で人文主義的教養が普及し、近代には中世史研究を看板として人文学が発展したフランドルでは、人文主義も大学における人文学のあり方も周囲の地域におけるものとは随分様相を異にするのではないだろうか。しかし考えてみれば、大学が大衆化したなかで文学部不要論が喧しく唱えられるご時世にあって、それがいかに短絡的で浅はかな信念に基づいていようとも、それこそ人文主義の最大の教えである寛容の精神に則って理性的に説得的な論拠を提示して応答せねばならないとしたら、こうした民衆的世界における人文主義的教養のあり方について、そして人文学の多様なあり方について過去の様態を明らかにしておくことは不可欠な作業だろう。大学を建て損ねた街のエピソードから振り返って眺めたフランドルの人文主義や人文学発展の歴史は、そう教えてくれているような気がする。私なりに思うところを記したが、立ち上がって間もないプロジェクトの発展を期待したい。



注1) Adornes en Jeruzalem. Internationaal leven in het 15de- en 16de-eeuwse Brugge.                 Brugge, Jeruzalemkapel, 9-25 sept. 1983, Brugge, 1983, p.125.
注2) H. De Ridder-Symoens, 'Stad en kennis', in Hart en marge in de laat-middeleeuwse stedelijke        maatschappij, pp.131-152. ; A. Dewitte, 'Scholen en onderwijs te Brugge gedurende de Middeleeuwen',   Handelingen Société d'Emulation te Brugge CIX (1972), pp.145-217. また、カレッジを設置しようという動きは1520年にも起こったが、これも挫折する。なお、フランス語圏の旧フランドル伯領に位置するドゥエーには1559年ハプスブルク家のフィリップ2世により異端審問の拠点として大学が設置され、アンシャンレジーム期フランドルの文化的中心地となった。
注3) A. Dewitte, 'Het humanisme te Brugge. Een overtrokken begrip ?', Handelingen der koninklijke zuidnederlandse maatschappij voor taal-en letterkunde en geschiedenis XXVII (1973), pp.5-26. ビーベスの経歴、思想と当時の低地地方社会の関係については次の文献で知ることができる。河原温「ファン・ルイス・ビーベスと中世末期の貧民救済論」、木村尚三郎編『学問への旅:ヨーロッパ中世』、山川出版社 2000年、239−256頁。
注4) A. Dorolez, 'Early Humanism in Flanders: New Data and Observations on the Library of Abbot Raphael De Mercatellis', in Humanists and their Libraries, Peeters, 2002, pp.37-57.
注5) Dewitte, 'Het humanisme te Brugge'.
注6) J・デカフェーレによれば、1485年−1569年間にレウヴェンに登録したフランドルの学生数は、ヘント出身者が816人、ブルッへ出身者が660人居る。第三位のアウデナールデ出身者は358人である。cf. J. Decavele, 'Het culturele en intellectuele netwerk: middeleeuwen en 16de eeuw', in Het stedelijk netwerk in België in historisch perspectief (1350-1850), Brussel, 1992, p.376.
注7) Dewitte, 'Scholen en onderwijs'.
注8) Education and Learning in the Netherlands, 1400-1600, ed. by K. Goudriaan and others, Brill, 2004所収の以下の論稿を参照。B. Ramakers, 'Between Aea and Golotha. The Education and Scholarship of Matthijs De Castelein(c.1485-1550)', pp.179-200. ; A. van Dixhoorn, 'Writing Poetry as Intellectual Training. Chambers of Rhetoric and the Development of Vernacular Intellectual Life in The Low Countries between 1480 and 1600', pp.201-222. 「第二の文芸共和国」との命名は後者によるものである。
注9) H. Pirenne, Histoire de Belgique (5ème édition), t.I, Bruxelles, 1929, pp. XI-XVI. 正確には、この書物はまず1899年にドイツ語訳が出版されており、翌年にフランス語原版が出版されている。最終巻は1932年に完結する。また、こうした文明定義はH・アスカンによって「ピレンニズム」Pirennismと名づけられている。その背景や影響、衰退については以
下の文献を参照。cf. H. Hasquin, Historiographie et politique en Belgique (3ème édition revue et augmentée),
Bruxelles et Charleroi, 1996, pp. 61-108.
注10)W. P. Blockmans, 'Die Schlacht von Worringen im Selbstverständnis der Niederländer und Belgier', Blätter für deutsche Landesgeschichte 125 (1989), pp. 99-107. オランダとの対比はブロックマンスの指摘による。さらにブロックマンスは、特定の事件をめぐるベルギー人の歴史解釈において、ピレンヌが『ベルギー史』で披露したナショナリスティックかつ社会経済史的な視点がいかに後世まで大きな影響を与え続けたかを指摘している。




         
■ 今後の予定

研究会大会
  「近代ヨーロッパにおける人文学研究・教育と大学の意義」


   日 時 : 2005年1月9日(日)
   場 所 : 文学部新館第7講義室
   報告者: 上垣 豊  (龍谷大学),橋本 伸也(広島大学)
         南川 高志(京都大学),服部 良久(京都大学),小山 哲(京都大学)

第1回国際シンポジウム
  「近代ヨーロッパにおける人文主義の継承と変容 ― 政治文化・古典研究・大学 ― 」

 
   日 時     : 2005年3月6日(日)
   場 所     : 文学部新館第3講義室
   基調報告者 : ヴェルナー・エック(ドイツ・ケルン大学)
            エドヴァルト・オパリンスキ(ポーランド科学アカデミー 歴史学研究所) 
            葛西 康徳(新潟大学) 
            森村 敏己(一橋大学)  





≪後記≫

  小春日和の穏やかな日がつづき、紅葉もようやく見ごろを迎えました。皆様にはお変わりなくお過ごしのことと存じます。
  今号は現在ベルギーのヘント大学に留学中の青谷秀紀氏より、フランドルを舞台とする当研究会にとって大変示唆多いエッセイを寄稿していただきました。研究会大会と国際シンポジウムのより詳細なご案内につきましては、別途作成のパンフレットあるいはホームページをご参照下さい。
  本年も残すところあと一月余りとなり、何かと気ぜわしい季節を迎えますが、気を引きしめて来るイベントの準備を進めて参りたいと存じます。(宮坂)



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京都大学大学院文学研究科/21世紀COEプログラム
「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
13研究会「ヨーロッパにおける人文学知形成の歴史的構図」
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