歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ
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No.3  2005年2月10日発行  

 -CONTENTS-                                            
 研究会大会 「近代ヨーロッパにおける人文学研究・教育と大学の意義」     
   活動報告 (宮坂 康寿)
   報告要旨 (南川 高志上垣 豊小山 哲橋本 伸也服部 良久佐々木博光
 今後の予定・後記



         
■ 活動報告

●研究会大会

  日  時: 2005年1月9日(日) 午後1時〜6時
  会  場: 京都大学大学院文学研究科・文学部新館2階第7講義室
  報告者: 南川 高志(京都大学、古代ローマ史)
         「近代イギリスとドイツの大学における古代史研究の発展とその背景」  
        上垣 豊 (龍谷大学、近代フランス史)
        「フランス第三共和政初期における人文学の変容」
       小山 哲 (京都大学、近世ポーランド史)
        「宗派体制化と人文学の行方――クラクフ大学とイエズス会の論争をめぐって」
       橋本 伸也(広島大学、帝制期ロシア教育社会史・ロシア近現代史)
        「ヨーロッパ的「知の世界」の拡大と大学ネットワーク」
       服部 良久(京都大学、中世ドイツ史)
        「中・近世ドイツの大学と人文主義・宗教改革・領邦」
  コメンテーター:佐々木博光(大阪府立大学、中世ドイツ史)



  本研究会は、ヨーロッパの本源をなす「人文学知(humanities)」の形成と発展を政治・社会との関連を踏まえて歴史的に幅広く考察し、ヨーロッパの本質を問い直すとともに、人文学の今後のあり方、発展を考えることを目的として発足した。その第1年目である今年度は主に近代に重点を置き、大学が人文学の発展に対して有した社会的意義を解明することを主要な課題の一つとしている。1月の研究会大会はこのプロジェクトの一環として行なわれたものであり、3月に開催される国際シンポジウムへのステップとしての役割も担っている。当日はイギリス,フランス,ドイツ,ポーランド,ロシアを舞台に、人文学と大学の関わりがさまざまな切り口から論じられ、人文学をめぐる各国特有の状況が浮かび上がった。5人の報告が行なわれた後、歴史学、哲学、教育学を専門とする方々より、各報告についての個別質疑を中心に貴重なコメントが寄せられた。そこには、近代以前における人文学知の固有のあり方およびその変容に目を向ける必要性もあらためて示唆されていたように思われる。今回は残念ながら各テーマを十分に掘り下げる時間はなかったが、全体を通して来る国際シンポジウムでの議論を深めるための重要な論点が提供されたといえよう。(宮坂康寿)





【報告要旨】
       
<報告1


  近代イギリスとドイツの大学における古代史研究の発展とその背景
                                           南川 高志


  19世紀の初頭に創設されたベルリン大学には、フンボルトらの影響で古典主義の理念が持ち込まれたが、同大学においてその学問的担い手となったのは、古典文献学者F・A・ヴォルフであった。ヴォルフの目指したものは単なる文献学ではなく、歴史学や哲学をもあわせた総合的な「古典学」(ないし「古代学」Altertumswissenschaft)であった。彼は大学と結びついた組織としての「ゼミナール」を1812年に開設し、後の古典文献学発達の基礎を築いている。しかし、そのヴォルフは、古典作品の原典研究に打ち込み、古代ギリシアの叙事詩『イーリアス』『オデュッセイア』の作家であるホメーロスの単一性に疑問を発して、作品は数人の手になるものだという見解を明らかにし、学界に「ホメーロス問題」を持ち込んだことでも知られる。彼のこの研究に対しては、古代ギリシアを理想化しそれを人間の「生」や「芸術」の規範とする古典主義の立場から反発がでた。ここに、人文学の基軸となる精神と、人文学の学問としての営みとが必ずしも合致しないことが明確になったのである。

  古代ギリシア学に限らず、人文諸学はその歴史的歩みにおいて、単なる機械的な学問的営為やその成果ではなく、つねにヨーロッパ世界を支える精神やその運動と深く関連していたが、そうした精神・思潮と学問的営為そのものやその成果とがつねに合致するわけではないこと、しかしこの両者のいずれが欠けても人文学は成り立たないという矛盾が、厳然と存在したと思われる。専門分化が激しい今日においては、この矛盾は人文学の発展にとって、ますます重要な課題と考えられる。本報告は、こうした問題意識を念頭に、先述のヴォルフに始まる19世紀ドイツの古典学・古代史研究の発展を、学問の場である大学の実態をもとに考察し、人文学の発展に関する議論のための有効な視点や論点を見いだそうとしたものである。

  古代史や古典文献学はドイツにおいて、19世紀を通じて急速な発展を見たが、その過程で、研究対象として旧来の古典文学作品ばかりでなく、碑文や貨幣、考古資料などの新しい研究素材の収集・整理・分析が進んだことが特筆に値する。こうした研究法の基礎をなしたのが、先のヴォルフに次いでベルリン大学で古典文献学を講じたアウグスト・ベックであった。しかし、研究対象や素材を拡大し、新史料を収集する作業には莫大な費用や人員が必要であった。それを支えたのが公権力、とりわけ統一後のドイツ国家であった。ベルリン大学を中心に、国家より資金を与えられた大学や研究者がこうした新たな研究を推進し、大学に設けられた(授業形態ではなく)制度・公共施設としての「ゼミナール」が、そうした拠点あるいは作業場となったのである。歴史学へのゼミナールの導入は、ジーベルによって熱心に進められた。

  ところが、ベックの弟子であったかの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトは、こうしたジーベル風のゼミナールの負の面を警戒してバーゼル大学に導入せず、学生や市民向きの講義・講演を重視したことで知られる。このブルクハルトの『ギリシア文化史』が、著者の死後に甥によって公刊されたとき、ベルリン大学の古代史や古典文献学の大物教授たちがこぞってこれを酷評したが、その最大の理由は、ブルクハルトが在来の古典文学作品を用いて古代ギリシアを描き、碑文など新たな史料や進みつつある研究を踏まえなかったことにあった。『ギリシア文化史』は「時代遅れ」の作品というわけである。こうした『ギリシア文化史』への低い評価は後に改善されたばかりでなく、とくにわが国ではブルクハルトを擁護する意見が目立つ。擁護するだけでなく、ベルリン大学の大物教授たちを批判して、彼らの「古代学」の浅薄さを攻撃し、「学問のための学問」と批判するのである。しかし、報告者は、人文学の本質と意義、そしてその発展と継承という立場に立つ時、ブルクハルト的な学問的営為を絶賛しベルリン大学の大物教授たちの活動を批判するだけで適切かどうか、いささか疑問を感じる。

  本報告では、この点の考察をさらに深めるために、巨大なプロジェクトを次々実践したベルリン大学教授でローマ法学者・ローマ史家のテオドル・モムゼンの活動を検討した。さらに、ドイツの事情のもつ特徴をよりはっきりと浮かび上がらせるために、同時代のイギリスの大学における古代史・古典学の事情にふれた。そして、19世紀のイギリスの大学が、「研究」重視のドイツに比し、古典学・古代史の「教育」に力を入れたかに見えることを紹介した。

  結論として、報告者は、古典学・古代史の研究の発展と継承という観点から見た場合、「学問のための学問」と批判されたベルリン大学の教授たちの活動も、古典主義の「呪縛」から解き放たれるための1過程として位置づけることができると考えた。また、新史料の収集・利用や史料集の作成などの作業も、短期・中期プロジェクトとして理解すべきものとみている。したがって、人文学の発展・継承という観点に立った時、次のようなことがいえるのではなかろうか。すなわち、ブルクハルトは自らを「ディレッタント」と称し、新しい史料や研究の成果から離れて、古典語を読めれば誰でも参加できると本人がいうところの古典文学作品を主に用いて古代ギリシアを描いた。ブルクハルトがディレッタントならば、批判者ヴィラモーヴィッツらは「プロフェッショナル」といえるかもしれない。しかし、ブルクハルトは歴史に対する感性の点で「天才的な」ディレッタントであった。「プロフェッショナル」なものとは異なり、こうした「天才的な」ディレッタントの資質は、「ゼミナール」などで弟子・学生に伝えることのできるようなものではなかったのである。





        
<報告2>

  フランス第三共和政初期における人文学の変容
                                   上垣 豊

  第三共和政初期にドイツから「科学的」実証主義的手法による歴史学が導入され、同時に、大学改革の中で教育学や社会学が地歩を築いた。だが、その後もフランスでは伝統的人文主義的教養が比較的よく地位を保ち、また専門分化の弊害もあまり受けなかったように思われる。その要因として、中等教育とのつながりの深さと「知識人」としてのアイデンティティの確立の二つを取り上げ、当時の人文学と社会科学の関係を考えるために、歴史学と社会学の関係に触れることにする。

  第三共和政に入ってドイツをモデルにした高等教育・研究の改革が行われ、1897年にファキュルテ(学部)が再編されて総合大学が誕生する。さらに1902年の中等教育改革をうけて1903年に教授養成機関としての役割を果たしていた高等師範学校の改革が行われた。この時期の高等教育改革の先頭にたった近代派は「広義の歴史家を中心とした人文・社会科学系の知識人」からなっており、論争は主として人文学内部の近代派対古典派の対立として展開した。

  しかし、ドイツのモデルはフランスにはストレートな形で導入されたわけではなかった。第一に大学改革が国民教育の改革(共和主義的市民の育成)と直接連動していた上に、もともとフランスでは中等教育とくにリセと高等教育の結びつきが強かったため、大学教授=研究者という理想は簡単には定着しなかった。この結果、ソルボンヌの文学部では長期にわたりアグレガシオン取得者でなければ教授になれないという不文律があった。第二に、普遍主義的理想が根強く、ドイツで顕著になりつつあった功利主義的傾向や一般教養の後退への警戒心があった。その結果、たとえば高等師範学校文科系の競争試験の改革は微温的に終わり、ラテン語とギリシア語が支配的な地位を保ったのである。他にも、フランス・ナショナリズムが古典人文教育を擁護する側にまわったことも有利に働いた。

  ソルボンヌの改革派はまた、ドレフュス擁護派の知識人とも重なり合っていた。「知識人」は政治権力と市場に対して自律性を求めた大学教員が新たに獲得していく集団意識の形成と密接に結びつき、啓蒙思想の伝統を受け継ぎ普遍主義的な使命感を帯びていた。たとえば、歴史家の政治参加は、ガブリエル・モノやシャルル・セニョボスに見られるように、国民に対する啓蒙教育活動の延長線上にあった。

  大学改革において、歴史学は新興の社会学と協力関係にあった。社会学を大学教育のディシプリンとして認知させるのに改革派の歴史学者は重要な役割を果たした。ところが、1903年には早くもセニョボスとフランソワ・シミアンの間に有名な論争が起こっている。二つのディシプリンの共闘は主として教育と政治面に限られており、「科学」をめぐる考え方には齟齬があった。歴史学と近接社会科学との幸福な融合にはなお時間が必要であり、第一次大戦後のアナール学派、すなわち大学改革後の高等師範で学んだリュシアン・フェーヴルとマルク・ブロックの登場を待たねばならなかった。それでも、社会科学に対して既存の人文諸学の存在意義を擁護したセニョボスの議論は、後のフランスにおける人文学と社会科学の関係を考える上で再考する価値があるように思われる。

[参考文献]
渡辺和行「19世紀後半フランスの歴史家と高等教育改革」『思想』799号、1991年1月
Christophe CHARLE, La république des universitaires 1870-1940 , Paris, 1994
--------, Naissance des " intellectuels " 1880-1900 , Paris, 1990
--------, Paris fin de siècle : Culture et politique , Paris, 1998





       
<報告3>

  宗派体制化と人文学の行方――クラクフ大学とイエズス会の論争をめぐって
                                               小山 哲

  16世紀から17世紀前半にかけて、ヨーロッパは宗派的な分裂の時代を迎える。古典への崇敬という共通の絆で結ばれた「文芸共和国」の知識人たちは同時に、敵対する宗派間の論争の担い手でもあった。統合と分裂のふたつの力がせめぎあう近世前半のヨーロッパの知的世界において、人文学知はどのような役割をはたしたのであろうか。

  従来、宗派別に記述されてきたこの時代の変革――宗教改革(ルター派)、対抗宗教改革(カトリック)、第2次宗教改革(カルヴァン派)――の共通性に注目し、特定の信仰体系にもとづく国家・社会・文化の再編過程を総称する概念として提起されたのが、ヴォルフガング・ラインハルトとハインツ・シリンクの「宗派体制化」(Konfessionalisierung)である。近年、ポーランド史の研究者のあいだでも、この概念(ポーランド語ではkonfesjonalizacja)の有効性をめぐって議論がおこなわれている。ポーランドの場合には、近世をつうじてカトリック教会が国制上の支配的宗派としての地位を維持し、カトリシズムを基軸とする「宗派体制化」が進んだ。しかし同時に、近世のポーランド・リトアニア国家は、18世紀末のポーランド分割に至るまで、カトリックの信徒とならんで、東方諸教会、プロテスタント諸宗派、ユダヤ教徒、イスラム教徒の住民を含む多宗教国家であり続けた。この点を考慮するならば、ポーランド史における「宗派体制化」は、国家体制の「実態」を示す概念としてよりも、むしろ司牧・教育活動をつうじて社会と文化が全体としてカトリック化する「傾向」を指すものとして理解されるべきであろう。

  ポーランド・リトアニアの「カトリック化」の過程で重要な役割を演じたのが、イエズス会の教育活動である。1564年にポーランドに進出したイエズス会は、1579年にヴィルノ(ヴィリニュス)に大学を開設したほか、各地にコレギウムを創設し、17世紀後半までにポーランド・リトアニア全土におよぶ中・高等教育機関のネットワークを構築した。イエズス会の学校教育は古典語教育を中心とする人文主義的なカリキュラムにもとづいたものであり、ラテン語による演劇や討論を授業に導入するなど、実践的なスキルとしての修辞学の教育に力を注いだ点に特色があった。このような教育方針は、議会や法廷など公的活動の場でラテン語による修辞学的な素養を必要としたシュラフタ層のあいだで好評を博した。東方教会やプロテスタントの家系に生まれた貴族の子弟がイエズス会のコレギウムに入学し、その学校教育をつうじてカトリックに改宗するケースもしばしば生じた。

  教育の場における「イエズス会的人文主義」(humanizm jezuicki)の広範な展開は、それまでポーランドの人文学知を制度的に担ってきた権威、とりわけクラクフ大学にとって重大な脅威となった。1550年代からイエズス会はクラクフに教育の拠点を築くためにさまざまな画策を続けたが、これに対してクラクフ大学は頑強に抵抗した。1589年にピョートルクフで開かれた地方公会議は、クラクフ大学の水準を上げるためにイエズス会から神学と哲学の教授を迎え入れることを決議したが、大学側はこれに反発して教皇に直訴し、決議を撤回させた。その後、両者の関係は、1622年にイエズス会が大学側の同意を得ることなくクラクフ市内に神学校を開いたことにより急激に悪化する。1624年にクラクフ大学はイエズス会をローマ最高法院に告訴するが、イエズス会は翌25年、クラクフの学校に俗人学生向けの教養学科課程を開設した。これは実質的にコレギウムの創立にほかならず、憤激したクラクフ大学の学生がイエズス会士と衝突し、学生側に死傷者がでる事態となった。

  1570年代から1620年代にかけてポーランドで出版された反イエズス会文献のなかには、学校教育をめぐる両者の対立を背景とするものが存在する。1590年に匿名で刊行された『イエズス会に反対するポーランド貴族の第1演説』はその1例であるが、書き手がカトリックであるにもかかわらず、イエズス会士の扇動によるルター派教会襲撃事件を「共和国にとっての脅威」として非難している点が注目される。このパンフレットの作者は、宗派的な立場からイエズス会を批判しているのではなく、諸宗派が共存する共和国を「宗派体制化」しようとする動きに対して警告を発しているのである。「宗派体制化」を推進する勢力に対する宗派を超えた協力関係は、クラクフ大学教授ヤン・ブロジェクが執筆した対話篇『学費無料』(1625年刊)においても認められる。ブロジェクは、「学費を取らない」と称するイエズス会学校における古典語教育が、じつは貴族に巧みに取り入って寄付を促し莫大な富を蓄積する手段となっている点を指摘し、状況によって戦略を使い分けるイエズス会の本質を鋭く批判している。カトリックの信徒であるブロジェクのこの著作を印刷したのは、クラクフのカルヴァン派の出版業者であった。

  このように、一連の反イエズス会文献からは、クラクフ大学側が、超宗派的な旧来の教育体制を擁護する立場から、イエズス会による人文学知の宗派的な領有を批判する構図が浮かび上がってくる。しかし、じっさいにはクラクフ大学自体もイエズス会と競合する過程で変化していった。イエズス会の学校網に対抗するために、クラクフ大学はポーランドの各地の学校を系列校として取り込み、「コロニア」と呼ばれる附属中等学校のネットワークを形成した。また、イエズス会のマリア信心会の活動に刺激されてクラクフ大学内の兄弟団が活性化し、15世紀に神学部の教授であったヤン・ス・ケントの列聖を求める運動が起こるなど、イエズス会に対抗する過程でクラクフ大学自体もカトリック的な色彩を強めていった。
クラクフ大学とイエズス会の対立のなかで人文学知のはたした役割は、両義的なものであった。超宗派的な学知としての人文学は、「宗派体制化」に抵抗する知識人の拠ってたつ知的な基盤となる一方、「宗派体制化」を目指す勢力が動員しうる知的資源ともなりえた。人文学の旧体制を維持しようとしたクラクフ大学自体、「宗派体制化」の波のなかに巻き込まれて変化を余儀なくされたのである。

  16世紀後半から17世紀にかけてヴィルノ大学を頂点とするイエズス会の学校網が広がり、それに対抗して17世紀にクラクフ大学の系列校のネットワークが形成されたことは、18世紀後半の国民教育委員会による教育改革を可能にする重要な前提条件を生み出した。国民教育委員会は、1773年に解散させられたイエズス会の資産を財源として設立され、クラクフ、ヴィルノの2大学から教区附属学校にいたるまで共和国全土の学校を管轄のもとに置いた。その意味では、18世紀後半の教育改革は、「宗派体制化」の時代に成立した学校網を取り込んだうえでこれを世俗化し、国民教育の制度的基盤を構築しようとしたものであったと考えることができる。この学校網の一部は、ポーランド分割後、ロシア帝国が帝国西部の教育体制を整備するさいに、さらに再編・利用されることになる(この点については橋本報告を参照)。17世紀はポーランドの教育史・大学史においても評価の低い時代であるが、「宗派体制化」をめぐる競合のなかでの学校教育の水平的拡大と垂直的系列化という視点を導入すると、従来とは異なる見方も可能なのではなかろうか。





       
<報告4>

  ヨーロッパ的「知の世界」の拡大と大学ネットワーク
                                 橋本 伸也

  本報告の課題は、初期近代にみられたヨーロッパ辺境における大学新設とその後のロシアの領域的拡大の結果として生じた、ヨーロッパ大学網のロシア帝国にいたる拡大のプロセスと、そこでのヨーロッパ的知の核心たる人文学知の受容の問題性を解明するための問題提起を行うことにあった。

  大学史の伝統的理解では、科学革命の時代たる17世紀は大学の「暗黒時代」であった。中世的普遍性が宗教改革と主権国家体制によって損なわれて大学は宗派と国家の下僕と化し、学問精神の頽廃がきわまったというのである。そして、科学革命の担い手として着目されたのは、学術協会=アカデミーであった。

  現今の大学史や科学史の展開では、かかるステレオタイプ化した17世紀大学像の見直しが進められてきた。デカルト主義の受容、アリストテレス的思弁よりもむしろ実験・観測と数学に基づく自然学の形成、そして医学から派生する諸科学の自律化といった近代的学問の形成は、アカデミーと比しておずおずとした歩みとはいえ大学も舞台にして繰り広げられており、大学はかつていわれたほど荒廃した無用の存在だったわけではない、というのである。しかもこれには、古典学的教養が知の世界を組み替えるさいの前提であった以上、人文主義者たちの貢献も多大であった。

  17世紀はまた、中世大学の圏域を越えた諸地域に大学やそれに匹敵する機関が設立され、大学網拡大のみられた時代であった。ルター派を国教とし、絶対主義に向けて領域的拡大と王権強化の進んだスウェーデンでは、中世末期に起源するウプサラ大学再興がなり、あるいは占領地に既存のグライフスヴァルト大学が接収されたのみならず、「バルト帝国」周縁諸地域にルンド、オーボ(トゥルク、現在のフィンランド・ヘルシンキ大学)、ドルパト(現在のエストニア・タルト大学)なる三つの大学が設立された。強大化したカトリックの牙城ポーランド・リトアニアの地で、16世紀末近くにイエズス会士の手で設立されたヴィリニュスの大学が成長を遂げたのもこの時代である。これらの大学のいくつかは、帝国強大化のなかでロシア領内に編入される。

  他方、ピョートル大帝による西欧化政策前夜の東スラヴ世界では、イエズス会をはじめとしたカトリックとの対抗を念頭にキエフ・モヒラ・アカデミーなる学校が設けられてウクライナ人文主義が形成され、その影響のもと、モスクワでも高等教育機関の設立がなって、ラテン文化移入がはかられた。また、18世紀初頭にはライプニッツやヴォルフも関与して、大学を附設した科学アカデミー設立が日程に上り、1724年にこのもくろみは実現させられ、さらに1755年のモスクワ大学設立がこれに続く。かくして、この時期までに変転を遂げつつあったヨーロッパ的な知の枠組みが、それまでヨーロッパにとって外部世界であった東方にまでもたらされ、これら地域の「内部化」も進行したのである。しかもそこでは、ヨーロッパ的知の二つの局面、すなわち人文学と自然学との交錯した複雑な様相が見られることとなろう。とりわけ、正教的世界にとって外来のラテン語使用問題をめぐる葛藤とそれにまつわる人文的教養の社会的位置づけの低さは、その後も続く19世紀後半までもちこされるロシア的教養文化の特徴として際だつことになろうし、それとは対照的に、自然学的知識の深化のなかでは、ロシアが学問的知識の発信地に転成するだけでなく、不断に拡大しつづける帝国辺境各地の自然と習俗が近代科学の網の目にすくい取られることともなった。しかもこの局面は、新機軸の事業をにないうる人的資源確保と絡んで、西方との双方向的な人の移動も随伴するであろう。若者たちのヨーロッパ留学や御雇外国人学者流入である。

  ロシアにおけるかかる展開は、逆照射するかたちで、人文学知と自然学知とが、ある局面では敵対しつつも相互媒介的に共存しえたヨーロッパの幸福を示しているように思われる。あるいはまた、ヨーロッパ市民社会においてエリートとそうでない者とを差異化する装置であった古典教養が、同時に、ヨーロッパ的なものとそうでないものとを差別化する壁でもあったかのように見えてくる。ヨーロッパ・アイデンティティの核としての人文学知の問題である。この問題は、ひとりロシアにとどまらず、19世紀末から20世紀にかけて進展した非ヨーロッパ世界への大学ネットワークの拡大、大学の世界システム化とも重なり合って、これら諸地域にとってのヨーロッパ的人文学知の意味合いを問うことを要請するであろうし、ひるがえって、普遍的な知の広がりにおいて人文学知がかかる差別性を越え出たものに転成しうるかどうかを問いかけてくるもののようにも思える。これはおそらく、Humanityの射程に関わる問題なのである。





       
<報告5>

  中・近世ドイツの大学と人文主義・宗教改革・領邦
                                   服部 良久

  ドイツの大学創立は1356年のプラハ大学を嚆矢とし、ヴィーン大学(1365)、エアフルト大学(1379)、ハイデルベルク大学(1385)、ケルン大学(1388)、ヴュルツブルク大学(1402)、ライプチヒ大学(1409)、ロストック大学(1419)と続く。他の西欧諸国における主要大学がスコラ学の盛期、完成期に成立したのに対して、これら、いわば第一期のドイツの大学は後期スコラ学の時代以後に成立したということになる。さらに15世紀後半以後の第二期の大学設立をも含めて、ドイツの大学は総じて領邦君主のイニシアティヴと政治的、経済的影響の下に成立し、領邦の国家目的と密接に関連していたと言われる。そのような特色は、宗教改革時代とそれに続く宗派化の時代にいっそう明確になる。すなわち16、17世紀の間にドイツの大学は、領邦の宗派体制と官僚絶対主義の中に包括され、ある大学史家によれば「暗黒時代」に入ったというのである。正教授を中心とする大学自体の官僚組織化、大学の貴族化もこのころ顕著になる。

  近代における国家と学問研究の関係という視点からすれば、領邦化、宗派化の中で大学は独立した学問の府という性格を失ったともいえる。しかし前述のようにドイツの大学は設立当初より、政治的、財政的に領邦(一部は都市)と密着していた。そのような15世紀以来の大学と君主の関係は、16、17世紀のうちに大学の「領邦化」と呼びうるような新しい局面を迎えたのだろうか。

ドイツ大学史のいまひとつの特質は、15世紀後半からの人文主義との結びつきである。とりわけ15世紀末から宗教改革期にかけて人文主義的カリキュラムによる大学改革が広がり、それはカトリック系の大学にも採用された。領邦君主自身もこうした人文主義の導入と改革を支持した。君主は著名な人文主義者を招聘して自身の大学の評価を高めることに多大の関心を持ったのである。また大学における人文主義の中から生まれたとも言える宗教改革(およびカトリック改革)は、16世紀後半より進行する「宗派(体制)化」を大学に対しても強制したとされる。

  このように人文主義、大学改革、宗教改革、宗派化、領邦化という、近世のドイツにおける大学の特徴的現象として、しばしば包括的に捉えられる側面は、実際にはどのような相互関係にあり、とりわけ教育と研究にどのような影響を及ぼしたのだろうか。たとえば「領邦化」(国家機関化)とは具体的にどのような事実を指しているのか、そこでは人文主義的教育とはどのような意味を持ったのか、社会と国家の「宗派体制化」に対して、大学における「宗派化」とは何を意味するのか。

  以上のような近世のドイツ大学史における根本的な問題を包括的に論じることは困難であり、領邦の多様性を認識するなら、さしあたりは個別事例の検討といくつかの領邦の比較がむしろ有益である。本報告では中世末期のヴィーン大学における人文主義的改革、ヴィッテンベルク大学における人文主義と宗教改革の影響、ヴィッテンベルク大学とインゴルシュタット大学(バイエルン)における「宗派化」について概括的に論じた。そしてドイツ近世の大学の改革と変容は、領邦というドイツ的近世国家との関係と不可分であったが、人文主義がそれ自体として中世以来の旧学識と教育を改革することは、君主宮廷の人文主義的学識官僚の影響力をもってしても容易ではなかったこと、宗教改革(カトリック改革)は大学と君主権力ないし国家を結合する媒体となったこと、宗派化は君主と領邦政府の意志による大学の組織運営への統制を強化したが、大学が国家枢要の人材を生み出す実学的教育の場となる、という意味での大学の「国家機関化」は、官房学を中心とした教育を行うようになる、17世紀末〜18世紀の新しい大学創立(ハレ、ゲッチンゲンなど)を待たねばならなかったこと、などを指摘した。





        
<コメント>

  5報告に関するコメント
                  佐々木博光

  人文学知を狭い意味で捉えるならば、それは修辞学の復権を訴えた人文主義運動がもたらした学知と同義であると考えることができる。5本の報告はこの狭い意味の人文学知の画期をよくカヴァーしている。人文学知の起りを扱う服部報告、人文学知の熟成を考察した小山、橋本の両報告、講座化した人文学知の問題を考察する南川報告、問題の深刻化を受けた人文学知の再編の議論に歩を進める上垣報告である。不足を挙げるならば、啓蒙思想期の人文学知にかんする考察がほしかった。近年わが国でも岡崎勝世氏の研究が明らかにしているように、この時期が人文知の科学化にとって実り多き時代であったという認識が定着しつつあるからだ。啓蒙期にかんする考察は、橋本報告と南川報告のあいだにある間隙を埋めるだけでなく、人文学知の再編を理解するうえでも不可欠となるだろう。

  以上の人文学知にかんする通史をより充実したものにするために、ふたつの論点を示した。第一は人文学知の担い手、社会のなかでの彼らの役割という問題、第二は自然学知と人文学知の関係史という問題である。第一に比して第二の課題との取り組みにわが国は立ち遅れが目立つ。学知の制度化が始まって以来、人文学知は自然学知の怒涛の攻勢のなかで変貌を余儀なくされてきた。時に人文学知の牽引力として働き、時に人文学知の最大の斥力ともなった自然学知のインパクトの考察を欠いては、人文学知の歴史的構図にかんする十全な理解は得られまい。人文学知の黄金時代を懐旧の念を抱いて振り返るのではなく、人文学知の将来構想にかかわる提言をなすためには、自然学知との競合という問題は第一の優先課題となろう。

  以上のふたつの論点に、問題史的な観点からもう一つ論点を付け加えた。射程の大きい成果を残した学問史研究はすべてすぐれた概念の析出に成功している。当研究会も人文学知の歴史的構図を語るうえで抜くことのできない概念が提出できるならば、それは今後の研究、わが国の研究ばかりでなく西洋の研究にたいしてもこの上ない貢献となるだろう。多様な地域、多様な時代を扱う研究者が集う機会は、分析概念の通用範囲を見定めるために格好の機会となりうることを指摘した。



(1) 岡崎勝世『キリスト教的世界史から科学的世界史へ』勁草書房、2000年;同『聖書vs世界史』講談社、1996年;同『世界史とヨーロッパ』講談社、2003年。ドイツでの注目すべき研究として、Kraus, Andreas, Vernunft und Geschichte , Freiburg i. Br. 1963; Hardtwig, Wolfgang, Geschichtskultur und Wissenschaft, München 1990, bes. S.58-91.
(2) 邦訳では、ヘルムート・シェルスキー『大学の孤独と自由』未来社、1970年。近年の研究成果のひとつとして、Oexle, Otto Gerhard(Hg.), Naturwissenschaft, Geisteswissenschaft, Kulturwissenschaft : Einheit- Gegensatz-Komplementarität? , Göttingen 1998.
(3) 例えば、「孤独」と「自由」という概念を駆使して新人文主義的な教養理念の成立・変質を考察したヘルムート・シェルスキーの前掲書がある。また、近年では「労働」という概念を通して人文系学者たちの自己認識の推移を跡付けたヴォルフガンク・ハルトヴィヒの研究が注目される。Hardtwig, Wolfgang, Geschichtsreligion-Wissenschaft als Arbeit-Objektivität. Der Historismus in neuer Sicht, in: HZ 252, 1991, S. 1-32.



         
■ 今後の予定

第1回国際シンポジウム
  「近代ヨーロッパにおける人文主義の継承と変容 ― 政治文化・古典研究・大学 ― 」

 
   日 時     : 2005年3月6日(日)
   場 所     : 京都大学大学院文学研究科・文学部第3講義室
   基調報告者 : ヴェルナー・エック(ケルン大学、古代ローマ史・ラテン碑文学)
            エドヴァルト・オパリンスキ
            (ポーランド科学アカデミー歴史学研究所、近世ポーランド史)
            葛西 康徳(新潟大学、ギリシア古典学・法学)
            森村 敏己(一橋大学、近代フランス史)
   コメンテーター : 栗原 麻子(大阪大学、古代ギリシア史)
             皆川 卓 (早稲田大学、近世ドイツ史)          

   *準備の都合上、参加をご希望の方は、研究会事務局(教務補佐員:宮坂康寿)まで電子メール、
    ファックスまたは郵便にて予めご連絡ください。





≪後記≫

  寒風に身の縮む今日このごろ、皆様にはいかがお過ごしでいらっしゃいますか。ニューズレター第3号をお届けいたします。

  研究会大会には多くの方々にご参加いただき、心よりお礼申し上げます。引き続き3月初旬には第1回国際シンポジウムを開催いたします。本年度の活動の締めくくりとして、次年度以降につながる有意義な会議になればと願っております。皆様には大変ご多忙の時期をお迎えのことと存じますが、なにとぞご支援・ご協力を賜りますようお願い申し上げます。(宮坂)



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