歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ
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No.4  2005年6月15日発行  

 -CONTENTS-                                            
   活動報告 (南川 高志)
   エッセー(服部 良久井上 文則藤井 真生
   今後の予定・後記



         
■ 活動報告

●第1回国際シンポジウム
    「近代ヨーロッパにおける人文主義の継承と変容 ―政治文化・古典研究・大学―」


  日  時: 2005年3月6日(日)
  会  場: 京都大学大学院文学研究科新館第3講義室
  基調報告とコメント:
     1. エドヴァルト・オパリンスキ(ポーランド科学アカデミー歴史学研究所)
         「16・17世紀のポーランドにおける政治文化と人文主義的教養」
     2. 森村 敏己(一橋大学)
         「教訓としての古代 ― 商業的繁栄は亡国への道か? ―」
     〔コメント その1〕 
       皆川 卓(早稲田大学)
         「近世神聖ローマ帝国の政治理論人文学
             ― 新アリストテレス主義の変容を展望して ―」
     3. ヴェルナー・エック(ケルン大学)
          「19世紀以降のドイツにおける古代史の発展
             ― その文化的・政治的背景から ―」
     4. 葛西 康徳(新潟大学)
         「19世紀イギリスにおける古典学の戦略とライバルたち
             ― オクスフォード大学ベイリオル・コレッジを例として ―」    
     〔コメント その2〕 
       栗原 麻子(大阪大学)
         「古典古代をめぐる座標軸 エック報告と葛西報告へのコメント」



  本研究会にとって初めての国際シンポジウムは、上述のようなテーマで、2005年3月6日日曜日に、京都大学大学院文学研究科新館第3講義室において開催された。予想を大きく上回る120名余りの参加者を得て、盛会であった(本研究会ホームページ掲載の写真をご覧下さい)。このシンポジウムは、副題に掲げた3つの論点を中心にして近代ヨーロッパにおける人文学と人文主義の様相を検討しようと試みたものであり、本研究会第1年目の総括的行事といえよう。基調報告者として、ドイツからケルン大学古代史教授のヴェルナー・エック博士を、ポーランドからポーランド科学アカデミー歴史学研究所のエドヴァルト・オパリンスキ博士をお招きし、また新潟大学の葛西康徳教授と一橋大学の森村敏己助教授にも基調報告者として参加いただいた。当日は、研究会リーダーである南川高志から開催趣旨が説明された後、まずオパリンスキ氏と森村氏より報告がおこなわれ、この2報告に関して早稲田大学講師の皆川卓氏よりコメントがなされた。次いで、午後の部ではエック氏と葛西氏から報告がおこなわれ、さらに大阪大学助教授の栗原麻子氏からコメントがなされた。午前の部の報告では、とくに近世期の人文主義や人文学の様相が「政治文化」などを論点として解説されたのに対し、午後の2報告では19〜20世紀の人文主義や人文学の様態が「古典学」や「大学」を主たる論点として説明された。

  4報告と2つのコメントを聞いた後、京都大学の小山哲助教授から全体討論に向けての論点を開示していただき、それを受けて京都大学の服部良久教授の司会で討論に入った。小山氏は論点を整理して提示されたが、時間の関係上それを逐一検討することはできなかった。しかし、名古屋大学の佐藤彰一教授や大阪大学の竹中亨教授らから人文学の本質に関わる鋭い質問が出され、それに対して講義室の前方に勢揃いした報告者やコメンテーターから適切な説明や反論などがなされて、きわめて有意義な会となった。

  この国際シンポジウムでは、開催趣意書や報告原稿などの資料を仮綴じしたものを会場で配布した(ドイツ語のエック報告と英語のオパリンスキ報告は日本語訳もあわせて用意した)が、シンポジウム終了後、その成果を踏まえて報告原稿を改訂したものを、ヨーロッパ言語と日本語の両方でまとめ成果報告書として作成した。まもなく国内外の関係研究機関や研究者に配布される予定である。論点や全体討議の要約も収録したので、関心のある方はぜひ御一読願いたい。

  1月に開催された研究会大会とこの国際シンポジウムによって、近代における人文学と人文主義の様相がかなりはっきりと分かるようになり、研究すべき論点がさらに絞り込まれたと研究リーダーとして実感している。2年目の本年度は前近代にも検討の範囲を広げて、ヨーロッパの歴史に深く根ざした人文学知の形成と発展を、その深部から理解できるように努めたい。

  なお、国際シンポジウムには、西洋史学や西洋古典学をはじめとして、西洋哲学や西洋教育史などを専門とされる研究者、大学院生、学生など、数多くの方が御出席下さり、この種の会議では珍しいことであるが一般来聴の方もおいで下さった。参加していただいた皆様に心より御礼申し上げるとともに、今後ともこの研究会に御助力たまわることをお願い申し上げる次第である。           
                                        研究会リーダー   南川 高志






【エッセー】
       
<エッセー1


              ミュンスター大学「特別研究領域」プロジェクトに参加して
                                服部 良久(京都大学大学院文学研究科教授)


  文部科学省の「海外先進教育研究実践支援プログラム」により本年3月30日から5月30日まで、ドイツのミュンスター大学に滞在する機会を与えられた。私の課題はミュンスター大学でG・アルトホーフ教授を中心に進行中の、「ドイツ学術振興協会」の資金提供による「特別研究領域」Sonderforschungsbereich(以下SFB)のプロジェクト「中世からフランス革命までの時期におけるシンボリックなコミュニケーションと社会的価値」の実態と研究教育における意義、影響を調査すること、それによって私たちが携わっているCOEプログラムの意義と問題点を明らかにすることであった。このプロジェクトへの関心は、何よりもその内容が私自身の研究テーマと密接に関連していることによる。COEプログラムは3年前に始まったばかりであるが、SFBはすでに20年以上の歴史を持ち、ドイツの学術研究において重要な役割を果たしてきた。その採用件数が大学や当該学部、専攻の評価にかかわるという点では、大学別の採用件数がジャーナリズムに公表される日本のCOEと同様である。ドイツの大学も日本と同様、受益者負担(学費導入)や社会的責任(アカウンタビリティ)、「エリート大学構想」、財源緊縮とプロジェクト単位の重点的配分などの変化が進行しつつある。その中で「特別研究領域」は現在、そして今後どのような意味を持つのであろうか。ここでは帰国直後の印象を記すにとどめる。

  まずは客観的なデータを紹介しておこう。「特別研究領域」には全学問分野を通じて年間100件ほどの申請があり、このうち約3割が認可される。申請書は計画内容からメンバーの業績などの個人データにおよぶ製本された書物のような大部なものであり、専門の近い研究者によって構成される審査委員が当該大学に出かけて長時間にわたる面接(というより学問的議論)を行う。採択されたプロジェクトは3年ごとの評価を受け、最長で12年間の継続が可能とされる。アルトホーフらのSFB496(制度発足以来の通し番号。通例この番号でプロジェクトを識別)は2000年に始まり、来年からの第三期のための申請を準備中であった。これにはミュンスター大学哲学部の歴史学科を中心に文学、哲学、法学、神学、人類学の領域に及ぶ研究者が15の独自の部分領域研究を組織し、各領域には教授1人に、数人の若手研究者、つまり博士号を持ち、教授資格論文作成中の者、博士論文作成中の者、さらに学部生の補助者が属している。
このプロジェクトの趣旨、分野プロジェクトの内容や構成員についてはミュンスター大学のHPにリンクしたプロジェクトのサイトで詳細に紹介されている。そのテーマの趣旨は、中・近世のシンボリックなコミュニケーションと、その基礎をなす価値体系を、政治、法、宗教、日常のコミュニケーションの諸領域において総合的に考察することである。アルトホーフらによれば、中・近世では様々なリチュアルが、公的なコミュニケーションの不可欠の手段であり、リチュアルは紛争解決、和解、服従、同盟、協定締結など社会と政治の秩序において重要な機能を持っていた。このようなシンボリックなコミュニケーションは、一定の合理性を持つゆえに近世においてもその意義を失わなかった。このプロジェクトはリチュアルとシンボルを規定する、行為者の価値規範をも対象とし、様々なテクスト、資史料を対象に含めることによって文学、哲学、神学研究者も参加できるように枠を広げている。プロジェクトの参加者は今日なお毎月、コンセプトに関わる理論的な研究会を持っているという。第二期はそのうち、歴史、ドイツ文学、美術史、中世文献学、哲学、法制史、神学、民族(俗)学の専門家の構成する次のような12の分野プロジェクトが活動している。

(A:中世、B:15,16世紀、C:近世)
A1中世の法共同体と支配者団体のシンボリックなコミュニケーションにおける文書と書物
A2 中世後期における紛争と平和のリチュアル
A4 中世におけるミサ:象徴理論、典礼と社会的コミュニケーション
B2 イタリア・ルネサンスの芸術と芸術理論におけるVirtus
B3演劇のコミュニケーションと社会的コミュニケーション:中世後期と近世における都市と宮廷の演劇の機能
B4 ドイツ中世の教訓文学における社会とその価値観念の叙述
B5 徳の倫理Tugendethikの基礎と類型
B6 近世における教皇の儀式(1563-1789):宮廷的表出、神学的要請と典礼的象徴性
C1 近世における身分と地位のシンボリックな形成について
C2 近世の紛争と日常行為におけるシンボル、リチュアル、身振り
C3 裁判手続きにおけるシンボル(15〜18世紀)
C5権力とリチュアル。フランス革命期のシンボリックな支配と政治的コミュニケーション

このように問題は多岐にわたるが、基本的には歴史人類学的な共通する関心に導かれており、このことはシンポジウムの議論においても実感することができた。たとえば4月21、22日に行われたC3分野の国際研究集会「裁判におけるシンボリックなコミュニケーション」では、中世、近世の裁判においてはしばしば実定法、規範としての法以上に交渉と合意が尊重され、またこの合意を導き、演出する儀礼とパフォーマンスが大きな影響力を持ったことを、英、独、仏、スイス、オランダの研究者たちが、さまざまな時代、地域、裁判について示す報告と議論を行った。しかもその主要なメンバーは法制史研究者であり、この点で、このプロジェクトに参加する歴史家と法制史家の関心は共通していた。年に数回行われる分野シンポジウムや全体シンポジウムでも、ヨーロッパ各国から招聘された報告者はプロジェクトの趣旨を理解した内容の報告を行った。5月19、20日の、3年間のプロジェクト中間総括にあたるシンポジウムでは、アルトホーフらミュンスター大学の主要メンバーに加え、J-C・シュミット(仏)やP・バーク(英:ただし直前キャンセル)、ブロックマンス(蘭)、ヴォルフラム(襖)、シュヴェアホーフ(独)といった大家、中堅を含む各国からの歴史、文学、芸術学など諸分野の研究者17人が報告を行い、質疑応答も含めて盛会だった。このシンポではとくに文学(文学作品、演劇における議論=戦いと和解など)、美術史(イタリア・ルネサンス都市における政治的象徴としての彫像など)関係の報告が充実していたように思う。

  最後にプロジェクトの運営について感じたことを述べてみよう。12〜15人の教授が構成するプロジェクトに提供される年間2億円以上の活動資金が、日本と同じく決して十分ではない通常の教育研究経費を補填する機能を果たしていることは確かなようである。活動の重点は、@シンポジウム、コロキアム、講演会(ほとんど毎週、ゲスト講演会がある)などの会合、A成果刊行、B若手研究者支援(人件費)に置かれている。とりわけ注目されるのはBである。申請書の予算費目を見ると、各分野研究会には共同研究者として2〜3人の助手あるいは講師クラスの研究者、3〜4人の学位を持つ、あるいは学位論文準備中の若手が登録され、加えて2〜3人のアルバイト学生費用が計上されており、その額は各分野とも1000万円を超える。つまり全プロジェクト経費の7割ほどが若手研究者の活動支援に充てられていると考えてよい。こうした若手グループの中心となる、学位を持つ(教授資格申請論文作成中の)研究者は、実際に毎日一定時間(基本的に週38.5時間)、所属の学部、研究所でプロジェクトのための研究に専念する。教授ではなく、彼らが中心となって研究集会を組織し、その成果を独自に書物として刊行することも稀ではない。アルトホーフはプロジェクトと同名の叢書をPrimus 社から刊行しており、共同研究者の「シンボリックなコミュニケーション」に関連する学位論文や教授資格申請論文が続々と刊行されつつある。かなりの額の出版助成費用が計上されているのもよく理解できる。

  研究職をめざすドイツ(に限らないが)の若手研究者は、学位論文、教授資格申請論文作成の間、長期にわたって身分、収入の不安定な生活を強いられるのが通例なのだが、この点、SFBプロジェクトがこうした若者たちに多大のメリットを与えていることは明らかである。ミュンスター大学歴史学科、とくに中世史関係はSFBの発足以来連続的にそのプロジェクトを採用されており、このことが研究者養成に果たした役割は、同大学出身の中世史研究者の「質と量」が示すところである。

  わずかな期間ではあるが、このプロジェクトに接し、私はこうした意義と同時にいくつかの問題点や疑問も持たざるを得なかった。歴史学科においてもプロジェクトに参加しない教授もいる。教授はそれでよいが、その指導下の若手研究者は不利を被ることにならないのか。さらにプロジェクトに参加する教授の下で若手が研究時間の大半をこのプロジェクトのために割かねばならないとすれば、このテーマにさほど関心を持てない若手にとっては、この研究環境は恵まれているとは言い難い。周知のプロジェクトであるから、実際には学生はこの点を考えた上で大学と指導教授を選択したのであろうが、私の知り得た範囲でも、プロジェクトへの関わり方、モーティベーションには明らかに差があった。紛争、コミュニケーション、シンボルといった汎用性のあるテーマだけに、大半の若手はその枠内で自分の研究を巧みに構築しているように思われた。しかしミュンスター大学中世史の伝統である史料研究(クリュニー修道院文書のデータベース化など)に重点を置く研究者は、自身のテーマとは別にSFBプロジェクトのためにも口頭発表や論文執筆を行うといったふうであり、また中世史に限ってもプロジェクトに全く関わらない(とくにやや年長の)研究者もいる。さらに杞憂を加えれば、このプロジェクトの内容は学部生のゼミや講義にも影響しており、研究者を志望する学生は当初から、このテーマの強い影響下にある。多くの若手研究者が、いわば意義と課題、その射程が既に示された出来合いのテーマにそのまま入り込み、学位論文を作成するとすれば、経済的メリットはともかく、創造的、批判的研究能力に不安なしとはしない。ただしこれも極論であり、大きな共通の枠組みのなかで議論と相互批判に基づく共同研究が可能になるとすれば、それ自体は有益である。要は個々人の関わり方と力量次第であり、この点において、このような大きな共同研究を足場にして成長する研究者の真価が問われるのである。私たちのCOEプログラムも質量ともに、このような意義を獲得すること願うものである。勿論そのためには、大学・学部の組織自体の充実が前提とされねばならない。この他、担当教授たちの加重負担のことなど述べたいことは多いが、紙数が尽きたので擱筆する。





        
<エッセー2>

                      フランツ・キュモンの伝記的研究
                                         井上 文則(筑波大学専任講師)


  ヨーロッパにおける人文学知をテーマとするこの研究会への参加を誘われてから、ずっと頭を悩ましてきたのは自分自身のテーマの選択であったが、ようやく最近になって選択肢を二つに絞ることができた。いずれも、自分のこれまでの研究(軍人皇帝時代とミトラス教)から派生したものであるが、一つは4世紀末のローマにおける古典の伝承の問題で、もう一つはフランツ・キュモンFranz Cumont(1868〜1947)の伝記的研究である。前者のテーマについては、次回7月の研究会で発表させていただく予定であるので、ここでは触れず、後者のテーマについて、今後の自分の研究の宣伝を少々兼ねながら、この場を借りてお話しし、エッセーということにさせていただきたいと思う。

  フランツ・キュモンといっても、この小文を読んで頂いている関係者の方々でも、ほとんどの方がご存知ないだろう。もっともなことで、キュモンとは、一応は、20世紀前半に活躍したベルギーの古代宗教史家と説明されることが多いが、一般にはほとんど知られていない。したがって、この人物の伝記的研究にいったい何の意味があるのか、そもそもなぜこの人物を取り上げるのか、との疑問に答える必要があろう。そのためにも、まずは、キュモンとはどのような人物か、その生涯と業績を簡単に辿ることから、話を始めていきたい。

  キュモンは、1868年にブリュッセル近郊のAlostの裕福なブルジョワジーの家に生まれた。大変な秀才で、1887年に19歳でガン大学の学位を取得し、1888年から1890年にはボン、ベルリン、ウィーンへ留学。Th.モムゼンやH.ウーゼナー、H.ディールズなど、ドイツ古典学の黄金時代の学者たちの薫陶を受けた。アテネ、ローマ、パリなどでさらに研鑚を積んだ後、1892年1月には弱冠24歳でガン大学の講師に迎えられ、8月には、特任教授professur extraordinaireに、1896年には正教授professeur ordinaireに昇進した。しかし、1910年にキュモンは、宗教史講座教授就任を公教育相に拒否されたことで、教授職を辞任し、やがてベルギーも離れ、以後、パリとローマに居を構え、市井の研究者としてその生涯を送った。終生独身で通し、1947年、ブリュセルの親族の家で没した。享年79歳。

  その研究分野は、相互に密接に関連しながらも、概ね、3つに分けられる。

  一つは、ミトラス教をはじめとする帝政ローマ期時代に流行したオリエント系宗教の研究。中でも、キュモンが20代後半に刊行した『ミトラの密儀に関する文献史料と図像史料Textes et Monument figures relatifs aux Mysteres de Mithra』(全2巻)は、ミトラス教研究の金字塔で、この書物に示されたミトラス教解釈は通説として半世紀以上にわたって不動の地位を占めつづけた。1980年代にミトラス教の研究史を振り返ったベックの言葉は印象的である。「ミトラス教ほどたった一人の研究者の業績によって支配されたローマ史の研究領域はなかった」、と。キュモンがドイツ留学前からミトラス教に関心を持っていたことは確かであるが、それにしてもこれほどの業績を極めて短期間の間に成し遂げたことには驚くほかはない。1906年には、『異教時代のローマ帝国におけるオリエント宗教Les religions orientales dans le paganisme romain』を著し、ミトラス教を含むオリエント系宗教に関する概括的叙述を行っている。

  もう一つは、ギリシア・ローマ時代の占星術の研究で、キュモンは『ギリシア占星術関係写本目録Catalogus codicum astrologorum graecorum』(1898〜1953)の企画を発案、その一部を手がけ、この分野の基礎的研究を行っただけでなく、その成果を『ギリシア人とローマ人の占星術と宗教Astology and Religion among the Greeks and Romans』(1911)や『占星術師たちのエジプトL'Egypte des astologues』(1937)として著した。

  そして、3番目の研究分野としてローマ人の死生観の研究が挙げられる。この分野の主要著作としては、『ローマ人の来世観After Life in Roman Paganism』(1922)(小川英雄氏による邦訳あり)や『ローマ人の葬儀のシンボリズムについての研究Recherches sur le symbolism funeraire des Romains』(1942)、『永遠の光Lux Perpetua』(1949、没後に刊行)がある。

  このように多くの著作を著す一方で、キュモンは単に書斎の人に留まることなく、オリエントへの考古学調査を数度にわたって行っており、この点もまたその研究を魅力的なものにしている。 

  キュモンは、1900年に弟のユジェーヌと共に、ミトラス教の遺構を求めてポントスと小アルメニアへの考古学調査旅行を行い、その報告を1906年に『ポントスと小アルメニアにおける考古学調査旅行Voyage d'exploration archeologique dans le Ponte et la Petit Armenie』として世に問い、1907年には単身でシリアへ赴き、ユリアヌス帝のペルシアへの遠征路を辿っている。(その成果は『シリア研究Etudes syriennes』として1917年に刊行された。ユリアヌス研究もキュモンの関心対象で、『ユリアヌス伝La vie de l'empereur Julien』(1930)を著したJ.ビデと共に関係史料の集成も行っている。なお、『シリア研究』を本年3月、COE予算でパリに滞在した折、留学中の疋田隆康君の案内で古書店を一日中歩き回り、最後の最後に立ち寄った古書店で見つけたことは忘れられない思い出である。(日も暮れかけた寒空の下、目的の本もみつからず、へとへとになって、宿に帰りたがっていた僕を「あと一軒、近くにありますから(実際には地下鉄で何駅か先だった!)行ってみましょう」といつのも調子で淡々と言って、引っ張っていってくれた疋田君には感謝したい。)さらに、キュモンは、1922年から1923年にかけて、隊長としてシリアの城塞都市ドゥラ・エウロポスの発掘を指揮し、この事業を引き継いだM.I.ロストフツェフを隊長とするイェール大学の調査隊が、1934年にミトラス教神殿を発掘した時には、ロストフツェフの誘いを受け、体調の不安を抱えながらも、その地に赴き、ミトラス神殿を調査したのである。

  さて、エッセーと言うには、あまりに無粋な文章をここまで忍耐強く読んでくださったなら、キュモンが単なる古代宗教史家を越えた20世紀前半を代表する古代史研究者の一人であったことは感得していただけたのではないかと思う。

  折りしも、去る1997年は、キュモン没後50周忌にあたり、これを機にキュモンがL'Academia Belgica(在ローマ)に遺贈した1,908通に及ぶ書簡が、整理刊行され始めている(La correspondance scientifique de Franz Cumont, editee et commentee par C.Bonnet,1997.)。これらの書簡は、キュモンが1887年から1947年にかけて欧米各地の学者から受け取ったもので、送り手の中には既に名を挙げたモムゼンやディールズ、ロストフツェフなどはもちろんのこと、ローマ史研究者には馴染みのA.アルフェルディやJ.カルコピーノの名も見え、そのほかにもあのH.ピレンヌや中央アジア探検で名高いA.スタインのものも混じっている。そこには20世紀前半の学会を代表する蒼々たる顔ぶれをそこに見出すことができるのであって、キュモンが当時の学会で占めていた位置を窺わせるに足るものとなっている。ただし、当然のことであるが、キュモン自身の書簡はほとんど残っておらず、現在調査中である。なお、書物の形で刊行されている書簡は、その中のおよそ350通に過ぎないので、今後の更なる刊行が待たれる。また、同じ年には、キュモンの一族の子孫(在ベルギー)により、同研究所にさらに10,000通近い書簡が寄贈されたとのことで、こちらの刊行の進展も大いに期待されよう。

  最後に、なぜキュモンなのかという上に挙げた疑問に答えることで、この拙い小文を閉じることにしたい。まず、キュモンは、単なる古代宗教史家を超えた20世紀前半を代表する学者であったということ、そしてその伝記的研究には、書簡の刊行という大変な好条件が備わっているということ、したがって、単なる経歴や著作の解説を超えた血の通った人間味のある学者の伝記、それも一人の稀有な学者の伝記を書くことが可能となっている(より正確には、なりつつある)ということになろう。そして、私が最終的に意図するところは、このキュモンという、少なくとも私にとってはきわめて魅力的な人物の生涯を研究することで、それ自身に興味があることが否めないが、より広くこの研究会のテーマに沿って20世紀前半の古代研究のあり方を研究できないか、というものである。19世紀の古代史研究については、モムゼンやブルクハルトの研究をはじめ豊富にあるが、20世紀前半のそれについてはようやく近年、ロストフツェフの伝記的研究などが目に付くようになったに過ぎず、ほとんど手つかずの状態にあり、その意味でも一定の意義は認められると思うのである。もちろん、この仕事は、一朝一夕にはできるものではないが、将来的には、例えば、佐々木克巳氏の『歴史家アンリ・ピレンヌの生涯』(創文社、1981年)や二宮宏之氏の近著『マルク・ブロックを読む』(岩波書店、2005年)のように、一人の学者の生涯を通して一つの時代の学問研究のあり方、そしてさらにはその時代そのものを映し出すような伝記的作品を書く事ができればと考えている。





       
<エッセー3>

               大学と街――中欧最古の大学街プラハの場合――
                                   藤井 真生(日本学術振興会特別研究員)


  2月の末、フス派運動期の貴族の動向を主に研究しているM・ポリーフカ博士からお話を伺うために、チェコ共和国学術アカデミー歴史学研究所を訪問した。2月も終わりになると京都ではだいぶ寒さが和らいでくるが、プラハではまだ日中も氷点下であり、さらに今年はめずらしく雪も降り積もっていた。その日も朝から厳しく冷え込んでいた。印刷したポリーフカ博士からのメールを片手にメトロとバスを乗り継ぎ、プラハの中心部から丘一つ越えた郊外に位置する研究所までは30分ほどかかった。バスを降りると右手の奥の方に建物が見えてきたが、雪に覆われた背景のせいもあってか、案外小さく思えた。もちろん中に入ってみればそれなりに大きな建物である。残念ながら今回は時間の都合で利用することはできなかったが、ポリーフカ博士によれば、この研究所の書庫の蔵書数はチェコで最大なのだそうだ。しかし、「案外小さい」という第一印象はそれほど的外れなものでもなかったらしく、ここで研究に従事する100人近くのスタッフ全員に部屋が割り当てられておらず、研究員は週2回しか部屋(あるいはパソコン)を使うことができないとも話されていた。研究所のホームページでは、この郊外の地へは1994年に移転してきたとあるが、これは当初から計画に織り込まれていた事態なのだろうか、それとも10年経った今、早くも収容能力に限界が生じているのだろうか。

  これは極端な例としても、日本でも大学や研究施設が広い空間を求めて郊外へ移転するようになって久しい。移転によって得られるメリットとは、何といっても充分な研究空間を確保できることであるが、その一方で失うものもあるのではないだろうか。大学の転出が続く京都では、以前のように異なるジャンルの研究者がばったり出会い、議論に花を咲かせることも少なくなってしまった、というような述懐を少し前にどこかで目にしたような気がする。ところで、あまり知られていないと思うが、プラハと京都は姉妹都市提携を結んでいる。古都であり、観光都市であり、大学も多く、また人口の点でも両者の規模はほとんど一緒である。プラハの事情はどうなのであろうか。

  オックスフォード、ケンブリッジやパリ、イタリアの諸大学ほどの古さを誇るわけではないが、しかし表題にも記したように、プラハはアルプス以北、ライン以東で最初に大学を持った街である。チェコ王カレル(神聖ローマ皇帝カール4世)は、1348年に王国の守護聖人聖ヴァーツラフから許可を得る形式で、プラハに大学(以下カレル大学)を設立する決定を下した。この後、クラクフ、ウィーン、ハイデルベルク、ケルン、エルフルト、ライプツィヒの順に、ドイツを中心とする中欧地域に大学が叢生する。これらの領邦君主によって設立された大学は「ドイツ大学」として、先行する英仏伊の大学、つまり名高い先達の下に教えを請う学生が集い自生的に発生したとされる大学と区別されてきた

  領邦君主の命令、という発足時の状況は、大学の性格や方針に彼の意向が反映することを許し、自治的な性格が後退することにもつながるが、多方面にわたる援助を受けられることも意味する。カレル大学の建物の確保にもカレルが関与していたことが明らかになっている。プラハ城敷地内の聖ヴィート大聖堂やカレル橋の建築を手がけたことでも知られる、ペトル・パルレーシュが設計した建物はカロリヌムと呼ばれ、旧市街広場のすぐ東に存在する。当時の建築物は一部しか残っていないが、今もここで授業が行われている。とはいえ、一挙にカレルが大学に広大な敷地と建物を与え、それが今に引き継がれているわけではない。初期には教会の部屋を借り、後に国王や有力者の寄付によって建物を確保することができた。教師や学生の寮はプラハの中心部に点在し、彼らの数が増加するに伴って、そして大学組織が拡大してゆくにつれて、街中に広がっていったのである。

  このカレル大学の設立は、プラハの街に国際的で知的な装いを新たに纏わせた。パリ大学に倣って、カレル大学の学生は四つの国民団に編成された。チェコ、バイエルン、ザクセン、ポーランドである。国民団の名称イコール出身地ではないが、ドイツを中心に周辺各国から学生を集め、彼らの存在は街に活力を与えることになったであろう。もともとプラハはチェコ王国の首都であり、さらに神聖ローマ皇帝でもあったカレルの周辺にはドイツ人やイタリア人も多かった。またカレルはペトラルカを始めとする人文主義者たちとも親交があり、国際色豊かな彼の宮廷には知的なサークルも存在していた。しかし、その雰囲気が宮廷のみならず、街全体にも広がりを見せたのは大学のおかげである。

  それから半世紀後、チェコでは宗教改革の先駆けであるフス派運動が展開する。この運動の要因は複合的なものであって単一の要素に帰すことはできないが、プラハという街の性格とカレル大学のマギステルたちの活動が大きく関わっていたことは間違いない。その後の時代にも、例えば、本格的に政治家を志すようになる以前のマサリクがカレル大学で教鞭をとり、狭隘なナショナリズムと戦っていたことや、冷戦時代の「プラハの春」とソ連の軍事介入に対する学生たちの関わりを想起すれば、プラハの街と共にカレル大学がチェコの歴史の中で担ってきた役割は決して小さいものではなかったことがわかる。

  さて、自由学芸、神、法、医の四学部から出発したカレル大学も、今では17の学部から構成される大所帯となっている。神学部は現在カトリック、プロテスタント、フス派の三つの学部を有し、医学部も第一、第二、第三に加えて、プルゼニュとフラデツ・クラーロヴェーというチェコの東西の都市にも拠点を持っている。今日では法学部や自由学芸部の後身である哲学部以外に、薬、教育、自然科学、数学・物理、体育学部なども存在する。また、工科大学など、カレル大学以外にもプラハには大学が集中している。

  最初の話に戻ると、カレル大学でも郊外への移転は行われている。移転といっても、上記のように、設立当初から発展状況に応じて建物を変えてきたのであって、当時の状況が今も続いているだけであると考えられなくもない。ただし、新設された学部はやはり敷地確保に苦労するようである。先年、明治大学の薩摩秀登先生に同行してフス派神学部を訪問したことがある。郊外とまではいかないが、中心部から少し外れた団地の裏側にあり、地図で見ると、現在の建物はつい最近まで小学校として使われていたところらしい。ちなみに、チェコの歴史を学ぶ外国人である我々から見ると、フス派といえば、国民的なアイデンティティーの一部を形成し、その名を冠する神学部はカレル大学の中でも重要なポジションを占めているのではないかと勝手に想像してしまうのだが、その思い込みとのギャップに驚いたことを今も覚えている。後で知ったが、フス派神学部とプロテスタント神学部はチェコスロヴァキア共和国の独立に伴って設置され、戦後になってカレル大学に編入されたものらしい。その他にも、例えば体育学部は市街地の北西辺、プラハ国際空港へ向かう途中にある。

  今のところ、歴史学研究所ほどにプラハの中心部から離れたところに移った学部はないようだが、旧市街の中に残っているのは本部にあたるカロリヌムと法学部、それに歴史学科のある哲学部だけである。法、哲学部も古くからその地を占めていたわけではない。そもそも旧市街広場から北西の地域はユダヤ人のゲットーが設置されていたところであり、この地域が再開発されたのは19世紀後半以降のことである。4巻から成る『カレル大学の歴史』によれば、両学部とも1929年前後に現在の地へ移ってきたらしい。現在の旧市街は非常に観光地化した地区となっているが、哲学部のすぐ近くには国立図書館であるクレメンティヌムとプラハ市立図書館があり、また中世史研究所も哲学部から歩いて5分とかからない所にある。とりわけ中世史を専攻する人間にとっては、実は非常に便利な場所に位置している。加えて、哲学部の窓からはプラハ城を眺めることができ、北隣には長い歴史を持つユダヤ人墓地が佇んでいる。またカロリヌムへ行く際には、旧市庁舎やヤン・フス像のある旧市街広場を通り抜けてゆくことになる。というように、歴史を感じながら学生生活を送れる非常に贅沢な空間でもある。私の記憶が確かなら、哲学部の先生方も個人の研究室はもっていなかったようであるが、このように観光名所に囲まれているところなので、哲学部が現在の場所で拡大することは不可能であろう。しかし、二重の環境の良さを考えれば、郊外には移転して欲しくないと個人的には思うのである。

  カレル大学は領邦君主の命令によってプラハに設立された。しかし、大学とはそもそも自然発生的な集まりから生じたものであること、また人文学的な知だけに限らず、あらゆる学問的な営為には「対話」が必要であることを思えば、大学や学部というものは、それぞれに孤立せず、交流の場を持ち続けていることが求められるだろう。京都ではそれに対する危機感が生じ始めたこと、プラハの都市としての性格が京都と類似していることから、プラハにおける大学の歴史と現在の移転状況をここまで振り返ってみた。しかし幸いなことに、プラハは京都ほど狭い盆地ではなく周縁にまだ余裕を残しているため、山を越えて異なる市や県まで移転していった例はない。そのため、個人的経験に照らし合わせて言えば、学生が中心部にあるカフェや飲み屋に集まっては議論する、という光景もまだ健在である。それにほとんどの学生が寮に住んでいるチェコでは、友人を介して寮で違うジャンルの学生と知り合う――あるいは他の寮に遊びに行く――機会もある。けれど、一般の研究者はどうなのであろうか。故千野栄一氏のエッセーには文化人の集う飲み屋やカフェの話が度々登場する が、それらの店を訪れたことはない。そんなことを考えているうちに、哲学部近くのプラハ市立図書館一階にあるカフェのことを思い出した。ここは込み合う昼時以外には学生が自習や友人との議論のために利用する場所なのだが、明らかに学生ではない人たちが本を開き、ノートに何事かメモし、また語り合っている姿もよく目にした。案外、このカフェも学問的交流の場となっているのではないだろうかと思えてきた。もしまたポリーフカ博士にお目にかかる機会があったら、こんなこともお聞きしてみたいと思っている。



(1) この研究所の小史についてはhttp://www.hiu.cas.cz/を参照。

(2) 島田雄次郎『ヨーロッパ大学史研究』、1967年、未来社、横尾荘英『大学の誕生と変貌』、1999年、東信堂など。設立当初の学寮や大学建物の様子については、Dejiny univerzity Karlovy I. 1347/48 - 1622, Praha, 1995, pp.42 - 58.

(3) プラハの街や市民たちの動向を分析の中心にすえて、チェコの歴史、そしてフス派の歴史を描いたものに、薩摩秀登『プラハの異端者たち』、1998年、現代書館、がある。

(4) 林忠行『中央の統合』、1993年、中公新書、参照。

(5) チェコは近世以降カトリックを信奉するハプスブルク家の支配下に置かれ、再カトリック化が図られていた。そのため、フス派に関する文献研究が許されたのは啓蒙主義時代のことであり、フス派とプロテスタントの神学部が設置されたのは、ハプスブルク家からの独立を果した後、1919年になってからのことである。

(6) Dejiny univerzity Karlovy IV. 1918 - 1990, Praha, 1998, pp.76, 125.

(7) 元々はチェコの再カトリック化を図るイエズス会の拠点であったこの建物は、現在では国立図書館として利用されている。しかし立地条件上、すべての所蔵図書がクレメンティヌムに置かれているわけではないので、どこの図書館・古文書館でも同じであろうが、短期滞在者の利用には適さない。

(8) 千野栄一『ビールと古本のプラハ』、1997年、白水Uブックス。



         
■ 今後の予定

第2回研究会
 
   日 時     : 2005年7月16日(土曜日)   午後1時30分〜5時30分
   場 所     : 京都大学大学院文学研究科新館1階第1講義室
   報 告    : 井上 文則 氏(筑波大学専任講師)
             「「覚え書きsubscriptio」にみる古典の伝承」
            藤井 真生 氏(日本学術振興会特別研究員)
             「中世チェコの人文主義とフス派運動」


   *準備の都合上、参加をご希望の方は当研究会事務局まであらかじめご連絡ください。
   *なお、本年度もこの他に研究会大会、国際シンポジウムの開催を予定しております。
    なにとぞお力添えくださいますようお願い申し上げます。






≪後記≫

  梅雨の候、皆様お変わりなくお過ごしのことと拝察申し上げます。今年度より、教務補佐を担当させていただくことになりました京都大学大学院文学研究科博士後期課程2年の君塚弘恭と申します。不慣れなためご迷惑をおかけすることもあると存じますが、よろしくご指導のほどお願い申し上げます。

  この度は、ニューズレター第4号を無事お届けすることができほっとしております。また、3月の国際シンポジウムの折は、多くの方々にご参加いただき、心よりお礼申し上げます。シンポジウム報告書は、まもなく皆様の手元にお届けできるかと存じます。

  7月には第2回研究会を開催いたします。ご多忙の時期とは存じますが、なにとぞご支援・ご協力を賜りますようお願い申し上げます。(君塚)



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