歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ
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No.5
 2005年10月 1日発行  

 -CONTENTS-                                            
   活動報告 (南川 高志)
   報告要旨(井上 文則藤井 真生
   エッセー(小山 哲
   今後の予定・後記



         
  本研究会「ヨーロッパにおける人文学知形成の歴史的構図」は、第1年目の最後に国際シンポジウムを開催し、その成果を報告書にまとめました。ピンク色の報告書、御覧いただきましたでしょうか。編者の一人である私がその報告書の「討論のまとめ」のところに書いておきましたように、本研究会はその1年目にヨーロッパ近代に重点を置きましたので、2年目はそこからさらに時代を遡って検討することにも力を入れるつもりでおります。7月におこなわれた研究会では、早速、研究会メンバーで古代史を専攻する井上文則さんと中世史を専攻する藤井真生さんにご専門の時代に近いところで本研究会のテーマに関わるお話をしていただきました。その充実した内容の要旨は、このニューズレターにて紹介されております。本年はまだ2年目ですが、はや最終年度になりますので、研究員各自、そして研究会総体としても、成果のまとめに向けて励みたいと思っております。来年1月9日の研究会大会、そして来年度に出版する予定の成果報告書が成果の披露の場になります。ご期待ください。
                                    研究会リーダー   南川 高志



■ 活動報告

●第2回研究会


 日 時 : 2005年7月16日(土曜日) 午後1時30分〜5時30分
 場 所 : 京都大学大学院文学研究科・新館1階第1講義室
 報 告 : 井上 文則 氏(筑波大学第一学群人文学類専任講師)
        「「覚え書きsubscriptio」にみる後期ローマ帝国の古典研究」
       藤井 真生 氏(日本学術振興会特別研究員)
        「中世後期チェコにおける人文主義の受容とフス派運動の影響」



【報告要旨】        

<報告1>
  「覚え書きsubscriptio」にみる後期ローマ帝国の古典研究
                                   井上 文則  

  現存する古典の写本には、「覚え書きsubscriptio」なるものが、書き付けられているものが複数存在する。覚え書きとは、L.D.レイノルズとN.G.ウィルソンの『古典の継承者たち』(西村賀子、吉武純夫訳、国文社、1996年)68頁によれば、「短い声明であり、表現は紋切り型で、そのテクストが十分に校定され訂正されたことを示すために、作品の末尾、または作品を構成する数巻の末尾に書き添えられたもの」である。一例として、「私トルクアトゥス・ゲンナディウスは、神君アウグストゥスのマルス広場で、ウィケンティウスとフラグイティウスがコンスルの時、幸いにも校定した」というものを挙げておこう。現在、このような覚え書きが、27の単独、あるいは組になった形で知られている。年代的には、2世紀から7世紀までに亘るが、しかし、大半が4世紀後半以後のもので、要するに、覚え書きは古代末期における古典の伝承やその研究の具体的様相を窺わせてくれる貴重な材料であると言うことができるのである。本報告は、この覚え書きを手がかりに古代末期における学問のあり方の一端を考察したものである。

  覚え書きは、古く19世紀のO.Jahn(Uber die Subscriptionen in den Handschriften romischer Klassiker, Berichte der sachs. Ges. der Wiss. zu Leipzig, Phil-Hist. Klasse, 3, 1851, S.335-342.)によって精査され、その全貌が知られるようになり、近年になってこのヤーンの研究を補訂したJ.E.G.Zetzelの研究(Latin Textual Criticism in Antiquity, New Hampshire, 1984.)が現れたのであるが、まずは、このZetzelの研究に基づきながら、覚え書きからどのような事柄が読み取れるのか見ていこう。基本的に、覚え書きには、先に挙げた例からも知られるように、書き手、書かれた場所、年代、そして行為の内容といったことが含まれている。

  真っ先に注目されるのは、書き手であって、27の覚え書きのうち、少なくとも11のそれがローマ帝国の支配者階層であった元老院議員たちの手によるものであった。この中には、4世紀末に異教の復興運動に尽力したいわゆる「シュンマクス・サークル」のメンバーとその一族による覚え書きが4つ含まれており、そのため覚え書きの現象を異教復興運動との関連で理解しようとする見方がかつては優勢になっていたこともあった。しかし、現在では、覚え書きの認められる古典作品が、宗教を問わず共有されるstandard school textsかpopular worksであるということや、書き手に異教徒と確認できるものはいないなどの理由で異議が唱えられている。次に、書かれた場所であるが、これはローマ、ラヴェンナ、コンスタンティノープルといった帝国の都であったところがほとんどであるが、ある士官などは任地(バルセロナとトロサ)にまで写本を持って赴き、それぞれの任地で写本の校訂を行っており、大変興味深い。そして、年代であるが、概ね、2つのピークを認めることができる。1つは、4世紀末〜5世紀初頭で、もう1つはオドアケルからテオドリックの時代(476〜526)にかけてである。覚え書きから知られるこれらの事実は、古代末期の支配者層がいかに人文学的教養を社会的に重視していたかを示していよう。とはいえ、半数以上の覚え書きにおいて書き手の詳細は不明であり、年代幅にも大きなばらつきがあり、その上、対象となった作品の特徴は乏しいため、如上の分析からは人文学的教養の具体的状況を知ることには一定の意味を見出すことはできるのであるが、それ以上でも以下でもなく、現在抱かれている後期ローマ帝国時代の支配者層の一般的イメージを追認する程度のことにしかなっていないことも認めねばならないであろう。

  したがって、さらに深く古代末期における学問研究の状況を知るためには、覚え書きの書き手が古典のテクストにどのような行為を行っていたのか、この点を考察することが肝要となってくるのである。覚え書きの行為として、最も多く記録されているのは、「校訂したemendo」という行為である。だが、残念ながら、この行為の具体的内容は、現在僅か2つの写本からしか知ることができず、それも年代の特定できるのはそのうち1例のみ(いわゆるニコマクス版リウィウス)なのであるが、それでも、このリウィウスのテクストからは校訂という行為のいくつかの特質を引き出すことができる。まず、校訂とはいえ、現代的な意味でのそれではなく、つまり新しいテクストの構築は伴わず、異読なども既存のテクストの余白に書き込むというスタイルをとっていたこと、また、注釈を施す行為も校訂という行為に含んでいたが、この注釈も文献学的なそれではなく、歴史的、好古的で、personal referenceに過ぎない性格を持っていたことなどをその特質として挙げることができる。このような学問の特質は、古代末期の人々のメンタリティにも繋がる一面を持っているようにも思われるが、本報告では十分な考察に至らなかったのは、遺憾とするところである。

  覚え書きの行為としては、その他にも「読んだlego」、「書いたscribo」など他にもあるので、今後は、校訂という行為だけでなく、これらの行為も含めて考察の対象とし、覚え書きに見られる古代末期の学問のあり方を包括的に捉え直すことも必要となってこよう。今後の課題としたい。




<報告2>      
  中世後期チェコにおける人文主義の受容とフス派運動の影響
                                      藤井 真生  

  チェコにおける「人文主義の時代」は一般に14世紀中葉から17世紀初頭までと考えられている。これはカレル4世(カール4世)の治世からビーラー・ホラ(白山)の戦い――1346〜1620――までを意味する。この間にチェコではドイツよりも一世紀あまり早く宗教改革が始まっていた(1415:ヤン・フスの処刑、1419:フス派戦争の勃発)。つまり、チェコにおける人文主義の受容は必然的にフス派運動の影響を強く被っており、本発表ではその点に注目し、両者を関係づけて整理することを試みた。

  ドイツ皇帝兼ボヘミア王カレルが宮廷を構えるプラハには、二つの思想的潮流が姿を現した。一つは人文主義信奉者のサークルである。カレルがペトラルカやコーラ・ディ・リエンツォらと交流していたことはよく知られているが、王国の尚書官たちも彼らと文通して文体を模倣していた。なかでも局長ヤン・ゼ・ストシェディは尚書局やプラハ大司教座に弟子を育成し、翻訳活動も行っている。ただし、彼らの関心は詩作にはなく、もっぱら書記官としてラテン語能力を磨くことに向けられていた。一方、カレルが教会の刷新を図って招聘したコンラート・ヴァルトハウザーに続く説教師たちは、国際的な教会改革の思想を取り込みつつも、チェコ語での説教と執筆活動を重視していた。しかし、この国際性と俗語重視という共通点にもかかわらず、人文主義者と説教師の交流は確認できない。

  15世紀に入りフス派戦争が起こると、大学からドイツ系の教師や学生が退去し、プラハは学問的な中心性を喪失した。この戦争の結果、大学のみならず都市プラハ自体も疲弊し、両者は人文主義の受け皿としての能力を低下させてしまう。しかし、ヤン・ゼ・ストシェディ以来の伝統として、この時代にも尚書局に人文主義信奉者がいたことは、『ボヘミア年代記』を執筆したエネア・シルヴィオ(後の教皇ピウス2世)の人脈から判明する。

  そして、ヤン・ゼ・ストシェディの伝統が尚書局にもまして強く確立していたのは、オロモウツ司教座の聖堂参事会であった。実は、ヤンは王国尚書局長と同時にオロモウツ司教の任にあり、とりわけ晩年はオロモウツで新たなサークルを形成していたのである。オロモウツの位置するモラヴィアは、辺境伯領としてボヘミア王国から独立しており、フス派戦争の波に直接巻き込まれることがなかったことも状況を後押しした。この後、この司教座はタス・ズ・ボスコヴィツ、スタニスラフ・トゥルゾ、ヤン・ドゥブラヴィウスらの人文主義司教を輩出し、モラヴィアはヨーロッパの人文主義者たちとの交流を保ち続けた。
 モラヴィアの政治状況は、カトリックである司教座系の人文主義者のみならず、フス派信者にとっても大きな影響を与えた。15世紀中葉のラント長官ツチボル・トヴァチョフスキーは聖杯派(フス派穏健派)に属し、司教タスとの往復書簡や様々な著作物によって知られている。また、聖杯派から分離した同胞団も、ボヘミアより宗教的に寛容なモラヴィアへ逃避してきた。彼らは自前の印刷工房を構えて新約聖書の翻訳を行っていたが、出版物のジャンルは宗教にかぎらず、医学、法学、歴史、植物学と多岐に渡っていた。このような世俗的著作物と宗教的著作物の混在と、いわゆる文学性よりも実用性を重視した姿勢は、チェコの人文主義時代の特徴と言われている。

  フス派運動自体は、15世紀を通じて徐々に宗教的和解へと終息してゆく。この時期、市民−聖杯派−チェコ語/(貴族)−カトリック−ラテン語という図式で、チェコの状況を説明する傾向がある。しかし、その裏では人文主義的教養を通じて両者が接近していたことも見逃せない。例えば、人文主義者であるジェホシュ・フルビーはキケロやペトラルカ、エラスムスの作品をチェコ語に翻訳したことで知られるが、彼の都市下層民や農民への眼差しはフス派の社会運動に通じる側面がある、との評価もある。15世紀後半から、印刷工房を所有している人文主義者を中心にチェコ語文学や翻訳活動が盛んになってゆく。

  ところで、全般的にモラヴィアのほうがボヘミアよりも印刷活動が自由、そして活発であった。この傾向は1547年にハプスブルク家に対する諸身分の蜂起が失敗した後ますます強まってゆく――ボヘミアでは同家による検閲が強化される――。ヤン・ギュンター、パヴェル・ヴォリチーニらの印刷工房の活躍と共に、ここで再び同胞団の出版活動に触れておかねばならない。同胞団は、当局の監視の目が厳しくなるにつれ、工房をムラダー・ボレスラフからプシェロフ、イヴァンチツェへと移転させた。最後の地となったクラリツェでは、1578−1620年に70冊に及ぶ様々な分野の作品を出版している。なかでも「クラリツェ聖書」と呼ばれる聖書のチェコ語訳は、19世紀の民族復興期に、チェコ語のみならずスロヴァキア語を文語として洗練させるための礎となったのである。

  こうした人文主義的コスモポリタニズムとフス派運動期に現れるチェコ・ナショナリズムは人文主義者の出版活動を通じて融合しつつ、16・17世紀転換期にかのルドルフ2世の宮廷で花開く。しかし、1620年のビーラー・ホラの敗戦によって文化的繁栄の時代は終わりを告げ、代わってハプスブルク家によるプロテスタント信者の追放と再カトリック化政策の波が押し寄せる。こうして17世紀以降、チェコは俗語を重視しつつも広く国外の思想的・学問的動向に目を配っていた人文主義の遺産を失うことになったのである。



       
■ エッセイ

  「貴族の共和国」と現代ポーランド――政治文化をめぐる論争
                                 小山 哲(京都大学大学院文学研究科助教授)


  ワルシャワの旧市街広場の北西角にたつ「聖アンナ館」(Kamienica pod sw. Anna)は、15世紀半ばにさかのぼる歴史をもつ4階建ての建物である1 。館の名称は、建物の2階角の壁龕に置かれた聖アンナと聖母子の塑像に由来する。現在、この建物とその南隣の「ギザ館」(Kamienica Gizinska)に、ポーランド科学アカデミー歴史学研究所が入っている。21世紀COEプログラムの一環として、2005年3月16日から22日まで、この聖アンナ館にある研究所の図書室で文献を調査する機会をいただいた。1階にある図書室の窓は広場に面しており、窓の外は観光客でにぎやかなのだが、閲覧室には、ときどき研究所のスタッフが調べものにくる以外は、私ひとりしか利用者はおらず、ひっそりと静かであった。もっとも、研究所の蔵書は、雑誌類は比較的よく揃っているが、書籍は十分とはいえず、不足を補うために滞在の後半は国立図書館に通うことになった。

  今回の滞在については、3月6日のCOE国際シンポジウムで報告をいただいた科学アカデミー歴史学研究所のエドヴァルト・オパリンスキ氏にお世話になった。この間、同氏には、専門の近世ポーランド史についてだけでなく、ポーランドの学術研究の現状や政治・社会問題にかんする私の雑多な質問に、辛抱強くお付き合いをいただいた。以下に紹介する論争を知ったのも、ワルシャワ滞在中の雑談がきっかけである。

 旧市街のレストランで夕食をごちそうになっていたとき、オパリンスキ氏(以下、敬称を略す)が、最近『政治展望』という雑誌に文章を頼まれて書いた、たぶん書店に並んでいるはずだ、と言う。さっそく翌日、ワルシャワ大学前の書店で、その雑誌を見つけて購入した。「サルマタの共和国」という小特集が組まれ、オパリンスキを含め3名の執筆者の文章が掲載されている2。『政治展望』は現代政治の批評を中心とする季刊誌で、私の守備範囲外の刊行物であったから、あのとき食事の席で話題にならなければきっと見逃していただろうと思う。

  小特集の3篇の文章をとおして読むと、執筆者のあいだで近世のポーランド・リトアニア国家に対する評価が大きく異なっていることがわかる。オパリンスキは、近世の共和国の支配身分である貴族(シュラフタ)が構成する社会を「市民社会」とみなし、その政治参加の水準と政治文化の成熟度を高く評価している3 。そのうえで彼は、シュラフタの政治文化の伝統の最良の継承者は自主管理労組「連帯」であったと指摘し、現在のポーランド国家は旧社会主義体制の権力エリートとの妥協のうえに成立した「逸脱した共和国」(Rzeczpospolita wykrotna)であり、市民の政治参加の水準はむしろ低下していると批判する。これに対して他の2名の執筆者(A.リサク、M.グルニィ)は、近世の共和国を、私的な利害が公共の利益に優越し腐敗が横行する国家として描き出し、現在のポーランド国家(第3共和政)のなかに「貴族の共和国」(第1共和政)の政治文化が負の遺産として継承されていることを指摘する。後者のネガティヴな貴族共和政観の下敷きになっているのは、一昨年亡くなった歴史家アントニ・モンチャクによる近世ヨーロッパの権力構造論とクリエンテラ研究である4

  モンチャクの近世ポーランド国家論は、18世紀末のポーランド分割という結末から貴族共和政の特質を批判的に検証しようとする点で、19世紀後半のクラクフ学派の歴史観と通じるものがある5。モンチャクは、分割を導く条件は15世紀まで遡りうるとしたうえで、どの時点まで軌道修正が可能であったかを検討する。モンチャクによれば、ポーランド・リトアニア共和国を構成する諸要素(王権、身分制議会)は他のヨーロッパ諸国にも共通するが、西欧で非集権的なルネサンス王政から中央集権的な絶対王政への転換が生じたのとは対照的に、ポーランドではルネサンス王政から、さらに地方分権的な貴族共和政へと移行した。そこでは貴族の特権的地位が強化されると同時に、貴族層内部の階層分化が進み、中小貴族が大貴族に従属するクリエンテラが発達した。モンチャクは、貴族の地域的なパトロン・クライアント関係に由来する遠心力が、王権や専門化した官僚による集権化の力を上回るような権力状況を、「周辺の優位」(dominacja peryferii)と表現する。ポーランド分割は、このような「周辺の優位」の帰結として説明されることになる。

  モンチャクのクリエンテラ論は、しばしば時代を超えた大胆な比較論を展開する点にも特徴がある。たとえば、1975年に出された貿易相通達第58号「定められた者による輸入品の関税免除について」は、ポーランド共産党の党エリートとその家族について税関検査の免除を認めている。これはシュラフタの関税免除を定めた1496年の特権と酷似している、とモンチャクは指摘する。社会主義体制を支える党官僚の特権的地位とシュラフタの身分的特権との類似性を指摘するモンチャクの見解は、反体制運動の側にシュラフタの政治文化の継承者を見いだそうとするオパリンスキの立場とは、きわめて対照的である。しかし、他方でモンチャクは、現在の第3共和政のなかにもパトロン・クライアント関係の存在を認め、モンチャクに依拠するリサク、グルニィも、情実に左右され汚職が絶えない今日のポーランドの政治文化の欠陥を指摘している。これは、第3共和政の「逸脱」に対するオパリンスキの否定的な評価とそれほど隔たるものではないといえよう。近世の共和国に対する評価の違いにもかかわらず、『政治展望』の小特集を構成する3篇の論説は、第3共和政の現状に対する批判的なスタンスという点では、むしろ一致した姿勢を示しているのである。近世の共和国に対する見解の相違をもたらしているのは、現状の認識それ自体ではなく、現状を批判するさいに依拠する歴史的な遠近法の違いであるといえよう。

  もちろん、エリート層内部の利権をめぐる癒着構造は、ポーランドだけにみられる現象ではない。したがって、ヤヌシュ・タズビルのように、今日のポーランドの政治的腐敗の原因をもっぱら近世の貴族共和政の伝統によって説明する論法それ自体を問題とみなす歴史家もいる。同様の疑問は、現代ポーランド社会のポジティヴな特徴をシュラフタの政治文化にさかのぼらせて説明するような場合にも生じる。自国の過去の特定の時代をとくに強く意識し、常にその歴史を参照しながら現在の政治について語る話法自体もまたひとつの政治文化の所産であり、歴史的な観点から説明がなされるべき対象なのである6

  以上に紹介した一連の議論が示すように、ポーランドの歴史家にとって、近世の「貴族の共和国」は、単なる過去の遺産ではなく、社会主義体制崩壊後の政治状況に対する認識や価値判断と深く結びついた研究対象である。ヨーロッパ文化の知的な土台を形作ってきた人文学的教養の歴史と、現代におけるその意義を探ろうとしている私たちにとって、ポーランドの研究者がこのような問題意識をもちながら近世の政治文化にアプローチしているということは、知っておいても無駄ではないだろうと思う。



(1) ワルシャワ旧市街は、1944年のワルシャワ蜂起のさいに、ドイツ軍によってほぼ完全に破壊された。現在の聖アンナ館は、1948年から53年にかけて、残っていた建物の残骸を利用しながら再建されたものである。

(2) “Republika Sarmatow”: Edward Opalinski, “Obywatel i panstwo. Wokol Rzeczypospolitej Obojga Narodow”; Agnieszka Lisak, “Staropolska polityka”; Maciej Gorny, “Co dziedziczymy po Sarmatach?”, Przeglad Polityczny, 67/68 (2004), s. 104-119.「サルマタ」(サルマチア人)とは、中世末から近世にかけて成立したポーランドのサルマチア起源論をふまえたポーランド貴族の呼び名である。

(3) 「シュラフタ=市民社会」論については、E. Opalinski, Kultura polityczna szlachty polskiej w latach 1587-1652, Warszawa 1995; E. オパリンスキ(小山哲訳)「16・17世紀のポーランドにおける古典教育と政治文化」、南川高志・小山哲編『近代ヨーロッパにおける人文主義の継承と変容――政治文化・古典研究・大学』、京都大学大学院文学研究科・21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」国際シンポジウム報告書、2005年、95-117頁を参照。拙稿「人文主義と共和政――ポーランドから考える」、小倉欣一編『近世ヨーロッパの東と西』山川出版社、2004年、18-44頁でも、この見方について簡単な紹介を試みた。

(4) Antoni Maczak, Rzadzacy i rzadzeni. Wladza i spoleczenstwo w Europie wczesnonowozytnej, Warszawa 1986; Id., Klientera. Nieformalne systemy wladzy w Polsce i Europie XVI-XVIII w., Warszawa 1994; Id., Nierowna przyjazn. Uklady klientalne w perspektywie historycznej, Wroclaw 2003.

(5) イェジ・イェドリツキは、モンチャクがクラクフ学派を代表する歴史家のひとりであるミハウ・ボブジンスキを高く評価していたことを指摘している。Jerzy Jedlicki, “Przedmowa”, w: A. Maczak, Historia jest we mnie, Warszawa 2004, s. 10.

(6) Janusz Tazbir, “Relikty sarmatyzmu w III Rzeczypospolitej”, w: Id., Silva rerum historicarum, Warszawa 2002, s. 334-336.


         
■ 今後の予定

第2回研究会大会

日 時 : 2006年1月9日(月・祝) 午後1時30分〜5時30分
場 所 : 京都大学大学院文学研究科・新館1階第1講義室
報 告 : 安原 義仁 氏(広島大学教育学部教授)
      佐々木 博光 氏(大阪府立大学人間社会学部助教授)
      金澤 周作 氏(川村学園女子大学文学部専任講師)

   *準備の都合上、参加をご希望の方は当研究会事務局まであらかじめご連絡ください。
   *なお、本年度もこの他に研究会大会、国際シンポジウムの開催を予定しております。
    なにとぞお力添えくださいますようお願い申し上げます。






≪後記≫

  10月に入り、めっきり秋らしくなってまいりました。皆様におかれましては、お変わりなくお過ごしのことと拝察申し上げます。

  本年8月より教務補佐を担当させていただくことになりました京都大学大学院文学研究科博士後期課程3年の阿部拓児と申します。不慣れなためご迷惑をおかけすることもあると存じますが、よろしくご指導のほどお願い申し上げます。

  この度は、ニューズレター第5号を無事お届けすることができほっとしております。また、7月の第2回研究会の折は、多くの方々にご参加いただき、心よりお礼申し上げます。

  来年1月には、第2回研究会大会を開催いたします。ご多忙の時期とは存じますが、なにとぞご支援・ご協力を賜りますようお願い申し上げます。(阿部)


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