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■ 活動報告 |
第1回研究会 シンポジウム(2002年11月3日、於京大会館) 「歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ 〜新しいヨーロッパ史像を求めて〜」をふりかえって 日 時: 2002年12月27日 午後1時半〜5時 場 所: 御車会館 報告者: 大津留 厚氏(神戸大学)、杉本 淑彦氏(京都大学)ほか 第1回研究会は12月27日に20名近い参加者を得て開かれました。この研究会に先だって、昨年11月3日のシンポジウム「歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ」の発言記録をテープから文書に移し、さらにこれを整理要約した文書を作成し、研究会メンバーやシンポジウム・コメンテーターに配布しました。研究会ではこれらに基づき、シンポジウムで明らかにされた問題点、論じられなかった点などを議論しました。くわえて神戸大学の大津留厚氏、京都大学の杉本淑彦氏から、ハプスブルク帝国とヨーロッパ・アイデンティティ、フランス近代史からみたヨーロッパ・アイデンティティについての報告をいただきました。とくに議論が白熱したのは、イスラム史、ビザンツ史、ロシア、東中欧など、ヨーロッパの中枢部以外、ないしは非ヨーロッパ地域の歴史からみたヨーロッパ・アイデンティティの問題点に関してでありました。「ヨーロッパ」を否応なく意識させられたのは第一に非ヨーロッパ世界であったことを、あらためて認識させられます。第2回研究会はイスラム史研究者、羽田正氏の報告をいただき、こうした点についての議論をすすめ、ヨーロッパ・アイデンティティの問題点を様々な視点から検討していく予定です。(文責:服部良久) 報告要旨
この報告の目的は、ヨーロッパ概念を直接問うものではなく、ヨーロッパが持つ独特の「東方」概念を、もともと「ヨーロッパの東方国家=Reich im Osten」の意であったオーストリア(Osterreich) における「東欧」概念の変化を通じて考えることにある。 そこまで問題を限定しても、なお無数の東欧像がありうるだろうが、ここでは特にオーストリアの東欧研究を担ってきた「東欧・東南欧研究所」が研究対象とした地域を考察する。東欧・東南欧研究所はもともと「東欧史セミナー」の名で呼ばれていたが、1948年にバルカン学研究所図書館を吸収してその名でよばれるようになった。その東欧史セミナーは19世紀の末にオリエント学講座とスラブ言語学講座が合流する形で成立し、そこではハプスブルク帝国を含まない、より東の地域が研究対象であった。ところが1918年にハプスブルク帝国が崩壊すると「オーストリア」概念が縮小するのに合わせて「東欧」概念が拡大していくことになるが、それが研究対象の変化として現れるのは第二次世界大戦後の1948年以降である。前にも述べたように、東欧史セミナーはバルカン学研究所図書館を吸収して東欧・東南欧研究所となり、旧ハプスブルク帝国地域を含む、狭い意味でのオーストリアよりも東の地域が対象となる。 さらに1989年に東欧諸国の共産党政権が崩壊し、学術交流が盛んになると、東欧・東南欧研究所はブルノ、ブラティスラヴァ、ブダペシト、リュブリアナおよびソフィアに支部を作り、「ハプスブルク帝国」+ブルガリアの学術交流の拠点となるにいたった。その場合研究対象は「狭いオーストリアも含むハプスブルク帝国+ハプスブルク帝国よりも東の地域」となり、オーストリアの東欧概念はオーストリアをも含むものになった。 もちろんこの研究所の対象地域の変遷だけでオーストリアの東欧概念一般の変化を語ることはできないし、ウィーン大学だけをとってもオーストリア史研究所との一定の棲み分けがあることも事実である。しかしヨーロッパの「東」における「東」概念の変化は、そこから「西」にある「ヨーロッパ」像を考える一つの視点を提供しているといえるだろう。
ナポレオンのヨーロッパ支配はヨーロッパ統合に与したのか。このような問いかけが、フランスでは今日でもよくおこなわれています。現在進行中のヨーロッパ統合を是としたうえで、その統合の起源をナポレオンに見るというのは、ナポレオン好きの人間がいかにも思いつきそうな発想だといえるでしょう。もちろんアカデミズムの世界では、ナポレオン体制は政治面においても経済面においてもヨーロッパ統合に与したとはいえない、という解釈が多数派です。 客観的な研究に基づけばヨーロッパ統合に与したとはいいがたいナポレオン体制を、統合の起源の一つだと思いこんでしまう。人びとのこのような心性のありようが、じつはヨーロッパ・アイデンティティのあらわれの一つではないだろうか、という気がします。ナポレオン体制の実際の事績と、その事績に関する記憶とのあいだの差異を解明することは、ヨーロッパ・アイデンティティの形成を考えるうえで、たいへん重要なことだと思います。 ヨーロッパ・アイデンティティ研究においてナポレオン体制を取りあげることが重要だと思われる理由は、もう一つあります。「文明化」という問題です。ナポレオンは、エジプトやスペイン、東欧などの征服地を支配する際に「文明化」を看板に掲げますが、「文明化」政策の実際の中身は地域ごとに違っていたようです。この違いは、ヨーロッパと非ヨーロッパとの心性上の境界線が当時どこで引かれていたかを、わたしたちに示唆してくれるでしょう。もちろん、境界線の内と外における「文明化」の事績を後の人びとがどのように記憶してきたのか、ということも、ヨーロッパ・アイデンティティのありようを探るうえで重要な問題だと思います。 |
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■ ノート 新しい時代を迎えるプラハから
2003年2月2日、チェコ共和国の大統領ヴァーツラフ・ハヴェルが引退した。チェコ現代史において彼が果たした役割については詳しく述べるまでもないだろう。1989年のビロード革命から丸13年間、彼の引退をもってチェコは社会主義崩壊後の時代に一つの区切りをつけたとみることができる。私が初めてチェコを訪れたのは2000年の夏であり、社会主義時代を知らないのはもちろんのこと、その崩壊後の急速な変化も経験していない。しかし、体制自体は安定した軌道に乗ったと思われるここ数年、むしろ生活レベルでの変化が非常に大きいということは、チェコに長く住んでいる人の共通見解であるようだ。以下、私が直接経験し得たこの二年半の間の変化について、そういった日常生活の範囲から幾つか触れてみたい。 歴史という人文系の学問を専攻する立場上、チェコにおいても頻繁に訪ねざるを得ないのが本屋と古本屋である。プラハの古本屋に関しては、故千野栄一氏が著書の中で触れているように、最近は倉庫の維持費や質の良い古本の供給源などが問題となっている。中心部から撤退したり、観光客相手の古地図や絵ハガキの比重を増しているところもあったりと、商業的にはなかなか苦戦しているようである。むしろ、ブルノなどの地方都市で意外な発見をすることが多い。それに対して、古本屋とは対照的に、市の中心部への大型書店の出店が続いている。 私がプラハに来た当初、人文系の専門書でいえばカレル大学哲学部近くの「Fiserフィシェル」、それ以外も含めた全般を扱っている大型書店では、ヴァーツラフ広場に面した「Dum knihy本の家」と「Academiaアカデミア」の二つがあった。この三ヶ所を廻れば、新刊に関してはたいてい事足りた。出版冊数が極めて少ない90年代前半の本に関しては、丹念に市内の本屋を探し回るか、それとも古本屋に出るのを気長に待つ、というのが一般的である。ただし、古本屋にも出てくることはほとんどないので、結局のところ図書館で借りてコピーするしかない。ところで、ヴァーツラフ広場には上記二店以外にも本屋はあるのだが、昨年、「本の家」が改装して売り場面積を広げたかと思うと、さらに別の大型書店ができた。広場からちょっと入ったところでも新しい店を見かけ、客の奪い合いにならないものかと余計な心配もしたが、チェコの出版産業は非常に好調なようである。 売り場では、チェコ文学と並んで、歴史書のコーナーがとても広く設置されている。各種新刊と共に世界各国史シリーズも続々と出版され、90年代末から刊行が始まったチェコの通史は出版社ごとに三種類もある。この活況は、一つには政治・経済面での安定が理由としてあげられ、またもう一つには、それを背景として、体制変換後の視点で「自国史」、その他の歴史を書く必要があった、とも言うことができるだろう。ただし、チェコはスロヴァキアと違って、一から「自国史」を創造する必要に迫られているわけではないので、素直に出版界の好況に帰すべきかもしれない。少なくとも私の専門である中世部分を読むかぎり、内容から何らかの思想や気負いといったものを感じることはなく、むしろそういったイデオロギー的なものから解放された、冷静な距離感というものを感じ取れる。 当然のことながら、チェコ史学も時代の影響を受けて発展してきた。その揺籃期にあたる19世紀後半にはドイツとの対決色が強く、もちろん戦後はマルクス主義的な史観が支配的であった。しかし、近年顕著なのは、そういった強烈なイデオロギーからはちょっと距離を置いた客観性である。といっても、戦間期のように主観を排除して史料に現れる「事実」のみを記述しようとしているわけではない。その特色を強いてあげるとすれば、「ヨーロッパ復帰」と表現できるかもしれない。中世史に関していえば、チェコの歴史に対して圧倒的な影響力を及ぼしてきた神聖ローマ帝国および隣国のポーランド、ハンガリーだけでなく、その向こう側の英仏や教皇庁に対する視線、それらの勢力が総体として織り成す「ヨーロッパ史」の中に「チェコ史」を位置づけようとする意識、これらが明確に打ち出されているように思われる。さきほど、通史刊行の背景として思想的な色合いが薄いかのように述べたが、EU統合を前に控えて、「チェコ民族」のアイデンティティを今一度探求する、という意識をチェコの歴史家たちが共通して抱えていることは、もちろん否定できない。 さて、「ヨーロッパ復帰」意識と関連して、と言えるかどうか、チェコの歴史家の著作のみならず、ここ二、三年は翻訳出版も盛んである。試しに机の上にある新刊を一冊手に取り、既刊書および刊行予定書を見てみると、主な著者はジャン・クロード・シュミット、カルロ・ギンズブルク、フィリップ・アリエス、エーディト・エンネン、エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ、ジョルジョ・デュビー、マルク・ブロックと続く。日本でももはや古典となった感のある彼らの研究が、個々の研究者レベルではともかく、一般レベルではようやくこれから摂取されようとしているのである。 一般チェコ人のEU加盟に対する期待は非常に高く、それは「もともとヨーロッパ世界の正当な一員であったにもかかわらず、不当にも東側に取り残された」という意識の裏返しでもあろう。できるだけ早く「ヨーロッパ」に復帰してその一員として行動する。この基本方針は、ハヴェルの後を誰が継いでも(いまだに決まっていないが)基本的に変わらないと思われる。上記のように、主として「西側」の戦後歴史学の成果が大量に刊行されることも、そういった「ヨーロッパ復帰」を希求する意識の一つの表れかもしれない。ただし、何が「ヨーロッパ」なのか、そういった根本的問題に立ち返ってみる冷静さを得られるのは、もうちょっと先のことであろう。 ところで、チェコ中世史ではチェコが属する地域を「中欧stredni Evropa」と表現する。これは、私が見たところ、凡そチェコ、ハンガリー、ポーランド、オーストリアおよびドイツを指していて、フランス、イングランド、イタリアといった、いわゆる西欧と、東の正教世界に対する「中央」を意味すると思われる。ドイツ人の居住地域および彼らによる東方植民運動の影響を大きく被った地域、と定義することもできるが、おそらくチェコ人はそうした括りを嫌がるだろう。これは、チェコを中心として見た場合の、非常にプリミティヴな地理的概念なのである。プラハ城の少し後方にあるストラホフ修道院は、チェコ一の蔵書数を誇る修道院図書館で名高いが、ここには、イベリア半島が頭部、イタリア半島が右腕、ロシアからドナウ下流、ギリシャにかけてがスカートといった具合に、ヨーロッパを女性として擬人化した16世紀末の地図が展示してある。チェコ(ボヘミア)は?もちろん彼女の心臓である。
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■ 調査・出張報告
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京都大学大学院文学研究科/21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」 13研究会「歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ」 |