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■ 活動報告 @第3回研究会 日 時: 2003年4月27日(日) 午後1時〜5時 場 所: 京大会館・102会議室 報告者: 羽場 久シ尾子氏(法政大学教授) 「EUの拡大と中欧のアイデンティティ:European Identity と National Interest のはざまで ―冷戦の終焉から対イラク戦争まで―」 松本 悠子氏 (中央大学教授) 「アメリカ意識の構築とヨーロッパ ―新世界、西洋文明、白人―」 今回は、中・東欧現代史の羽場久シ尾子氏と、アメリカ史の松本悠子氏にご報告いただいた。今日、EUが急速に東方拡大をとげていくなかで、あらためて「ヨーロッパとは何か」「そもそもどこまでがヨーロッパか」という、文化的・地理的アイデンティティが問い直されている。羽場氏はまず、かつて冷戦体制下で「東欧」と一括された東の諸国が、みずからを「中欧」と捉え返してヨーロッパへの文化的帰属意識を再確認しつつ「西方回帰」した、その歴史的記憶の在りかを指摘する。そのうえで、これらの地域が現実の国際政治のなかでは、NATOという、アメリカを含めたもうひとつの受け皿とのあいだで「国益」を図らざるをえないアンビヴァレントな状況を、さまざまな角度から鋭く検証された。コソヴォ空爆からイラク戦争にいたる国際政治への展望は、「歴史としての」ヨーロッパ・アイデンティティに遡及するうえで、欠かせない前提的認識であることをあらためて確認した。 松本報告では、ヨーロッパ移民に起源を持つアメリカ合衆国が、「古きヨーロッパ」を乗り越えるものとして自己を対置する一方で、「ヨーロッパ文明の継承者」像を形作りつつ、自己意識(アメリカン・アイデンティティ)を形成してきたプロセスが提示された。建国期に遡る克明な言説分析にもとづく論点は多岐にわたり、ヨーロッパ史家にとってはまことに刺激的であった。余談だが、アメリカが「ヨーロッパ文明」をモデル化する一方で、そのヨーロッパ移民を「序列化」していったことの指摘などは、今日的にも興味深い。EUとNATOに拠りながら苦悶する「中東欧」(劣位に置かれた移民の母国)が、アメリカによって「新しいヨーロッパ」として歓迎されている事態は、「歴史の皮肉」を感じさせずにはおかない。いずれにせよ、この両義的なアメリカ像の推移が、ヨーロッパ・アイデンティティに浅からぬ影響を及ぼしていることは疑いなく、松本氏も指摘するように、アメリカ史家とヨーロッパ史家のさらなる対話が望まれよう。 討論では、さらに論点がひろがり、ローマ・カトリック文明圏とビザンツ・正教文明圏、ロシア・ウクライナのヨーロッパ性、イングランド(アングロ・サクソン)のヨーロッパ認識など、主として広域文明圏における宗教・人種・言語と政治のねじれた関係が検討された。 なお、昨秋のシンポジウム以降、今回までつみ重ねてきた討論をふまえ、6月末をめどに論文集執筆に取りかかることを確認した。(谷川 稔) |
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【報告要旨】 報告1
なぜ今、EUの拡大と中欧のアイデンティティなのか。 2002年12月に中・東欧と地中海10カ国のEU加盟が決定し04年5月には最終的に加盟が実現され25カ国欧州となる予定である。今回ルーマニア、ブルガリアが含まれずトルコは交渉にも入れなかったため、拡大は当面Christianityの金持ち先進国クラブの形成ではないかという批判も聞かれた。他方NATOも02年11月の拡大決定により、04年半ばまでには19+7カ国の拡大NATOが実現される。ここにはヨーロッパ・クラブの排他性はなく、西欧・北米、トルコ、中・東欧に加え、近い将来バルカンや東スラヴにまで広がる勢いである。 冷戦終焉後、2つに分断された欧州の壁が取り払われ、「ひとつのヨーロッパ」「ヨーロッパ回帰」が西と東の合言葉となった。時おりしもマーストリヒト条約が91年12月に合意、93年11月に発効され、欧州のさらなる統合の深化と拡大を促す欧州連合(EU)が創設された。 「中欧」という概念は、そもそも戦間期のドイツ支配の記憶としてではなく、第一次世界大戦前のハプスブルク帝国の文化圏の下で独自の多様で統合的な文化が花開いた記憶に拠っている(帝国支配すべてが肯定的に捉えられているという訳では必ずしもない)。 冷戦末期、東西分断が続く80年代に、反体制知識人のクンデラ、コンラードが「ヤルタを越える中欧概念」という用語を使い反体制文化人の間に広がった。89年に社会主義から資本主義への広範な体制転換が起こり、90年代初頭に各国で反体制派の知識人が政権を担うと、以後「中欧」の概念は一挙に拡大した。中欧概念は、それ自体東や南に対する優越意識を内包する。Center of Europe, Heart of Europe という言い回しにも象徴されるように、東との闘争・神聖ローマ帝国の継承としてヨーロッパの中心的正統性を自負するものでもある。加えて「西と東のはざま」「西の精神世界と東の貧困の共存」(エステルハージ)というambivalenceも持っている。 他方で、冷戦の終焉後、「ヨーロッパは一つ」という考え方は、「ヨーロッパとは何か」「ヨーロッパとはどこまでか」というIdentityの問い直しとつながる。これに関し、ポミアンやデイヴィスらにより、旧来「空白」に残されてきた「東部ヨーロッパ」を取り込みヨーロッパの定義を再確認する書が次々と出され、ベストセラーとなった(欧州は統合と分裂の歴史であり、境界線の歴史である、欧州とは異質の混合性であり、スラヴ・アジアと交わりながら成長したなど)。 本報告では、冷戦の終焉・社会主義体制の崩壊から2003年の対イラク戦争まで、「東」から「中欧」ないし「中・東欧」へと変わった地域が、なぜ・いかにしてEU/NATOへの加盟を目指し、「ヨーロッパ」と「中欧」をどのように自己認識し、EU/NATOへの加盟達成の過程でいかなる問題を抱え、またコソヴォ・アフガン空爆・イラク戦争の中でどのように対処していったかを、European IdentityとNational Interestのはざまで揺れる中欧地域の現状と問題点を探る中で検証した。 報告2
アメリカ合衆国とヨーロッパとの関係は複雑で、相矛盾する多様な側面を持っている。 本報告では、その多様な側面の一つとして、アメリカがアメリカであることを確認するために、アメリカ独自のヨーロッパ像をつくってきた歴史を紹介した。 建国当初からアメリカは、「腐敗堕落した旧世界=ヨーロッパ」像をつくり、それとは異なる「新世界」であることを主張してきた。それを如実に示したのは19世紀末のジャクソン・ターナーのフロンティア演説であろう。ターナーによれば、フロンティアでヨーロッパ人は自由と民主主義を実現するアメリカ人に生まれ変わるのである。 しかし、同時に、ターナーはフロンティアの消滅によりアメリカもヨーロッパと同じ道をたどるのではないかという危機感を抱いた。ターナーだけでなく19世紀末から20世紀前半に多くの人々に共有されていた国家や国民意識に関する危機感は、この時期のヨーロッパ像にも変化をもたらした。第1に、単にヨーロッパを否定するのではなく、アメリカが理解するところの「ヨーロッパ文明」にアメリカのルーツを求め、「ヨーロッパ文明」或いは「西洋文明」の発展したものとして「アメリカ文明」を位置づける動きが顕著になった。第2に、理念としてのヨーロッパを受け継ぎながら、現実のヨーロッパの人々に対しては序列化を行った。この時期、ヨーロッパからの移民は多くの摩擦を経験したが、それでも白人とみなされ、ヨーロッパは白人社会として位置づけられた。しかしながら、同時に「アングロ−サクソン人種」を頂点とした序列がヨーロパ系の諸民族の間につくられ、1924年の移民法に反映されたのである。第3に、商品だけでなくフォーディズム、広告、映画などのアメリカ的生産、流通様式がヨーロッパへ輸出され、それは目に見える形でヨーロッパとは異なるアメリカ的なるものをアメリカに意識させた。と同時に、ヨーロッパにおいて「物質主義的なアメリカ」という批判が高まり、アメリカの自画像に大きく影響した。 第二次大戦後、アメリカの優越性を示唆する楽観的なアメリカ例外主義が優勢になったものの、冷戦構造のなかで「西欧」に起源を持つ「西洋文明」の継承者という意識は続いていた。ところが、近年、西洋中心主義を批判する多文化主義者とアメリカが西洋文明の継承者であると主張する人々との間でアメリカのあり方に関する論争が行われている。国際関係においても、冷戦終結後、一極支配を目ざすなかで、アメリカにおけるヨーロッパ像はさらなる変化をみせているように思われる。 このように、アメリカは外なるものとしてのヨーロッパを意識しながら自らのアイデンティティを形成してきた。では、ヨーロッパは、外なるものとしてのアメリカを意識して、自らの求心力を高めたのであろうか。アメリカが外からつくり上げたヨーロッパ像は、ヨーロッパ・アイデンティティの形成に影響を与えたのであろうか。ヨーロッパ史研究とアメリカ史研究との対話が今後さらに必要になるように思われる。
A第1回セミナー 日 時: 2003年4月22日(火) 午後5時〜7時半 場 所: 芝蘭会館・2階研修室 講演者: ジョン・ノース博士 (John A. North, MA, DPhil(Oxon)) (ロンドン大学ユニヴァシティ・コレッジ歴史学科教授) 講演題目:「キケロとローマの神々」 本ホームページでの予告通りに、4月22日火曜日午後5時より7時半まで、京大近くの芝蘭会館において、ロンドン大学ユニヴァシティ・コレッジ歴史学科教授のジョン・ノース博士(John A. North, MA, DPhil(Oxon))のセミナーが開催されました。教授は、古代ローマ史、とくに共和政史と宗教史の専門家で、Roman Religion, Oxford, 2000 等の業績がある方です。当日は、まず同教授の「キケロとローマの神々」と題する講演を拝聴し、その後20名余りの出席者全員が簡単な自己紹介を英語でおこなった上で、講演の内容を中心とする討論をおこないました。ローマ人の宗教や心性に関わる出席者からの熱心な質問にノース教授が丁寧に回答され、2時間半ほどの短時間ではありましたが、意義深いセミナーとなりました。古代ローマ人のアイデンティティを考える上で多くの示唆を得られたと、主催者は喜んでおります。また、ローマ史以外の分野を専門とする研究者・院生の出席も得て、「宗教」を多面的に考える機会ともなりました。(南川高志) 【講演要旨】
ノース教授は、講演「キケロとローマの神々」のなかで、共和政後期の政治家キケロのローマ多神教にたいする態度を分析した。キケロの宗教的態度は、これまでも度々論じられてきたトピックであるが、19世紀以来の発展論的な宗教史においては、キケロは古拙なローマ多神教にたいして、懐疑的な態度を示していたとする見解が一般的であった。ノース教授はこのような見方に反対して、キケロの著作を大きく三種に分類し、そこにみられる彼の宗教的態度を分析することで、自らの考察を進めていった。 キケロの著作は、弁論、書簡、哲学的対話編に分類される。まず、弁論においてキケロは、ローマ宗教にたいし頻繁に言及をおこない、ローマ発展の基礎をその神々に求めている。従って、弁論においては、宗教にたいするキケロの懐疑的態度を強調する従来の見解は、否定されることになる。書簡と哲学的対話編においては、より問題が複雑になる。書簡では、修辞的な用法を除き、弁論にみられた神々への頻繁な言及は存在しない。同時にキケロは、個人として政治的な苦境にあったときにも、安易に神々へ救いを求めることはない。そして、このようなキケロの態度は、書簡相手の返信にみられる宗教的態度と一致しているのである。つまり、キケロは書簡という執筆形態に拘束された形で、文通相手である同時代のエリート層と同じ宗教的態度を示すのである。次に哲学的対話編であるが、ここでは『占いについて』が考察に値する。この著作においては、従来、宗教的な予言の非合理性を批判する登場人物マルクスとキケロ自身が同一視され、キケロの懐疑的な宗教態度が主張されてきた。しかし、物語作成者として時折みられるキケロの発言に注目するならば、宗教にたいする最終判断を読者に委ねようとするキケロの態度の方をむしろ重視すべきである。つまり、『占いについて』におけるキケロは、一方的な宗教批判者ではなく、哲学的対話編という形式に影響された上で、読者に開かれた宗教的態度を保持する第三者的な人物なのである。 以上が、ノース教授の講演の概要であるが、彼の主張の眼目は、キケロの著作をその内容との関係において考察し、著作内容にあわせた複数の宗教的態度を明らかにしたことである。そして、そこには、従来の一義的な見方では捉えることのできない、多様な「キケロ」が存在することになるのである。 (京都大学西洋史学専修D1 藤井 崇・要約) |
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■ エッセイ/ノート 「ヨーロッパ」がつくられる
イギリス人がEuropeと言うとき、イギリスを含めずにヨーロッパ大陸の地域を意味していることは少なくない。英和辞典で'Europe'という単語を引くと、ヨーロッパ、欧州という訳と一緒に英国と区別しての欧州大陸、という意味が載っている。しかしそのイギリスは、ユーロではなくポンドをまだ維持しているものの、ヨーロッパ連合、すなわちEUの主要国の一つである。とすると、「ヨーロッパ」という言葉は、イギリスを含んだり、含まなかったりしていることになる。 ここではイギリスの例をあげてみた。本プロジェクト「歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ」を含め、「ヨーロッパ」の概念をめぐる問題が近年さかんに議論されている。これがEUの発展という今現在の動向を反映していることは改めて指摘するまでもない。 さて、今年4月に邦訳の出版されたR・バートレット『ヨーロッパの形成 950年−1350年における征服、植民、文化変容』 伊藤誓、磯山甚一訳、法政大学出版局、2003年(原著Robert Bartlett, The Making of Europe, Conquest, Colonization and Cultural Change 950-1350,London,1993,pbk.1994.)は、この問題に対する中世ヨーロッパ史の分野におけるひとつの試みである。 副題に「征服、植民、そして文化変容」とあることに注目しよう。バートレットが「ヨーロッパの形成」というタイトルのもとに描写したのは、いわゆる中世盛期という時代、「ヨーロッパの辺境地域」が征服、植民、それにともなう文化変容によって、「ヨーロッパ文明」にとりこまれていく過程であった。外的拡大をとげつつ、この時期に文化的統一体としてのヨーロッパが形成されていくのである。では、「ヨーロッパの辺境地域」はどこを指しているのか、何が「中心文明」と考えられているのだろうか。 取りあげられている中心的事例は、ケルト世界へのイングランドの進出、ゲルマン人の東方植民、スペインの再征服運動、そして地中海沿岸での十字軍運動である。そして、この書物において「ヨーロッパ」概念の前提は、第11章「ヨーロッパのヨーロッパ化」で述べられているように、「中心が旧フランク帝国内にあり、ラテンに属してキリスト教的であるが、ローマ・カトリック教世界と同義というわけではなく、ある種の社会的・文化的特徴が目立っており、中世盛期の間にそれ自体が変容を続けながら周辺地域に拡張しつつあった」文化であり社会であった(412頁。以下、引用は邦訳による)。バートレットによれば、この「ヨーロッパ」が拡大していくことによって、「中世の後期以降、西と中央のヨーロッパのさまざまな地域には、これらの地域をひとつの統一体(as a whole)として見なすことが妥当な十分の共通の根拠があった。」(1頁)のである。 ところで、しばしば指摘されているように、精密な世界地図を描くことができるようになる前、中世ヨーロッパ人は、アジア、アフリカ、ヨーロッパという大きな三つの大陸の区分をもちつつも、ヨーロッパという地域的枠組みよりは「キリスト教世界」という抽象的な理念を意識していた。そしてもちろん、「キリスト教世界」というならば、それは理念上、人類すべての上に広がっていくというベクトルをもつことで、地理的概念としてのヨーロッパを超越していくものではなかったか。 本書で描かれているのは、軍事行為であり、植民であり、法や言語、そしてローマ・カトリック教の拡大の具体的側面である。中世の人々が「ヨーロッパ」という語に地理的な意味以上の何を感じていたか、どのような意味付けをもっていたか、という点は問題にされていないし、前述のような中世人の世界観のあり方を考えれば、そのような問いはなじまないだろう。一方、本書は、「ヨーロッパはひとつの地域であると同時に、ひとつの概念である。」(1頁)という印象深い一行で始まっている。すると、「ひとつの概念」とされるヨーロッパ、その「概念」をもつ主体は、現代の歴史家による、ということになるのだろうか。 原著が最初に出版されたのは、1993年であった。今からちょうど10年前にあたる。1991年に合意されたマーストリヒト条約が発効し、EUがスタートした年である。もちろん、これは偶然で1989年にバートレットがA・マッケイと共編した書物Medieval Frontier Societies (注1)からの研究上の連続と考えることもできるだろう。筆者の見る限り、本書の書評は大体において、詳細な事実を積み重ねることによってヨーロッパの辺境地域の変容を明らかにしていくバートレットの試みを高く評価しているようであった(注2)。90年代初期のヨーロッパ統合の問題と直接関連付けているものは見当たらない。そのなかで、本書を、「中世ヨーロッパの」という限定つきではあるが、ヨーロッパ拡大のダイナミズムの賞揚であると指摘するSpeculum誌の書評が注意をひく。さらに同評者は、拡大し、輸出されていったそもそものヨーロッパの文化的枢軸とは何か、を著者がほとんど述べていないことを問題にした。また、English Historical Review誌の書評は、バートレットのテーマ「ヨーロッパの変容」をさりげなく「より正確に言えば、ローマ・カトリック教世界の」と言い換えて書評を始めるのである。たしかに、バートレットが「ローマ・カトリック教世界と同義ではない」としたにもかかわらず、そのヨーロッパ概念は、ローマ・カトリック教世界とほぼ重なり、それは説明分析されることなく前提とされている。筆者に思い起こされたのは、本プロジェクトの第二回研究会「「イスラーム世界」とヨーロッパ?」において、現代の歴史家たちが自明視しがちな「ヨーロッパ」が論点となっていたことであった。 ニューズレター第2号に掲載された、藤井真生氏の「新しい時代を迎えるプラハから」では、近年のチェコ中世史における「ヨーロッパ復帰」意識が言及されていた。本書の日本語版が出版される少し前、2002年12月にはチェコを含め、いわゆる東欧10ヶ国加盟が決定している。2004年には25カ国を含む拡大EUが発進することになったのである。何をもってこの「ヨーロッパ」の名をもつ巨大な統合を成立させる土台とするのか、さらなる議論の展開が予想される。 バートレットが、「ひとつの地域であると同時にひとつの概念である」と述べた「ヨーロッパ」、その「ひとつの概念」は、これからどのように変わっていくのだろうか。分断と統合、多様性と変化をもつ歴史的概念としての「ヨーロッパ」と、現代の世界において、これまでにない共同体システムを模索しつつ作りあげていこうとするEU体制の試みは、2004年、新たな「ヨーロッパの形成」をもたらすことになるのだろうか。
注1) R. Bartlett, A. MacKay, eds.(Oxford, 1989). 注2) R. R. Davies, English Historical Review, 109 (1994), pp. 656-8; H. E. J. Cowdrey, The International History Review, 16 (1994), pp. 120-2; W. D. Phillips, Jr., American Historical Review, 100 (1995), pp. 143-4; H. Kaminsky, Speculum, 71 (1996), pp388-90. |
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京都大学大学院文学研究科/21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」 13研究会「歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ」 |