歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ
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No.5  2003年9月10日発行

-CONTENTS-
活動報告 報告要旨(井野瀬)
報告要旨(杉本) エッセイ(堀内)
今後の予定



■ 活動報告

第3回研究会

 日 時: 2003年7月20日(日) 午後1時〜5時
 場 所: 京大会館・102会議室
 報告者: 井野瀬 久美惠氏(甲南大学)
        「「イギリス」を創り直す ―ブリテン、帝国、ヨーロッパ―」
       杉本 淑彦氏(京都大学)
        「ナポレオンとヨーロッパ意識」


 第4回研究会では、イギリス帝国史の井野瀬久美惠氏、フランス近現代史の杉本淑彦氏にご報告をいただいた。井野瀬氏は、1990年代以降のイギリスにおけるアイデンティティをめぐる議論を、「ブリティッシュ」と「イングリッシュ」のあいだの相克、旧植民地出身者による「ブリティッシュ・ブラック」の主張、という2つの角度から整理したうえで、「イギリス」からヨーロッパを語ることの意味を問いかけた。氏の報告は結果的に、イギリスにとって依然として存在する「ヨーロッパ」との微妙な距離感を浮かび上がらせた。他方、杉本氏は、ナポレオン時代のフランス社会のヨーロッパ意識のなかに、野蛮な「他者」=オリエントとは対照的な「文明」的世界としての自意識が潜んでいることを、図像の分析をふまえて鮮やかに示した。のちにナポレオン帝国をEUの先駆とみなす「伝説」が出現することが示すように、イギリスとは違って、ここでは「ヨーロッパ」との距離感はほとんどない。このように、今回の研究会では、「ヨーロッパ」に自己同一化する姿勢において対照的ともいえる2つの事例が取りあげられた。しかし、報告につづく討論のなかで、両氏の報告に共通する問題の存在も明らかとなったように思う。以下、若干私見をまじえながら、2点を記しておきたい。

 ひとつは、ヨーロッパ・アイデンティティと過去の植民地帝国の遺産との緊張をはらんだ関係である。杉本報告は、近代におけるヨーロッパ・アイデンティティの形成自体が、植民地支配を正当化する「文明」対「野蛮」の二項対立的世界観と不可分の関係にあることを明らかにした。他方で、今日のヨーロッパ社会は、旧植民地出身者を重要な構成員として成り立っており、そのことは、井野瀬報告が示すように、ヨーロッパ的アイデンティティの内実の問い直しと再構築を促している。井野瀬氏も言及されたユルゲン・ハーバマスとジャック・デリダ連名のアピール「われわれの戦後復興――ヨーロッパの再生」(日本語訳は『世界』8月号、86-93頁に掲載)は、「帝国の喪失を骨身にしみて体験しなければならなかった」ヨーロッパ諸国が学び得たのは、「人々に強制され人々を根こそぎにしていった近代化の暴力――その暴力の責めを負う、勝者といういかがわしい役割のなかに置かれた自分自身を、敗者の視点から認識すること」だという。この発言を字義どおりに受けとめるならば、今後のヨーロッパ・アイデンティティは、杉本報告の指摘するようなヨーロッパ外世界に対して差別的な近代ヨーロッパの自己認識に対する厳しい批判的省察のうえに築かれることになるはずである。しかし、同じアピールのなかに次のような1節――「フランス革命に由来する政党システムは、くりかえしコピーされてきた。しかしこのシステムがイデオロギー同士の相互批判のために活用され、資本主義的近代化がもたらした社会病理現象に対して不断に政治的価値判断が加えられるようになったのは、ヨーロッパにおいてのみである」――を目にするとき、そこに「批判的理性」を基準とする新たなヨーロッパの優越意識を感じとるのは、いささか過敏に過ぎるであろうか。

 両報告に共通するもうひとつの論点は、ヨーロッパの統合過程におけるフランスとドイツの位置づけの問題である。杉本報告は、「大欧州家族の建設」を夢見つつフランス革命の理念を大陸に拡大しようとした「ヨーロッパ統合の先駆者ナポレオン」のイメージが今日にいたるまでくりかえし語られ続けてきたことを指摘する。井野瀬氏が報告の冒頭で取りあげたチャーチルの「ヨーロッパ合衆国」構想は、イギリスを「ヨーロッパ」の外部に位置づけ、和解した独・仏を中核とする「ヨーロッパ家族の再建」を提言するものであった。前述のハーバマスとデリダのアピールもまた、基本的にこのような独・仏中心のヨーロッパ像を前提としている。彼らは、独・仏を中心とする「先進的な中核ヨーロッパ」がEUの「機関車」たらねばならないと主張する。「EUにある程度の国家的諸性格を付与しようとしているのは、いまのところおそらくヨーロッパの中核をなす加盟国だけ」だからである。しかし、この見解に対しては、ポーランドをはじめとする東中欧の新規加盟諸国から早速、批判の声があがっている。批判は、ハーバマスとデリダのアピールが、ヨーロッパ・アイデンティティの歴史的根拠をフランス革命以降の西欧諸国の経験に限定している点や、1989・90年の旧東欧諸国の変革の意義をネガティヴに評価している点にも向けられている。この論争は、来年正式に発足する拡大EUの主導権をめぐる議論が、ヨーロッパの統合過程を歴史的にどう認識するかという私たちの共同研究のテーマともけっして無関係ではないことを示しているのである。(小山 哲)




【報告要旨】

報告1

「イギリス」を創り直す――ブリテン、帝国、ヨーロッパ
井野瀬 久美惠

 イギリスでは、香港返還――すなわち地図上の帝国消滅――がカウントダウンに入った1980年代後半ごろから、自分たちは帝国消滅によって何を失うのかについての議論が重ねられてきた。彼らの喪失感に拍車をかけているのが、統合を深めつつ拡大しつづけるヨーロッパ連合(EU)との関係だといえる。

 戦後まもなくヨーロッパ統合を強く押しあげたウィンストン・チャーチルの演説が示すように、イギリスは自らを、たえずヨーロッパ統合――チャーチルのいう「ヨーロッパ合衆国」――の外部に位置づけてきた。この「伝統」と訣別し、イギリスをヨーロッパの一員としてはっきりと位置づけたのが、労働党トニー・ブレア政権の公約(Labour Manifest 1997)である。公約に謳われたように、立法権と課税権を有する独立した議会がスコットランドとウェールズに設立され、さらに98年の「グッド・フライデー合意」にしたがって、スコットランド、ウェールズ、イングランドとともに、マン島やチャンネル諸島などをもメンバーに加えた「諸島評議会 Council of the Isles (British-Irish Council)」が発足して、アイルランド共和国の代表とも対等な立場で肩を並べている。

 こうして20世紀末に急速に進められた「1832年以来の憲政上の抜本的変革」、すなわち地方分権は、「イギリス」内部の多様性をあぶり出すとともに、この国が島々から成る「イギリス諸島 the British Isles」であることを再認識させた。こうした状況を新聞や雑誌は「ブリテンの死 the death of Britain」とよんだ。こうした動きが、「統合されない連合王国」の多様なネイションを結びつけてきた「ブリテン」「ブリティッシュ」という言葉の中身を骨抜きにするものとして理解されたからである。それがイギリス人を、正確にはイングランド人を、アイデンティティ・クライシスに陥らせているのが現状である。

 本報告では、世紀転換期のイギリスにおけるアイデンティティ・クライシス論争――「ブリティッシュであることの意味」を問う近年の動向を考えながら、J・G・A・ポコックの大西洋諸島史という枠組み、ならびに「黒人であることBritish Black」から「ブリティッシュネス」を再構築しようとするスチュワート・ホールらの動きのなかに、イギリスにとってのヨーロッパ・アイデンティティを語る意味とは何かを考えた。


報告2

ナポレオンとヨーロッパ意識
杉本 淑彦

 ナポレオンによるヨーロッパ支配を、ヨーロッパ統合の先駆だったとみなす考えがある。19世紀から現代にいたるまで、フランス社会一般におうおうにしてみられる考えである。もちろん、現代の歴史研究者の多くは、このような見解に与しない。しかし、こういう解釈のなかにこそ、ヨーロッパ意識の一端をかいま見ることができるのだろう。ナポレオン時代にさかのぼって、当時のヨーロッパ意識を探ってみたい。

 「他者」との対置関係のなかでアイデンティティが形成されると考えた場合、ナポレオンのヨーロッパ意識にとって、もっとも重みのある「他者」はエジプトだった。その地こそ、1798年から約1年間、遠征軍総司令官として彼が統治していた地であり、セント=ヘレナ島をのぞけば、ヨーロッパ外で彼が足を踏み入れた唯一の地なのだから。そして、近代植民地主義イデオロギーの根幹をなす「文明化の使命」論が、統治の場で掲げられる最初の事例はこのエジプト遠征であり、その後ナポレオンは、ヨーロッパ支配を正当化するために、エジプトにおいてと同様ヨーロッパ内でも、文明化を大義に掲げたのである。

 しかし、同じ「文明化」の目標であったエジプトとヨーロッパは、ナポレオンにとって等価のものではなかった。ナポレオンは、両者のあいだに、文明化の「手段」をめぐって一線を引いていたのである。エジプトに対しては、強引な手段を用いても、つまり「文明」と整合しない手段を用いても、かまわない。目的と手段が一致しなくてもかまわない、というわけだ。ナポレオン政権に協力した聖職者たちの代表格であるプラト司教によれば、ナポレオンは、「ヨーロッパが文明の名において課すさまざまな制約について、たびたび愚痴をこぼしていた」、という。

 ナポレオンが、そして当時のフランス社会が、「文明」と整合しない手段だとして重大視していたこと、それは、一般住民を過酷な状況に追いやることになる焦土戦術だった。エジプトにおいてもヨーロッパにおいても、ナポレオン軍はこの種の戦術を展開したのだが、ヨーロッパで展開することについては、フランス社会から批判があり、その批判をナポレオンも気にかけていた。一方、エジプト遠征における焦土戦術については、フランス社会から批判の声があがることはなく、ナポレオンも、断行した事実を公言してはばからなかった。焦土戦術が許されるか、許されないか。一見ささいな違いだが、その意味するところは大きい。エジプト(ひろくいえばオリエント)とヨーロッパは、「文明化」の対象である点ではおなじなのだが、ありていにいえば、人の命の重みに違いがあるのだ。

 ナポレオンと、彼の時代のフランス社会にとってヨーロッパは、文明化の対象であるばかりでなく、それを実現するにあたっての手段においても、「文明」的であることが尊重されなければならない場であった。一方のオリエントは、文明化の対象ではあっても、ヨーロッパと比べて相対的に「野蛮」な現況ゆえに、人命を軽視するような非「文明」的手段の行使も許容されうる、そんな場所として措定されていたのである。文明化のためには現地人の命を軽々しくあつかってもかまわない、というこの心性は、「文明化の使命」論を掲げつつ血なまぐさい圧政を布いた、19・20世紀におけるヨーロッパ植民地支配の、その理念と実態を、まさしく先取りするものだったといえるだろう。 わたしたちは、「ヨーロッパ」というアイデンティティを抱くことが、おうおうにして、「他者」への抑圧につながっていた近過去の歴史をみなければならない。




■ エッセイ

アレントと南アフリカ

堀内 隆行(京都大学大学院博士後期課程)

 政治思想家H・アレント(1906−1975年)の主著『全体主義の起源』(1951年)において、南アフリカ史に関する叙述は重要な位置を占めている。アレントは、全体主義の起源の一つを帝国主義に求めた。その政治的支配の二大形態は人種主義と官僚制であったが、この内、前者の起源は南アフリカにあった(後者の起源はエジプト)。

 『全体主義の起源』の南アフリカ史叙述は二つの部分より成る。第一の部分の主題は、17世紀半ば以降のオランダ人の入植である。同書によると、入植者はまもなくヨーロッパ文明と隔絶し、「未開状態の」ボーア人に退化した。「粗放牧畜にしか適さない劣悪な土地」ゆえに個々の家族単位に孤立し、「部族に組織されて遊牧生活を送っていたきわめて人口の多い原住民」の奴隷労働に依存したためである。

…ボーア人は正常なヨーロッパの生活状態に二度と復帰できない人間となった最初の植民者だった。なぜなら彼らにとっては、自分の住む世界の創造と変革に絶えず関与して生きるヨーロッパ人の基本的エトスはもはや理解し得なくなっていたからである。ボーア人は原住民を人間としてではなく新しい大陸の原料と看做し、恣にこの「原料」を搾取して怠惰な寄生的生活を送るうちに、自分自身が原始的部族の段階にまで落ちてしまった。…(邦訳2巻117頁)

 また、こうした未開状態にあって、ボーア人の人種意識はもっとも狂信的となった。肌の色によってしか、原住民と自己とを識別できなくなったためである。ボーア人は、「原住民の酋長として、あるいは白い肌の主人、黒人の神々として」南アフリカの環境の条件に同化し、文明人の証しであるキリスト教の全人類同一起源説までも否定した。

…彼ら〔ボーア人〕の中にはおそらく今日もなお、彼らの父祖たちを野蛮状態に逆もどりさせる原因となった最初の身の毛のよだつ恐怖が生きているのであろう―ほとんど動物的な存在、つまり真に人種的存在にまで退化した民族に対する底知れぬ不安、その完全な異質さにもかかわらず疑いもなくホモ・サピエンスであるアフリカの人間に対する恐怖が。…この戦慄から直ちに生れたのが、このような「人間」は断じて自分たちの同類であってはならないという決意だった。…そしてこの不安と決意から生れたものがキリスト教に似て非なるボーア人の新しい宗教であり、その基本的ドグマはボーア人自身の選民性、白い皮膚の選民性なのである。…(同121頁)

 アレントによると、この初期の人種感情の中には、後の時代の人種主義のすべての要素―「郷土(patria)に対する無理解、土地との結びつきの真の欠如、労働と行為から生れる価値一切に対する蔑視、それに対するに、生れによって決められた自然的・肉体的所与の唯一絶対視」―がすでに揃っていた。

 続く第二の部分の主題は19世紀末である。この時期、鉱産資源の発見が相次ぎ、「本職の金採掘者、投機家、酒場経営者、旧軍人、良家の末息子、要するにヨーロッパでは使いものにならないか、あるいはさまざまな理由から窮屈な生活に我慢できなくなった者がすべて集まった」。鉱業資本が黒人労働力の搾取に依存することとなったのに続いて、新規の入植者もまた、ボーア人が確立した人種社会に参入した。アレントは、以上の南アフリカ人種主義の展開がヨーロッパの全体主義に多大な影響を与えた、と結語する。

 『全体主義の起源』の註を見ると、同書の南アフリカ史叙述は、C・W・デ・キーウィート(1903−1986年)『南アフリカの歴史』(1941年)に過半を負っていることがわかる。デ・キーウィートはオランダ系南アフリカ人であるが、その家族は20世紀初めの移民であり、17世紀に遡るボーア人とは別集団に属した。こうした環境に加え、南アフリカのイギリス系大学、次いでイギリスの大学に学んで、アメリカの大学に職を得たことは、デ・キーウィートをイギリス系南アフリカ人研究者主体のリベラル史学に位置づけることとなる。

 リベラル史学については、拙稿(「アパルトヘイトとウォーラーステイン」川北稔編『ウォーラーステイン』講談社、2001年、143−144頁)ですでに述べているので詳細は省くが、その真髄は、20世紀前半に台頭したアフリカーナ(ボーア人)・ナショナリストの人種差別思想に反発し、アフリカ(黒)人の地位向上を訴えることであった。この立場の研究者は、アパルトヘイトへと通じる人種差別の起源を入植初期のボーア人に求めた。『南アフリカの歴史』、あるいは『全体主義の起源』は、こうしたボーア人起源論を踏襲しているといえよう。

 他方、19世紀末の入植者に対する両書の態度は相違する。リベラル史学の研究者は、新規の入植者(とくにイギリス人入植者)とボーア人とのあいだに「文明」と「野蛮」の対比を見、前者の人種差別への関与を強く否定した。これに対して『全体主義の起源』は、第二次南アフリカ戦争(1899−1902年)に取材したJ・A・ホブソン(1858−1940年)の『帝国主義論』(1902年)などを接ぎ木しつつ、新規の入植者までも蔑視の対象とし、その人種主義を糾弾している。文明と野蛮の対比はアレントの場合、ヨーロッパと南アフリカという土地のあいだに存在した。

 以上をもって、『全体主義の起源』のオリエンタリズムを指摘するのは容易い。アレントの関心がそのあと、古代ギリシアのポリス的公共性の礼賛などに向かったことを思えば、オリエンタリズムと「市民社会」との関係に関する興味深い議論も展開できよう。実際、筆者が専門とする世紀転換期の南アフリカにおいて、こうした関係はしばしば争点化した。

 他方、あまりに安直なオリエンタリズム批判を脱することも重要である。その際、オリエンタリズム生成のメカニズムを探ることは一つの鍵となりうる。本稿に即していえば、南アフリカは、ヨーロッパにどのような情報を発信したのか。そこでは、中間的存在としての白人入植者はどのような役割を担ったのか。あるいは、情報発信はヨーロッパの南アフリカ認識に影響したのか、しなかったのか。西洋/非西洋世界の固定的把握もまた、こうしたテーマの探究を通してはじめて克服可能となるに違いない。



参考文献
・ Arendt, H., The Origins of Totalitarianism Part 2: Imperialism, New York, 1951(大島通義・大島かおり訳『全体主義の起源2 帝国主義』みすず書房、1972年)
・ De Kiewiet, C.W., A History of South Africa: Social and Economic, Oxford, 1941
・ Hobson, J.A., Imperialism: A Study, London, 1902(矢内原忠雄訳『帝国主義論』岩波書店、1952年)
・ 永原陽子「南アフリカにおけるユダヤ人問題―覚え書き―」下村由一・南塚信吾編『マイノリティと近代史』彩流社、1996年は、南アフリカ人種主義とナチズムとの関係、あるいはアレントも関心を抱いた19世紀末南アフリカの反ユダヤ主義に言及し、示唆に富んでいます。




■ 今後の予定
(最新の情報については、当サイト「活動状況」をご覧ください)
第1回国際会議

古代世界における物質文化、意識そして歴史的アイデンティティ
   ケルト人、ギリシア人とローマ人、そして近代ヨーロッパ人の理解のために

日 時: 2003年9月20日(土) 午前10時15分〜午後5時15分
     *会場使用の都合のため、開始時刻と終了時刻が変更になりましたのでご注意ください。
場 所: キャンパスプラザ京都
      (JR京都駅烏丸口、京都中央郵便局より西へ歩いてすぐ)

第5回研究会

日 時: 2003年10月5日(日) 午後1時〜5時
場 所: 京大会館・102会議室
      (京都市左京区吉田河原町15-9 пF075-751-8311)
報 告: 橋川 裕之氏(京都大学・院)
      「フィルヘレニズムとビザンティニズム
          ― ビザンツ研究の歴史から読むヨーロッパ ― 」
      堀内 隆行氏(京都大学・院)
       「19世紀末ケープ植民地とヨーロッパ・アイデンティティ」
    
*準備の都合上、参加をご希望の方は当研究会事務局まであらかじめご連絡ください。




≪編集後記≫

 冷夏のうめ合わせをするかのような厳しい残暑が続く中、早まりつつある夕暮れにふと季節の移り変わりを感じるこのごろです。皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
 今回のニューズレターでは第4回研究会の活動報告に加えて、堀内隆行氏から南アフリカにおける人種主義をテーマにしたエッセーを寄稿していただきました。植民地支配とヨーロッパ・アイデンティティの形成をめぐって独自の視点から論じられた諸論稿を掲載することができ、統一性のある内容になったのではないかと思います。
 本研究会は今年度後期に2回の国際会議を予定しております。第1回国際会議の概要は上記の通りです。詳細はホームページをご参照下さい。多くの皆様のご参加を心よりお願い申し上げます。(宮坂)  



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