歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ
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No.6  2003年11月27日発行

-CONTENTS-
活動報告(第1回国際会議) 活動報告(第5回研究会)
報告要旨(橋川) 報告要旨(堀内)
エッセー(佐久間) 今後の予定・後記



■ 活動報告

●第1回国際会議
  古代世界における物質文化、意識そして歴史的アイデンティティ
    ケルト人、ギリシア人とローマ人、そして近代ヨーロッパ人の理解のために
    日 時: 2003年9月20日(土) 午前10時15分〜午後5時15分 
    会 場: キャンパスプラザ京都 

  9月20日に京都駅前のキャンパスプラザ京都の会議室において、本研究会主催の第1回国際会議を開催した。テーマはMaterial Culture, Mentality and Historical Identity in the Ancient World : Understanding the Celts, Greeks, Romans and the Modern Europeansであり、古代ギリシア(人)、「ケルト(人)」、ローマ(人)のアイデンティティを多様な観点から考察し、同時にその作業を通じて近現代のヨーロッパのアイデンティティをも追求しようとするのが、会議の目標であった。イギリスから招へいした3名の研究者を含む6名から、ギリシア、ケルト、ローマの3分野それぞれに2本ずつの研究報告をしてもらい、各分野に1名ずつ、計3名がコメントをおこなった。さらに、報告とコメントが済んだ後、全体討論に移り、夕刻まで熱心な討議がなされた。会議の参加者は合計55名で、会議終了後、会議室隣のホールで立食パーティ形式の懇親会が開かれたが、全体討論の時間不足を補うかのように、懇親会場のあちこちで、来日ゲストを交えて和やかな議論がもたれていた。

  この会議の開催にあたって、主催者である私のねらいは、ギリシア・ケルト・ローマ文化をその歴史的基層に持たない東洋において開かれる「ヨーロッパ・アイデンティティ」の研究集会らしい議論を展開すること、そしてヨーロッパ人研究者の見解を聞くだけでなく、日本人研究者の見解を積極的に伝えて、相互に意見交換し、理解・認識を深めることにあった。幸い、質疑応答では古代史の個別研究の範囲を越えて、広く研究法や歴史叙述の問題にも話題が広がり、来日研究者がいわゆる「教科書問題」に言及するなど、日本で開催された会議らしい内容となった。イギリスでは激しい論争にもなっている「ケルト」概念の問題についても、当日は「ケルト否定派」と「ケルト擁護派」との間の問答は冷静になされ、相互に理解が深まったように感じられた。

  会議の核となった6本の研究報告はいずれも重厚でよく考えられた作品であり、後日出席者から、一日の会議で終わるのはもったいない内容との感想をいただいている。現在、会議をふまえて改訂された報告とコメントを集めた英文による報告書を準備中であり、完成後内外の主要研究機関と研究者にこれを送付して、本国際会議が提起した問題について、さらに広く検討してもらいたいと考えている。(南川高志)




●第5回研究会

  日  時: 2003年10月5日(日) 午後1時半〜5時
  会  場: 京大会館・102会議室
  報告者: 橋川 裕之(京都大学・院)
         「フィルヘレニズムとビザンティニズム
           ― ビザンツ研究の歴史から読むヨーロッパ ―」
        堀内 隆行(京都大学・院)
         「19世紀末ケープ植民地とヨーロッパ・アイデンティティ」

  第5回研究会では、中世ビザンツ史の橋川裕之氏と近現代南アフリカ史の堀内隆行氏にご報告をいただいた。橋川氏は、啓蒙時代以降、ヨーロッパにおいてギリシアが思想的・政治的に看過し得ない存在として立ち現れてきた事実を踏まえ、近代ヨーロッパと近代ギリシア自身双方にとってそれぞれ(過去の)ギリシアがもつ意味を検討した。氏はこの問題を具体的にはヨーロッパのフィルヘレニズムとギリシア・ナショナリズムという観点から照射し、イギリスにおけるビザンツ研究の歩みを通観するなかで両者の関係が錯綜する様相を浮き彫りにした。報告に続く討論では、ギリシア正教的なアイデンティティとカトリック・プロテスタント的なアイデンティティとの関連やEUの問題にも議論がおよび、ギリシアがヨーロッパの国際政治に及ぼす影響力の大きさをあらためて認識した。

  堀内氏は、まず近年の南アフリカ史研究が西洋世界における歴史(地理)学との連関を絶つ方向に傾斜してきたことを指摘し、研究動向・研究内容両面において西洋世界との対話の回復がもたらす意義を強調する。そのうえで、氏は西洋世界と非西洋世界の結節点に位置した19世紀末ケープ植民地におけるイギリス系南アフリカ人のアイデンティティ形成に焦点を合わせ、そのヨーロッパ的性格を明らかにすると同時に、それがヨーロッパ人のアイデンティティに与えた影響についても考察を行なった。堀内氏の報告の眼目は西洋/非西洋世界という固定的把握の克服にあるが、討論ではイギリス系とともに白人開拓者のもう一方の極をなすオランダ系南アフリカ人(アフリカーナ)のアイデンティティについても議論がなされた。

  両氏の報告はそれぞれギリシア・南アフリカを考察対象としているが、ともにイギリスとの関連において展開された。すでにわれわれは、第4回研究会でイギリスは今、アイデンティティの再構築を迫られている真っ只中であることを確認した。ヨーロッパ・アイデンティティを考えるうえでイギリスのアイデンティティ問題は喫緊の課題である。そこで次回、第6回研究会でもイギリス史を専門とするお二方にご報告いただき、近世史・中世史それぞれの視点からイギリスとヨーロッパ・アイデンティティの諸問題について検討することとした。(宮坂康寿)




【報告要旨】

報告1

  フィルヘレニズムとビザンティニズム
    ―ビザンツ研究の歴史から読むヨーロッパ―
橋川 裕之(京都大学・院)

  わが国の近現代西洋史研究において、フィルヘレニズム(ギリシア文化の崇拝/愛好)という概念はこれまでほとんど取り上げられることがなかった。わが国でこの概念に着目し、近代ヨーロッパの文化・政治的コンテクストを踏まえて詳論したのは、管見の限りでは古代ギリシア史家の故藤縄謙三氏のみである。藤縄氏は論文「近代におけるギリシア文化の復興」(藤縄謙三編『ギリシア文化の遺産』南窓社、1993年所収)において、18世紀、古代ギリシアの彫刻や建築を称揚する芸術的運動として始まったフィルヘレニズムが、文芸界にも大きな影響を及ぼし、19世紀初頭のギリシア独立支援の政治的運動へと転化していく様相を鮮やかに描き出している。一方、ヨーロッパにおけるフィルヘレニズム研究も長らくギリシア独立にいたる時期の文学や政治運動に焦点が当てられていたが、D・レーゼルは近著『バイロンの陰で』(D. Roessel, In Byron’s Shadow, Oxford, 2002)において、18世紀末から20世紀半ばまでのイングランドとアメリカにおける文学上のギリシア表象を網羅的に検討し、言説としてのフィルヘレニズムがオリエンタリズムや帝国主義と相関関係にあったことを明らかにしている。

  ギリシア独立当初、フィルヘレン(ギリシア愛好家)らとギリシアの指導層は、当時のギリシア人が古代ギリシア人(ヘレネス)の末裔であり、ギリシア人は自由を勝ち取らねばならないという一つの信条を共有していたが、ギリシア国家が現実に存在するようになると、ヨーロッパのフィルヘレニズムとギリシアのナショナリズムの関係は変質を余儀なくされていった。両者の関係が変質する際、一つの問題となったのは、ギリシアの中世的過去、すなわち啓蒙期ヨーロッパの知識人らから断罪されたビザンツ文明をいかに捉えるか、あるいは捉えなおすかということであった。本発表で試みたのは、現実のギリシアに直面したヨーロッパのフィルヘレニズムと、ビザンツを自らの栄えある中世的過去と捉え始めた、ギリシアの新たなナショナリズムとの関係を、1919年、ロンドン大学キングズカレッジに創設されたビザンツ・近代ギリシア研究のためのポスト、コライス講座の歴史を通じて明らかにすることである。

  ギリシア啓蒙知識人アダマンディオス・コライスの名を冠するこの講座の創設に大きく関わったのは、筋金入りのフィルヘレンとして知られたキングズカレッジ学長ロナルド・バローズと在英ギリシア人コミュニティであった。バローズは当初、近代ギリシア語の講座を構想していたが、寄付金を提供するギリシア人との折衝を行う過程で、講座設立の趣旨は近代ギリシアおよびビザンツの歴史・言語・文化を研究し、一般にビザンツ復興運動と目された大ギリシア主義を擁護することに定められた。しかし、初代教授に指名されたアーノルド・トインビーは、ギリシア・トルコ戦争(1919−1922年)を半年以上にわたって現地取材し、ギリシア軍の小アジア侵攻、およびかの地でのトルコ人虐待を非難する著作『ギリシアとトルコにおける西方問題』(A. Toynbee, The Western Question in Greece and Turkey, London, 1922)を公刊したことで、寄付者委員会を構成するギリシア人の激怒を買い、コライス講座を追われてしまう。

  トインビーのコライス講座辞任事件は、イギリスのフィルヘレニズムとギリシアのナショナリズムが学問の場で齟齬をきたしたことを示す格好の事例であるといえるが、両者の対立関係は、20世紀半ば、トインビーの後任教授たちが惹き起こした学問上の論争において再度浮上した。第三代教授ロミリー・ジェンキンズは、中世ギリシア人のスラヴ化を論じることで古代ギリシアとビザンツの民族・血統的断絶を強調し、第四代教授シリル・マンゴーは、ビザンツと近代ギリシアの文化的断絶を強調した。このギリシア文化の断絶論に対して即座に反応したのは、ギリシア人史家ヨルギオス・アルナキスやアポストロス・ヴァカロプロスらであり、彼らは逆に古代ギリシア−ビザンツ−近代ギリシアの民族・文化的連続性を強固に主張したのである。

  今でこそビザンツ史家らは安直な民族論を避け、より緻密な議論を行うようになったが、コライス講座にまつわる論争は、比較的最近に至るまで、ヨーロッパとギリシアの歴史認識に大きなイデオロギー的溝が横たわっていたことを示唆している。とくに、20世紀半ば頃までは、イギリスを始めとするヨーロッパ諸国では啓蒙期に由来する合理主義的歴史観が根強く、片やギリシアでは民族主義や歴史主義の影響の下、自国史としてのビザンツの積極的評価が主流となりつつあったため、衝突はいわば必然だったのである。

  現在、ギリシアが他の東欧諸国に先駆けてEUへの加盟を果たしていることはヨーロッパのフィルヘレニズムの賜物に他ならず、ギリシアはヨーロッパのフィルヘレニズムを巧みに利用しながら、正教信仰とともに独自の文化的アイデンティティを維持しているように思われる。歴史学者は、ビザンツはヨーロッパなのか、近代ギリシアはヨーロッパなのかと頭を悩ませる前に、ビザンツ文化の諸相や、ビザンツの記憶が近代ギリシアのアイデンティティにおいて持つ意味や、ヨーロッパのフィルヘレニズムとギリシア・ナショナリズムの関係性の問題などにもっと目を向けるべきだろう。


報告2

  19世紀末ケープ植民地とヨーロッパ・アイデンティティ
堀内 隆行(京都大学・院)

  2003年9月、雑誌『南部アフリカ研究』は、特集「空間、場所、アイデンティティ―南部アフリカの歴史地理学―」を掲載した(’Space, Place and Identity: Historical Geographies of Southern Africa’, Journal of Southern African Studies 29-3)。同特集の序論(A・レスター執筆)は、歴史地理学の研究史を次のように振り返る。1970年代末に登場したラディカル派は、二つの側面で西洋世界との連関を追求した。つまり、I・ウォーラーステイン、E・P・トムスン等欧米の研究動向の影響下にある一方、南部アフリカ社会を規定する人種差別の起源をイギリス帝国主義、資本主義に求め、研究内容上も欧米の影響を強調した。しかし、ポストコロニアルの立場に立つ近年の研究は、サバルタン・スタディーズ、あるいはオーラル・ヒストリー等を利用し、ラディカル派が追求した西洋世界との連関を絶つことを主張している。レスターの序論の眼目は、かかる近年の研究の弊害を克服することにある。つまり、欧米の研究動向との対話を回復し、研究内容上もネットワーク論を活用しつつ、西洋世界を真に「脱中心化」することが目標となる。

  レスターも自認していることであるが、こうした「脱中心化」のポイントは、「ブリティッシュネス」の問題にある。まず、この問題を究明することは、「ブリテンの死」に直面するイギリス史研究者との協力を可能とする。また、研究内容上の利点も存在する。「ブリティッシュネス」の到来は、植民地社会を「イギリス化」した。しかし同時に、植民地社会との接触によって、「ブリティッシュネス」の性格も変化したのではないか。こうしたテーマの探究を通してはじめて、西洋/非西洋世界の固定的把握は克服可能となるに違いない。「ブリティッシュネス」の領域に対する関心は近年、南アフリカ史、イギリス帝国史の双方の研究において高まりを見せている。ただし、問題の決定的局面であった19世紀末ケープ植民地について、先行研究には欠落もある。本報告は、かかる欠落を埋めつつ、当時のヨーロッパ人入植者のアイデンティティを探ることを課題とした。

  19世紀末がケープ植民地にとって、経済的にも政治的にも繁栄の時期であったことは否めない。白人は全人口の約4分の1を占めたが、その内オランダ系が6割、イギリス系が4割であった。両者は世紀初め以来、都市、農村のラインで分断してきたが、1870年代末、オランダ系が言語と宗教の独自性に目覚め、アフリカーナと自称しはじめると、分断はエスニックな様相をも呈することとなった。こうした分断状況に対応すべく、1890−6年、植民地首相C・J・ローズの下、白人間の文化統合が進行する。この文化統合は一面において、100年来のイギリス化の最終局面であった。しかし他の面を見ると、両エスニック・グループを横断する「テュートン人・アイデンティティ」の創出を目指し、「ブリティッシュネス」の性格に変更を迫るものともいえた。

  「テュートン人・アイデンティティ」は、ヨーロッパ/アフリカの別の自覚と連動し、一層の深化を見せる。イギリス帝国は19世紀末、「ケープからカイロへ」、つまりケープ植民地を拠点として北へとアフリカ侵略を推し進めた。植民地の指導的立場にある人々は早い時期より、侵略を当地の「国民的」事業と認識してきた。しかし、かかる認識が社会全般に浸透したのは1890年代初めのことである。とくに1891年、本国政治家のR・S・チャーチルが侵略の焦点であったマショナランド(現ジンバブエ)を旅行し、差別的旅行記を新聞に連載したことは、植民地側の多大な反発を招いた。イギリス系作家のJ・P・フィッツパトリックは同行記において、チャーチルとは対照的に、「ケープからカイロへ」を本国社会とは異質の理想郷の建設として描き出している。フィッツパトリックの「農業ポピュリズム」的マショナランド・イメージはまもなく、多くが農村の住民であったアフリカーナも共有することとなった。

  以上の「テュートン人・アイデンティティ」は、20世紀の南アフリカ・白人アイデンティティ、あるいは地域大国意識を準備していく。また、帝国と白人定住植民地とを横断する「ブリタニック・アイデンティティ」にも影響を与えた。しかし、かかる諸問題の本格的検討は、他日を期したいと思う。




■ エッセー

  ボルツァーノの新市街
佐久間 大介(京都大学・院)

  イタリア北東端のトレンティーノ=アルト・アディジェ州ボルツァーノ自治県。ドイツ語では南ティロールと呼ばれるこの地域は、ハプスブルク帝国の崩壊後にイタリアに編入されるまでは、ティロール伯領の一部であり、ドイツ語系住民が多数を占める。このため、かつてはその帰属をめぐってオーストリアとイタリアが対立し、南ティロール内部でも自治権獲得運動やこれにともなうテロ活動が展開されてきた。だが、現在の南ティロールは、一定の自治やドイツ語とイタリア語の同格化が実現したことで情勢は安定している。

  さて、本研究会でもたびたび指摘されているように、近年のヨーロッパでは、アイデンティティ複合(地域・国家・ヨーロッパ連合)の可能性に注目が集まっているが、南ティロールはそのモデルケースとして評価されることも多い(注1)。実際、当地域のイタリア語系住民は、これまで、ティロールへの帰属を前提とした「南ティロール」という名称に否定的であったが、最近ではこの用語に対する反発は薄らいできている(注2)。また、近年の南ティロールは、かつてともにティロール伯領を構成していたオーストリア領ティロール州やイタリア領トレンティーノ=アルト・アディジェ州トレント自治県とともに「ユーロリージョン・ティロール」を形成し、国境を越えた地域協力を推進している(注3)。ただし、インスブルック大学現代史研究所のミハエル・ゲーラー教授は、この夏に筆者が訪れた際、南ティロール人意識は新しいもので今後の展開には注意が必要であると述べた。また、ユーロリージョンの試みにしても、現在のところは政治家や知識人による取り組みが先行しており、その理念が一般的に浸透しているとは言いがたい。では、「新しい」南ティロール人意識は、今後、どのような要素を核として発展していくのか。また、その意識は、アイデンティティ複合と、これを基盤とした複数の言語集団の共存を可能にするものなのだろうか。

  これを考えるためには、自治体間の地域協力や文化政策のほかに、この地域の基幹産業である観光業が強調してきた南ティロール像も無視できない。荘厳なアルプスの山々や「ティロール風」の山小屋が散在する景観に代表される南ティロール像は、観光的なアピール力を今なお保持し続けている。また、観光客の多くを占めるドイツやオーストリアからの人々、特に旧世代の人々にとっての南ティロールは、イタリアに奪われてしまったドイツ語地域として、シンパシーやロマンを誘う存在である。こうした観光客の期待に応えるべく、南ティロールの観光業は、オーストリアのティロール以上にティロールらしいとされる景観の維持と、民族衣装や郷土料理などの「伝統」のアピールに努めている。

  だが、筆者がこの夏訪れた南ティロールの中心都市ボルツァーノ(ドイツ語名ボーツェン)には、こうしたイメージにそぐわない一角が存在する。アルプス越えの通商路の拠点として発達したボルツァーノは、ドロミテ・アルプス周遊の基点としても有名で、多くの観光客が押し寄せる。この町の新市街は、中野孝次氏の短編『南チロルの夏』の中で以下のように描写されている。


 ボルツァーノの町を走るあいだパウルは、商店街の多い旧市街と、四角い近代ビルの並ぶ新市街の相違にぼくの注意を促した。山に囲まれたこの風景に旧市街は、小さな塔や飾り屋根が陽に映え、実にしっくりしてるだろう。あれはこの土地から生れた独自の様式だ。それに反し、四角い箱ばかりが並ぶこの官庁街はなんと安っぽくて、人工的で殺風景なんだ。これは中央政府が無理やり持ちこんだものだ。土地にそぐわないものは醜い。そういわれれば町はたしかに川を隔てて截然と二分されていた。狭い道の両側に間口の狭い、奥行きの深い商店街が軒をつらねる旧市街は、道にも市場にも人と物が溢れ、ごみごみして騒がしく、いかにも人間の住む町だが、こっちは道も広く、荘重で、閑散としていた。これはムッソリーニがイタリアの力を誇示しようとして作ったんだ、と彼は広場の中心に立つローマ風の記念碑を指さした(注4)。


  ここでボルツァーノ市の山案内人パウルが非難している新市街は、イタリア・ファシズム期のもので、その「広場の中心に立つローマ風の記念碑」は、第一次大戦でのイタリアの戦勝を記念するために1928年に建てられた。この時代には、都市部へのイタリア人入植政策も進められた。さらに、1939年のヒトラーとムソリーニの協定により、南ティロールの住民は、南ティロールから移住するかイタリア国籍を取得するかの選択を迫られた。この結果、ボルツァーノでは、現在でもイタリア語系住民が過半数を占めている。

  だが、多くの観光客は、この新市街にまで赴くことはなく、イタリア語系住民の存在もそれほど意識しないであろう。筆者も、ここでイタリア語を使う必要に迫られることはなかったし、二年前にはじめてボルツァーノを訪れた際には、新市街の存在にさえ気づかなかった。これについて教えてくれたのは、加賀美雅弘氏の『ハプスブルク帝国を旅する』(注5)であり、ここでは中野氏の短編も紹介されている。だが、一般的なガイドブックでは、観光的魅力に乏しい新市街はまったく紹介されていない。そして、筆者がここを訪れたときにも、観光客らしき人影は見られず、約20年前の中野氏の描写とほぼ同様の印象を受けた。

  ユーロリージョン・ティロールをはじめとする地域協力の流れが加速する中で、今後、これに対応した新たな「南ティロール」像も求められることとなろう。だが一方では、この地域が観光を重要な収入源としている以上、観光客の求める「南ティロール」イメージはさらに再生産され、それが地域住民のアイデンティティにも影響を与え続けると考えられる。では、ボルツァーノの新市街は、このイメージに隠れて、今後も外部からは見えないままであり続けるのだろうか。その場合、イタリア語系住民は、そうした「南ティロール」イメージを受け容れられるのか。逆に、ドイツ語系住民の新市街に対する反感は、今後、解消に向かうのであろうか。普段は訪れる人もない戦勝記念碑が虚しくたたずむ新市街は、地域協力や複数の言語集団の共生、そしてアイデンティティ複合などの課題に関連した重要な問題をはらんでいるのである。



注1 例えば、佐藤勝則「統合ヨーロッパの一源流 ハプスブルク帝国」渡辺尚編著『ヨーロッパの発見―地域史の中の     国境と市場―』有斐閣、2000年、68-69頁。
注2 Heiss, H. unter Mitarbeit von Pfeifer, G., “"Man pflegt Suedtirol zu sagen und meint, es waere alles         gesagt". Beitraege zu einer Geschichte des Begriffes "Suedtirol"”, Geschichte und Region /Storia e       regione, 9/2000, S. 86.
注3 Pallaver G., “Kopfgeburt Europaregion Tirol. Genesis und Entwicklung eines politischen Projekts”,          Geschichte und Region /Storia e regione, 9/2000.
注4 中野孝次「南チロルの夏」『文學界』1981年12月号、36-37頁。
注5 加賀美雅弘『ハプスブルク帝国を旅する』講談社、1997年、121-136頁。




■ 今後の予定
(最新の情報については、当サイト「活動状況」をご覧ください)

第6回研究会

日 時: 2003年12月7日(日) 午後1時半〜5時
場 所: 京大会館・102会議室
      (京都市左京区吉田河原町15-9 пF075-751-8311)
報 告: 川島 昭夫(京都大学)
       「アンティクワリアニズムとイギリスの『過去』」
     中村 敦子(京都大学非常勤講師)
       「「ヨーロッパの仲間入り」−イングランド史におけるノルマン・コンクェスト理解をめぐって−」
    
 *準備の都合上、参加をご希望の方は当研究会事務局まであらかじめご連絡ください。




≪後記≫

 朝夕の冷え込みが身にしみ、冬の到来が間近に感じられるようになりました。皆様にはいかがお過ごしでしょうか。
 今年もあと一月を残すばかりとなり、年度末に向けていよいよあわただしい時期を迎えますが、本研究会は地に足をつけ、最後まで着実に活動を進めて参りたいと思っております。とりわけ、来年3月初旬には中・近世史を射程に入れた第2回国際会議を企画しており、現在、鋭意準備中です。なにとぞお力添えくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。国際会議のご案内につきましては、次号ニューズレターおよびホームページにてお知らせいたします。(宮坂)



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京都大学大学院文学研究科/21世紀COEプログラム
「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
13研究会「歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ」
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