■ 活動報告
●第6回研究会
日 時: 2003年12月7日(日) 午後1時〜5時
会 場: 京大会館・102会議室
報告者: 川島 昭夫 氏(京都大学)
「Antiquarianismとイギリス人の「過去」」
中村 敦子 氏(京都大学非常勤講師)
「ヨーロッパの仲間入り―イングランド史におけるノルマン・コンクェスト理解をめぐって―」
第6回研究会では、ともにイギリス史を専門にされている川島昭夫氏と中村敦子氏にご報告をいただいた。川島氏はとりわけ17世紀以降、一つの行動様式として社会的に明確に認知されるようになったAntiquarianism(「古物趣」「尚古癖」)に焦点を合わせ、イギリス人にとって過去がもつ意味を考察した。Antiquarianismとは、遺跡,遺物,碑文などの具体的な証跡を通して過去への接近を図り、失われた過去の回復と再現をこころみる歴史研究の一分野である。このAntiquarianismは、その名称からも推察されるように、同時代のアカデミズムによる承認を受けず、常にアマチュア的なものとみなされていたが、むしろそれゆえに、学問的規範や伝統の制約を受けないAntiquarianの活動には、彼らの過去を志向する心理的背景がストレートに反映されていると言える。川島氏は個々の具体的な人物に光を当てながら、その活動の萌芽が確認される16世紀から衰退の傾向を示し始める18世紀前半までのAntiquarianismの歴史を振り返った。
報告の中で氏は、Antiquarianの活動には17世紀後半以降、文書史料を用いて現実社会の法や慣習の起源をアングロ・サクソン時代に求める制度史的研究と、遺跡や遺物の様式・形態比較を中心的手法とするローマおよびプレ・ローマ(ケルト)時代に関する考古学的研究という二つのタイプがあることを指摘した上で、イギリス人にはそのつど自由に参照し、自己の起源とみなしうる多様で曖昧な過去が存在したと述べる。さらに川島氏はAntiquarianismについて、一般にすでに影を失ったとされる18世紀後半以降も、風景の誕生や庭園芸術の進展に大きな影響を与えたことを併せて強調した。報告に続く討論では、Antiquarianismとイギリスの国民国家形成との関わりのほか、Antiquarianismが宗教改革,人文主義,ロマン主義などの全ヨーロッパ的な広がりをもった運動と関連を有していたことにも議論がおよび、そのような国際的運動に対するAntiquarian各々のスタンスの違いや彼らの過去の解釈への影響が論じられた。
次に中村氏は、中世史のみならずイングランド史上もっとも有名な出来事の一つであるノルマン・コンクェストを取り上げ、そのノルマン・コンクェスト理解を歴史的にたどることによってイギリスの自己理解における大陸ヨーロッパとの関係を読み取ろうとした。氏はまず、中世から現代に至る研究史を克明に跡づけるなかで、ノルマン・コンクェストをめぐる議論が常に歴史家たちの生きた時代環境に大きく影響されてきたことを明らかにする。そして20世紀半ばにノルマン・コンクェスト理解の視座に変化が生じ、ノルマン・コンクェストがイングランド史の文脈を越えて、全ヨーロッパ的視野のもとに捉えられるようになったと指摘した(報告要旨参照)。討論では、おもに近代歴史学が確立する19世紀以降におけるノルマン・コンクェスト理解の対立(とくにその中で浮かび上がるアングロ・サクソニズム)やイングランド人以外の眼差しがノルマン・コンクェスト理解に与えた影響について議論がなされた。
今回の2報告は、それぞれ独自のアプローチをとりながらも、ともにアングロ・サクソンと大陸ヨーロッパという二つの文化的要素の間で自らのルーツを求めて揺れ動くイギリス人の姿をあらためて浮き彫りにした。イギリスにおけるアイデンティティ再構築の行方はヨーロッパ統合のあり方を左右するといっても過言ではなく、それゆえ当研究会ではイギリスのアイデンティティ問題を様々な角度から照射し議論を重ねてきたが、これまでの報告・討論を通じてこの問題に関する認識・理解を深めることができた。(宮坂康寿)
【報告要旨】
ヨーロッパの仲間入り
― イングランド史におけるノルマン・コンクェスト理解をめぐって ―
中村 敦子(京都大学非常勤講師)
ノルマン・コンクェスト、つまり、ノルマンディ公ウィリアム率いる軍が1066年、ヘイスティングズの戦いでイングランド軍に勝利し、ノルマン朝を開いたという歴史的事象はイングランド史上最もよく知られている事件の一つであろう。古代から中世にかけてブリテン島は様々な侵入を受けてきたにもかかわらず、ノルマン・コンクェストは特別に重大な事件とみなされてきた。外部による征服として成功した最後のものであり、この事件が後のイングランド国家の方向性を決定づけたと考えられてきたからである。必然的にノルマン・コンクェストは数多くの議論を生み出してゆく。
今回の報告で試みたのは、ノルマン・コンクェストという事件の記憶の中にイングランドがヨーロッパとの関係をどのように捉えてきたのかを映し出す鏡を見ることであった。ノルマン・コンクェストを「外部」による征服と理解するならば、当時のイングランドを一つの統一体とみなす見方を前提とすることになり、一方、征服に成功した「外部」は、ノルマンディかあるいはフランスか、それとも大陸ヨーロッパ世界なのか。ノルマン・コンクェスト理解の中に、多分に大陸ヨーロッパとの関係性の中で構築されているイングランドのアイデンティティのありかたが浮かびあがってくるのではないだろうか。
近代歴史学が確立する以前から、ノルマン・コンクェストという過去は様々に記録され、解釈されてきた。ノルマン・コンクェスト直後、この出来事はイングランド社会の堕落に対する神の罰とみなされ、ノルマン人支配という現実は合理化される。近世に入ると、ノルマン・コンクェストの結果に政治的意味が付され、激しい議論の対象となってゆく。すなわち、当時の議会や王権の権限の由来をノルマン・コンクェストに遡って求めるという態度が大きな影響力を持ったのである。「ノルマンのくびき」説が広まり、ノルマン・コンクェストの理解は、近世当時の人々にとって現代的問題に直接関わる問題となった。ノルマン人はフランスであり、教皇主義者たちであり、一方、アルフレッド大王やヘイスティングズの戦いの敗者ハロルドはイングランド人の直接の祖先となった。現代イングランドと大陸フランスの関係がノルマン・コンクェスト時代の対抗関係と同一視されたのである。このような態度はその後長い間力を持ち続けてゆくことになる。19世紀に入ると、学問としての歴史学の確立によりノルマン・コンクェスト研究も進展し、実証に基づいた封建制論争が学界を沸かせてゆく。だが、征服経験をこえてアングロ=サクソンの優れた国制は継続したとする見解(連続説)をとり、大著『ノルマン・コンクェスト』を著したE・A・フリーマンと、封建制の導入を主張し、社会の仕組みの激変がもたらされたとする見解(断続説)をとったJ・H・ラウンドの対立の後ろには、当時のホイッグ対トーリという政治的姿勢の対立が現れているのである。
20世紀半ばにノルマン・コンクェスト理解の枠組みに変化が起る。すなわち、「イングランドはノルマンディに征服され、国制はどのような影響を受けたのか」という二項対立的視点ではなく、ヨーロッパ世界全体の文脈においてノルマン・コンクェストを理解するという軸の転換である。1966年に行われたR・W・サザーンの講演「イングランドのヨーロッパ世界への初めての参加」がそれを印象深く示す例であろう。サザーンは「世界の外側」であったブリテン島が、ノルマン・コンクェスト以降、初めてしっかりとヨーロッパ世界の中に組み込まれたと指摘した。そこではイングランドとノルマンディという対比でなく、イングランドとフランス、そしてヨーロッパという言葉が使われる。ただし、サザーンが同時にヨーロッパ世界の支配者に支配されることで逆にイングランド意識が高まったと主張している点も意識しておかねばならない。
1966年はノルマン・コンクェスト900周年であり、D・ホワイトロックらによる『ノルマン・コンクェスト』をはじめ、ノルマン・コンクェストを対象とした各種の論文、著作が公刊された。当時の研究の先端をコンパクトにまとめることがこれらの主たる目的であったが、そこには1960年代の社会を照らす微妙な表現を同時に窺うことができる。前述の『ノルマン・コンクェスト』のイントロダクションは、「1066年にイングランド国家が敗れたことを祝うのではなく、我々の国家に新しい要素が加わったことを記念するのだ・・・イングランド人とノルマン人、そしてフランス人の血は混ざっており、両方の父祖を讃えよう」と強調する。H・R・ロインは、1966年の記念講演を回顧し、ヘイスティングズの戦いを「我々の側の敗北」と言う一人の聴衆を思い出す。またR・A・ブラウンは「ノルマン・コンクェストはイングランドを大陸ヨーロッパ本流の発展の流れに乗せた」と評価し、「今、単一市場に是か否かにかかわらず、参加することで何の変化もないふりはできない」と主張したのである。多くの歴史家がノルマン・コンクェストの中にヨーロッパ世界に組み込まれていくイングランドを見る一方、「アングロ=サクソンのイングランド=我々」対「外部すなわちノルマンディであり、フランスであり、大陸ヨーロッパ=彼ら」という構図が生命力を持ち続けているのかもしれない。
最新のノルマン・コンクェスト研究史『ノルマン・コンクェストの議論』のイントロダクションで、著者であるアングロ=ノルマン史の大家M・チブナルは言う。「どんな時代も、その時代における国制的、社会的あるいは文化的問題に関わる何かをノルマン・コンクェストの中に見出してきた・・・歴史家たちが、彼ら自身が生きている時代を解釈する方法において、これ以上重要な試金石となってきた主題はほとんどないのだ」。
ノルマン・コンクェストをめぐる様々な反応が映すのは、ゆらぎつつある自らの「国民」概念を問いながら、同時にヨーロッパ大陸との関係をどのように構築してゆくべきなのかを模索する現代イギリスの姿である。
●第7回研究会
日 時: 2004年1月18日(日) 午後1時〜5時
会 場: 京大会館・102会議室
報告者: 佐久間 大介 氏(京都大学・院)
「18世紀後半から19世紀初頭のティロールにおける「地域」と「境界」」
宮坂 康寿 氏(京都大学・COE研究員)
「「ラインラント」とヨーロッパ」
第7回研究会では、オーストリア(ティロール)とドイツに関する2報告が行なわれた。佐久間大介氏は、ヨーロッパ統合の拡大・深化を背景として、南ティロールを中心に形成された「ユーロリージョン・ティロール」が、「境界地域」という自己定義のもと、国境を越えた地域協力を推進している現状に注目する。そして氏は、この「ユーロリージョン・ティロール」がその地域的な一体性やアイデンティティの根拠としている「地域主義」のはらむ問題点を指摘した上で、18世紀後半から19世紀初頭のティロールにおける地域アイデンティティ形成のメカニズムを考察した。報告の中で佐久間氏は、ドイツ語系住民とイタリア語系住民がそれぞれ「ティロールのNation」,「自然」「トレンティーノ」という独自の概念を基盤として地域アイデンティティを作り上げてゆく様相を浮かび上がらせ、複合的な地域アイデンティティ形成に内在する排他的論理や境界認識の多様性を摘出した。引き続き行なわれた討論では、とりわけイタリア語系住民の地域アイデンティティの拠り所となった「自然」および「トレンティーノ」概念について、その多義性やドイツ語系住民の「Nation」概念との関連、現実社会における両住民の共生関係に焦点が合わされた。
ドイツに関する報告(宮坂)は、ライン両岸地帯を中心地域とする「ラインラント」を取り上げ、中世から近現代にかけてこの地域のたどった歴史を概観した。そして、この地域が経済的には常にドイツの先進地域であった半面、政治的には極めて波乱に満ちた悲劇と融和の舞台であったことを回顧し、地理的にドイツの西部国境沿いに位置しながら、ドイツのみならずヨーロッパの心臓部として、国際性をもつ空間であることをあらためて確認した。討論では、「ラインラント」が含意する地理的範囲の多様性や経済以外にこの地域を結び付けていた諸要素について議論がなされた。
今回の報告では、地域の地理的枠組みの流動性やその内実の多様性がクローズアップされ、地域アイデンティティが諸要素の複雑な絡み合いの上に成り立っている様相が示された。「ヨーロッパ・国民国家・地域」というヨーロッパ・アイデンティティの重層的理解の重要性は夙に唱えられている。今後は地域アイデンティティの実相をより詳細に究明すると同時に、それをヨーロッパや国民国家などより上位のレヴェルのアイデンティティからも捉え直してゆかなければならないであろう。(宮坂康寿)
【報告要旨】
報告1
18世紀後半から19世紀初頭のティロールにおける「地域」と「境界」
佐久間 大介(京都大学・院)
オーストリア領ティロール州。さらに、ボルツァーノ自治県とトレンティーノ自治県からなるイタリア領トレンティーノ・アルト=アディジェ州。アルプス山脈の分水嶺をまたぐこれらの地域は、ハプスブルク帝国時代にはともにティロール伯領を構成していた。ここでは、19世紀後半以降に、多数派のドイツ語系住民と少数派のイタリア語系住民の間で対立が強まった。また、ドイツ語で「南ティロール」と呼ばれる現在のボルツァーノ自治県は、ドイツ語系住民が圧倒的過半数を占める。このため、第一次大戦後にティロールが南北に分割されると、イタリア領に編入された南ティロールは、オーストリアとイタリアの、そしてドイツ語系住民とイタリア語系住民の対立の焦点となった。だが、現在の南ティロールは、独自の議会と政府を持つなどの一定の自治を保障され、ドイツ語とイタリア語の同格化も実現したことで情勢は安定している。また、1990年代初頭以降、南ティロールは、トレンティーノ自治県やオーストリア領ティロール州とともに「ユーロリージョン・ティロール」を形成し、国境を越えた地域協力を推進している。その際には、これらの地域が、様々な言語、文化、民族の出会いの場であり、ヨーロッパの南と北の間の「境界地域」であることが強調されるようになっている。
以上の背景には、ヨーロッパ統合の拡大と深化によって「ヨーロッパ・アイデンティティ」についての議論が活発化し、その中で地域的アイデンティティ自体も再構築を迫られていることがある。また、ヨーロッパの「境界地域」としての自己定義は、長年にわたるドイツ語系住民とイタリア語系住民の対立を乗り越えようとする試みでもある。だが、「ユーロリージョン」の一体性やアイデンティティの根拠が歴史に求められていることには、次のような問題が存在する。
第一に、ヨーロッパにおける「連邦制と地域主義」の伝統が注目される場合、その伝統が、領邦議会を中心とするような地域的自治を基盤としていたことが強調される。だが、この地域的自治は、身分制的な領邦国制によって支えられており、これに参加できない層や地域は排除されていた。さらには、こうした身分制的国制の中で特権を享受する集団やエリートは、地域主義を自己の利益に利用してきた。地域的自治の伝統に依拠して新たな地域的アイデンティティを構築しようとする近年の試みは、その地域的自治の身分制的な限界や排除のメカニズムをほとんど考慮していないのではないだろうか。
第二に、従来の地域主義は、「地域」を均質な民族的・文化的実体を持ち、明確な「境界」によって区切られるものと想定してきた。「ユーロリージョン・ティロール」の構想も、当初は、ヨーロッパを民族的・文化的に均質な地域によって再構成し、それによって、南ティロールをオーストリアのティロール州に再統合しようとするねらいがあった。このため、イタリア語系住民が多数を占めるトレンティーノ自治県は、最近まで「ユーロリージョン・ティロール」には参加していなかった。これを背景として、「ユーロリージョン」に対するイタリア語系の関心は、ドイツ語系に比べてさらに低調なものとなっている。このことは、「地域」への関心の高まりが、国民国家の境界線を引きなおしただけの結果に終わる可能性をはらんでいることを示している。したがって、「地域」の枠組み自体が流動的なものであり、またその内部にも多様性が存在していたことに目を向ける必要があろう。
本報告では、以上の点を歴史的に考えるために、18世紀後半から19世紀初頭のティロールに注目した。現在の「ユーロリージョン・ティロール」を構成する地域は、それまで独立した聖界領であったトリエント(イタリア語でトレント)司教領とブリクセン司教領が1803年にティロール伯領に統合されたことで、ようやく一つの政治的単位としてまとまった。続いて1805年、ハプスブルク帝国が対仏戦争で敗北した結果、ティロールはフランスの同盟国であったバイエルンに割譲された。これに対し、1809年には武装蜂起が起こるが、その鎮圧後、ティロールは、北部はバイエルン、南部はイタリア王国、そして東部はイリリア地方へと三分割された。そして、ナポレオン体制崩壊後に、ようやく、ティロール全体がハプスブルク領に復帰したのである。
こうした激動を経る中で、ティロールという領邦を単位とした地域主義、すなわち「愛邦主義Landespatriotismus」が形成・展開された。ここでは、ハプスブルク帝国やバイエルン王国といった枠組みの中で強まった中央集権化の圧力に抵抗し、ティロールの自立性と諸身分Standeの一体性を強調するために、「ティロールのNation」という概念が強調された。これは、ティロール諸身分のみで構成される階層限定的な概念であり、国制に参加していなかったイタリア語系地域は排除されていた。
だが、対仏戦争期には、イタリア語系を含めたより広範な住民層を抵抗運動に動員することが必要となった。この結果生まれたのが「神と皇帝と祖国のために」というレトリックを用いたプロパガンダであり、これはドイツ語系だけでなく、イタリア語系を統合することも目的としていた。ただし、「愛邦主義」が従来の特権を維持する論理である以上、イタリア語系地域を排除してきた国制上の境界は、この時点でも依然として解消されなかった。
このことや、政治的枠組みの変動、そして、「民族」というファクターの登場によって、イタリア語系の間でも、「地域」や「境界」に対する新たな捉え方が成長する。近世のティロールには、その内部にドイツとイタリアの境界を見出す考え方が複数存在し、その指標も様々であった。また、イタリア語系が多数派を占めるトリエント司教領は、1803年まではあくまでも独立した聖界領であったために、ティロール伯領内のイタリア語系地域とは国制上の立場も相違し、経済的な利害対立も存在していた。だが、18世紀後半以降になると、イタリア語系エリートが、複数の地域区分の指標を「自然」という概念で一括し、これを用いてドイツ語系地域との相違を強調し始めたことも確かである。この背景には、ハプスブルク帝国の中央集権化によって従来の都市自治が脅かされたことや、イタリア語系地域がティロールの国制から排除されていたことに対する反発があった。また、対仏戦争期には、トリエント司教領がティロール伯領に編入され、さらに、一時的にはイタリア語系地域全体がイタリア王国に編入されたことで、イタリア語系地域内部の境界が整理された。この結果、トリエント司教領や、都市トリエントとその周辺地域を指すものでしかなかった「トレンティーノ」という用語の適用範囲が拡大した。この「トレンティーノ」概念は、多様性を持つイタリア地域を一体のものとして描く一方で、「ティロール」という枠組みを否定するものであった。このように、「民族」原理が重要性を増し、錯綜した多数の境界が整理・統合されたこの時代には、イタリア語系住民の「地域」や「境界」に関する認識も大きく揺れ動いていたのである。
報告2
「ラインラント」とヨーロッパ
宮坂 康寿(京都大学・COE研究員)
「ラインラント」という呼称が地域名称としていつ頃から定着したのか定かではないが、地理的にはごく一般にライン河のドイツ領沿岸地域を指す。ニーダーラインからオーバーライン、つまり北はクレーヴェから南はシュパイアーに至るライン両岸地域は大雑把に言って現在「ラインラント」に含まれるであろう。ドイツの州で言えば、北からノルトライン=ヴェストファーレン西部,ラインラント=プファルツほぼ全域,ザールラント全域,ヘッセン南西部,バーデン・ヴュルテンベルク西部の諸地域を含み、「ラインラント」の西側はオランダ,ベルギー,ルクセンブルク,フランスと境界を接している。むろん「ラインラント」が指す領域は人によって様々であり、フランスとの国境に沿って南北に延びるライン右岸地域を含めて考える場合もある。ドイツ人研究者も基本的には明確に地理的範囲を定義することなく、暗黙の了解のもとでこの名称を用いているようである。
「ラインラント」はその歴史を回顧すれば、経済的には常にドイツの先進地域であった半面、政治的には動乱・分裂を繰り返し経験した戦火と悲劇の舞台であった。
中世におけるこの地域の経済的優位性は、ヨーロッパに先駆けて浸透した貨幣経済とケルンを中心とする遠隔地商人の活動に負っている。ケルンは有数のハンザ都市でもあったが、古くよりヨーロッパ各地に商業拠点を有して広範囲におよぶ独自の交易活動を展開し、交通の要衝に位置する地の利も生かしつつ、ドイツ(ヨーロッパ)における一大商品集散地としての実力と名声を享受した。近世に入ると、遠隔地商業の停滞と三十年戦争による打撃により往年の経済的繁栄は一時陰りを見せるが、近代以降、ルール・ザール地方を中心とする石炭・鉄鋼業の発展,河川航行技術の発達,鉄道建設の拡大を通じて再び経済的活力を取り戻してゆく。近代のみならず、全時代にわたって「ラインラント」の経済発展を根底で支えていたのはライン河の水運であった。
政治的視点から見れば、「ラインラント」には中世以来、聖界諸侯として絶大な権力を誇った3人の大司教(ケルン,マインツ,トリーア)の他、選定侯の一人であるプファルツ伯やケルンを筆頭に独立的地位を主張するライン諸都市など、多くの有力政治勢力が存在し、中世ドイツ国制史の軸をなしていた。しかし中世後期以降、フランス王権の伸張とハプスブルク家の王位世襲・領土拡大政策の衝突により、「ラインラント」は激しい独仏抗争の渦に巻き込まれてゆく。周知のように、かつて神聖ローマ帝国領であったアルザス・ロレーヌを含むライン左岸地域は、独仏の狭間で波瀾の歴史を歩むことになる。
「ラインラント」の領域的な多様性・流動性および重層的な被支配経験に鑑みれば、この地域のアイデンティティや一体性を論じることは容易ではなく、そのためには極めて綿密な検討を必要とする。ただ、フランスの地理学者エチエンヌ・ジュイヤールは、『ヨーロッパの南北軸
−大空間の地理−』(大嶽幸彦訳、地人書房、1977年)の日本語版序文において、「ライン空間」という言葉を用いながらこの地域の特質を次のように要約している。
|
(ライン空間は)ヨーロッパ全域の中で最も豊かであり、最も魅力のある空間の1つです。この空間はそこに接する諸国家、特にフランスとドイツの渇望の的でした。そのため、この空間には政治的な統一がなく、長い間不安定な国境によって細分されていました。しかし、この空間には真の統一がみられます。というのは、諸国家間の闘争とは別に、独特な文明がこの空間で開花したからです。今日、この空間は新たに統一しようと試みられているヨーロッパの心臓部にあり、大河川のライン河が世界の中で最も活動的な交通軸の1つを形成し、人間と資本を引きつけています。この空間ほど諸都市が互いに近接している所は世界のどこにもありません。・・・しかし、この空間の範囲は正確には限定できません。というのは、この空間は軸によって決定され境界によって決定されるのではないからです。従って、ライン空間の諸特徴は河川から遠ざかるにつれて弱まります。 |
また歴史的にみても、地理的輪郭は曖昧ながら、「ラインラント」はドイツのみならずヨーロッパ全体の中である種の一体性と意味をもった地域として浮かび上がってくる。第二次大戦後のヨーロッパの政治史、とりわけ欧州石炭鉄鋼共同体の設立以降のヨーロッパ史の歩みを振り返れば、「ラインラント」は独仏融和の象徴であると同時に、現在進展しつつあるヨーロッパ統合の起点と表現することも可能であろう。経済のレヴェルにおいては、「ラインラント」はすでに19世紀以降、「ヨーロッパ経済の大動脈」であるライン河の航行自由化・運河建設・汚染問題等をめぐる沿岸諸国の対話の中心舞台であった。
「ラインラント」は地理的にドイツの西部国境沿いに位置している。しかし、ヨーロッパの中心軸でもあるライン河に支えられた経済発展と、境界地域ゆえに宿命づけられた政治的求心性によってこの地域は「国際空間」としての性格を帯び、「ヨーロッパの心臓」として今なお鼓動し続けているのである。
●第2回国際シンポジウム
近世中・東欧における地域とアイデンティティ
日 時: 2004年3月6日(土) 午前10時30分〜午後5時
会 場: 京都大学百周年時計台記念館 国際交流ホールT
3月6日、京都大学百周年時計台記念館の国際交流ホールにおいて、「近世中・東欧における地域とアイデンティティ」をテーマとして第2回国際会議が開催された。
私たちの研究会「歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ」は、ヨーロッパ連合というトランスナショナルな共同体が形成され、その空間的な領域が拡大されつつある現状をふまえて、ヨーロッパにおける「地域」と「アイデンティティ」のあり方を歴史的な視点から多角的に再検討することを課題として出発した。今回のシンポジウムでとりあげた中・東欧地域は、東西冷戦の終結とヨーロッパ統合の進展という国際情勢の変化が歴史研究にとりわけ直接的な影響をおよぼしつつある地域である。近年の中・東欧史研究に生じつつある変化は、新たな研究視角の導入、研究組織の再編、歴史的地域の再設定、などさまざまな側面におよんでいる。たとえば、この地域に特有の貴族層を主体とする共和政的な政治文化の再評価や、複数の宗教・言語集団を包含する複合的な国家体制への注目は、社会主義体制から自由主義体制への転換とヨーロッパ連合の東方拡大という現状をふまえて浮上してきた新たな歴史研究のテーマである。また、東西冷戦期の分断状況が消滅した結果として、この地域の研究者間の国際的な交流は従来以上に活発におこなわれるようになり、一国単位で完結したナショナル・ヒストリーの枠組みを越えて、中・東欧地域全体を視野にいれた歴史研究がおこなわれつつある。第2回国際会議では、そのような中・東欧地域の歴史研究の最前線で活躍する3名の研究者を現地より迎えて、中・東欧における「地域」史研究の可能性や、この地域におけるアイデンティティ複合の歴史的特質について、新たな角度から検討し、議論することを目標とした。
今回のシンポジウムではとくに近世という時代に注目したが、これは、近代的なネーションを中心に構築された19・20世紀の歴史認識を再検討するうえで、近世の中・東欧がきわめて興味深い素材を提供してくれるからである。近世をつうじて、この地域は、神聖ローマ帝国、ハプスブルク国家、ポーランド=リトアニア共和国という3つの広域的で複合的な国家によって支配されていた(このうち前2者は領域的に重合している)。これらの国家はいずれも、宗派、言語、エスニシティを異にする複数の社会集団を内に含んでおり、近代的な国民国家とは異なる制度的構造――J.
H. エリオットのいう「複合君主制」composite monarchy――をもっていた。また、君主の権力に比べて相対的に諸身分――神聖ローマ帝国の場合には帝国諸侯・都市、ハプスブルク国家とポーランド=リトアニア共和国の場合にはとりわけ貴族身分――の影響力が強かったことも、これらの国家に共通する特徴である。他方で、神聖ローマ帝国にみられる領邦国家体制がポーランド=リトアニアでは成立せず、また、ハプスブルク国家は19世紀に入っても存続するなど、これらの3国家には互いに異なる特徴もみられる。
シンポジウムでは、こうした近世の中・東欧地域の共通性と多様性をふまえながら、地域とアイデンティティの諸問題にかかわる具体的な論点についてフベルト・ワシュキェヴィチ氏(ルブリン・カトリック大学、東中欧研究所)、トーマス・ヴィンケルバウアー氏(オーストリア史研究所)、スティーヴン・C・ローウェル氏(リトアニア歴史学研究所)よりご報告をいただき、日本側から5名がコメントし、討論をおこなった。シンポジウムには65名の方にご参加いただいた。会議終了後、同じ場所で懇親会がおこなわれた。
3本の報告、それに続くコメントと議論は、東中欧におけるアイデンティティの歴史的特質にそれぞれの角度から光をあて、その統一性と多様性を浮かびあがらせると同時に、この2つの側面がどのように関連しあっているかという問題についても、考える手がかりを与えてくれたように思われる。これらの報告とコメントをまとめた報告書を現在、準備中である。
(小山 哲)
|