ニューズレター第6号

 年が改まり、春が近づいて参りました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 さて、ニューズレター第6号をお届けします。今回は第5回研究会のお知らせと第3回国際シンポジウムの彙報が主な内容です。本年もよろしくお願い申し上げます。


■ 第3回国際シンポジウム「描かれた世界観−15世紀以降の日本・東アジア・世界−」彙報

 第3回国際シンポジウムが2003年の9月27日(土曜)と28日(日曜)の両日に開催されました。初日は、九州国立博物館設立準備室の橋本雄氏(日本史学)、誠信女子大学校(大韓民国)の楊普景氏(歴史地理学)、二日目は、滋賀県立大学の應地利明氏(地域研究)、ICUのKenneth Robinson氏(日本史学・朝鮮史学)、東京大学の村井章介氏(日本史学)が報告され、盛会のうちに終えることができました。

 以下、橋本、應地、村井三氏のご報告の要旨を掲載いたします。なお楊氏のご報告「17世紀 朝鮮本 天下輿地図の考察」とKenneth Robinson氏のご報告「朝鮮前期に作成された日本図については」は、本研究会編の『絵図・地図からみた世界像』(2004年3月刊行予定)に掲載されますので、そちらをご覧ください。


  橋本 雄「新発見伊能図とその周辺」

1、2002年8月、九州国立博物館(仮称、2005年秋開館予定)展示資料捜索中に、東京国立博物館の全面的協力のもと発見された伊能図小図(縮尺1/432,000)は、針突法で作られたものとしては、現在唯一の作品である。

2、針突法で作られたということは、正本か副本であることを意味する。江戸幕府上呈本は明治初年に焼失しているので、朱印「昌平坂学問所」を捺す東京国立博物館本伊能小図は、それに準ずる江戸幕府(関係機関)旧蔵本という史料的位置づけになる。

3、佐々木利和氏(文化庁)の御教示によると、東京国立博物館所蔵の『浅草文庫献納書目』に「実測図三枚‥‥献主 高橋作左衛門景保」という記事がある。すなわち、昌平坂学問所→書籍館→浅草文庫を経て東京国立博物館に伝来したことが明らかである。

4、従来、伊能図がどこで・どのように使用されてきたのかは不明であった。ところが、本図の出現により、少なくとも昌平坂学問所で伊能図が参照されていたことが判明した。今後は、どのような目的で活用されたかを突き詰めていく必要があろう。

5、九州国立博物館(仮称)での展示のため、本作品については大がかりな修理を行なった((株)文化財保存が担当)。そこでさまざまなことが分かったが、とくに興味深いのは、本紙が楮紙ではなく竹紙であったということ。針突するために選ばれた素材なのだろう。また、接合記号(キャンパスローズの半円)のラインを除いて、明確な折り畳み跡が認められないことから、東京国立博物館本伊能小図は、もともと巻いて収納するものであったらしい。

6、併せて、東京国立博物館には元禄対馬国絵図が収蔵されていることも分かった。同図は、これまで対馬の二本のみ知られていたので、やはり新出資料となる。精巧な作りで、(1)上呈時に幕府から作成方法の下問を受けた際の史料や、(2)対馬島に測量に来た伊能忠敬一行が驚嘆したという記録などが残っているという(田代和生氏の御教示)。


  應地利明「カンティーノ図(1502年)の読解と「遊解」」

 カンティーノは、ポルトガルの大渡海時代の成果を盗むべくイタリアのフェラーラ公爵によって派遣されたスパイの名である。この図は彼の名を冠してカンティーノ図と通称されるが、地図のむかって左下隅には、「インディアスの諸地方で近年発見された島々への航海のための海図」と書かれている。その盗写時期は、1502年9月中旬から10月中旬までの1ヶ月間と推定されている。

 1755年にリスボアを襲った地震と大火によって、ポルトガル王室秘匿の地図類はすべて灰燼に帰し、皮肉にもこの盗写図がポルトガル大渡海時代のクライマックスを伝える唯一の図となってしまった。

 東アジアをふくめて近世世界図の展開にあたって参照・準拠枠を提供したのは、紀元1世紀のプトレマイオス図であった。同図の最大の特質は、インド洋の陸封にある。陸封されたインド洋の「解放」が、以後の世界図作成の重要なモティーフを提供する。その展開は、つぎの4系列に要約しうる。1)イドゥリーシー図(12世紀中期):中国の宋代華夷図の受容による「解放」、2)混一疆理歴代国都之図(1402):華夷図へのプトレマイオス図の受容による「解放」、3)カンティーノ図:実測による「解放」、4)ヴァルトセーミューラー図(1507):南方大陸の切断による「解放」。

 地図史研究では、地図に「傑作」・「名作」などの評価は不要との見方が多い。しかし地図は本来備えるべき4つの特質、すなわち思想性・芸術性・実用性・科学性をすべて統合的に具備するとき、その地図を「傑作」とよぶことができるであろう。カンティーノ図はまさに世界図の数少ない「傑作」である。同図が発する多彩なメッセージを、これらの4特質ごとに読解してカンティーノ図のもつ意義を探りつつ、それを「傑作」とよびうる根拠について述べた。

 まず思想性については、トルデシーリャス条約分割線の視覚化=ポルトガル専管水域の正当性顕示、同線の以東を充填するポルトガル王室旗=「インドへの道」の誇示、王室旗とパドランの連なる「ポルトガルの海」としての南東大西洋海域、ポルトガルによるキリスト教世界の拡大、伝存する中近世(三日月旗に囲繞されたエルサレム、プレスター・ジョン伝説など)と顕現する近代(海上帝国の時代=大コンパス・ローズの描出、領域国家の時代=都市国家ヴェネツィアのローカル化の描出)の対照化、を挙げうる。

 芸術性については、シンボル的存在の写実・装飾的描出(カラブルの持ち帰ったオウム、キリスト教世界の中心エルサレム、エルミナのサン・ジョルジュ城描出の写実性、コンパス・ローズの多色装飾性など)、関心水域・陸域の鮮やかな彩色による強調、がある。

 実用性については、コンパス・ローズから派出する方位線と絶対位置の確定、その収斂中心としての最初の海外植民都市リベイラ・グランデ(ヴェルデ岬諸島)、多数の沿岸地名、地図上への各地の商業情報記載、とくに東南アジアでの特産物記載と中国のプレゼンスの強調、を挙げうる。

 科学性については、プトレマイオス図の革新(インド洋の「解放」、インド洋に突出する半島インド、スカンディナヴィア半島の描出など)、プトレマイオス図の継承(アフリカ南部の「月の山」、後方アジアの「黄金半島」、東遷したタプロバナ島など)、実証的態度=根拠なきものの排除(確認不明ないし典拠なき個所は空白のまま残す=無用な装飾・充填の排除)、がある。

 最後にポルトガル海上帝国関連の諸遺跡・港市の現状を、スライドで「遊解」した。


  村井章介「銀山と海賊−16世紀後半のヨーロッパ製地図に描かれた日本列島周辺−」

  はじめに

 16世紀なかばに日本列島周辺に姿をあらわしたポルトガルを中心とするヨーロッパ人にとって、日本とは、なによりも「銀山」と「海賊」という2つのキーワードによって認識される存在であった。そのことは、彼らがくり返し作成した日本列島を含む世界図・地域図から、明瞭に見て取ることができる。

  1.LequiosのなかのJapam

 『東方見聞録』以来の、極東の大洋上に浮かぶ伝説の島ジバングとは別に、具体的な接触の対象としてヨーロッパ人が日本を視野にとらえ始めたころ、そこはLequiosに属する地であった。1545−50年ころの「無名ポルトガル製世界図」(ローマ、Vallicelliana図書館所蔵)では、列島全体の東に大きくLEQVIOSとあるなかに、西から順にlequio menor(小琉球)、lequio major(大琉球)、japam(日本)、Ilhas de Miacoo(都群島)が並んでいる。1554年のローポ・オーメン作「世界図」(フィレンツェ、科学史博物館所蔵)では、半島状の九州の左肩に小さくjapamとあり、その東方洋上にジパングに相当する無名の大島が描かれ、新旧日本の橋わたしをするような位置にOs lequiosと大きな文字で書かれている。1558年のディオゴ・オーメン(ローポの息子)作「アジア図」(大英博物館所蔵)では、日本の北部、大陸と接続したあたりに大きくLeucoru prouintia(琉球地方)、洋上にMare Leucorum(琉球海)と記している。

 日本列島周辺のうちで最初に彼らの目に入ってきたのは、早くも1510年代にマラッカで接触のあった琉球であり、1550年代までは日本は琉球の一部と考えられていたのである。ポルトガル人が1542年に漂着した日本近海の島を、あるスペイン史料が「レキオスのある島」と記していることを根拠に、そこは種子島ではなく琉球だとする学説がある。琉球のなかに種子島を含む日本がある、という当時のヨーロッパ人の認識をふまえない解釈であり、従うことができない。

  2.Ilhas dos ladroisとMinas da prataの出現

 上記ローポ・オーメン「世界図」およびディオゴ・オーメン「アジア図」中、半島形の日本の西、朝鮮半島らしい突出の先にI.dos ladrois(盗賊島)とある。海賊の根拠地を示すこれと類似の文字は、後続の諸地図でも、日本列島内やその周辺に多く見られる。ところがそれ以外の地域では、1576年ころのフェルナン・ヴァス・ドゥラードの『世界地図帳』(リスボン国立図書館所蔵)を検索したところ、ボルネオ島とCosta de lucois(ルソン海岸、実はパラワン島)との間のバラバク海峡に一つ見いだせたのみである。

 つまり、日本列島周辺を特徴づける要素としてまず認識されたのは、海賊の出没する海域という点だった。後期倭寇の情報が中国人から伝えられたのだろう。また、地図に記載されたこの情報は、航海者たちによって実践的に利用されていた。たとえば1611年、アカプルコから太平洋を横断して金銀島を探したヴィスカイノの探検隊は、ドゥラード型の海図を見てLadrones群島を避けようとしている。

 1561年にバルトロメウ・ヴェーリョが作成した「世界図」(フィレンツェ、美術アカデミー所蔵)は、日本列島の記述の上で大きな画期をなす作品である。第1に、BANDOV(坂東)、MIACOO(都)、MA/GV/CHE(山口)、BV/GO(豊後)、TOMSA(土佐)、CA/GA/XV/MA(鹿児島)という地域名が始めて記された。これは幕府およびおもな戦国大名の政治的支配領域をおおまかに表現したものである。第2に、osaqua(大坂)、minas da prata(銀山、MIACOOとMAGVCHEに1ヶ所ずつ)、tanasuma(種子島)など重要な地名が始めて記された。第3に、本州のなかに「盗賊島」記載が始めてあらわれた。第4に、北海道島が始めて出現し、その中にNesta ilhaha muito ouro si prata(金銀を産する島)とある。金銀島伝説を蝦夷島に引き付けるこのような記載は、1589年のオルテリウス作「太平洋図」に引き継がれる。

 銀山を意味する文字は、後続の地図に頻繁にあらわれ、「盗賊島」とともに日本列島を特徴づけるキーワードとなっていく。1526年に石見銀山が再発見され、1533年に新精錬法の導入によって爆発的な増産を実現し、列島内の他鉱山にも技術が伝えられ、やがて全世界の銀産の3分の1を占めるに至る。この日本銀こそ、彼らの最大の関心事であった。

  3.ルイス=ドゥラード型日本図にあらわれた銀山と海賊

 1563年、ラザロ・ルイスが作成した『世界地図帳』(リスボン、科学アカデミー所蔵)は、実証性・実践性を特徴とするポルトガル製世界図の頂点に立つ作品である。ここでの日本の描きかたは、都も種子島も記さず、想像で東日本を描くことも避けている。航海者がもたらした実践的な日本情報以外のことは記さなかったらしい。一方で、琉球諸島、薩南諸島、九州西側の島々、瀬戸内海の港町(下関〜大坂・堺)の記載が異様に詳しく、かつ正確である。このルートを旅行して得た情報がベースになっているのだろう。

 東の大半島を東日本を表現したものとする説もあるが、これはやはり紀伊半島で、Cabo do sestoは潮岬であろう。ただし岬に至って観測したわけではなく、伝聞情報で、緯度を大きく誤っている。半島内部にあるbandolは、ヴェーリョにあるBANDOVをどこかに入れようとした結果か。as minas da prataは正しく石見銀山の場所を指している。朝鮮半島南端と、本州の2箇所の「盗賊島」もそれなりの根拠に基づくもので、前者は対馬の海賊集団、後二者は紀州の雑賀衆と志摩の九鬼水軍に対応するものと考えられる。

 1568年にフェルナン・ヴァス・ドゥラードが作成した『世界地図帳』(マドリッド、アルバ公爵所蔵)に収められた「日本図」は、日本だけを1枚に収めた最初の図で、美しい色彩とポルトガル人のプレゼンスを誇示する旗針が印象的である。

 地形も地名も全面的にルイスを踏襲するが、あらたに日本国内の国名の一部を載せ、SAQVAI(堺)を国と同等に記述する。国名が記されるのはHIXE(伊勢)までで、東日本の記載はない。この事実は、ルイスの描いた日本に東日本が含まれていないことを間接的に証明する。石見のあたりにR.AS MINAS DA PRATA(銀山王国)とあるほか、FVOQVI(伯耆)に接してR.MINAS DE PRATA E OVRO(金銀山王国)を記載する。後者は金銀島伝説に連なる非実践的・古典的情報の系譜に属し、ルイスの実証的精神からの後退を示唆する。「盗賊島」の位置はルイスを踏襲するが、紀伊半島のbamdolの沖にdos lladroisが増え、朝鮮半島南端海上の島にdos ladroisを3つも記載する。

  4.オルテリウス『地球の舞台』の日本図 版行地図帳と実践的認識の退歩

 1567年、オランダのアブラハム・オルテリウスが刊行した「アジア図」(スイス、バーゼル大学図書館所蔵)に見える日本は、ヴェーリョの描出に依拠した要素が多い。地形はヴェーリョの日本を横倒しにしたものに酷似し、地方名もヴェーリョを踏襲してBANDOVMIA・COO・MAGVCHE・BVNGO・TONSAと記し、Meaco(都)・Osaquo(大坂)・Cangaxuma(鹿児島)などの都市名と、COOの下にMinas da prataを記す。「盗賊島」記載はなく、朝鮮半島そのものが描かれない。

 BANDOVMIA・COOはヴェーリョのBANDOV・MIACOOを誤記したものであること、北東にはZIAMPAGVが生き残っていること、Lequiho grande(大琉球=沖縄)とReix magos(八重山諸島)の間にI.Fermosa(台湾島)を記すという錯誤を犯していることなど、実証性において著しい後退が見られるが、これは1570年に初版が出て以後版を重ねた地図帳『地球の舞台』にも引き継がれる。ポルトガル製の手書きの地図が航海に際して実践情報を得るための道具だったのに対して、オランダ製の印刷地図は広い地域の知識層に売るための商品であった。商品に求められたのは、分からないことは書かないという実証性よりは、興味を惹きそうなことはともかく書き入れておくという商業性であった。

 この態度は、日本列島の形に対する無頓着さにも見て取ることができる。1570年版『地球の舞台』に描かれた日本は、「タルタリア図」中では上記1567年「アジア図」と同様のヴェーリョ型であるが、「東インド図」中では前記「無名世界図」の系統を引くメルカトル型で、北方にIns.de Miaco(都群島)が盲腸のようにくっついており、その南にある四角いIAPAN島の中に、academiaのあるMiaco・Bandu・Negru(根来)・Frason(<Fiason<比叡山)・Homi(近江)を、位置関係には無頓着に記入する。academiaの情報は、1549年11月5日付鹿児島発のザビエル書簡に拠っている。1590年版『地球の舞台』中の「太平洋図」では、ルイス=ドゥラード型の九州・四国・本州の上に、ヴェーリョ起源かと思われる北の島を加え、その中にIsla de Plataと記す(島の右側の注記に「昔のArgyra銀州であろう」と書かれている)。1595年版『地球の舞台』に収められたルイス・テイセラ作「日本図」では、行基図の形をとりいれ、66国2島の名を記入している。

  おわりに−その後の展開−

 その後17世紀末までのヨーロッパ製地図に見える日本を、「銀鉱山」記載を中心に眺めてみると、つぎのような点に気がつく。第1に、1617年にクリストフェルス・ブランクスがオランダで刊行した「日本図」に、但馬(=生野)、佐渡、最上(=院内?誤って陸奥国内に記載)という石見以外の金銀山が始めてあらわれた。これ以降の多くの地図に同様の記載が見られ、17世紀前半の日本銀最盛期の状況を反映する。第2に、使用される言語の多様化である。1580年代まではもっぱらポルトガル語かスペイン語だったが、1595年のテイセラ「日本図」にArgenti fodinaeというラテン語表記が登場し、以後オランダ製の地図にはこれが多い。世界に売るためには共通語としてのラテン語が適合的だったのであろう。それが1640年代以降になると、イタリア語、フランス語、オランダ語がそれぞれの国で作られた地図にあらわれてくる。


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