ニューズレター第7号

 ニューズレター第7号をお届けします。今回は第5回研究会の彙報などが内容です。


■ 第5回研究会彙報

 第5回研究会が2004年の3月27日(土曜)と28日(日曜)の両日に開催されました。初日は、京都大学総合博物館において「混一疆理歴代国都之図」「大明国図」「大明国地図」「扶桑輿地全図」などの写真を見学しました。2日目は、龍谷大学の木田知生氏、京都大学の中砂明徳氏、井黒忍氏、尾下成敏による報告が行われ、盛会のうちに終えることができました。

 以下、木田氏、中砂氏、井黒氏と尾下の報告要旨を掲載いたします。


  木田知生「中国歴史地理学研究の現況ー宋代以後を中心としてー」

 中国国内の歴史地理学研究は、近二十年ほどの間に急速に進展した。その主な道程と実態を概観しようというのが本報告のねらいである。以下、報告内容を3章にわかち、その概略をまとめる。

  1 中国近代歴史地理学の成立ーその先駆者と後継者ー

 その先駆者と目されるのは、明末清初の顧炎武(1613〜82)で、その後、顧祖禹(1631〜92)、徐松(1781〜1848)、楊守敬(1839〜1915)等が続いた。その学問は「輿地学」と呼ばれ、沿革地理が主な研究対象とされた。その後、1930年代に大きな動きが見られた。顧頡剛(1893〜1980)等による「禹貢学会」の発足である。同学会は1934年2月に籌備処を立ち上げ、同年3月には《禹貢》半月刊を創刊した。そのグループは「禹貢学派」と呼ばれ、時代の要請で辺疆地理研究に力点を置いた学術活動は学術界に大きな影響を与えたが、活動期間は意外に短かった。1937年には活動を休止し、1946年3月に活動を再開したが、1952年2月には活動を終えた。その間、《禹貢》半月刊(1934〜37)を計7巻82期(708篇)刊行している。この「禹貢学派」には、顧頡剛のほか、譚其驤(1911〜92)、侯仁之(1911〜)、史念海(1912〜2001)等がおり、中国の近代「歴史地理学」はこれらの人々によって道筋が示され、その影響は各々の拠点大学を中心に今現在も顕著である。ほぼ同時代の歴史地理学者には王庸(1900〜56)、張其ホ(1901〜85)、陳橋駅(1923〜)等がいる。なお「禹貢学会」成立とほぼ同時期の1934年3月には、竺可驕i1890〜1974)、丁文江(1887〜1936)、翁文コウ(1889〜1971)等によって「中国地理学会」が設立されており、同年9月には《地理学報》が創刊された。以上、中国近代歴史地理学の成立過程と現状の背景を概説した。

  2 歴史地理学の研究分野ーその枠組みと潮流ー

 1930年代以後の中国近代歴史地理学の動向には、およそ3つの潮流が認められる。1歴史地図集の製作、2歴史地名索引詞典類の編纂、3歴史地理概論類の編纂である。この潮流は、断続を繰り返しながら、現在も認められ、とくに「文革」終結後の学制健常化が実現した近二十年に一層顕著になっている。それに伴い、歴史地理研究の細分化が進行しているほか、歴史地理関連の情報が複雑化し錯綜を極める状況がうまれている。以下、「現代中国の行政区画統計」「古都・都城研究の動向」「中国古都学会の設立」「歴史文化名城(3期99都市)の批准選定」「地理関連刊行物の多様化」について概述した。

  3 方志と地図

 歴代各種方志と輿地図について、まず宋元両代編纂の地理総志・方志の総数が宋代1016種、元代15種との統計があることを紹介、宋代地理総志では、《太平寰宇記》《元豊九域志》《輿地広記》《輿地紀勝》《方輿勝覧》の五部のみが現存すること、また、現存の宋元方志は40数種に限られ、さらに地域が東南(江浙)地域に偏り、この方志編纂地域の偏向は明代以後もほぼ踏襲されることを具体的に指摘した。

 その他、最近の中国歴史地理学界における《中華人民共和国国家歴史地図集》編纂、および各地の「新編地方志」編集(6000部以上、中国社会科学院中国地方志指導小組弁公室主導)等の各種プロジェクトについて概論し、最後に、地理・地名等情報に関するサイトの普及や交通・旅游各種地図及び電子地図の普及拡大といった新潮流に関しても報告した。

 この他、附論Tとして大連図書館所蔵の地理総志を、附論Uとして宋・楊甲纂輯《六経図》を紹介した。


  中砂明徳「マルティニ『シナ新地図帖(Novus Atlas Sinensis)』以前」

 1986年にローマの国家文書館で発見され、93年に公刊された西洋人制作の中国地図帳は、全省図・各省図あわせて30枚の地図(そのほとんどが未完成。地名は基本的にラテン字表記、3枚だけ漢字併載)とそれに付されたテクスト(ラテン語、一部イタリア語)よりなる。これまでの調査により、制作の指揮を取ったのがイエズス会士のルッジェーリであるとされ、その資料的来源は明代中期に作成された『広輿図』に求められている。しかし、多くの地図に見られる記号・地名の消し跡あるいは消し忘れ、上からの書き加えが整理を困難にしているせいか、地図の具体的な内容についての研究はまだ出ていない。

 そこで、とりわけ地図とテクストの関係に着目しつつ、改めて個々の地図の細部を検討した。本発表はその中間報告であり、明らかになったのは以下の点である。

@地図帳の中に一枚だけ存在する中国作成図は『広輿図』そのものではなく、『広輿図』を模写して収録した『大明官制』(万暦14年宝善堂刊)から採られたものである。この他にも、「宝善堂本」収載の地図が利用された形跡をいくつか見出すことができる。

A「宝善堂本」を含む複数の『大明官制』のデータを採録したテクストに対応して、地図は『大明官制』の都市間距離の記述に基づき、『広輿図』とは別の場所に都市を置く。地図はいずれも未完成なので、最終的にどういう形を目指したかは明らかでないが、少なくともこの時点では、『広輿図』より『大明官制』が優先されている。『広輿図』よりもむしろ『大明官制』に大きく規定されているのが、本地図帳の最大の特徴である。

B『大明官制』収載の地図も、『広輿図』系であるには違いない。しかし、漢字併載図中に『広輿図』系に見られない歴史地名が見られることから、歴史地図も参考にした可能性がある。

 まだ、テクストの別筆、地図記号の多様、地名音写の癖の違いなどを詰める作業が残っているが、それを終えたとしてもこの「未完」の地図帳を整合的に説明することは困難かも知れない。しかし、この地図帳を、半世紀以上後にやはりイエズス会士のマルティニ、ボイムらが完成させた中国地図帳と比較することによって、後二者の特徴はいっそう明らかになるであろう。


  尾下成敏・井黒 忍「地図目録作成に関する中間報告」

 この報告は『絵図・地図からみた世界像』(2004年3月刊)に掲載された「17世紀以前の日本・中国・朝鮮関係絵図地図目録(稿)」作成に関するものである。

  1 尾下報告

 最初に、個人所蔵の絵図・地図は所蔵者が変わる可能性があることを指摘した上で、どの絵図・地図がどの機関へ移動したかを把握する必要から、目録の作成が重要となることを述べた。

 つぎに目録の各項目に関する解説や作業経過を述べた後、いくつかの反省点を述べた。それは以下の通りである。1日本・インド・アジアなどの地域ごとに絵図・地図を区分したが、こうした区分は妥当であろうか。2中国図・朝鮮図・天竺図・アジア図を「中国図・朝鮮図・天竺図・アジア図」と一括するのではなく、「中国図・アジア図」「朝鮮図」「天竺図」と区分すべきではなかったか。3欧米の史料所蔵機関の表記を欧米言語に統一すべきではないか。

 そして、最後に今後の作成方針として、5エクセル以外のソフトを使用して目録を作成したほうがよい点、6国立歴史民俗博物館・国立公文書館などの国内の史料機関を訪問し調査を行う必要性、7現蔵者あるいは現蔵機関が不明である絵図・地図については、これらをできるだけ確定する必要性、を述べた。

  2 井黒報告

 最初に目録の作業経過を述べた後、反省点として、1朝鮮図の僅少、イスラム世界作製地図・東南アジア作製地図の欠如、2天球儀・天文図屏風については、別項目を立てて、そこに掲載すべき点、3地図集・アトラスの掲載方法の改善、を述べた。

 また今後の作成作業上、4中国図とアジア図の識別、5「混一疆理歴代国都之図」「天下図」を世界図の項目に入れるべきかどうか。6アジア図のほか、東アジア図という分類を立てることが妥当か、が問題となると述べた。


■ 熊本・島原出張彙報

  2003年10月1日(水曜)〜3日(金曜)の日程で熊本市内の本妙寺と島原市内の本光寺を訪問し、絵図・地図の閲覧及び調査を行いました。参加者は、藤井讓治、金田章裕、杉山正明、河政植、張東翼、中砂明徳、野田泰三、宮紀子、井上充幸、田中利生、野島正宏、應地利明、楊普景、Kenneth Robinson、橋本雄、承志、井黒忍、尾下成敏です。以下、その日程を記します。

  本妙寺では、「大明国地図」(『絵図・地図からみた世界像』口絵に写真を掲載)や「朝鮮国地図」「万国太全図」「行基式日本図拓本」を閲覧・調査しました。

 また本光寺では、「混一疆理歴代国都之図」(『絵図・地図からみた世界像』口絵に写真を掲載)や「日本大絵図」「普賢岳新焼図」「寛政4年大震図」「大変後島原絵図」などを閲覧・調査しました。

 今回の訪問は、本妙寺住職の池上尊義氏、本光寺住職の片山秀賢氏のお骨折りの結果、実現したものです。貴重な絵図・地図を見せて頂いた両氏に心より感謝申し上げます。


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