ニューズレター第8号

 ニューズレター第8号をお届けします。今回は第4回国際シンポジウムの彙報を主な内容としております。


■ 第4回国際シンポジウム彙報

 第4回国際シンポジウムが2004年の7月10日(土曜)と11日(日曜)の両日に開催され、Kenneth Robinson氏(ICU)、水本邦彦氏(京都府立大学)、川村博忠氏(東亜大学)、Valerie Hansen氏(イェール大学)、中務哲郎氏(京都大学)による報告が行われました。また今回、初の試みとして、金田章裕氏(京都大学)、杉山正明氏(京都大学)、川添信介氏(京都大学)、中務氏による座談会が設けられ、人文諸科学の研究者により、白熱した議論が交わされました。以下、各報告と座談会の要旨を掲載いたします。


  Kenneth Robinson「朝鮮時代における世界図の中の朝鮮」

 地図作成の歴史の研究者であったJ.B.ハーリーは、製作目的を提案するための地図の読解と、作成当時の社会の中に地図を位置付けることを提唱した。彼はまた、地図学の社会史と地図の社会史を提唱した。ハーリーは、地図作成への注目と、朝鮮の地図化を政治的、社会的なコンテクストの中で考察する必要を示した。本発表では、竜谷大学所蔵の「混一疆理歴代国都之図」(以下「竜谷疆理図」)が完成したおおよその時期を提案して、そのおおよその時期から、この世界図の作成時期をより特定し、さらに「竜谷疆理図」のなかの朝鮮図の分析を行ない、さらに「竜谷疆理図」の中の朝鮮図が、1402年作成の「混一疆理歴代国都之図」の中の朝鮮の図像と、どのように、そしてなぜ異なっているのかを考えてみたいと思う。

 「竜谷疆理図」が完成したのはいつなのだろうか?研究者たちは、朝鮮の地名に基づいて、この世界図の成立を15世紀中頃から16世紀初頭の間に位置づけている。もっとも広く認められている時期は1470年頃だが、これは行政庁の変更に基づいている。他方で、朝鮮図のなかの軍事基地に焦点をあてた研究は、「竜谷疆理図」の成立を1480年から1534年の間と見なしている。軍事基地の変更をより細かく辿り、そして地方行政制度からだけ考えれば、「竜谷疆理図」は1479年2月から1485年12月の間に完成されたと考えることも可能である。あるいは、「竜谷疆理図」は1479年2月から1485年12月の間の朝鮮をしめしているとも考えられる。

 年代を推定すると、朝鮮王朝の官吏たちは「竜谷疆理図」を1481年あるいは1482年に完成したと思われる。二つの出来事がこの二つの年を示している。第1の出来事は、『東国輿地勝覧』が、1481年4月に成宗王に献上されたことである。第2の出来事は、地方調査と地志・地図作成に関わっていた梁誠之の1482年6月の死去である。

 15世紀に実施された行政上・社会上の改革を通して、「竜谷疆理図」の朝鮮図を考察すると、「竜谷疆理図」の中の朝鮮の図像は、1402年作成の「疆理図」の完成の後に形成された行政上の地理と社会的秩序を反映している。地名変更、官僚制度のヒエラルキーと社会構造・身分制度の変更により、朝鮮王朝は地方行政制度を改革した。その結果の一つは、「竜谷疆理図」の朝鮮図に表象された社会秩序が、1402年作成の「竜谷疆理図」に表象された社会秩序と異なっていることがあげられる。


  水本邦彦「絵図に見る日本近世の村落景観」

 江戸時代の村方文書や領主文書中に残る村絵図を紹介しながら、そこから窺われる近世村落の社会的、自然的な在りようや、発見される研究課題について二、三指摘した。

 T 村絵図と相給絵図。@山城国相楽郡北稲八間村の村絵図から、日本近世の村落景観を概観し、ついで北稲八間村を含む現精華町域周辺に残存する十数点の村絵図を取り上げ、集落のまとまりに注目しながら、近世村落の村落形態を三類型に分類する(一村一集落型、一村複数集落型、一村散居型)。A山城国乙訓郡鴨川村絵図や、近江国栗太郡六地蔵村絵図を題材に、複数領主が分有する村(相給村)の耕地と百姓の分属形態について検討を加え、田畑一筆、百姓家一軒にいたるまで領主制の所有原理が貫徹していること、しかし、それは見かけ上の形式であり、実態は住民組織(村)によって担保されていたことを明らかにする。

 U 山地景観と草肥農業。@江戸時代前期の宇治上林代官領絵図や信濃国伊奈郡絵図を手がかりに、近世村落の後景をなす山地景観に目を向け、村落近くのいわゆる里山の多くが草山・柴山化されている事態に注目する。また、正保郷帳にみえる林相記事から、この動向が全国的なものであったことを確認する。A地誌挿絵(薩摩藩「成形図説」)・名所図会挿絵(「善光寺道名所図会」)や近世の農書記事などから、そうした草山・柴山状態は、若草・若葉を直接田圃に敷き込む刈り敷きや、牛馬の糞尿と草葉をブレンドした厩肥など主たる肥料源とした当時の草肥農業がもたらした人為的な自然大改造の結果であったことを述べる。B江戸時代中期の山城国綴喜郡美濃山絵図にみられる山地荒廃(砂山化状態)から、草肥農業がもたらす土砂災害に触れ、この社会における生業と災害の相関関係について指摘する。


  川村博忠「近世日本における世界像の展開」

 現代の科学的な基準で評価すれば古地図は未発達な地図として一蹴されがちである。しかし、地図を通して歴史をみる立場にたてば、古地図は人々の世界認識の過程をさぐる得がたい資料である。近世の日本は鎖国という情報の制約された環境下にありながらも、結構多くの世界図がつくられていた。世界の姿を描くのに自らの地理的な実証はできず、実証を離れて想像をめぐらす余地が大きかったなかで、わが国で成立した近世世界図の軌跡をたどると、西洋からの情報に依拠しながら大方は科学的な道筋をたどって進展してきたように思える。この点ではアジアの他の国々とはやや違った傾向をみることができはしないだろうか。

 近世日本における世界像の展開を概観すると、おおよそ次の5期に分けられよう。第1期(安土・桃山〜江戸初)、第2期(寛永〜正徳)、第3期(享保〜天明)、第4期(寛政〜天保)、第5期(弘化〜慶応)である。

 第1期はいわゆる南蛮の世紀である。大航海時代を経た西洋の世界図や地図がもたらされたものの、真に世界を理解するにはいたらず世界が「南蛮世界図屏風」のような装飾絵と化してしまった時期である。

 第2期は厳しいキリシタン禁制下で禁書令が敷かれ、日本人の海外渡航が禁じられるなど鎖国が完成して海外情報のとだえた時期である。国を閉ざして10数年後に長崎において異国への関心が芽生え、わが国ではじめて世界図が刊行されたが、この時期の世界図は和風化した稚拙な「万国総図」系世界図をみるのみであった。世界にはさまざまな国々の存在を空想させるような内容で、諸国の人物風俗図を対とするのが特徴である。

 第3期は8代将軍吉宗による禁書令の緩和があって到来する。明末に在華イエズス会士によって漢訳された地図や地理書が時を経てもたらされ、古い西洋知識を受容した時期である。マテオ・リッチの『坤輿万国全図』とジュリオ・アレニの『職方外紀』の影響がとくに大きかったが、これらはいずれも西洋ではすでに古くなっていた。

 第4期は先にはじまったオランダ語学習がようやく実って蘭学が興隆し、オランダ書を通じて最新の西洋知識が直輸入できるようになって、日本人の世界観が大きく進展した時期である。儒教的な華夷思想が薄れて国際認識に基づく視野の広い世界観が生まれる。この新しい世界観は人間平等観を生み、やがては封建的な身分制度を批判し、さらには鎖国主義への批判ともなる。幕府は蘭学の公学化をはかり、民間での蘭学の取り締りが始まる。この時期にはわが国で刊行された世界図は内容の斬新さとともに形態にも大きな変化がみられ、地球が球体であることを直感的に示す双円図(両半球図)がその主流となる。幕府が作成した官撰の『新訂万国全図』がこの双円図であったことから、この期において世界図といえば双円図でなければならないというほどに慣例化した。

 最後の第5期には西洋列強の圧力で開港に至り、急速に欧米諸国との接触がはじまる。この時期には遣外使節が派遣され、日本人がはじめて西洋文明を直接観察できるようになって多大な影響をうける。やがて海外渡航が解禁され留学生が相次いで外国へ留学する。この時期に大洋を航海する外国艦船はいずれもメルカトール図法の地図を用いていることが知られ、わが国でも世界図の主流が双円図から方図にかわる。


  Valerie Hansen「Maps and Itineraries on the Silk Road During the First Millennium」

 What was the purpose of written itinaries that listed places? and what was the purpose of maps that showed their spatial relations? This paper will examine surviving itineraries and maps used on the Silk Road(specifically the Tarim Basin in todays Xinjiang Autonomous Region)between 200 and 1000 A.D.  I hope to establish the uses of the different materials that survive in Chinese, Khotanese, and other languages spoken at the time.

 The Silk Road connected China and the Islamic world, and each region had its own traditions of making maps and drawing up itineraries.  Islamic geographers, heirs to the Ptolemaic tradition, started by listing different cities and places by climatic zone.  But sometime around the year 1000, geographers like al−ldrisi began to make maps that showed spatial relations among these places.

 The Chinese map−making tradition extended far back in time, at least to the maps from Han−dynasty Mawangdui, but the Chinese government also made word−maps such as the Shazhou tujing, an administrative geography of Dunhuang.

 Individual pilgrims diaries describe how people traveled, sometimes with guides, sometimes alone, and should shed light on contemporary use of maps and itineraries.  The Silk Road offers a perfect case study for seeing how two cartographic traditions interacted and how they affected local map−making traditions.


  中務哲郎「プトレマイオス「世界図」とその時代」

 エジプトには古王国時代(2686BC〜)から地図が存在し、メソポタミアにおいても粘土板に刻まれた2300BC頃の地図が知られている。古代ギリシアでは考古学的遺物としての地図が残らぬ時代にも、文献上に地図への言及が度々現れる。ミレトスの独裁者アリスタゴラス(500BC頃活躍)はスパルタ王クレオメネスにペルシア遠征を促すため、銅板の全世界図を見せながら、ギリシアとペルシアの間にどのような民族が住み、どれ程の富がそこにあるかを説明したという(ヘロドトス)。ソクラテスはアルキビアデスが富を鼻にかけ、所有する田畠の多いことで思い上がっているのを見て、世界地図を見せ、そこに彼の田畠が描かれているかどうかを探させた(アイリアノス)。アリストテレスの学園にも世界地図が懸けられていた。ギリシア人はこのように早くから日常的に世界地図に接し、世界における自分の位置を認識する一助にしていた。

 「万学の祖」アリストテレスから「古代地理学の到達点」プトレマイオスまでにはおよそ500年の時が経過している。プトレマイオスにとってこの500年はどのような時代であったのか。精神史的には二つの特徴を取り出せるように思う。(1)古典期ギリシア(前5、4世紀)の文学・哲学・芸術における溢れるばかりの創造力は衰えた代わりに、ヘレニズム期(前3〜前1世紀)は過去の文化を回顧し、学問的な研究の対象にした。その後に続くローマ時代(前1世紀〜)は、前代の学問研究を集大成する時代であった。ポリュビオス『歴史』(前2世紀)、シケリアのディオドロス『全世界史』(前1世紀)、ストラボン『地誌』(紀元前後)、プリニウス『博物誌』(後1世紀)等はいずれもそのような時代思潮の中で成った大著である。数学において『アルマゲスト(最大の書)』を残したプトレマイオスの『地理学』も、当時の地理学的知識の集大成であった。(2)地図の作製には探検が不可分に結びつくが、ギリシア世界では探検や地図作製に従事する人々は民間人が多かった。これは、ギリシアにおいては学校教育が終始民間によって担われたことと関係があるかと思われる。集大成の時代に、民間人が純粋に学問的な関心から、地理学的知見の全てを図面の形で表現しようとした、それがプトレマイオスの『地理学』であった。


  第4回国際シンポジウム座談会

  パネリスト:金田章裕・杉山正明・中務哲郎・川添信介

  司会:藤井讓治

(藤井) 今回の研究会では座談会を企画致しました。司会は私が担当し、金田さん・杉山さん・中務さん・川添さんの四人の方にパネリストになっていただいて、すでにお知らせしております「絵図・地図とはなにか」「東と西」「中世から近世へ」「新しい人文学のために」というテーマを念頭におきつつ議論をしていきたいと思います。中務さんは本日発表されたので、他のお三方にそれぞれ発言をいただき、中務さんにはコメントを頂こうとおもいます。もちろん会場の皆さんも適宜ご意見・ご質問をお願い致します。ではまず川添さんからお願いいたします。

(川添) 私は個別の詳しい知識は持ち合わせておりませんが、二日間興味深くお話を聞かせていただきました。その中で今日ヴァレリー・ハンセンさんが極めてソクラテス的な問いを立てられました。それは「地図とは何か」という問いです(註1)。この問いの裏側には「人間はなぜ地図を描くのか」そして「なぜ地図を必要とするのか」という問いがあると思われます。色々な答えがあると思いますが、私がうかがった限り、これは三つほどに分けられるのではないかと思われます。さしあたり世界図でお話をさせていただきますが、人間は一定の地域に居住しているおり、それをこえた全体を世界だと理解しておきます。そこでなぜそういうものを描くのかと考えると、一つは単純に、生きていくために自分が住んでいる場所の外に出ていくことが多くなり、実用的な知識が必要となったために描かれると言うことがもちろん考えられます。無論これは世界図でなく狭い地域の地図の場合でもそういう用途はあるわけです。もう一つは、ハンセンさんがおっしゃったような仏教的な、あるいは私の専門としている時代であるヨーロッパの中世のTO図に代表されるような地図等です。つまり、コスモグラフィア・世界をどう理解するか、あるいはどう理解しているかということを提示する、そういうタイプの世界図があると思います。もう一つは、今日中務先生が取り上げられたプトレマイオスに代表されるギリシャ的な、あるいは他の国でも見られるのかもしれませんが、純粋に世界を理解したいという情熱に基づくものです(註2)。それはさしあたり何の目的、あるいは自分が世界をどう理解しているかということの提示ではなく、世界が実際どうなっているかということをただ知りたい、描き留めたい、そういう人間の欲求によるわけです。その欲求がどこから出てくるのかは知りませんが、アリストテレスは「誰でも自然本性的に知ることを欲する」と言っていますし、ビジュアルなものとの関係では、「見ることを喜ぶ」というようなことも『形而上学』の冒頭の部分で言っています。この三つの類型に果たして収まりきるのかは分かりませんが、そう理解すると、歴史上いつごろから地図の描かれる意図なり用途が変わってきたのか、どういう状況で変わったのか、つまり時間的な軸と地図に対する概念という軸、そういう観点から地図を見ることができるかもしれない、そういう印象を持ちました。

(杉山) 知っているから描くというだけではなくて、知らないからこそ未知のものを見たい知りたいということもあるのでは・・・。

(川添) もちろん完全に分かれるというわけではなくて、それぞれを特化してつきつめればそういう類型ができるだろうということですね。枠組みを作っておこうと思ったわけです。実際にはいろいろ入り混じっていると思います。

(藤井) 世界理解というものは地図なんでしょうか。

(川添) それは地図とは何かという定義の問題でしょう。ただ、世界理解でも完全に具体的な情報が切り離されている場合は違うでしょうけど、一定程度の地理的な知識がそこに 織り込まれていれば地図といえるのではないでしょうか。また、地図にはすべてを描き込むわけにはいきませんから、どれを取り出してどれを強調して描くかという中にコスモグラフィカルな世界理解が現れてくることになるのだと思います。

(紀平英作) すると中世の地図、あれはそういう意味では地図なんですか?それとも・・・。

(川添) TO図でも一応アジアとリビアとエウロパとに分けられているわけですよね。そこには実際の反映があるわけです。ただ一方でパラダイスやイエスキリストが描かれていて、それは地理的な情報とは全く別の次元で世界の理解が合わさっている。

(ヴァレリー・ハンセン) コロンブスの地理に関しての理解はTO図だった、コロンブスの頭の中にはTO図があったそうですね。コロンブスの詳しい日記があって、その日記を読むとわかります。これは面白いことだと思います。

(川添) 彼の時代にもTO図的な図が広まっているんですか?

(杉山) 実はよくあります。基本的な形はTO図を留めつつ、具体的中身はものすごく詳しいのです。有名なカタラン・アトラスとは別のカタラン・マップ、そして、これも名高いフラ・マウロの地図が1453年です。

(藤井) この問題はもう一回やらないといけませんね。続いて金田さんの方からお話をお願いします。

(金田) 私からは二つお話したいと思います。一つは「絵図」と「地図」という用語についてですが、日本では特に8世紀の律令国家の国家体制の中で作るものが、単に「図」あるいは「地図」、それに対して10世紀くらいから私的に何らかの目的のために作られるのが「絵図」です。そして国家体制の下ではその後地図が作られなくなりますから、そうすると平安時代のおわりには作られるものは全部「絵図」です。その伝統があるので江戸幕府は官制のものでも「絵図」と言っています。しかし古代では、少なくとも8世紀〜10世紀あたりでは、国家の手によって正式に作られるもの、つまり法律上意味のあるものは全て「図」乃至「地図」であって、「絵図」というのは非公式なものです。勿論あくまでもこれは日本語での話です。

(川添) それは中身の区別ではないんですね?どういうスタイルのものが地図であり、あるいは絵図であるかということではないんですね?

(金田) 同じく土地を表したものでも、例えば問題が起こったときに「あれは図ではなく絵図だ、だからだめなんだ」という言い方になります。だから「絵」という言葉のなかに非公式という意味が含まれていたという考え方もあり得るかもしれません。そこまで踏み込めるかわかりませんけども。私自身は包括的な用語としては「古絵図」という語を避けて、より相対的に「古地図」という語を使った方がいいと考えています。ただ絵図と呼ばれているものもあるわけですから、それはそれでいいのですけれども。

 二つ目は、お手元に表をお配りしましたが、これは『古代荘園図と景観』という本に入れたものですが、もとは『岩波講座日本通史』にかいたもの(註3)ですので、10年ほど前のものになります。色々な地図を扱うのでその位置づけをしておいたほうがいいのではないかと思い、日本の地図を機能と表現対象からまとめたものです。各種の地図をどう位置づけたかは表をご覧ください。ただ、これで「地図をなぜ描くのか」と言われても分かりません(笑)。これはあくまで日本に限られていますが、日本で世界地図として認識されるのは、五天竺図が最初ですので、それで代表してかいておきました。その後にもいろんな世界地図があります。これらの世界地図は機能から言えば明らかに「世界認識」といった方がいいのではないかと思います。それが16世紀末から17世紀にはもう少し現実的なポルトラーノの影響も出てきますが、日本で描かれたり刊行された地図と限定すれば、そう言えると思います。それに対して国と小地域には「国土把握」というような表現を使用しました。「把握」というとわかりにくいかもしれませんが、所有権とか、税の権利・義務、あるいは政治的コントロールのための認知等々の意味を込めて「把握」という語を使ってみました。

(川添) やはりほとんどのものは公的な目的のためというのが大きいんでしょうか?

(金田) どこまでが私的でどこまでが公的かははっきりしませんね。表の「領域」の項目で言えば、領域型荘園図も相論型荘園図も実際の土地争いで意味を持ちますんでね。15・16世紀から差図・郷村図と出てきて、所領図・村絵図・山絵図と続きます。このあたりになると色んなものが色んなかたちでたくさん作られます。日本図も行基図になると目的がはっきり分からないわけですし、かえって五天竺図の方が目的がはっきりしていて、仏教的な世界認識を示すという目的が分かります。

(杉山) 五天竺図は南北朝くらいですか?

(金田) そのくらいです。法隆寺のものですね。

(藤井) 世界図と日本図の屏風なんかはここではどう位置づけられてますか?

(金田) 世界認識の図だという位置づけをしています。

(藤井) 日本図と一対だったら同じ認識の中にないとおかしいのではないですか?

(金田) 認識の中に当てはめるという意味ではそうでしょう。付け加えれば、この表は17・18世紀で意識的に切ってあるんですが、それはこのあと「世界認識」がどんどん「世界把握」になると考えたからです。

(杉山) それはかなり帝国主義の問題と関連しませんか?

(金田) そのとおりです。密接に関係します。

(藤井) 他にご意見等なければ今度は杉山さんからお願いします。

(杉山) まず朝鮮半島の地図の話をさせていただきます。朝鮮半島では非常に特徴的な地図があります。全体は須弥山を中心とする仏教的世界観が下敷きになっていて、その一部が南贍部州で人間の住むところであり、それが中国を中心に描かれていて朝鮮半島がその横に有力な形で存在し、そしてオケアヌスがひろがる。このパターンの絵図というか地図が17世紀からずっとあるのですが、やがて地球が球であるという知識が導入されると、オケアヌスの上に浮んでいる外まわりの大地が四角になり、そのさらに外側にあるもうひとつの枠が円くなってそれが球体であり地球を意味する、つまり天円地方ということになります。そうすると、本来はあいいれないはずの複数の理念から発する別々のものが、何重かの構造をなして、それぞれが意識のうえで矛盾なくかどうかはわかりませんが、ともかく同居していることになります。最初にその手の図を見たときは、これはいったい何だろうと思いました。韓国では17世紀から19世紀にかけて、このような地図、というか、世界図にして地球図でもあるものが盛んに作られました。ようするに、西洋の科学的地球観・世界観がやってきたときの対応の仕方が鮮やかに現れているのです。しかも、それ以前の多様な観念も生きつづけている。そうしたことは文献や文字からたどろうとすれば大変難しいのですが、ビジュアルなものは誰の目にもはっきりと傾向性が出やすいですね。これは近世から近代へという議論のひとつの糸口になるのではないかと思います。

 次に「地図とはなにか」という問題ですが、さきほど應地利明先生がおっしゃられましたように、だいたい地図というもの、なかでも、特に世界図のたぐいはエゴセントリック、すなわち自己中心的でしょう。私もそう思います。地図というものは、それを作る立場が公であれ私であれ、その違いの多くは国家制度とか時代の問題に帰せられるもので、要は何らかの必要・要求がまずあって、ある立場や人間の為にくわだてられ、作られる。そういうものがたいていは古い地図ほど強烈で、逆にある地図が近代的であるということは、それとは違ったなんらかの公理とか原理に沿っていこうとする部分が出てくることになります。

 また「東と西」ということについて、このことも含め、この座談の問題提起そのものが私のいいかげんな考えで挙げているので、まことに無責任ないい方になりますが、本当はやはり、せめて東・中・西とかそれ以上に分けるべきであって、旧来型の東西二元論は単純すぎて苦しい。地域論とか文明論などでも、東西二元論では本当はつらいと思います。また、中東世界は今ではイスラーム世界と言ったりしますが、そこをはじめからイスラームという独自の孤立した世界ときめつけて考えると危ないのではないでしょうか。実際の人類文明の展開と、このところの国際情勢もあって内外でとかく語られがちな文明の枠組みとの間には、相当なずれがある気もします。

 さらに「中世から近世」ということに関連して、じつは私個人はあまり「中世」「近世」という言い方はしません。ただその一方で、中世から近世といった方がわかりやすいというか、ある種の時代や理念の転換をあらわすにはむいているかもしれない場合もあるかと思います。中国には現存するものでは宋代から華夷図の世界がありますが、蘇州にある有名な「地理図」「華夷図」「天文図」は、セットで碑に刻まれています。つまり、中華を中心とする自己中心的な文明意識による「華夷図」、やはり自己中心的な領域図の「地理図」の他に、「天文図」があることが注意されます。それによって、空間だけ・大地だけではなく、時間の動きや宇宙論を示そうとしているわけです。また、その三点セットを石に刻んで永遠に見せようとしている。必要なら、拓本という形でプリントアウトできます。この例に限らず、また中華世界に限らず、このように、実はかなり世界図は、時間とセットになっていることが多い。つまり、川添さんがおっしゃったコスモグラフィカルな宇宙論的な部分を非常に強く持っています。この地図プロジェクトで過日ご覧いただいたいわゆるカタラン・アトラス、すなわち私がいうところの「カタルーニャ地図」もそうなんですね。カタラン・アトラスは全部で12ページあり、そのうち地図は8ページで、最初の4ページは時間・時代の動きを扱っています。同じ事はいわゆるイスラーム世界の地理書もそうでして、ハンセンさんも今日の報告でおっしゃっていましたが、空間やそれに関わるいろいろな知識とともに、時の移ろい、それをアラビア語で「daur(ダウル)」もしくは「daura(ダウラ)」というのですけれども、天運がめぐる。時代が動く、時局が変わる、国運がそれによって動くという一種の運命論であり、国家論にもなっている、そういうものが描かれます。この地図プロジェクトの中心的な題材としてとりあげている例の「混一疆理歴代国都之図」でもそういう側面がありますし、もっとはっきりしているのは、これと少し名前を変えた「混一国都歴代疆理地図」です。みなさんよくご存知のように、明の嘉靖年間の楊子器の地図をもとにして朝鮮王朝で作られた一連の地図で、いいものが韓国ソウルの仁村紀念館にありますし、日本では、宮内庁と妙心寺麟祥院にあります。妙心寺のものが典型的ですが、以前は屏風の表裏仕立てになっていて、地図の反対側は天体図になっていたのです。つまり、天の動きとともに時間の観念も、一体のものとしてそこにあるわけです。おそらくは仁村紀念館のものもそうでしょうし、そのアナロジーでいうならば、宮内庁のものにもセットとなる天体図がどこかにあるのかもしれません。するとそこには、天地人というよりは、時の運行も含めた世界認識の記憶、さらにはもっと広げて歴史認識の記憶としての地図というべき性格がはっきりとあることになります。それから今もうしあげました朝鮮王朝でのセット関係、時間と空間とを背中合わせに作って、それを王権の象徴にし、そうすることで自分の権力を認知せしめ、それを誇る。すなわち、大地を治め、かつは天から認知される、さらには時のめぐりからも認知されるという仕掛けなわけです。こういう側面・要素も、中世から近世への世界図の中にあります。

 また、昨日、水本邦彦先生がご報告(註4)で使用された近世日本の図を見ていて、非常に目で見る姿に近く、とても分かりやすいと思いました。五月に北京に行った帰りに、隠岐島の上空から、さらに中国山地の一帯を見ていたのですが、水本先生が見せてくださった地図に描かれているそのままですね。むしろ科学的なはずの等高線の地図は、いわばイデアの世界であって、そういう意味では新しいものと古いものとどっちがいいかは何とも言えない部分があるなと、あらためて感じます。

 もう一つ、今日ハンセンさんもおっしゃったのですが、地理書はあっても往々にして地図は残っていないことが多い。それはなぜかというと、地図というものは危険だからなんだと思います。何かあるとすぐに隠し、すぐに滅ぼす。中国では王朝が変わると、特にビジュアルなものは誰が見ても一目瞭然で危険なので確実に滅ぼすか隠して、そして次の政権になったら、しばしばまた持ち出してきます。非常に奇妙なことは、文化大革命のときに中国は政権が意図して誘導してそれまでの地図を破却させました。1960年代から70年代の中国政権・毛沢東政権とはいったい何だったのか、と思うのですが、ともかくその結果、中国の古地図は比較的最近のものでも非常に少ない。地図というものは、この話のような性格・宿命をもっています。他方、ソ連は十万分の一のものすごく詳しい地図を持っていました。学生時代もしくは30代にそれを見たかったですね。ソ連が解体してオープンになって、幸いにしてソ連が持っていたすばらしい十万分の一の中央アジアの内陸地図が見られます。今ならランドサットとか人工衛星で、どんな細かいものでもわかりますが、それがない時代にあの地図が見られたら、どんなによかったか。十万分の一の地図は一センチが一キロですから、ちょっとした都市遺跡は全部わかります。わかったら別の論文をかいたかもしれません。たとえば、チンギスカンがどう進軍したかもおそらく克明にわかります。しかし、それも所詮は政権が解体したから出てきたのであって、やはり地図というものは基本的には滅ぼされやすい運命にあるのでしょう。それにもかかわらず、では、こんなに物持ちがいい日本はいったい何なのか、というのが結論にならない結論です。

(金田) ギリシャ語で地図のことは何というんでしょうか?

(中務) 「ges periodos(ゲース・ペリオドス)」(註5)、あるいはそれを描きこんだ「pinax (ピナクス)」(註6)というのがヘロドトスの頃の名称です。

(金田) 英語の「map(マップ)」に当たる語は比較的新しいのです。以前調べたことがありますが、どうも15世紀くらいらしい。例えばOEDを見ても、挙げられている最古の用例もそれほど古くはありません。英語には他にもチャート等の地図にあたる語があるわけですが、英語で「map(マップ)」という概念で地図が包括されるのは比較的新しいことになります。これは面白いと思っています。中公新書(註7)にかきましたが、シェークスピアに地図のことに触れた一節があって、それは当時イギリスでは最も新しい情報伝達手段というか情報表現手段という設定で使っていたという解釈をしたんですが、英語の成立期という問題も当然あるんですが、不思議に思いましたね。画像でビジュアルに世界を表現するというその表現手段がもつ意味そのものがいろんな可能性を引き出す訳ですけども、それを「地図」という概念で概念化するという点も興味深いかもしれないという印象を持っています。

(藤井) 日本では、国絵図を作ってもそれに類するものがそれ程時間を置かずに刊行されます。地図というものをどう観念しているかという点で、中国や朝鮮との違いは結構大きい気がします。

(金田) 日本は膨大な量の地図を作ってますけど、非常にオープンですね。

(杉山) さきほど川添さんとお話をしていたのですが、日本は伝統的に政権の脇が甘くて情報管理がゆるいですね。

(紀平) 今の話とは少しずれてしまいますが、公が作るものと個人が作るものでは、そこに地図を描くあるいはビジュアルなものを形に作るということの意味の違いがあるのではないか、という気がします。公が作るという場合にはもちろん行政上の必要性があるし、杉山さんが言われたように場合によっては王権の正統性を象徴します。単純に世界観を示すというような言い方より、公が作った場合はどういうものなのかというワンクッションを入れて、公と私というものの違いを地図の中に考えることは出来ないでしょうか。ただ日本は・・・。

(金田) 日本では正式なものとそうでないものとの違いは印の有無です。印があるのが「図」 で、ないのは「白図」です。「白図」を「白地図」と間違えている人もいますが。

(藤井) それは内容が同じでもですか?

(金田) 内容が同じでも印がなかったら「白図」です。だから、例えば寺院などの地図の所蔵目録(註8)で何々「図」とあり、「白図」あるいは「図」の注記がなければ、それはちゃんと国印・民部省印等の押印のあるものです。

(杉山) 印の問題は甚だ日本的・東アジア的で官僚的ですね。一方、ヨーロッパでは中世の王権や地方君主等にも権威の象徴としての「seal」(註9)がありますが、ヨーロッパでは地図に印を押しているのですか?なお、イスラーム世界にもかなり印があるのですが・・・。

(金田) そのことですが、ハーヴェイが明確に書いていますが、イギリスでは1530年まで国家ないし王権が地図を作らせることはありませんでした。しかし、その直後に大きく変わって大量に地図が使われる国になります。それがシェークスピアの前くらいですね。そしてそれをイギリスが世界中に広めたわけです。

(藤井) 金田さんが地図の印の問題に言及されましたが、これは文書でもそうでして、古代の正式の文書には全面に印が押してあるのが、中世になるとほとんどなくなります。ちょうど対応するような展開をしますね。

(杉山) 「公」「私」という議論がでましたが、日本ならまだしもその話もわかるのですが、 中国にはあくまで建前としては「私」がありません。他の東洋史学者もはっきりと言っていることですが、西洋文明が来た時に、国法しかない世界に生きていた中国文化人は、私権を弁る公法の存在に大きなショックを受けました。中国は基本的に「公」の世界です。日本はどうなんでしょう。全部「私」なんでしょうか・・・。

(藤井) 議論はつきませんが、時間が来てしまいました。今日のようなテーマはなかなか結論は出ないかもしれませんが、今後も繰り返し議論をして共通認識が持てるといいと考えております。今日はありがとうございました。

註1 本シンポジウムにおけるヴァレリー・ハンセン氏の口頭発表(「地図とはなにか」)を指す。

註2 本シンポジウムでの中務哲郎氏の口頭発表(「プトレマイオス「世界図」とその時代」)を指す。

註3 金田章裕著「絵図・地図と歴史学」(『岩波講座日本通史 別巻3』)所収の表「日本における古地図の機能と表現対象」を指す。

註4 本シンポジウムにおける水本邦彦氏の口頭発表(「絵図にみる日本近世の村落景観」)を指す。

註5 大地の輪郭を意味する。

註6 木製や金属製の板を意味する。

註7 金田章裕著『古地図から見た古代日本』を指す。

註8 延暦13年の弘福寺文書目録(『平安遺文 古文書編』文書番号12)など。

註9 印章を意味する。


■ 『絵図・地図からみた世界像』収録論文の補足

  今年3月に刊行された『絵図・地図からみた世界像』収録の宮紀子氏の論文「『混一疆理歴代国都之図』への道――14世紀四明地方の「知」の行方」に補足すべき点がありますので、ここに掲載します。

   宮 紀子「釈清濬二則」

 前稿「『混一疆理歴代国都之図』への道−14世紀四明地方の「知」の行方−」(『絵図・地図からみた世界像』15頁)において、清濬がいつ僧録司の左覚義に着任したのか不明としたが、そのご関連する記事二件を見出した。鄭永禧『民国衢県志』巻19「碑碣志四」《明洪武烏石福慧寺捨田記》(礼部尚書資善大夫開封任昂篆蓋、礼部侍郎嘉議大夫新安朱同丹額)は、ほかならぬ清濬の撰書に係り、その肩書きは「僧録司左覚義前住四明万寿禅寺天台沙門」となっている。明洪武甲子年春正月の立石だから、洪武17年(1384)以前に着任したのは間違いない。また、ごく最近出版された柴志光・潘明権主編『上海仏教碑刻文献集』(上海古籍出版社 2004年4月 106−108頁)収録の「松隠禅院建華厳塔記」(徴事郎中書舎人新安・孟挙書 文林郎太常典簿東呉顧禄篆額)も清濬の撰である。この碑には年次が刻まれないが、華厳塔の建立が洪武17年9月であること、「僧録司左覚義霊谷禅寺住持沙門」の肩書きから洪武20年(1387)から25年(1392)5月までの間に絞られる。


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