ニューズレター第9号

 年の暮れも迫ってまいりました。ニューズレター第9号をお届けします。


■ 『絵図・地図からみた世界像』収録論文の補足 その2

 前回に引き続き、『絵図・地図からみた世界像』収録の宮紀子氏「『混一疆理歴代国都之図』への道――14世紀四明地方の「知」の行方」に関する補足事項を掲載いたします。


  宮 紀子「『混一疆理歴代国都之図』への道」拾遺

 前稿20頁に引用した烏斯道『春草斎文集』巻三「刻輿地図序」の解釈について、中砂明徳氏より次のような指摘をうけた。すなわち

 烏斯道が清濬の「広輪図」を持っていたとすると、なぜ彼が理にかなっていると認めた「広輪図」ではなく、「声教被化図」にもとづいて「輿地図」を作ったのかがわからない。この文章のなかの“自謂”は、烏斯道の見解なのではなく、「声教図」についていた跋文(あるいは李汝霖本人のことば)と見ることはできないか。「李汝霖はそう書いているが、じっさい(「広輪図」を上回ると自負している)李汝霖の図を私烏斯道が調べてみると・・・」というふうに文章がつながっていくように思う。

と。漢文としては、確かにそう読めなくはない。ひとつの可能性として、ここに掲示させていただく。ただ、上記のように解釈した場合、李汝霖(≒李沢民)の地図は、清濬の地図をふまえて作成されていることになり、朝鮮において、二図を再び合成する必要が果たしてあったかどうか。烏斯道が「広輪図」が優れているとみとめつつも、「声教被化図」を用いて「輿地図」を刻したのは、それが「広輪図」の描かない中東、ヨーロッパ、アフリカを描いていたからだろう。

 中国の地図の大きさは、縦横それぞれ180cm前後くらいが伝統のようである。正倉院北倉の弘仁五年(814)から天長三年(826)までの「雑物出入帳」には、弘仁五年、売却のため、出蔵された宝物のリストの中に、「唐國圖一帖 高六尺。小破。緑綾〓(読み不明)」とある。この「唐国図」は、756年(唐の至徳元年)より前の状態を描く相当詳細な中国地図であったことはまちがいなく、遣唐使等によって将来され、聖武天皇や光明皇后、藤原不比等などが眺めていたものだろう。現存していれば、唐代史はもとよりさまざまな分野の研究に多大な寄与を齎す資料であっただけに、そのごの行方が分からないのが残念だが、多少の破損で売却されていることからすれば、複数の「唐国図」が保管されていた可能性もある。『国家珍宝帳』等の調査の必要があるだろう。『第五十六回正倉院展』(奈良国立博物館 2004年 26、117頁)参照。

 『大元大一統志』の編纂に関連して、光緒『垣曲県志』巻十の宋景祥「沿革碑記」に、“至元二十三年詔秘書監編類天下地理図誌,郡域適委文資正官,通書能吏,与本処学官,尋討古書、碑刻、近代野史,州県分野、山川、土産、古跡、人物、風俗,集録呈献。時予守絳陽,学官、県以図説来講究,因拠所録雑考、古文、伝記,応上命焉”とあるのは、モンゴル朝廷の主導によって、各地の地方志編纂事業が促進された傍証の一つとなる。

 『元代画塑記』に“天暦二年十一月十九日,勅留守臣闊闊台等差祇応司官一員,引画匠頭目一人,乗駅往隆鎮衛守隘処,図其山勢四進図四軸 用物,熟西碌二十斤、熟石青一十斤、紫膠十斤、心紅一斤、細墨一斤、鉛粉五斤、羅絲絹二百、江淮夾紙五百張、藍綾三十尺、黄綾二十尺、装褙”とあるのは、地図作成に必要な物件を知るためのみならず、この時期に詳細な防衛地図を作ったこととあわせて、重要な資料となる。

類書『博聞録』に関連して、大元ウルス朝廷の勅撰の政書である『通制条格』巻二八「雑令」に“至元三十一年十月,中書省:御史臺呈:山南江北道粛政廉訪司申:博文録内有聖朝開基太祖皇帝御諱及次皇帝宗派。擬合拘収禁治。省准。”とあるのを見落としていた。“文”は“聞”と通じる。現に大徳三年の李衎『竹譜』(『永楽大典』本)巻四「鶏頭竹」にも『博文録』が引用されており、元刊本『事林広記』の「竹木類」“鶏頭竹”の註とたしかに一致している。李衎は、吏部尚書、集賢院学士もつとめた人物である。『博文録』が『博聞録』と同一書であるならば、『南村輟耕録』冒頭のモンゴル王族の系図がどこからきたのかという疑問が氷解する。おそらく、しばしば禁令が出されたにもかかわらず、『事林広記』のいくつかのテキストでは、至正年間まで新しいデータを入れた系図が掲げられつづけたのだろう。またこの『通制条格』の記事によって至元末年には、華北でも『事林広記』が流通していたことが証明された。

 シエナ市庁舎の「世界地図の間」には、14世紀に活躍した画家アンブロジオ・ロレンツェッティの描いた世界地図が掛けられており、1784年まで確認されていたという。田中英道『光は東方より:西洋美術に与えた中国・日本の影響』(河出書房新社 1986年 132、137頁)

 1641年、すなわち徳川家光の時代に、日本から派遣された朝鮮使節は書籍とともに朝鮮地図を求めたが、許可されなかった。前年、対馬の宗家は、その地図を頂戴しているにもかかわらず、である。『仁祖朝実録』巻四〇「十八年庚辰六月」“[丁巳],對馬島主,請見文廟祭器及釈奠儀註、我国地図、清国鎧甲、鞭棍、環刀、馬上長刀,又求駿馬及鞍、鷹連、黄鶯、野鶴、魚皮、人参、筆墨、薬材等物,皆許之,而不与清国鎧甲”、巻四二「十九年辛巳正月」“辛巳,倭人求四書章図、楊誠斎集、東坡、剪燈新話、我国地図。朝廷賜以東坡、剪燈新話,餘皆不許”。


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