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NEWSLETTER No.10

2005/02/04

今後の活動予定

○2005/03/09 午後3時~ 第二十四回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條) 
輪読18回目 第90句~92句、および注釈検討第79~85句
担当:福井辰彦 楊昆鵬


活動報告2004/10~2005/01

○2004年10月4日 午後3時~ 第二十回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條)
第51~64句 注釈検討

○2004年11月1日 午後3時~ 第二十一回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條)
第51~78句注釈検討

○2004年11月6日 午後1時20分~4時30分 第十二回「乾の会」
シンポジウム「中国語における否定」
【第一部報告】 司会:張猛(京都女子大学教授)
劉丹青(中国社会科学院語言研究所教授)「漢語否定詞形態句法類型的方言比較」
 通訳:沈力(同志社大学助教授)
曹志耘(北京語言大学教授)「呉語湯渓方言的否定詞」
 通訳:中西裕樹(京都大学人文科学研究所助手)
【第二部報告】 司会:木村英樹(東京大学大学院人文・社会系研究科教授)
杉村博文(大阪外国語大学教授)「否定情報の獲得と応用」
 通訳:李長波(京都大学大学院人間・環境学研究科助手)
田窪行則(京都大学大学院文学研究科教授)「理論言語学からのコメント」
 通訳:楊凱栄(東京大学大学院総合文化研究科教授)
【討論】 司会:木村英樹
*言語と論理における普遍性と個別性、日本中国語学会との共催

○2004年12月6日 午後3時~ 第二十二回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條)
輪読16回目 第79~83句 担当:福井辰彦

○2004年12月10日 午後1時30分~5時30分 第十三回「乾の会」
講演会「詩と歌の出会うところ-和漢聯句の世界-」
董乃斌(上海大学中文系教授・中国社会科学院博士導師)
「李商隠と杜牧の比較」(通訳:愛甲弘志(京都女子大学助教授))
深沢眞二(和光大学助教授)
「桃山時代の和漢聯句」
島津忠夫(大阪大学名誉教授)
「和漢連歌と私」

○2005年1月17日 午後3時~ 第二十三回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條)
輪読17回目 第84句~89句 担当:福井辰彦 楊昆鵬

第十二回「乾の会」(2004/11/06) シンポジウム報告

国際シンポジウム「中国語における否定」の開催について
平田昌司(京都大学大学院文学研究科教授)


 標記の国際シンポジウムは、11月6日土曜日の午後1時20分より、4時30分まで、
京都大学時計台記念館百周年記念ホールにおいて、日本中国語学会・本COE
プロジェクト32研究会・36研究会の共催により開催され、全国各地から約300名の
参加者があった。開催経費については、本COE経費のほか、日本中国語学会・
以文会からの助成を得ることができた。
 シンポジウムの全体は、三部にわかれる。
 第一部では、近年深化発展のめざましい中国語方言文法研究を踏まえた、中国
社会科学院語言研究所教授の劉丹青氏(通訳:同志社大学助教授の沈力氏)、
北京語言大学語言学研究所教授の曹志耘氏(通訳:京都大学人文科学研究所
助手の中西裕樹氏)の二報告があり、司会は京都女子大学教授の張猛氏が担当
された。第二部では、現代中国語(共通語)文法研究の立場から大阪外国語大学
教授の杉村博文氏(通訳:京都大学大学院人間・環境学研究科助手の李長波氏)、
理論言語学の立場から本研究科教授の田窪行則氏(通訳:東京大学大学院総合
文化研究科教授の楊凱栄氏)の二報告がおこなわれ、司会を東京大学大学院人文・
社会系研究科教授の木村英樹氏が担当された。第三部においては、報告者四名
全員による活発な討論が、木村英樹氏の司会のもとで進められた。報告・討議の全体を
通じ、同時通訳にあたられた沈力・中西裕樹・李長波・楊凱栄の四氏のご苦労は
たいへんなものであったが、そのおかげで中国語を専門としない聴衆にも分かりやすく、
かつ質的に高いシンポジウムとなったことは特筆しておかねばならない。企画段階から
随時適切なご助言をいただいた木村英樹氏、曹志耘教授の招聘実務を担われた
愛媛大学の秋谷裕幸氏、同時通訳機器の操作・録音を担当した京都大学留学生
センター講師の澤田浩子氏、神戸大学大学院の中川明子氏、ビデオ撮影にあたられた
京都大学学術情報メディアセンター壇辻正剛研究室にも、この場を借りて深く
感謝申し上げる。
 なお、各報告と討論記録は、改訂の上で、2005年10月刊行予定の『中国語学』
第252号(日本中国語学会)に掲載予定である。会議時には、予稿集『シンポジウム
「中国語における否定」』(総53ページ)を印刷して配布した。
 以下、各報告につき、要旨を紹介する。討論も聴衆から高い評価を得たが、省略する。

(一)劉丹青「中国語否定形式の形態統語論の類型:方言間対照研究」(中国語)
 本報告は、形態統語論的観点から、中国語の否定形式につき方言間対照研究を
試みたものであった。主たる論点は、以下のとおりである。
 1.中国語においては、“通常の否定”と“所有/存在の否定”に、異なる否定詞が
   用いられるという通則がある。ただし、北方方言では“通常の否定”に[p-/f-]を
  頭子音とする語、“所有/存在の否定”に[m-]を頭子音とする語が用いられるのに
  対して、南方方言では双方に[m-]を頭子音とする語が用いられるという違いが
  あった。近年の方言調査結果は、“所有/存在の否定”を示す語が、文法化を
  経て、“通常の否定”と“所有/存在の否定”双方を包括する否定詞に発展する
  傾向があることを明らかにした。
 2.否定詞の種類・意味に影響を与える競合的な要因として、(1)文法化と語彙化、
  (2)弱化と強化、ふたつがある。前者(1)において、否定詞は文法化によって種類が
  減少する一方、否定詞と他の形態素とが融合する語彙化によって新しく増加する。
  後者(2)において、否定詞は使用頻度の高さに起因する音節数の減少など弱化の
  傾向をもつとともに、その重要性ゆえに音節数が増える強化傾向をも有する。
 3.否定詞の語順、つまり否定の演算子とそのスコープの関係は、中国語において、
  歴史的にも地理的にも、変化がない。例外に見えるものは、すべて説明がつく。
 4.語順と否定のスコープの関係は、中国語の各方言で一致するのが普通である。
  ただし、東干語を含む西北方言では、否定詞を動詞述語の直前に置こうとする
  傾向が強く、語順が標準中国語と異なる場合も存在する。
 5.古典中国語にあった“不、否”は、後で“不”1種になったと思われる。ところが
  南方方言では“否no”に相当する語形がない。その点から、否定詞の変遷に
  関する一般的法則を導いてみたい。

(二)曹志耘「呉語湯渓方言の否定詞―あわせて方言間の比較について」(中国語)
 本報告は、浙江省金華市湯渓で話されている呉語の否定詞に関する記述的研究
である。「1.否定詞の形式」では標準中国語と対比させつつ湯渓方言の全否定詞に
ついての簡潔な記述、「2.否定詞の類別」ではそれぞれの否定詞の機能の違いに関する
説明、「3.文末の否定詞」では文末に現れる否定詞に関する分析が行われた。湯渓
方言は、報告者の母方言であり、ていねいに文法記述の手法が紹介された。

(三)杉村博文「否定情報の応用と獲得」(日本語)
 本報告は、中国語における否定とはどのようなものか、認知に関する視点を中心として
論じた。また、中国語学がこれまで否定についてなにを語ってきたかの総括も含まれて
いる。全体は、「否定情報の獲得」「文脈に産出根拠を求めるべき文法現象」「否定情報の
応用」「まとめ」に分かれる。
 「否定には、外界が我々に向けて発信する情報としての側面と、我々が対話者に
向けて発信する行為としての側面がある。情報としての否定を認知するには、我々の
認知環境の中でそれに対立する肯定情報が事前に確認しえた、あるいは予期されて
いなければならない。行為としての否定は、談話の中において談話参与者相互の認識の
ずれを修正するために行われる。談話の中では新しい命題が次々に産出されるが、その
真偽の判定に当たり、文脈から得られた知識に基づく推論が発動されるため、文脈
依存度がきわめて高くなる。
 否定疑問という言語行為は、通常、話者が信じる命題の真偽を確認するために
行われる。この性質によって、否定疑問は、反問を経由して、命題の主張や補強に至る
動機づけを獲得する。現代中国語は、命題否定の疑問文を出自とし、命題の主張や
補強のために使われる慣用表現を数多く生み出している。」
(以上、報告者による「まとめ」より)

(四)田窪行則「中国語の否定:理論言語学からのコメント」(日本語)
 本報告は、以上3篇が中国語の専門家の立場からなされた発言であるのに対して、
一般言語学の視点から中国語の否定を考察するとどのようになるかを論じたものである。
全体は、「はじめに」「否定の意味:スコープと焦点」「中国語の否定とスコープ1:否定と
焦点」「中国語の否定とスコープ2:部分否定と全称否定」「終わりに」の5部に分かれており、
いくつかの文を観察し、「否定のスコープは否定辞の同位要素である」「否定の焦点は、
否定のスコープ内になければならない」の2点が中国語においても成り立つのではないか
という結論を明快簡潔に示した。
 この報告によって、中国語研究者どうしで語るのではない場合、どのように否定を
定義し、説明して行けばよいか、ひとつの見本が与えられたと言ってよいと思われる。

*報告要旨については、36研究会「言語と論理における普遍性と個別性」HP
ご覧下さい。

第十三回「乾の会」(2004/12/10)講演要旨

「李商隱と杜牧の比較」
董乃斌(上海大学中文系教授・中国社会科学院博士導師)
翻訳:愛甲弘志(京都女子大学助教授)


 李商隱と杜牧は晩唐の二大詩人である。大中三年に李商隱が杜牧に送った二首の
詩があり、その一首は「杜司勲」詩の〈高樓風雨斯文に感じ、短翼差池群に及ばず。
刻意春を傷み復た別れを傷むは、人間惟だ杜司勲有るのみ〉であり、もう一首は「司勲
杜十三員外に贈る」詩の〈杜牧司勲字は牧之、清秋一首杜秋の詩。前身應に梁の
江總なるべし、名は總還た曾ち字は總持。心鐵已に從ふ干鏌の利、鬢絲嘆ずるを休めよ
雪霜の垂るるを。漢江遠く弔ふ西江の水、羊祜韋丹盡く碑有り〉である。詩には杜牧に
対する敬服の情が表れている。しかし現存する杜牧の文集にこれに応えた作品はない。
このような情況が生まれるのには、当然、様々な可能性が有るが、しかし無数の偶然と
いう要素以外に、杜牧が李商隱に対して、実のところ、まったく友情を感じていなかった、
甚だしくは、合わないところが有ったから、意図的に応えなかったという可能性も考慮せねば
ならない。
 今回、このような仮定の上に立ち、李商隱・杜牧の二人の政治的(党派的)立場・文学観・
性格の違い、そして李商隱が贈った詩自体の問題について検討してみて、これらいろいろな
点が杜牧をして李商隱の贈った詩に応えさせなかったであろうと考えるのである。
 牛李の党争の中にあって、二人の立場は明確に異なる。杜牧は人間関係では一貫して
牛党に属し、青年時代に牛僧孺の幕府に入り、彼の厚遇を受けたこともあったので、終生、
牛僧孺に対しては恩義を抱いていたが、會昌年間には李德裕からは重用されず、かなり
怨恨を持っていたので、彼を貶めたことばが多くの文章に見られる。李商隱は若い時に牛党の
令狐楚を頼り、その子、令狐綯の引き立てによって進士に及第し、その後、政治観と人間関係から
次第に李党に傾いていったが、それは大中元年の李党が勢いを失った後のことであった。
しかし大中三年には、また牛僧孺のために祭文(内容は哀悼の意を表し、讃美的であった
はずだが、今残っていない)を作っており、李商隱の牛党への感情が複雑で、態度もわりと
揺れ動いていることが知れる。
 文学観の違いについては、杜牧が白居易と長慶の詩風を激しく憎み、甚だしくは友人の
口を借りて法を以て取り締まるべきだということに表れている。李商隱は白居易とわりと
いい関係にあって、白居易は李商隱が気に入っており、李商隱は白居易のために墓誌銘を
作っている。
 文学観が異なり、加えて個性が同じでないことが、二人の詩風に明白な違いをもたらして
いる。杜牧は貴族の出で、経世治国の才や唐王朝を興す志を有していることを自負して
おり、性格は風流洒脱にして、その詩風は剛健豪放で、率直に女性への気持ちを表そうと
する。李商隱は家柄は貧しく、彼も政治的抱負を抱いて、官僚となって政治に従事することを
渇望したが、大半は幕僚となって、ただ物を書くことで人の役に立つだけで、自分の才能を
発揮する術がなかった。その気質は内向的に過ぎ、感情的にもろくて、彼も女性の生活に
関心を寄せ、男女の感情豊かな生活を好んで描写したが、露骨に表現することは極めて
少なく、筆致は細やかにして変化に富み、詩風は晦渋にして婉曲である。
 李商隱が杜牧に贈った詩に〈前身應に梁の江總なるべし、名は總、還た曾ち字は
總持〉という二句が有るが、これは江總と杜牧の名と字の構成が似ているのを巧に
利用し比較しているのである。しかし江總の文名はかなり高くとも、陳の後主の〈狎客〉
だったのであり、歴史上、その名声はよくない。李商隱が贈った詩が江總を杜牧に
例えているのは、当然、まったく悪意は無いが、或いは知らずに杜牧を不快にさせたのかも
しれない。
 上述の差異と問題の存在は必ずしも杜牧が李商隱に友情を感じていなかった原因では
ないかもしれないが、杜牧が李商隱の贈った詩に応えなかった理由にはなるかもしれない。
真相がどうであったかは資料が今後、発見されるのを待たねばならない。当然のことながら、
彼らの間にまったく友情がなかったとしても、二人の文学史における地位に少しも影響を与える
ことはない。単に李商隱が杜牧に贈った二首の詩というこの資料だけから、当然のように
彼らの間に友情が存在したと考えるのではなく、真剣に彼らの違いを分析することが
寧ろ更に踏み込んだ研究の助けとなるのである。

桃山時代の和漢聯句
深沢眞二(和光大学助教授)


 日本においては聯句よりも連歌の方がより早く独自の発達を遂げた。一二〇〇年代
なかばには『連歌本式』『連歌新式』が成立し、一五〇一年の『連歌新式追加並新式
今案等』によって連歌ルールはほぼ統一された。一方の聯句は、鎌倉時代の『王澤不渇鈔』や
十四世紀中頃の『空華集』『異制庭訓往来』を見ると、単に「複数の作者によって当座性を
持ったまとまりある一編の詩をつくる」という意識で作られていた。一四八八年の万里集九著
「聯句説」には「いまだその規矩縄墨を記する者を看ず」とも述べられている。連歌のルールが
確立されようという時期に、まだ聯句のルールは明文化されていなかったようだ。その後、
一五〇〇年代から聯句のルールは綿密に体系化されてゆく。遣明使の正使として五山禅林の
僧侶の政治的な地位が上がったために、彼らの好んだ聯句の、文芸としての格も上がって
きたのである。とくに策彦周良が『城西聯句』に明の豊存叔という人物の序文を得て帰国し本を
禁裏に献上したことが大きい。但し策彦の聯句は、それ以前の聯句と異なり、内容のどんどん
変化していく、連歌に近づいた聯句であった。
 和漢聯句は聯句と連歌をまじえて句を繋ぐ文芸である。では、「全体の趣意にまとまりが
ある」という聯句本来の特徴と、内容の変化する連歌的行き様の矛盾はどのように解決
されたのか。一四五二年の『連歌新式今案』に追加された「和漢篇」では、「大概の法は
連歌の式目を用ふべき事」と、漢句も原則的に連歌のルールを守らねばならないと宣言して
いる。連歌がより早く充実してきた過程で、和漢聯句においても連歌の方の規則や手法が
優勢のうちに展開したのである。その後、一五〇〇年代には策彦の出現などあって聯句の
権威が上がり、並行して聯句の性格が変わった。そしてそのことは和漢聯句の充実の時期を
もたらした。
 桃山時代は後陽成天皇の在位期間の前半にあたり、和漢聯句の黄金時代と呼ぶことが
できよう。当時、和漢聯句が実際にどのような形で行われていたかは、『時慶卿記』や『鹿苑
日録』といった日記資料によって知ることができる。一五九一年四月の禁中和漢千句において、
西洞院時慶は執筆を仰せつかった。彼は『城西聯句』『韻字』『新式』といった参考書を見たり、
連歌師の里村昌叱へ執筆の「しつけ」を習ったりして準備をしている。『鹿苑日録』からは着座の
席次や事前の発句定めの様子が詳しく知られる。また、和漢千句が終わってからも差し合いが
ないか丁寧な点検と修正が施されたこと、その作業には紹巴のような連歌師も協力していた
らしいことが分かる。一五九三年四月の禁中和漢千句においては、『時慶卿記』によれば、
時慶も発句を詠むようにと命ぜられ、千句の準備に奔走しつつ、紹巴のもとに発句の相談に
行くなどして「発句吟案」に頭を悩ませている。また、『仮名遣』『分韻』『韻字哥』を準備
している。そして、時慶自身が発句を詠んだ第九和漢について、韻字の差し合いをただすために、
すでにできていた一巡を別の韻に添削したことが記されている。また、『鹿苑日録』には、発句
定めの細かな手順や発句懐紙の書き方が記録されている。
 総合的に見て、桃山時代の和漢聯句の隆盛の原因としては、十六世紀半ばに聯句という
文芸が質量ともに充実を見たこと、後陽成天皇の資質や天皇周辺の公家・僧侶の知識教養の
高まり、その背景としての豊臣政権の禁裏文化に対する優遇政策を挙げるべきだろう。更には、
朝鮮通信史の来日といった外交的要因を考える必要がある。大陸由来の漢聯句と、日本
由来の連歌とが一つの巻の中に混じり合う和漢聯句は、日本と大陸とのつながり・連なりを
求める時代の気分にうまく乗る、いわば、桃山時代の夢を象徴するような文芸だったのでは
ないだろうか。                       

和漢連歌と私
島津忠夫(大阪大学名誉教授)


 「~と私」という題は、小島吉雄先生の「新古今集と私」(『国語と国文学』昭和二十二年
十月)が最初で、それからしばらく流行ったものである。私もこの題で、私に即して研究史を
ふり返ってみたい。昭和二十三年の頃、私は、南禅寺の前に下宿をしていたが、ごく近くだった
林屋辰三郎氏の自宅での『大乗院寺社雑事記』の輪読会に参加した。林屋氏からは、連歌は
研究が進んでいるから和漢をやるとよいと言われ、次第に和漢連歌にも関心を持つようになった。
昭和二十五年、能勢朝次氏の『聯句と連歌』が刊行されると、貪るように読んだ。ある時期の
聯句には、かえって連歌が影響を与えたという論は新鮮なものに思えた。能勢氏の研究を
承けて、昭和二十七年に、尾形仂氏が早速「和漢俳諧史考─匂附成立素因に関する
一考察」を発表し、昭和四十年、金子金治郎氏の『菟玖波集の研究』には「菟玖波集の
聯句連歌」について手堅い考察が試みられた。
 昭和三十六年、俳文学会全国大会が九州で行われるに際し、中村幸彦先生が中心と
なって九州、山口の資料を発掘調査した。その成果が「西日本国語国文学会翻刻双書」
である。その『連歌俳諧集』(昭和四十一年、重松裕巳氏と共編)に、太宰府天満宮西高辻家蔵
『和漢聯句』を収めている。昭和三十二年、大塚光信氏の「湯山千句の抄」が『国語国文』に
発表された。これは専ら国語学の方面から考察したものだったが、私は、抄物を読むことによって、
聯句という文芸を理解することができるだろうと考え、愛知県立大学の講義で『湯山聯句抄』を
取り上げた。そして、昭和四十六年の俳文学会全国大会の折に、「湯山聯句とその抄」と題して
発表した。聯句を国文学の対象として扱い、研究発表を行ったのは、これが初めてだったのでは
ないかと思う。今日では、大塚光信、尾崎雄二郎、朝倉尚氏により『中華若木詩抄 湯山
聯句抄』(新日本古典文学大系、平成七年)も刊行されるに至った。
 新潮日本古典集成『連歌集』(昭和五十四年)は、当初、宗因の連歌と和漢聯句を収録する
という計画だった。和漢聯句の方は、昭和五十年に、京都大学と九州大学の講義で取り上げた、
実隆公条両吟和漢連歌(天文二年六月七日、前述の西高辻家蔵本)を準備していた。京大の
授業は、安田章氏が一番前で聞かれていたが、氏は、昭和五十三年に「辞書の復権」を発表し、
既にそのような構想のあったことを知った。その安田氏に指導を受けたのが、今や和漢聯句研究の
第一人者となった深沢眞二氏である。「寛永期の和漢俳諧」という題で、初めて大阪俳文学
研究会で発表したときは、どこまでが先行研究でどこからが新しいのかが、ほとんどの人には
分からなかった。
 一方、五山文学は、昭和三十年代に、安良岡康作氏が義堂、絶海を高く評価し研究して
いたが、五山文学が国文学と接するという点に意義のある、室町後期の作品は全く手付かず
だった。現在では、朝倉尚氏や中本大氏等によって研究が進められている。また、この研究会に
よる永正七年正月二日実隆公条両吟和漢聯句の注釈も発表されている(『人文知の新たな
総合に向けて』)。国文と中文による輪読ということで思い起こされるのが『和語と漢語の間』(昭和
六十年)である。これは、中国語学者の尾崎雄二郎氏、国文の佐竹昭広氏と私が、宗祇畳語百韻を
会読したものである。そこでは、例えば「雨中」のような、こちらが当たり前と思っている言葉でさえも、
それが新しい詩語であることを知らされた。
 さて、今回、昭和五十年に京大と九州大で読んだ和漢聯句の講義ノートが見つかった。ノートと
一緒に、西高辻家蔵本の写真も見つかった。現在、西高辻家の本は見られないので、貴重な
資料だ。この百韻は、細川高国の三回忌追善に読まれた(再昌草)。発句「空蝉の音にも驚く
月日哉」は、空蝉で無常を表し、もう三回忌になってしまったと読む。この百韻から、いくつかのことが
考えられる。まず、句上を見ると、実隆が五十四句(和が三十一、漢が二十三)、公条が四十六句
(和が十七句、漢が二十九句)と公条は漢句に偏っている。目的は高国追悼ではあるが、公条の
ための指導の意図があったのだろう。また、公条自筆の本文に、実隆が訂正を施しているが、これは
百韻を読み終わった後で行ったもので、興行性と文芸性の二面が読み取れる。式目については、
和漢篇に準拠し、漢和法式には反するところもある。漢和法式はまだ試行中だったのではないか。
さらに、漢句と和句の調和という観点からは、不自然なところが多い。和漢聯句という文芸は、禅僧と
公家との社交の場という意義が強かったのではなかろうか。こうした問題が今後の課題となるであろう。
                                      (長谷川千尋記)

◇編集後記◇
 今年度最後のニューズレター第10号をお届けいたします。
 来年度の活動としては、「坤の会」で輪読しております和漢聯句の訳注を刊行することが
まず挙げられます。目下、研究者ばかりでなく一般の読者にも、このユニークな文芸に触れて
いただけるよう、編集方針・体裁などにつき知恵を絞っているところです。  (福井記)


京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム
「極東地域における文化交流」
kanwa-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp