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NEWSLETTER No.11

2005/06/10

今後の活動予定

○2005/06/27 午後3時~ 第二十七回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條)
注釈検討第93句~

○2005/07/02 午後1時30分~5時30分 第十四回「乾の会」
国際シンポジウム「文化における〈自己〉と〈他者〉─異文化との接触─」
於京都大学文学部新館1階第1講義室
【講演】
マシュー・フレーリ(ハーバード大学大学院生)
 「他山の石─奥儒者成島柳北と西洋の出会い」
沈 慶昊(高麗大学教授)
 「李朝後期の儒学における相対主義的観点の擡頭について」
孫 昌武(南開大学教授)
 「インド仏教の中国文化に対する影響」
沓掛良彦(東京学芸大学教授、東京外国語大学名誉教授)
 「中世におけるイスラームと西欧の融合─『ハルチャ』をめぐって」
(講演順)
【討議】
講演者および会場の出席者による討議
*シンポジウム終了後京都大学文学部新館1階第2講義室にて、懇親会を開催予定。

活動報告2005/02~2005/05

○2005/03/09 午後3時~ 第二十四回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條) 
輪読18回目 第90句~92句、および注釈検討第79~83句
担当:楊昆鵬

○2005/04/11 午後3時~ 第二十五回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條) 
第84~92句注釈検討

○2005/05/16 午後3時~ 第二十六回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條) 
輪読19回目 第93句~100句
担当:山田理恵


─琉球:官話教科書-史実からみた成書事情(1)─
                         木津祐子(京都大学大学院文学研究科助教授)


 今回から数回に分けて、これまでも何度か取り上げてきた『官話問答便語』という書物が、どういう
成り立ちのものなのかを見ていこうと思います。
 琉球の官話教科書には、著者の名前が明記されることはほとんどなく、序跋を含むものも少ないので、
本文に含まれる記事によって、成立にまつわる事情を絞り込んでいくことが、成書背景に迫る一般的な
方法になります。
 有名な『白姓』は例外的で、乾隆十五年(1750)に実際に発生した中国船漂着事件を題材としている
ことが明らかで、なおかつ同十八年(1753)に記された序文をもつため、(少なくともその母胎書物)
成立年代が特定できる数少ない資料なのですが、これまで取り上げてきた『官話問答便語』については、
事情はそのように単純ではありません。序跋もなく、特定の事象を扱っているわけでもないからです。
 ただ、全く手がかりがないという訳ではなく、子細に検討を加えると,各所に興味深いヒントは
隠されています。今回は、その中から、銀銭両替の兌換率についてご紹介してみましょう(注1)。

 『官話問答便語』第八話には、琉球人が銀を銭に兌換するために福州の両替屋を訪れる場面が描かれて
います。その際、琉球人が持ち込むのが、「古餅」「新餅」「三寶餅」という三種類の銀餅なのですが、
この三種類の銀は、すべて日本の丁銀・小玉銀であったと考えられるのです。その問答を下に訳出して
みましょう。Aは琉球人、Bは福州の両替商。( )内は私が加えた注記です。

A この銀を銭に換えて使いたいのだが。
B はかりにのせてください。重さによって銭幾らに換えられるか決まります。
A 確かな値で計算してくれれば、ひいきにしてやるよ。
B この銀は、うち二つが「古餅」で、一つが「新餅」、ほかに「三寶餅」が一つありますね。いま
「古餅」がどれくらいになるか重さを先に計算してから「新餅」を計算しましょう。この「三寶餅」は、
秤にのせて重さを計り、全部併せて換算しましょう。
A どういう換算になるかね。
B 当店は最高品位の銀を基準に公定量目で取引します。一両の銀は、時価で換算するなら、九百文に
しかなりません。あなたのこの「古餅」は、(基準銀の)「元寶」でいうなら八銭で、「新餅」一両は、
さらにこの古餅の八銭分(つまり基準銀の六銭四文)、「三寶餅」一両は、「古餅」の三銭分(同じく
二銭四文)です。すべてをいったん「古餅」に換算し、それから「古餅」を「元寶」に換算し直す、こういう
ことです。
A いまの相場は、まさか「九百」ということはなかろう。
B 嘘は申しません。これは、規定の額です。両替屋は沢山ありますが、私のこの店だけ相場が違うなど
あり得ません。何日かの内に銀が高くなったり、銀が安くなったり、時には八百、または八百以上、時には
九百、もしくは九百以上になったりもしますが、これは銀評価の上下によって相場が上下するので、些かの
相異もありません。

 ここに登場する「古餅」「新餅」「三寶餅」相互の兌換率は、上記両替商の説明によるなら、基準銀1に
対して、順に、0.8:0.64:0.24であることがわかります。
 実は、これら銀貨はすべて日本で鋳造された「慶長丁銀」「元禄丁銀」「(宝永)三ツ宝銀」と考えられ、
それぞれの銀含有率もほぼこの割合に合致するのです(注2)。そして、この三種が日本で貨幣として同時に
通用していた期間は、1710年から1722年の間であることもわかっています。とすると,この『官話問答便語』
第八話の成立も,この期間と考えられるかも知れません。しかし,ことはそれほど単純ではありませんでした。
琉球は中国へ銀貨を持ち込む際、日本国内の改銀に合わせて古銀の使用をやめる必要は無かったらしいのです。
いや、寧ろ、琉球の薩摩への帰属関係を中国に隠すため、敢えて日本の銀制度から逸脱し、通行が停止された
古い銀を持ち込むことも許可されていたらしい(注3)。とすると,1710年という成立の上限は不動ながら、
下限については、もう少し時代が下ることを想定せねばならなくなります。
 また、銀一両に対する銭九〇〇という兌換レートは、中央と地方によっても差があったらしく、さらに時代を
限定するのは難しいのですが、京師に関して言うなら、一七二〇年から十八世紀末年に到るまで、ほぼ一両八〇〇
から八八〇で安定していたとされるので、本条と大きく乖離した数字ではないようです。
 細かい議論は若干端折りましたが,この第八話からは,一七二〇年から十八世紀末年までの期間が、成立の年代
として浮上してくるのです。

(注1)この問題については,拙論「赤木文庫蔵『官話問答便語』校」(『沖縄文化研究』31,2004)にて論じた
ことがあります。以下の議論は,この拙論に重複するところを多く含みます。
(注2)「三ツ宝銀」は,実際には基準銀の32%の銀含有率なのですが,岩井茂樹教授のご指摘では,32%という
低含有率では改鋳し直さないと通用は難しく,その費用を考えるなら24%と低く評価されるのも無理はないとのこと。
(注3)具志家・蔡氏家譜(筆頭七世蔡朝用)の蔡應瑞の傳に,古銀を中国に持ち込むことを,薩摩に陳情し許可された
事情が記録される。


◇編集後記◇
 ニューズレター第11号をお届けいたします。
 7月2日開催予定の国際シンポジウムは、日本、中国、朝鮮、さらには西欧までを視野に入れ、異文化接触について
考えようとするものです。各分野に亘り、多数御参加賜りますようお願い申し上げます。      (福井記)



京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム
「極東地域における文化交流」
kanwa-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp