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NEWSLETTER No.3

2003/04/20

―雪舞う梅の苑―

 三月の初めに韓国からお二人の先生をお招きしました。ソウル大学名誉教授の
李炳漢先生と梨花女子大学教授の李鍾振先生、お二人とも韓国中国学会の会長を歴任され
るなど、今日の韓国における中国文学研究を代表する方です。
 急にお願いしたので、講演の題目はご随意にとお伝えしておいたのですが、両先生とも
 「極東地域における文化交流」にふさわしい内容を用意してくださいました。李炳漢先生
は「詩人 花を賞す」、李鍾振先生は「比較文学の観点から見た韓国・日本・中国の近代
文学」、いずれもわたしたちの研究会にうってつけのものです。講演会は学外の、
ことに日本文学の専家がたくさん来てくださり、活発な応答が展開されました。
 翌日、通訳の鄭?謨君ともども、京都をご案内したのですが、北野天満宮では満開の
梅林に折から雪が舞い、それは李炳漢先生が講演で話された梅花の光景がそのまま出現
したかのようで、両先生が大喜びされたのはいうまでもありません。わずか四日間の交わり
でしたが、韓国の両先生のきめ細やかな、思いやり温かな人柄に触れることができたのは、
実に気持ちのいいことでした。
 国外における中国文学研究の動向は、中国語圏のほかに欧米の様子もなんとか知ること
ができますが、日本に一番近い韓国については言葉が読めないためにさっぱりわかりま
せんでした。数年前、初めて韓国の学会に出席した時に、中国文学研究者の数の多さと
研究の活発さを知って驚嘆したのですが、論文や専著を読むということはその後も相変わ
らずできません。そんな不如意な状態が続いていた時、COEの活動の一つとしてお呼び
したい学者を自分の手で呼べることになったのは、実にありがたいことです。前回のニューズ
レターでは研究会の繁忙さを嘆きましたが、こんな嬉しい収穫もあることも記しておかね
ばなりません。(研究会代表 川合康三)

これまでの活動報告
○2003/03/03
第三回 「乾の会」
研究発表:「比較文学の観点からみた韓国・日本・中国の近代文学の特徴」
李鍾振先生(梨花女子大学教授)
「詩人 花を賞す」 李炳漢先生(ソウル大学名誉教授)
○2003/3/25
第五回 「坤の会」
担当:橋本正俊、好川聡
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」輪読 4回目

今後の活動予定 今後の研究会・輪読会の日程は以下の通りです。
○2003/04/28 午後3時〜
第六回 「坤の会」
担当:橋本正俊、好川聡
内容:「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」輪読 5回目

○2003/05/21 午後4時半〜
第四回 「乾の会」
講演:「言語の形式と機能:東アジア言語と他との比較から」
講演者:柴谷方良教授(アメリカ合衆国 ライス大学言語学科)
場所:文学部新館第7講義室


第三回「乾の会」研究発表要旨

「詩人花を賞す―其の一 梅―」 李炳漢(ソウル大学名誉教授)

 中国の士大夫文人達は早くから天上の日月星辰、または地上の山、海、河等を畏敬の
対象として認識し、そこから宇宙自然の厳正な運行法則を発見してこれを生活の規範に
引き入れてきた。彼らの観察対象は天体や山、海、河に留まらず生活周辺のあらゆる自然
物の生命体にまで拡大した。その中でも特に松柏と梅、蘭、菊、竹等は、いわゆる「君子
比徳」の実体として設定され、それらに近づき、またそれらから学ぼうとした。そして
詩人墨客達はそれらを作品の素材として扱ったのである。このような審美意識の傾向は
漢字文化圏であった韓国、日本の知識人の間でも自然に広がったのであろう。今でも韓国
の知識人の中では梅・蘭・菊・竹を「四君子」と称して、これらを栽培し、または詠じた
り絵に描いたりすることで、間接的な交わりを通じて自己の人格の向上を図る人が少なく
ない。
 梅・蘭・菊・竹を「四君子」と称するのは序列按排ではなく生態と関連した春夏秋冬の
季節区分である。春は冬が過ぎると訪れる季節であるが、詩人はこの季節の変化をただの
循環現象と見るのではなく、造物主の舞台設計として描写することもある。梅花は雪の中
でも花を開くことから「雪中梅」と呼ばれ、また四君子の中でも最も早く咲くことで「第
一君子」と称されたりもする。清の詩人張維屏の「新雷」は、”春の伝令”としての梅花
の姿を歌った詩である。また士大夫達は雪の中で寒さを忍んで咲く梅花を通して君子の堂
々たる気性を学び、春になってあちこちに咲くいろいろな花とは混在せず、何よりも先に
咲く梅花を君子の孤高な徳性と見なしたりした。元の詩人王冕「白梅」の「氷雪林中此の
身を著し、桃李と同じく芳塵に混ぜず」の句はそれを歌っている。
 唐の詩人張謂は「早梅」で、川の橋あたりに満開の梅花を見てそれがまだ溶けていない
冬の雪のようであると描写し、また宋の王安石は「咏梅」で「遥かに知る是れ雪ならざる
を、暗香の来る有るが為なり」と、梅花から漂い来る芳しい香りのため、遠くからも雪で
はないことが分かったと詠んでいる。前者は梅花の色を、後者は梅花の香りをとても効果
的に形象化したものである。宋の廬梅坡は「雪梅」で、梅花と雪と詩の三つを有機的に配
合して高次元の春の情趣を描写した。陸游は「梅」で、梅花と友達になりたいが、世俗に
汚れた自分を梅花は認めてくれないかと憂い、「今より火食を断ち、水を飲みて仙書を読
まん」と誓いを詠じている。唐の王維は「雑詩」で、他郷で久しぶりに故郷から来た人に
会い、何よりもまず自分の家にある梅花が咲いているかどうかを尋ねた。故郷のことなら
家族の安否など聞きたいことは沢山あっただろうが、梅花の消息を先に聞いたところに詩
人の詩趣が感じられる。宋の杜耒は「寒夜」で、梅花をもっと身近な日常生活にまで引き
寄せて歌った。明月の冬夜、火鉢を囲んでお酒の代わりにお茶を飲みながら談笑する士大
夫の姿を一幅の画のように描きつつ、開花した梅花があることで普段と違っていると描写
することによって梅花の清雅な気品を効果的に詠じたのである。
 梅花は蘭・菊・竹と共に文人画の題材として好まれる。明末清初の詩人張風は「踏雪尋
梅図軸」で、雪を踏んで雪中の咲く梅花を探しに出かけたが、探し出すのは容易ではなか
った。詩人はそこで梅花を描いた絵を見、梅花の色・香り・美を代わりに満足させる形で
梅花を鑑賞するのである。清の詩人李方膺の「題画梅」は、自ら描いた梅花に付した題画
詩である。ここでは、絵の中の梅花を天風の力を借りて遠いところまで吹き飛ばし、世の
人々に等しく春の喜びを与えようとする詩人の心配りが表れている。清の詩人金農「画
梅」の、よく整理された庭園の梅花よりは野生の梅花を好むという表現からは、画家金農
の浩浩たる性格が窺える。同じく金農の、自分で描いた梅花に思いを入れるあまり、その
絵が他の人の手に渡されるのを惜しんで、梅花にどこに住みたいかと尋ねる言い方には、
画家の梅花に対する限りない愛情が窺える。
 山や野原の梅花を探しに出かけ、これを詩に詠じ、また絵に描いたりするのは、我々の
審美欲求を充足させ、人生を豊かにするよい方法であろう。またその旨を同じくする人々
と共に梅花を詠じた詩や梅花を描いた絵に対して談笑することは、現代人においても楽し
いことであろう。(鄭 墡謨記)

 

「比較文学の観点から見た韓国・日本・中国近代文学の特徴」
李鍾振(韓国梨花女子大学教授)
 近代文学の概念は研究者の見方によって様々であるが、本発表では近代という時間的背景
のみによって規定される文学ではなく、近代的な精神と形式を備えた質的に新しい文学、
すなわち”市民精神を内容とし、自由な散文を形式とする文学”であるという面から探り
たい。
 西洋の市民社会とは異なり、東アジアの近代国家体制の整備および市民社会の形成は外
部からの強制的な門戸開放が決定的な契機となった。よって三国それぞれが近代を説明す
る際、影響史の側面を強調する立場と、自生的側面を強調する立場が相矛盾し、それぞれ
のアイデンティティーを確立できないまま、自国中心の立場で文学史を記述しているのが
現状である。最近これを克服しようとする動きがあるが、未だ新しい文学史として実現す
るには至っていない。よって本発表では、その前段階として東アジアの近代文学展開過程
に見られる差異と共通点を明らかにし、その個別性をもとに三国の近代文学の普遍性を把
握したい。
 東アジアの近代文学は、はじめから西欧的な近代の概念、平等思想・科学思想・民族思
想を土台として起こっており、こうした思想の実践行為と近代文学展開の過程とは軌を一
にしている。
 実践行為とは思想を伝播するための教育機関の設立、雑誌の創刊等であり、これは文学
の創作・出版など、民族主義高揚のための文学的実践行為へと繋がってゆく。この点に考
慮すると、近代文学は政治の変革における大きな契機であり、社会変化をもたらすための
道具であったともいえる。よって近代文学の起点とその展開の様相について論じるには、
政治変革との相互作用を考慮する必要がある。
 東アジア近代文学の”近代性”についての議論は様々な側面から進めることが可能であ
るが、ここではまず文芸思潮の展開・作家と読者の様相・メディアと言語の問題といった、
西欧文学との影響関係を究明することのできる三つの面から、政治史的背景をふまえつつ
考察する。
 文芸思潮の展開をみると、日本は主に留学によって、韓国・中国は主に日本語の翻訳物
によってというように受容の経路は異なるものの、展開過程においては類似の様相を呈す
る。まず、西欧では約200年かけて自然発生的、漸進的に展開された文芸思潮を、わずか2、
30年の間に受容したことによる混乱が指摘できる。さらに詳しく混乱の理由を探ると、一
つには文芸思潮の出没が正常の歴史的交替運動にのっとったものではなく、西欧の文芸潮
流を無秩序に模倣したものであったことがあげられる。例えば西欧ではロマン主義に対す
る反発として現れた写実主義・自然主義が、韓国においては啓蒙主義を批判する純文学運
動として始められたり、日本においては写実主義がロマン主義に先行したことなどがそれ
である。二つ目の理由としては、翻訳の問題や定義の誤解などによる、文芸思潮の概念に
対する錯誤があげられる。さらに三つ目の理由は、西欧の文芸思潮に、無自覚かつ盲目的
に追従したことである。これは、プロレタリア文学においてより顕著である。 このよう
に、西欧との時間的懸隔により歴史的交替運動であるはずの文芸思潮の流れを混在・併存
させ、空間的懸隔により文芸思潮の概念の混乱・錯誤をもたらしたことは、東アジアの特
殊な近代化過程の反映といえよう。
 次に近代文学の展開を担った作家と読者の問題、さらにそれに関わる言語とメディアの
問題にうつる。まずこの期の作家と読者の性格が前近代と区別される大きな理由は教育の
大衆化によるものである。日本の帝国大学、韓国の元山学堂、中国の京師大学堂をはじめ、
宣教師らによる多くの私立学校・専門学校等が設立された。そしてこれらの新教育におい
て白話文や国漢文混用の教科書が用いられることにより、口語体の普及がうながされ、新
しい作家や読者層の基盤が提供されたのである。このように、言語と文字の問題は文学大
衆化の関鍵である。中国では五・四運動を契機に白話文を中心とする言語体系が形成され、
韓国では甲午改革と前後して国文の復興・言文一致の文体の導入などが行われ、新文学形
成に大きな影響を与えた。
 さらに作家と読者の問題は、都市の発達およびメディアの普及と密接に関わる。出版や
流通の近代化により、作家と読者の関係はより匿名化した。そして書籍出版業の出現は文
学の商品としての性格を強めた。
 作家について論じるには、三国とも留学生の役割を看過することはできない。文学の近
代化、雑誌・新聞の出版等は多く留学生たちによってなされた。作家意識については、東
アジアの知識人にとって20世紀とは、士大夫の伝統から近代知識人へと変遷する時期であ
ったといえよう。開化期の作家らは、少なくとも韓国と中国についていうならば、”文学
(あるいは小説)という特定分野の専門家であったというより、社会のあらゆる局面を動
かす重要な思想であれば何にでも関心を持つ、広範囲にわたる知識層人士”(權寧aから
の引用)であった。
 近代文学が質量ともに本格的な成熟を見せるのは、だいたい1930年代に入ってからであ
る。留学第一世代の影響を受けて成長した知識人は、西欧の教育制度のもと本格的に西欧
の思想を習得した。一方で、多くが海外留学派であり現代都市文化を身につけて帰国した
彼らは、文学活動においては都市型の文化を伝播し、共有する階層でもあった。特に30年
代後半に至っては政治活動が困難になったことから商業的ジャーナルがメディアの中心と
なり、思想的に危険性がなくかつ名望のある作家を求めた。そしてそれが外国文学に対す
る眼目を備えた海外派らに合致したため、彼らが中心の座を占めるに至った。中国の新月
派、日本の白樺派、韓国の九人会や詩文学派がその例である。

 以上、東アジアの近代化の過程について文芸思潮・作家と読者・言語とメディアの三点
を中心に、その背景となる各国の社会層と絡めつつ考察した。東アジアの近代文学の展開
過程は、三国とも当代の社会状況と密接な関係を持つ。だが民族主義を基盤にした民主化
という傾向は共通のものであった。文学が必然的に社会状況の影響を受けるか否かの議論
はあるが、東アジアにおける近代文学展開の様相は、西欧の圧力とそれへの応戦の方法と
関連するものであり、反外勢主義の一つの方法としての西欧化であったといえよう。
 三国の中でも最も早く西欧化の道に進んだ日本の及ぼした影響は看過できないが、自国
文学や民族文学を超えた幅広い視点から三国の文学史を包括する新しい東アジア文学史が
記述されてこそ、各国の文学のアイデンティティーを確立することができるだろう。(中島貴奈記)




後記
 ニューズレター第3号をお届けいたします。
 4月から「坤の会」に新メンバーが加わりました。
 伊藤伸江教授(愛知県立大学)
 沈 慶昊教授(本学招聘外国人学者・高麗大学)
 緑川英樹(関西学院大学非常勤講師)です。
 乾の会、坤の会ともにみなさまのご参加をお待ちしております。(中島)

京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム
「極東地域における文化交流」
kanwa-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp