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NEWSLETTER No.5

2003/08/21

――日野先生の笑み――

六月十五日早朝、日野龍夫先生が急逝された。
わたしたちの研究会にとって、日野先生はなくてはならぬ存在だった。
発足するやいなや、第一回目の「乾の会」に発表をお願いした。退官を間近にひかえた激忙の時と
承知はしていたが、最初の研究会にはぜひとも日野先生に立っていただきたかったのだ。
昨年十二月に行われた第一回研究会の「新体詩の一源流ーー漢詩和訳のもたらしたもの」がそれである。
(その要旨はニューズレター1号に、その論文は『國語國文』第七十二巻第三号に掲載されている。)
七月のシンポジウムも、また先生にお願いしてしまった。二月の「坤の会」のあと、「古典と近代文学」
というテーマでシンポジウムを開きたいのですがと切り出すと、即座に「太宰治に『新釈諸国噺』という
のがありますね。そういう話でよいですか」という返事が返ってきた。そのレスポンスの速さに驚いた。
それはまさしく間髪を入れずといった感じの返答で、躊躇も猶予もまるでなかったのだ。怜悧といおうか、
犀利といおうか、振り返れば先生はいつもこんな具合で、思考に空白が挟まる時がなかった。一昨年の
一月は香港で、今年の一月は上海で開かれた「東方詩話学会」に、先生は奥様とご一緒に出席された。
わたしも数日をともに過ごす機会に恵まれたが、先生は饒舌ではなかったものの、たとえ黙っておられても、
のんびり、ぼんやりしておられる時はなかったように思う。六十三年の生涯は長いとは言えないが、
そんなふうに先生の時間はびっしり充実していたはずだ。
先生の面影でなつかしく思い出すのは、あの羞恥を含んだ笑みである。それは人に向かって見せたものでは
なく、自分という人間が外の世界に触れる時におのずと生じてしまう、といった感じがあった。外側の世界に
先生は慣れず、内と外とが触れ合う時に洩れてしまうのが、あの笑みだったのではないか。

そのことから思うに、先生にとって今のような大学、さらには今のような世の中は、生きにくいものであった
に相違ない。先生ご自身も書いておられる。「……人間はこの世に生まれてこない方が幸せであるという考え
を抱いている。本質的にそう考えるし、現代の世の中を見るにつけ、いよいよそう考える」(『服部南郭伝攷』
あとがき)。極端な言い方をすれば、この世の様々なことにはあまり関心がなくて、仕方なくついでに生きて
いるかのような印象があった。そうした恬淡とした生き方に、わたしは惹かれるものがあった。
かといって、先生は職務から逃避していたわけではない。退官されてわずか二か月半しか御自身の時間を
もてなかったのはなんともむごいことではあるけれども、しかしそのことは、膨大な博士論文の審査をはじめ
として大学の仕事をすべてなしおえた、先生の強い責任感を何よりもよく示している。
葬儀の参列者のなかには、泣きはらしている人、やつれきっている人の姿を少なからず目にした。教え子に
それほどの悲しみを与えた先生は、教師として幸せであったといわねばならない。そしてまた学生にとっても、
それほどの悲痛を遺す先生をもったことは幸せであったといわねばならない。
今や先生は愛嬢喬子さんや愛犬先代さっちゃんとの再会を果たして、あの恥じらいを含んだ笑みとは別の、
今までは見せたことのなかった心からの笑みを満面に浮かべておられると思いたい。 (研究会代表 川合康三)

これまでの活動報告
○2003/06/30
第八回 「坤の会」
橋本正俊、好川聡
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」輪読 7回目
○2003/07/16
第五回 「乾の会」シンポジウム――古典と近代文学
須田千里助教授(京都大学大学院 人間・環境学研究科)
「人物像の変容―芥川龍之介「鼻」、太宰治『新釈諸国噺』をめぐって」
戸倉英美教授(東京大学大学院 人文社会系研究科)
「中国の古典と近代小説―芥川、太宰、魯迅」
○2003/07/28
第九回 「坤の会」
小山順子、中島貴奈
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」輪読6回目

今後の活動予定 今後の研究会・輪読会の日程は以下の通りです。
○2003/09/29 午後3時〜
第十回 「坤の会」
担当:小山順子、中島貴奈
内容:「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」輪読 9回目


第五回「乾の会」シンポジウム――古典と近代文学――研究発表要旨

「人物像の変容―芥川龍之介「鼻」・太宰治『新釈諸国噺』―」
須田千里助教授(京都大学大学院人間・環境学研究科)

今回の発表では、芥川龍之介「鼻」(大正五年)と、太宰治『新釈諸国噺』(昭和二十年)「大力」を取り上げ、
古典に取材した近代文学作品の翻案態度の特徴を考察した。
まず「鼻」では、主な材源である『今昔物語』巻二十八「池尾禅智内供鼻語」第二十(原典)と対比すること
で、次のことが明らかとなった。材源の内供は日本を代表する高僧であり、彼は無意識のうちに自分を中心化して
いるのに対し、「鼻」ではこの点が看過され、むしろ内供は自分の鼻の大きさに悩むデリケートな人物に造形されて
いる。従って、「一度この弟子の代りをした中童子が、嚏(くさめ)をした拍子に手がふるへて、鼻を粥の中へ落した
話は、当時京都まで喧伝された」という「鼻」の文言は、従来、原典全体をさす(すなわち、末尾での中童子への
叱責を含む)と考えられてきたが、もしそうだとすれば「鼻」の悩み多き内供像と性格上の矛盾をきたしてしまう。
それゆえ、この部分は、「鼻」の記述通り単に「鼻を粥の中へ落した話」とだけ解釈すべきである。とすれば、従来の
定説以上に、芥川の独自性・創造性が強いことがわかる。
次に、太宰の「大力」だが、主な材源である西鶴『本朝二十不孝』巻五の三「無用の力自慢」(原典)と対照する
ことで、以下のことが明らかとなった。
少年時代から友人・地域・親、さらには師匠からも疎外され、孤立してきた才兵衛は、大人の世界における本音と
建前といった両義的価値観から隔てられ、勝利だけを追い求めている。これ自体は悪いことではないが、しかし才兵衛の
相撲相手は素人であって、その点、娯楽や遊びの部分を含む対戦相手への配慮を欠いていた。しかし、周囲はこのことを
教えず、ために彼は最後には師の鰐口から成敗されることになる。才兵衛を油断させて負かす鰐口のやり方は、勝利第一
主義の才兵衛の態度を逆手に取ったものであり、そのことによって、他者の痛みに鈍感だった才兵衛を再起不能にした
のである。
当時の太宰の相撲観を随筆類によって検証すると、才兵衛のような勝利を最優先する力士には批判的で、含羞・忍耐の
横綱を評価していたことがわかる。親の教訓に背いた才兵衛の不孝譚という、表向きの枠組みは原典通りではあるが、
才兵衛をここまで疎外し、誤った認識を矯めなおさなかった親や師の側に、実は問題があったのである。「教訓的なる点」
「思索の形式が一元的であること」「安易の人生観」を西鶴などの古典文学の特質と見ていた太宰(「古典竜頭蛇尾」
昭和十一年)は、こうした相反する二元的価値観を本作に込めることで、彼流の翻案をなし遂げた。原典に比べ、格段に
ふくらみを増したといえる。
こうした才兵衛像の設定は、太宰自身の体験とも符合する。太宰は、昭和十一年パピナール中毒で入院する際、師の
井伏鱒二に「肺病」治療のためと騙されたことを恨んでいた。才兵衛の「師匠、あんまりだ、うらみます」という末期の
言葉は、この切実な体験を隠微に語ったものと取れ、自己を語ると言う意味で、近代小説としての陰影を本作に付与している。
古典を近代作家が翻案する場合、多くは主人公の心理を掘り下げ、それによって主人公を読者の身近に感じさせようとする。
芥川の「鼻」の場合、それは主人公の卑小性として現れ、太宰の「大力」の場合、単純な主人公と、彼をめぐる人物たちの
間のギャップを際立たせることで、両者の葛藤をクローズアップさせる。主人公の形象を反転させ、また構造を二元化する
など、さまざまな工夫が、これら翻案には看取されるのである。


「中国の古典と近代小説―芥川・太宰・魯迅」
     戸倉英美教授(東京大学大学院・人文社会系研究科)

明治以降、中国の古典を題材に小説を創作した作家には、芥川龍之介・中島敦・太宰治らがいる。彼らの作品は原作と比べ、
(1)エピソードや登場人物が増え、長く複雑な物語になっていること。
(2)主人公の心理が詳細に描写されること。
(3)原作の枠組をもとに、人間に関する様々な問題を考察していること、
などの諸点に共通するものが見られる。それらは各作家の個性と思索の跡を示し、ごく簡潔で多くは明確なテーマを持たない
原作に比べ、明らかに優れたもののように見える。しかし文学作品の優劣は、そう容易く判断できるものだろうか。
中国では、古典を題材にそれぞれの時代の新しい小説を制作することが、繰り返し行われてきた。唐代伝奇は六朝志怪をもとに
発展し、それらはまた宋代以降、筆記小説や白話小説の素材ともなった。このような小説の歴史は、現在中国でほぼ直線的な
進化の過程と捉えられている。中国の伝統的な文学史観は尚古主義である。詞は詩に劣り、曲・雑劇は詞に劣り、最も後代に
起こった白話の小説は最も価値が低いものとされた。このような史観を逆転したのが、厳復によって紹介された進化論である。
小説は文学史上に重要な位置を占めるものとなり、小説史においては文言よりも後に生まれた白話の小説が、より優れるとする
見方が確立した。進化論モデルには批判もあるが、小説史においては現在も広く受け入れられている。即ち中国の小説は「略」
から「詳」へ進歩してきたとするのである。
事実同一の題材が、幾代にもわたって多くの作品を生み出しているケースでは、後のものほど筋立てはより複雑に、人物や状況の
描写はより詳細なものになっていく。しかしこの変化はそれだけで小説の進歩といえるだろうか。六朝志怪は極めて簡略な記述
であるため、唐代伝奇がすでに「人」であるのに対し、まだ小説まで進化していない「猿」と評されることがある。しかし両者の
筆法の差は、略と詳の違いにとどまらない。狐などの異類はしばしば人間に姿を変え、異性と性的な関係を結ぶ。だが六朝の異類
には、美貌も優しい言葉すらも必要ない。人間は抵抗するすべもなく惑わされ、時には発狂し、命を落とす。志怪は当時歴史書の
一部に分類されていた。六朝の異類通婚譚は恋物語に類するものではなく、異類に襲われた被害の記録というべきであろう。
一方唐代の小説「任氏伝」において、狐は絶世の美女と化し、人間の求愛を受けるものとなる。貧しい男のために、術を使って
大金を手に入れるのも異類、最後に殺されるのも人間ではなく異類である。唐の人々は、もはや異類の変身を信じず、恐れても
いない。異類を理想の美女に仕立て、虚構の物語を楽しんでいる。六朝志怪と唐代伝奇を分けたのは、怪異に対する認識の差で
あった。
唐代の小説「李徴」は、中島敦「山月記」(昭和17年)のもとになったものである。有り余る才を誇り、人と相容れなかった李徴は
虎と化し、人の世と隔絶した苦悩をつぶさに語る。しかしこの物語は、次第に奇怪な変貌を遂げていく。明代の文言小説「人虎伝」
は、「李徴」をほぼ踏襲しつつ、最後に主人公が虎と化した理由を付け加える。それは寡婦と私通した末に、火を放って一家を
焼き殺したことだった(中島敦が基づいたのは、「李徴」ではなく「人虎伝」だったといわれるが、このエピソードは採用されて
いない)。明末の白話小説集『酔醒石』の一篇では、主人公の人間像は更に徹底的に破壊されている。文言小説に数倍する詳細な
描写は、主人公の常軌を逸した傲慢さ、凶暴さを描くことにのみ費やされる。宋代以降、異類は人間よりも格段に劣り、穢れたもの
とする見方が、次第に強固なものとなっていった。たとえ物語の中であっても、人間が異類に変身するためには、恐ろしい罪業が
なくてはならない。変身の物語は、人間を見つめる視点を失い、猟奇的性格を強めていく。
『聊斎志異』が生まれたのは、人と異類のこのような関係が長く続いた後だった。この作品の中でも特に愛読されたのは、狐・蜂・
牡丹などが化した女性との異類通婚譚である。六朝以来の長い歴史を持つ物語の中で、注目すべき変化は結末にあった。大団円で
終わるもの、つまり人間の男性は女性が異類であると知りつつ、末永く幸せに暮らしたという物語が初めて出現したのである。
別離で終わる場合でも、異類は決して追い払われたわけではない。彼女らはこせこせした人間の世界を嫌って去って行く。情愛深く
聡明で、よく笑いよく戯れる異類の女性たち。人間としての価値はすべて異類の側にあり、人間はただ謙虚に彼女らを愛することに
よって、忘れていた自由を取り戻す。
筆者は唐代の半ば「中唐」が、中国の内発的な「近代」の幕開けだったと考える。妖怪や異類の変身が、起こり得る事実から、
非現実のこととなり、虚構の物語の材料となったこと、さらにその物語が、人間に対する関心から組み立てられていることも、
「近代」の始まりを告げるものの一つであろう。虎への変身という怪異をもとに、人間性の悲劇を描こうとした点で、唐代の
「李徴」と「山月記」は基本的に変わらない。この人間中心主義、人間であることの揺るぎない自信は、続く時代に異類に対する
蔑視を生み、人間自身の姿を硬直したものにしていった。このような中国的近代の行き詰まりの後に、怪異なるものの力を借り、
人間の再生を試みたのが『聊斎志異』であった。
このような意味で「近代を超えた」文学である『聊斎志異』を、日本の近代作家は、どのように理解しただろうか。『聊斎志異』
「竹青」の主人公魚容は、科挙に落第して故郷に帰る途中、夢の中で烏の群れとともに空を飛び、雌の烏竹青と夫婦になった。
その後は故郷の家と、竹青のもとを往復し、竹青との間に子をもうけ、妻の死後は、家を出てもう戻らなかったと述べて一篇は終わる。
太宰治「竹青」(昭和20年)は、この作品をもとにいくつかの変更を加えているが、その最大のものは、異類に化すことの意味を
逆転させたことである。竹青は魚容に向かって次のように言う。「あなたを烏の身と化したのは神の試験でした。禽獣に化して
真の幸福を感ずるような人間は、神の最も倦厭するところです。あなたが人間の世界を忘却したならば、神はあなたに恐ろしい
刑罰を与えるところでした。」魚容は故郷へ帰り、妻との間に子をもうけ、「平凡な一田夫として俗塵にまみれ」生涯を終える。
太宰は自注で「これは、創作である。支那の人たちに読んでもらいたくて書いた。」と述べ、事実日本語版より先に、中国語訳が
「大東亜文学」に掲載されている。太宰がこのように考えた理由は慎重に検討しなければならないが、ここでは一つの可能性を
提出したい。『聊斎志異』の「黄英」に取材した小説「清貧譚」の中で、太宰は次のように述べている。「聊斎志異の中の物語は、
文学の古典というよりは、故土の口碑に、近いものだと私は思っている」。この言葉からは、太宰がこの小説集の物語を、中国で
古くから語り継がれてきた土着的なものと考えていたことが伺われる。烏と化して空を飛ぶことを喜び、最後は竹青のもとへ
去っていく主人公の感情も、古来一貫して変わらないもの、人間の素朴な段階では普遍的なものと考えたのではないか。「二十世紀の
日本の作家」(「清貧譚」の中の語)である自分は、そんな感情に溺れることなく、この物語に新たな意義を見いださねばならない。
その試みの結果が、烏と化したのは神の試験、という転換であろう。作者はこのような人間的主題が盛り込めたことを喜び、
この成果を中国の人たちとともに分かち合いたいと望んだのではないか。しかし前述したように、中国では異類への変身は、罪の報い
と考えられていた。変身に喜びを見いだす作品は、唐代以降『聊斎志異』まで現れず、人間が異類とともに末永く暮らすという結末は、
唐代にもない、『聊斎志異』独自のものであった。
『聊斎志異』は白話小説の傑作が生まれた後で、早くに衰退したとされる文言を用い、成功をおさめた作品である。進化論的小説史観は、
この作品の存在を説明できない。また『聊斎志異』は、古典をもとに作品を創作する歴史の中で、新たな方法を試みたものでもある。
それは略から詳へ向かうのではなく、登場人物の心理を掘り下げ、人間的主題を見いだすのでもない。総じていえばその試みは、
六朝志怪の再発見であったということができる。無論十七世紀の人間が、再び妖怪の実在を信じるはずはない。しかし「近代」的、
人間中心的視点から自由になれば、周囲は様々な不思議に満ち、自分自身の存在すら不確かなものに見えてくる。古典はその自由を得る
ためのひとつの契機として使われた。そして作者は動き出した想像力に身をゆだね、自分の夢想を六朝志怪の筆法で書き記す。その筆法
とは、夢見たままを正確に、解釈を加えることなく記すことである。『聊斎志異』の中には様々な要素が混在し、作品の出来も一様では
ない。だが短編の傑作を初めとする最良のものは、このようにして作られたのだと思われる。最後にもう一人、同じ方法を用いて古典の
現代化を行った作家の名を挙げたい。『故事新編』を書いた魯迅である。




後記
ニューズレター第五号をお届けいたします。
前号の発行以後、日野龍夫先生のご逝去という突然のできごとがありました。
なお、須田先生がシンポジウムにおいて、同じく太宰治の『新釈諸国噺』を
取りあげられましたのは、まったくの偶然によるものだったそうです。
 戸倉英美先生、須田千里先生にご講演いただきましたシンポジウムには、
学内外から多くの参加者がありました。今後も研究会構成員以外のみなさまの
ご参加をお待ちしております。(中島)

京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム
「極東地域における文化交流」
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