今後の研究会・輪読会の日程は以下の通りです。
○2004/01/15 午後1時〜午後6時 第七回
「乾の会」
日韓文化交流 シンポジウム
於京都大学文学部新館2階第6講義室
【講演1】金文京 (京都大学人文研 教授)
題目:高麗人の元朝における活動−李斉賢の峨眉山行を例として」
【講演2】藤本幸夫 (富山大学 教授)
題目:「覆朝鮮本について」
【講演3】鄭 光(韓国 高麗大学教授)
題目:「李朝の日語教育とその教科書:倭語類解を中心に」
*ユーラシア古語文献の文献学的研究との共催です
参加自由です ご来聴おまちしています
○2004/01/26
午後2時〜 第十五回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」
五十句までの注釈検討
和歌の風体、姿の特徴をとらえ、分類することで、歌というものをとらえていこうとする試みは、
はやく平安期からなされ続けてきているが、中世和歌の世界においては「定家十体」と呼ばれる
十種の歌体分類があらわれてくる。この分類は、藤原定家仮託の書かと思われる歌論書『定家十
体』により流布し、中世和歌、連歌の世界に稽古の一つの指標となって影響力を及ぼしてきた。
今回の発表では、「定家十体」のうち、見様をとりあげ、この歌体の理解と、歌論・連歌論との
関わりを述べた。
見様という言葉は、藤原俊成の歌合判詞にあらわれた「見るやう」という評語から生成したと考えら
れており、俊成、定家、為家、九条基家、藤原家隆らの記した判詞に使われた用例が残る。それ
らの判詞を検討すれば、「○○(面影、景気、具体的な景物のような詠み出さんとする内容)+みる
やう+(にあり、におぼゆ、に侍りなど)」といった形であり、この語が、詠み出そうとする様子が
まざまざと眼前に浮かぶかのように思われる様をさしていたことがわかる。「鑑賞者が、自分がま
るでその場で見ているかのように思うことのできる、イメージ鮮明な詠みぶり」を「見様」と言う
わけである。
見様は歌論書『毎月抄』や、先にあげた『定家十体』、また『三五記』『愚秘抄』といった定家
仮託書で十体分類の一つとして伝えられる。こうした書は、冷泉為秀の精力的な書写ぶりが近年知
られ、十体は冷泉家の家の説でとりあげられている。
為秀の和歌の弟子、今川了俊の歌学書によれば、冷泉家は冷泉為相の時より十体分類のいずれの体も
詠出可として教えているとされ、『井蛙抄』『愚問賢注』などと比較すると、二条家の説とはっきり対立
していく様子がわかる。さらに為秀は、十体のうち、見様を高く評価し、『後鳥羽院御口伝』の言説や
従来の十体分類では「麗様」「面白様」の歌ざまに属した源俊頼の歌風を、特に見様に特徴ある歌風と
位置づける。彼は、俊頼の見様歌は、詠者が見知った現実の様を少しも変えることなく、まるで眼前に
見えるかのように、しっかりと詠み出した点から、余情が生まれると述べている。二条為世の『和歌
庭訓』も、俊頼の同じ歌をとりあげるが、詞の表現がなめらかで、吟詠すると言外に余情が生じる余情
体の歌と考えており、詞の用法を重く見る冷泉家と、言外に生じるある種の面影の揺曳を重視する
二条家の相違がはっきりし、十体から冷泉・二条家がそれぞれに編みだした家の説の懸隔が見てと
れる。俊頼歌の勅撰集入集状況が、為秀も寄人をつとめた風雅集で四季歌に増加、総入集数も増加して
おり、二条家編纂の集では、物名・誹諧等の雑歌に多く入るのと比較すれば、俊頼歌に対する冷泉・
京極両流の二条家との嗜好の相違も明らかである。
冷泉為秀の歌の説は、彼と交流を持った二条良基の連歌論の礎ともなっている。良基初期の連歌論
『僻連抄』は秀逸、寄合、発句の三箇所で「見様」の句体に触れており、初学期の良基が連歌論を構築
する際にいかにこの体が重要な役割を果たしたかを示している。とりわけ秀逸の体は「見る様にはなばな
とある」体を幽玄な面影添う体と共に良しとしており、この姿勢は良基の連歌の弟子、今川了俊との問答
体の連歌論書『九州問答』においても踏襲され、「ほけほけとしみ深く幽玄の体」と「はなばなと花香の
立ちてささめきたる体」の肝要さが説かれる。良基連歌論における「花」「はなばな」「花香」といった
用語は、幽玄に含まれる美的概念との見解も出されていたが、「はなばなと花香の立ちてささめきたる体」
は、良基の連歌論を年代順に追っていけば、冷泉為秀の説く、余情を持つ見様の和歌を連歌の句体にあて
はめた体であったと判明する。良基の用語に従来適用されていた能楽論の「花」からの推定を離れ、歌論
から連歌論に流れ込んだ見様の系譜を示しえた。