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NEWSLETTER No.7

2004/02/28

―官話を学ぶ話―

A:私は、本年初めて中国に参りました。一生懸命官話を勉強しますので、
どうぞよろしくご指導お願いいたします。
B:よくわかりました。名前は何とおっしゃいますか?
A:○○と申します。(中略)
B:官話を学ぶのは、難しいことではありません。一に勤勉に、二に心を込めて、
そうすれば時間が経てば自然とわかるようになります。目の前の日常用語をしっ
かり身につけると、その後は様々な事物の表現も徐々にわかってくるものです。
A:はい。心得ました。
(第一話)

C:あなたは中国は何度目ですか?
A:今年が初めてです。
C:初めて来て、もう官話が話せるのですか。それは聡明なお方だ。
A:とんでもありません。国におりました時にも習ってはいたのですが、ともかく
舌がうまく動かず、話すのもでたらめです。どうかよろしくご示教いただき、笑ったり
なさらないでください。
C:どうして笑ったりしましょうか。本当にお上手です。私はこの土地の人間ですが、
土地のことばを使い慣れてしまっています。官話は好きなのですが、それでも四苦八苦
して適当にごまかし二言三言話せるだけです。あなたのような外国のおかたが、勉強
してすぐ話せるようになって、それもはっきり正確にお話しになるなんて、これが聡明
でないなら、いったい何が聡明だというのですか。
A:貴兄はお褒めが過ぎます。めっそうもございません。
(第二十四話)

これは、清代琉球で編まれた官話教科書『官話問答便語』(成立年未詳)からの抜粋です
(日本語訳は本稿筆者による)。語彙を現代風にしていまの中国語教科書に持ち込んでも、そ
のまま例文になるような場面に、思わず笑みがもれます。もしかすると、この登場人物のよう
に、中国人から発音を褒められた経験をもつ人もいるかもしれません。ただし最近の教科書だと、
いきなり恋人同士の語らいから始まるようなドラマチックなものも少なくないので、上のように
先生への丁寧な自己紹介で幕が開くのはやはり少し古風な印象はします。
もちろん、『官話問答便語』全体は琉球人通事たちが福州で直面する数々のシーンを想定した
実践的なもので、客死した祖先の墓参り、福州の様々な年間行事の見所解説、福州人との交際
の仕方、換金や買い物のやり取りなど、当時の福州生活のガイドブックのような役割も果たして
います(いまの我々にとっては当時の風俗や芸能を伝える貴重な記録でもあります)。その点は、
現代でも同様の情報を盛り込んだ中国語教科書が無いわけではなく、確かに『北京カタログ』
『○○in上海』というような、一見旅行ガイドブックと見まごう書名を冠した教科書も、実際
出版されているような無いような……。ということは、これも古今東西を問わず「役立つ」外国
語教科書の普遍的特徴、ということになるのかもしれません。
ただ、この本には、今日の教科書では敬遠されてしまうような特徴がまだ幾つか備わっています。
その一つは、民間の教訓書、特に『聖諭』の各種講解に通ずる文脈をもつ教訓話を含むことです。
親孝行しなさい、兄弟仲良くしなさい、年長者を敬いなさい、夫婦喧嘩はいけません……。つま
り「説教くさい」例文です。こんなものがなぜ官話教科書に必要なのでしょう?ところがこの手の
教訓話は、琉球で編纂された官話教科書にのみ見られるのではなく、長崎の唐通事も同様の教訓話
を備えた官話教科書をたくさん編んでいますし、清末北京で出版された『語言自邇集』(トマス・
ウェイド編)にも、明らかにその文脈をもじった例文が含まれます。官話と中国伝統教訓話が、東
アジアにあって(到来して)中国の周縁に位置した人々の手で、「官話教科書」として結びつけら
れていたのです。
これは、二つの大きな沿源をもつと私は考えています。その一つは「官」でもう一つは「商」で、
それが中国周縁で結ぶつくのがおもしろいのですが、それについては、もう記す紙幅がなくなりま
した。この続きは、また別の機会に。(木津祐子)


今後の活動予定

○2004/03 末頃
 第十六回「坤の会」 担当:大槻信 緑川英樹
 「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條)輪読

活動報告 (2004/01~2004/02)

○2004/01/15
 第七回「乾の会」 日韓文化交流シンポジウム
 【講演1】金文京教授(京都大学人文科学研究所)
「高麗人の元朝における活動―李斉賢の蛾眉山行を例として」
 【講演2】藤本幸夫教授(富山大学)
「覆朝鮮本について」
 【講演3】鄭 光教授(高麗大学)
「李朝の日語教育とその教科書―倭語類解を中心に―」
○2004/01/26
 第十五回「坤の会」 
 「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條)
 第五十句までの注釈検討

第七回「乾の会」(2004/01/15) 講演要旨

「高麗人の元朝における活動―李斉賢の峨眉山行を例として」
金文京(京都大学人文科学研究所教授)


 朝鮮(韓国)と中国が地理的、歴史的に密接な関係にあることは言うまでもないが、特に
13,14世紀には高麗が元王朝の付属国となったため、人的な往来も他の時期にくらべて
特に頻繁であった。中でも高麗の文人官僚、李斉賢((一二八七〜一三六七))は数度にわ
たり入元し、当時の元朝の著名文人と交際したことでつとに有名である。
 李斉賢は、最初に入元した一三一四年(元仁宗の延祐元年)の翌々年の一三一六年(延祐
三年)に、当時元に滞在していた高麗の瀋王(忠宣王)の命により、大都(北京)から四川
省の有名な仏教聖地である峨眉山へ参拝のため旅行するが、本発表はその峨眉山への旅行が、
元朝の高級官僚で、かつ瀋王とも交際のあった虞集の嶽瀆祭祀の旅に随行したものである可
能性について述べたものである。李斉賢の峨眉山行については、彼の詩文集である『益斎亂
藁』に関連の作品が多数収められており、これまでも注目されてきたが、旅行の詳しい事情
や目的については不明であった。発表者が李斉賢と虞集が同行したと考える理由は以下のよ
うである。
(1)元朝ではほぼ毎年のように全国の名山、名川を祭る目的で使者が派遣されたが、こ
の延祐三年には虞集がその使者に選ばれている。虞集が祭った場所は、『元史』巻七六「祭
祀五・嶽鎮海瀆」に「北嶽、西嶽、后土、河瀆、中鎮、西海、西鎮、江瀆為西道」とあるこ
とにより、北嶽恒山(河北真定)、中鎮霍山(山西霍州)、后土(山西栄河)、河瀆(山西
河東)、西嶽華山(陝西華陰)、西鎮呉山(陝西隴州)、江瀆(四川成都)であったことが
知れるが、これらの場所は『益斎亂藁』からうかがえる李斉賢の旅行ルートとすべて一致し
ている。
(2)嶽瀆祭祀は通例として一二月に大都を出発、虞集は三月には成都に到着、八月まで
成都に滞在したことが関連資料によって知れるが、李斉賢も同じで、両者の旅行時間は一致
している。
(3)虞集は成都到着後、先祖の出身地である仁寿まで墓参のため旅行しているが、仁寿
は成都から峨眉山に行く道中にある。また虞集に同行した道士の趙虚一は、袁桷の「送趙虚
一道士降香南海諸名山。往従虞伯生降香成都」詩(『清容居士集』巻四)によって、この時、
峨眉山に行ったことが知れる。
(4)虞集の同僚であった元明善は、虞集と李斉賢の双方に送別の詩を贈っているが、そ
の二つの詩は同じ韻目により押韻している。

以上の点から考えて、二人が同行した可能性はきわめて高いと考えるが、両者の文集には直
接そのことに言及した記述を見出せない。『元典章』などによると、使者が目的地以外の場
所を訪れることは禁止されており、虞集の墓参も公然の事実とはいえ、厳密にいえば違法で
あったろう。また高麗で編纂された中国語教科書『朴通事』には、高麗人の御香使が中国人
の使者を誘って高麗に同行する場面があるが、これも違法であったと考えられる。虞集と李
斉賢が共に旅行したにもかかわらず、両者ともにそのことを語らないのは、おそらく明言を
はばかるなんらかの理由があったからであると想像される。このことから当時の高麗と元朝
の親密な、しかし微妙な関係の一端がうかがえるであろう。


「覆朝鮮本について」     藤本幸夫(富山大学教授)

 朝鮮は古代東アジアにおいて中国に次ぐ文化国家で、日本は古来朝鮮より多岐に渡って深
甚な影響を受けて来た。文化の一中心を担う書籍の面でも同様である。
奈良時代やそれ以前に高句麗・百済・新羅三国より、書籍の伝来したことは諸史籍に見える
が、実物は確認されていない。最近大谷大学所蔵新羅元暁撰『判比量論』に、光明皇后(7
01~760)の蔵書印「内家/私印」印が押されているので760年以前の伝来と考えら
れ、更に韓国発見の角筆と同一符号があるので、新羅伝来経かとの説が提起されている。
又日本人の新羅留学生審祥(一説には新羅人とも言う)が新羅から740年以前に、170
部645巻の経典を齎した時の目録が伝わり、多くの経典が新羅から来ていたことは確かで
ある。
江戸時代に入って新羅僧の撰書が多く刊行されているが、それは奈良時代から綿々と伝写さ
れてきたもので、その中には本国で既に失われたものもある。
筆者は演題を「覆朝鮮本について」とした。厳密には「覆」とは「覆刻」の意で、藍本(底
本)を版下として版木に貼り付け、刻した意である。日本では「カブセボリ」という。従っ
て今回の演題は厳密には「朝鮮本(写本・木版本・活字本)を藍本とする日本刊本とでもす
べきであるが、簡略に従った。
日本が朝鮮本を藍本として日本刊本(木版本・活字本)を本格的に刊行するのは、豊臣秀吉
の朝鮮侵略(1592~1597)以降のことである。慶長から寛永にかけて朝鮮の活字印
刷技術に倣って、日本で活字(主として木活字)印刷の盛行を見たのは、周知のことである。
しかし豊臣秀吉侵略以前のキリシタン活字印刷が、日本の知識人に知られていたであろうこ
とは、想像に難くない。
朝鮮活字印刷技術齎来によって上述の約半世紀間、京都を中心として全国的に活字印刷が盛
んに行われた。その際朝鮮活字印刷本から活字の字型を採りもしている。又藍本として朝鮮
本を多く用いている。倣製日本活字で朝鮮本を藍本とした印刷本は、両者が酷似する。
慶長以降江戸時代の日本刊本は、木版本・活字本を問わず、朝鮮本を藍本とするものがかな
り多いようで、それは四部の書に亘っている。日本刊本が朝鮮人撰著である場合や朝鮮に於
ける刊記の存する場合には、朝鮮本が藍本であることは明白である。しかしその他の場合は
朝鮮本が藍本であるか、大部分がそうであるように、中国本が藍本であるかの判別は、甚だ
困難である。朝鮮本の覆刻である場合は、藍本である朝鮮本と対照することで、解決し得る
こともある。
筆者は30余年に亘る朝鮮本調査の傍、日本刊本にも目を配って来たが、当然ながら悉皆調
査には及んでいない。それでも従来知られていなかったものを多く発見している。
江戸時代には朝鮮本を藍本とする日本刊本は甚だ多く、それらが日本の学術に甚大な影響を
与えていることを思う時、更なる調査と研究の必要性が痛感される。


「李朝の日語教育とその教科書:和語類解を中心に」  鄭 光教授(韓国 高麗大学)

 韓半島における本格的な日本語教育は、<朝鮮王朝実録>によれば、朝鮮の建国初期から司
訳院で実施されていたと考えられる。即ち、<太祖実録>(巻4)太祖2年9月の辛酉条に“置司訳
院肄習華言”という記事があり、朝鮮が建国された2年後である太祖2年(1393)9月に司訳院を
設置し、華言、即ち中国語を肄習させるようにしたことが見てとれる。また、<太宗実録>(巻
28)太宗14年10月の丙申条に“命司訳院習日本語 倭客通事尹仁輪上言 日本人来朝不絶 訳語者
少 願令良家子弟伝習 従之”という記事があり、太宗14年(1415)10月に司訳院で日本語を伝習
させるように命じていたことがわかる。さらに、<世宗実録>(巻49)世宗12年8月の丁酉条に"礼
曹啓 去乙未年受教 設倭学 令外方郷校生徒良家子弟入属 合于司訳院依蒙学例遷転本学(下
略)" という記事があり、太宗15年乙未(1416)に正式に司譯院に倭学を設置したことがわかる
のである。
 外国語を教育しようとすれば教材が必要であり、中国語の教育では発音辞典や講読教材そし
て語彙辞典などの教材が必要であり、日本語の場合にも文字教材や講読,会話教材や語彙辞典が
必要であった。朝鮮の司訳院では初期に、日本の室町時代において寺子屋などで使われた童蒙教
科書を輸入し使用した。例えば‘伊路波, 消息, 書格, 老乞大, 童子教, 雑語, 本草, 議論, 通
信, 鳩養物語, 庭訓往来, 応永記, 雑筆,富士’などの書名が<経国大典>に日本語の教材として謄
載されている。
 しかしながら、壬辰倭乱を経た結果、これら教科書で学んだ日本語の実效性が認められなかっ
たため、朝鮮の司訳院において新しい日本語教材を直接に編纂し使用したのであった。まず会話
や講読の教材として、<捷解新語>を編纂し、後日には文字教材として使用していた<伊路波>をこ
の本の附録として添附して、日本語の仮名文字と基礎会話を<捷解新語>一つで学習させるように
した。そして、語彙辞典としては<倭語類解>を編纂したのであるが、今回の発表では日本語の語
彙辞典の書誌学的な特性を調べ、この資料が日本語の歴史的研究にどれほど有用な資料であるか
考察しようと思う。
*さらに詳しくはこちら(PDF)をごらんください。

◇編集後記◇
ニューズレター第7号をお届けいたします。
日韓文化交流をテーマとしたシンポジウムには、学内外からの参加者がありました。
今後も、皆さまのご来場をお待ちしております。(中島)


京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム
「極東地域における文化交流」
kanwa-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp