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NEWSLETTER No.8
2004/06/22
今後の活動予定
○2004/07/16 午後2時~4時40分 第十回「乾の会」
シンポジウム「日本の文学・中国の文学-ひびきあうことば-」
於京都大学文学部新館1階第1・第2講義室
【講演者・題目】
陳明姿(台湾大学日本語文学系教授)
「唐代伝奇と源氏物語」
釜谷武志(神戸大学文学部教授)
「霞か雲か-日中古代文学中の自然観一斑-」
朱秋而(台湾大学日本語文学系助理教授)
「菅茶山における和習の意味」
○2004/07/17 午後3時~ 第十八回「坤の会」
担当:川合康三 大谷雅夫
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條)輪読14回目
第65句から
活動報告 (2004/03~2004/06)
○2004/04/19 第十六回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公条両吟和漢百韻」(三条西実隆、公条)輪読12回目
第51~57句
担当者:大槻信、緑川英樹
○2004/04/23 第九回「乾の会」Wesley Jacobsen教授講演会
Wesley Jacobsen教授(ハーヴァード大学)
「日本語におけるテンスとアスペクトの相互作用-その境界線はどこに求めるべきか」
○2004/06/31 第十七回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公条両吟和漢百韻」(三条西実隆、公条)輪読13回目
第58~64句
担当者:大槻信、緑川英樹
第九回「乾の会」(2004/04/23) 講演要旨
「日本語におけるテンスとアスペクトの相互作用-その境界線はどこに求めるべきか」
ウェスリー・M・ヤコブセン(ハーヴァード大学教授)
「ル」「タ」「テイル」の用法の中に、テンスを表すものなのかアスペクトを表すものなのか区別が
付きにくいものが少なくない。 それはアスペクトの構造自体において、その要素間にすでに前後関係が
成り立っているという、潜在的なテンスが認められ、また逆に元々は異なった時点で、テンスの関係に
あるものが、ある条件の下では、分離されているものとしてではなく、まとまった構造の構成要素として
認められ得る可能性が常に秘められているからである。Reichenbach (1947) の枠組みで提案されたTr
(基準時)は、Te(言及事態の発生時),Ts(発話時)のいずれかと組むものであるが、これは見方を
変えればテンス・アスペクトのどちらの意味合いがより全面に出されているかの一つの目安とすることも
できる。本論ではテンスとアスペクトの境界線に見られる様々な現象を取り上げるが、その多くに、
状態変化の意味構造が関係している。こうした構造こそ二つの異なった事態の前後関係を際だたせると
同時に、それらを一つのまとまったものに統一させるという、テンス・アスペクト両面の性質を持ち合わせる
原型的な概念といえる。認知論の観点から考えても、時間の経過を知覚するのに状態変化は必要不可欠な
現象であり、本論で取り上げるテンス・アスペクトの相互作用が実世界の経験を可能にする知覚力そのものに
深く根ざしているものであると考えられる。
*さらに詳しくはこちら(PDF)をごらんください。
──ことばの学習とアイデンティティ──
前回に引き続き、琉球の通事が編纂した『官話問答便語』の記述を、別の角度から眺めてみようと
思います。下の会話をご覧ください。少し長いので前半を端折って翻訳します。テキストは、法政大学
沖縄文化研究所蔵本です。
通事:我が国は東海の蕃族で、聖人の道理など、何もわきまえておりませんでした。……明の洪武帝が
「閩人三十六姓」をお遣わしになり、我が国人に学問、礼儀、漢字を教え、学校を建てさせ、
それ以来、我が国は中国と同様になりました。国王はその功績を認め、さらに中国の朝廷を
尊崇する意味からも、三十六姓に妻室をもたせ、後継ぎを育てさせ、子々孫々にわたるまで
みな秀才の位をもつようにされたのです。私たち(通事)は、その三十六姓の子孫です。ですから、
秀才と名乗っているのです。
福州人:ということは、あなた達も我々と同じ中国人ではないですか。
通事:まさしくその通りです。
福州人:ご先祖は何府の何県ですか?籍貫はどちらで、どの州県か、当然すべてご存じですよね。
通事:すべてわかっています。我々三十六姓には、本府出身もあれば、その周囲の府の者もおります。
それぞれの家に家譜があるのです。
福州人:中国に来たからには、どうして一族に会いに行かないのですか?
通事:それにはいろいろ難しいことがあるのです。あなたはおわかりになりますまい。一つには、お上が
厳しく禁じているのです。私どもはこの琉球館にいる限り、ここを遠く離れるわけにはいきません。
二つ目には、年月が経ってしまい、人の境遇も言葉も変わってしまい、会話が通じず、ご先祖を
たどる事もできない、あれこれ面倒なことがあるのです。
福州人:それも道理ですな。
ここで注意したいのは、琉球の通事が「自分は中国人だ」と表明している点です。
会話に出てくる「閩人三十六姓」は、『明史』にも記載がありますが、そこでは「閩中舟工三十六戸」
とのみ記され、康熙23年(1684)汪楫の『使琉球録』でも「閩人善操舟者三十六戸」となっていて、水夫や
水先案内人といった職分と理解できます。ところが琉球側の記録では、一転して人民教化のため皇帝から
派遣されたということになります(『中山世譜』。康煕36年に蔡鐸が『中山世鑑』を漢訳したもの)。まあ、
琉球側の記録は、すべてこの「閩人三十六姓」の子孫とされる人々の手になるものですから、それも無理からぬ
ところです。いずれにしても、琉球の通事たちが、「閩人三十六姓」の子孫であるということは、両者共通の
伝承と言えますし、それに、移住当初はさておき、彼らが後には琉球の漢学や官話教育を一手に担っていたのは
事実ですから、一概に記載に偽り有り、とする訳にはいきません。
この「閩人三十六姓」は、自己アイデンティティの背骨というだけではなく、現実に一家の生活を支えるために
不可欠な「のれん」のようなものでした。彼らの定住地であった久米村(現那覇市)は、今風にいうならチャイナタウン
とでもいうべき場所で、実際、地名にちなんだ琉球語の「くにんだー」(久米村人)という名称以外に漢文脈で
用いる「唐栄」という呼称は、チャイナタウンを示す「唐営」に由来します。それを名乗ることによって、彼らは
琉球での安定した地位と決して奪われることのない世襲の職業を手に入れていたのです。
しかしながら、中国人の子孫という立場表明にかかわらず、彼らは「ことば」に対しては、あっさりと「学んで
習得するべきもの」と割り切っているようです。中国人の子孫たるもの、中国語ができて当然、という風には話は
進みません。前回紹介した一段では、「外国の方がこんなに上手に官話が話せるとは」と福州人に褒められて
まんざらでもない様子の琉球人が描かれていましたが、他の教科書にも「最近中国に行っていないので語学力が
落ちました」と嘆く通事も登場するなど、言語への忠誠心が自分のアイデンティティに直接結びついていた訳でも
なさそうなことがわかってきます。彼らは柔軟にまた臨機応変に、自らの用途によりよく叶う言語に乗り換えながら、
祖先の言葉であり自らの生活を保証する官話を学び続けていったのです。 (木津祐子)
◇編集後記◇
ニューズレター第8号をお届けいたします。
来る7月16日のシンポジウムでは、台湾の日本文学研究者お二方と、日本の中国文学研究者お一方に、
それぞれのお立場から御講演いただきます。二つのことばがひびきあうことの意味や可能性を、改めて見つめ直す
機会となることと存じます。多数の御来場をお待ちしております。
今号より福井が編集を担当いたします。よろしくお願い申し上げます。 (福井記)