- 宇佐美 文理
- 中国近世思想史
- 池田 恭哉
- 中国哲学史
中国哲学史は、文字どおり中国の哲学の歴史を研究する専修です。ここでいう「哲学」はごく広い意味でとらえて下さい。つまり、宇宙や自然のあり方、あるいは社会と人間の関係などについて中国の人たちがどのように考えたか、またその考察にもとづいてどのように行動したか、その思索と実践の跡を歴史に即して考察するのが中国哲学史という学問です。
中国哲学というと、まず孔子・孟子をはじめとする儒教や老荘思想を思い起こされることでしょう。確かに儒教や老荘は中国哲学の最も重要な主題であり、また本専修の教育研究の中核となっています。しかし、中国哲学の範囲はそれだけではありません。中国歴史における思想的営み全て、敢えて言えば、中国文化の全領域がその対象となります。本専修には儒教や老荘以外にも中国の宗教・芸術についての授業が設けられています。
ただ時代的には、本研究室は伝統的に、春秋戦国時代から20世紀初頭までのいわゆる古典中国を中心としてきましたので、現代中国にのみ関心のある人には向かないかもしれません。またここでいう中国とは主として漢字漢語を使用している地域・民族を指します。したがって、漢字漢語を用いて書かれた古典文献、すなわち漢文を読むことが日常の研究の基本となりますし、実際また専修として一番力を注いでいるのも漢文読解力の養成です。
最後に、中国哲学史の研究に特別の資質はまったく必要ありませんが、「本好き」であることだけは最低条件ですので申し添えておきます。
最近の卒業論文
- ・ドイツ啓蒙思想における宋明理学の受容
- ・荻生徂徠と荀子――聖人観の比較から
- ・『七経孟子考文補遺』について
最近の修士論文
- ・『五経正義』所引「定本」再考
- ・聶双江思想研究
- ・張栻の思想の独自性について
- ・鄭玄の春秋学について
最近の博士論文
- ・『尚書大伝』と漢代経書学
- ・中国儒教義疏の研究
- ・北宋三蘇経学思想硏究
授業風景1
授業風景2
歴代の研究室刊行雑誌
文学部受験生向けメッセージ
中国哲学史は、文字どおり中国の哲学の歴史を研究する専修です。ここでいう「哲学」はごく広い意味でとらえて下さい。つまり、宇宙や自然、あるいは社会と人間、それらについて中国の人がどのように考えたか、またその思想にもとづいてどのように行動したか、その思索と実践の跡を歴史に即して考察するのが中国哲学史という学問です。
中国哲学というと、高校の国語と歴史の教科書にも出てくる諸子百家、中でも孔子・孟子をはじめとする儒教や老荘思想を思い起こされることでしょう。確かに儒教や老荘は中国哲学の最も重要な主題です。しかし、中国哲学の範囲はそれだけではありません。さきにも述べたとおり、中国の思想的営み全て、敢えて言えば、中国文化の全領域がその対象となります。
ただ時代的には、本研究室は伝統的に、春秋戦国時代から20世紀初頭までのいわゆる古典中国を中心としてきましたので、現代中国にのみ関心のある人には向かないかもしれません。また中国というのは主として漢字漢語を使用している地域・民族を指します。したがって、漢字漢語を用いて書かれた古典文献、すなわち漢文を読むことが日常の研究の基本となりますし、実際また専修として一番力を注いでいるのも漢文読解力の養成です。
最後に、中国哲学史の研究に特別の資質はまったく必要ありませんが、「本好き」であることだけは最低条件ですので申し添えておきます。なお本専修の授業内容や研究テーマについては、専修のウェブサイトをご覧下さい。
大学院研究科受験生向けメッセージ
文学部の専修案内に、私どもは「中国哲学史は、中国人の思索の歩みを研究する学問である」、「中国人が何をどのように考えたかを知ること、中国哲学史研究はこの一事につきる」と記した。中国人の思想的営みを歴史文化の一環として把握すること、これが中国哲学史に対する私どもの一貫した基本的姿勢である。従って、学部と大学院において研究教育内容が根本的に異なることはあり得ない。大学院の研究教育においても、学部におけると同様、「一切の先入観を捨て、中国人の立場に立ってその思考を跡づけることがまず必要であり」、そのために「何よりもまず中国古典、いわゆる漢文が正確に読めることが必要である」ことに何の変わりもない。大学院生にとっても、やはり「漢文読解力修得が第一の肝要事である」。ただし、研究者養成を主要目的とする大学院においては、当然のことながら、学部よりはるかに高度な学力が要求される。文意の正確な理解はもとよりのこと、その文献の文献学的考証、書かれた時代の状況、著者の生い立ちなどを正しくふまえた上で、内容のみならず用語や表現にまで鋭敏に反応する能力を修得しなければならない。読むことに関しては、修士課程修了の段階で、少なくとも自らの専門分野については独立した研究者としての能力を身につけてもらわなければならない。
しかし、学力養成のみが大学院教育の目的でないことは言うまでもない。その最終目的は独創的研究者としての基盤を確立すること、具体的にいえば学位(修士・博士)論文を完成することであって、文献処理の精確さはその不可欠の前提にすぎない。ただ、この目的は全て院生諸君自身の力によって達成させなければならない。何を研究題目に選ぼうと、いかなる研究方法をとろうと、それが学術的水準を満たしている限り、まったく諸君の自由であり、私どもは原則として口出しはしない。というよりむしろ、誰の模倣でもない君独自の問題意識と方法でなければ困るのである(念のために注意しておくが、このことは先人の研究成果への敬意と学習が不要であることを意味するものでは決してない)。むろん私どもは、スーパーヴァイザーとして研究計画の策定、執筆項目の設定、参考文献の指示などできる限りの”指導”は惜しまない。が、それはあくまで技術向上のためのコーチングにすぎないのであり、研究の遂行は全て君自身の主体的責任と意欲によって果たされるべきものであることを銘記しておいてもらいたい。