日本哲学史専修ウェブサイト 清沢満之

略歴

清沢 (旧姓:徳永)満之は、文久3年、尾張藩士徳永永則の子として生まれた。愛知県第五義校、愛知英語学校(在学中に廃校)等を経て、明治11年に得度(法名:賢了)し、京都の東本願寺育英教校に学ぶ。本山より留学の命を受け、東京大学予備門、東京大学文学部哲学科に入学(在学中に帝国大学に改組)。在学中はフェノロサの講義に特に感銘を受けたという。井上円了らの「哲学会」にも参加、同会による『哲学会雑誌』(現在の『哲学雑誌』)では、明治20年の創刊から第5号まで編集を担当。大学を主席で卒業したのち、大学院に進学し、宗教哲学を専攻。この間、第一高等学校にて教鞭をとったほか、井上による哲学館(現在の東洋大学)創設に評議員として参加、講師として純正哲学他を講義する。
明治21年、東本願寺の要請により大学院を中退し、京都府尋常中学校の校長に赴任。東本願寺の真宗大学寮にて宗教哲学、西洋哲学史他を講じる。同年、三河大浜(現在の愛知県碧南市)の西方寺に入り、清沢ヤス(やす子)と婚姻。清沢姓となる。
明治23年、中学校長職を辞任、髪を剃り、ミニマムポッシブルの実験と称する禁欲自戒の生活に入る。教員として学寮での講義は継続し、明治25年、講義内容をもとに『宗教哲学骸骨』を刊行。しかし、過酷な禁欲生活の末、明治27年、結核の診断を受け、教職を辞して須磨・垂水に療養することとなる。療養中に、「在床懺悔録」「他力門哲学骸骨試稿」を執筆。
療養以前より教団の状況に対して提言を続けていたが、病の小康を得た明治29年、京都の白川村にて同志と雑誌『教界時言』を発刊、学事の改革を提唱し、宗門改革運動をけん引する。しかし、教団から除名処分をうけ(明治30年。のち回復)、改革運動も当局の切り崩しにより挫折。明治31年、大浜の西方寺に帰坊する。この時期、日記「臘扇記」を記す。
明治32年、要請により教団の新法主の教導係として東上。同年、本山から要請のあった真宗大学(現在の大谷大学)の経営を、京都の本山による学事不介入を意図した条件(大学の京都から東京への移転、教育方針他の一任等)を以て引き受け、開校へ向け奔走する。翌年、近角常観の留守をあずかる形で、本郷森川町の学寮を引き受け、「浩々洞」と名付けて門人達と共同生活を始める(明治35年東片町に移転)。明治33年、浩々堂門人と雑誌『精神界』を創刊。毎週日曜には講話を開く。この時期を発端とする浩々堂の活動は、「精神主義」として多方面に影響を与えるものとなった。明治 34年、東京に移転・開校した真宗大学の初代学監(学長)を務める。
明治35年、長男の信一、妻のヤス(やす子)を相次いで亡くす。同年、学内騒動により真宗大学学監を辞任。大浜に帰り、明治36年、西方寺にて死去。享年41歳。

概要および主要著作

満之の生涯は苦難な禁欲自戒の「実験」であった。その中からたどりついた心の置き所が精神主義であった。精神主義 とは無限大悲の如来に依拠する広大な他力信仰を根本に据え置いて世に処する実行主義、活動主義であり、内観主義、主観主義、満足主義、自由主義、個人主 義、全責任主義、他力主義などの語をもって表される。そこには他力信仰によって自己の内面を凝察し、個の徹底的な内的沈潜により安心立命が全うされるとす る近代仏教の先覚者の発想がある。また清沢が西洋哲学を咀嚼し踏まえていたことも彼の宗教哲学を独自なものにしている。
現在にいたるまで清沢は さまざまに批判されてきた思想家でもある。たとえば、天皇制に無批判に順応した、あるいは彼の宗教論は近代的知識人の宗教に過ぎず、一般の人々には無関係だと言われたりした。以上のように、清沢満之の生涯および哲学は、現在もなおさまざまな問題を我々に提起している。

テキスト

全集等

  • 大谷大学編『清沢満之全集』全9巻、岩波書店、平成14-15年※別巻2冊が刊行予定
    編集委員には、大谷大学の研究者に加え、久木幸男、今村仁司らが参加。構成はテーマ別で、「哲学者」としての清沢の側面にも光があてられている。新発見資料を掲載するほか、以前の全集において脱文のあった箇所、原文が改められていた箇所についても、自筆原本に依拠した本来の形で収録する。
  • 暁烏敏・西村見暁編『清沢満之全集』全8巻、法蔵館、昭和28-31年
    編者に名前の挙がっている暁烏は、清沢の門人。西村は暁烏に師事しており、清沢の孫弟子に当たる。本全集の構成は清沢がその生涯の各時期に用いた号に対応する。即ち、「建峯」(第1巻)、「骸骨」(第2・3巻)、「石水」(第4・5巻)、「臘扇」(第6・7・8巻)である。時代区分ごとに著作の他、日記や追憶・資料がまとめられているため、「全体として全集であると同時に、伝記でもある」ような構成となっている(第1巻「解説」)。なお、岩波版全集には未収の資料(同時代人による追憶や証言)を収録。
  • 浩々洞編『清澤滿之全集』全6巻、有光社、昭和9-10年
  • 『清澤全集』全3巻、無我山房、大正2-3年。

現代語訳

  • 藤田正勝訳『現代語訳 宗教哲学骸骨』、法蔵館、平成14年
  • 藤田正勝訳『現代語訳他力門哲学骸骨』、法蔵館、平成15年
  • 藤田正勝訳『現代語訳 精神主義』、法蔵館、平成16年
  • 藤田正勝訳『現代語訳 わが信念』、法蔵館、平成17年
  • 藤田正勝訳『現代語訳 在床懺悔録』、法蔵館、平成19年

読みやすい現代語訳に、原文・解説が付く。原文を参照しつつ読むことができることに加え、解説から各テキストを読むために必要な知識を得ることができるため、清沢研究の入門書として最適である。

  • 今村仁司編訳『現代語訳 清沢満之語録』、岩波現代文庫、平成13年

第一部に宗教哲学に関する文章、第二部に精神主義関係の文章を配する。本書の編訳を行った今村によれば、清沢は「仏教的求道者にして厳格な哲学的思索者という二重の側面をもつ人」であるが、「これまでの清沢像」は仏教者としての側面を強調しがちであった(453)。本書の特徴は、「陰に隠される傾向にあった」清沢の「哲学者」としての側面にも光をあてるものである。

  • 橋本峰雄編訳『清沢満之・鈴木大拙』(日本の名著43)、中央公論社、昭和46年

『宗教哲学骸骨』、『在床懺悔録』、『教界時言』、『精神主義』の一部を現代語で読むことができる。清沢の生涯と思想をまとめた解説は、清沢を初めて読む読者への入門書として最適である。清沢の思想が「哲学」の観点から解説されている。