「知識とは何だろうか」と問う認識論は、哲学の歴史のなかでも主要な部分を形成してきた。現代において知識の問題を論じるに当たっては、当然「科学的知識」がその主要な対象となる。したがって、科学の哲学は現代哲学のなかでも優れて正統的な地位を要求する資格があると言えよう。本専修では、「科学とは何だろうか」という問いに哲学と科学史の二つの観点から答えることを目指す。「研究室紹介」で大まかなことは述べてあるので、もう少し専門的な事柄に立ち入ってみよう。
現代の科学哲学にはいくつかのルーツがある。日本ではいまだに科学哲学と分析哲学との混同さえ珍しくないので、ある程度の概観を与えておきたい。科学哲学に分析的手法は不可欠だが、科学の一般的あるいは具体的題材と無関係な分析は、「科学哲学」とは呼ばれない。
(1)一つは、近代科学の誕生とほぼ同時に歩みを始めた近世の哲学である。デカルトやカントを代表とする近世哲学の知識論の重要な部分は、当時の科学哲学であったと言ってもよいのである。しかし、科学と哲学が十分に分化していない時代の科学哲学と、分化した後の時代の科学哲学との間にはやはり大きな違いがある。
現代の科学哲学に近いものが出てくるのは19世紀であり、(2)例えば、ニュートン力学に基づく力学的世界観を強力に推進し、古典的確率論の集成者として知られるラプラスは、確率論と密着した科学方法論を提唱していた。さらに、(3)1830年以後のイギリスでは、ハーシェル、ヒューウェル、ミルといった科学者や哲学者が科学について論じ始め、デ・モーガンやジェヴォンズらの記号論理学の創始者たちもこれに加わる。また、(4)18世紀および19世紀の科学者には科学についての哲学的考察を展開した者が多いが、19世紀後半のウィーンを中心としたマッハやボルツマンらの活動は物理学の哲学に一時代を画した。さらに、(5)19世紀の終り頃には、カントールの集合論やフレーゲによる論理学革命が始まり、 20世紀前半の活発な数学基礎論の論争へとつながることになる。他方、(6)フランスでは、20世紀の初頭にポアンカレ、デュエムらの独自の科学哲学が出現する。(7)アインシュタインの相対性理論における考察にも大きな哲学的インパクトが含まれていた。
こういった流れから直接的、間接的に影響を受けて、(8)1920年代にウィーンとベルリンを中心として、多くの科学者や哲学者が参加した「論理的経験論」と呼ばれる学派が形成され、これが現代の科学哲学の最も直接的な母体となったのである。
その後、(9)1960年代に入って、科学史研究をふまえたクーンらの新たな問題提起により、科学的営みの歴史的あるいは社会学的な見方を重視する「新」科学哲学の動きが生じて、これがいろいろな動きを触発したことは事実だが、「新科学哲学」はもはや「新しい」とは言えない。
(10)クーンらの影響、あるいは社会学などからの影響を受け、一方では「科学論 Science Studies」という、科学研究の実態を様々な手法で研究する動きが多様化した。(11)他方では、「科学一般」を論じるのではなく、もっと個別的な分野に即して哲学的問題を追究しようとする動き、例えば「生物学の哲学」、「進化論の哲学」、「相対論、時空の哲学」、「量子力学の哲学」、「確率統計の哲学」、「社会科学の哲学」という、ある種の「専門化」の傾向が見られる。それとも関連し、(12)実験的知識の見直しを踏まえて、科学の認識論を再構築しようとする動きもある。
以上の概観からもわかるように、科学哲学の研究対象は科学そのものと同じほど多様である。数学の哲学、物理学の哲学、生物学の哲学、あるいは社会科学の哲学というように、ある程度研究分野を限定し、その分野での専門的な研究内容に即した哲学的問題を取り扱うこともできるし、「説明」「仮説の確証」あるいは「理論と事実」といったもっと一般的なテーマを選んで追究することもできる。そのために必要なものは、問題把握のセンス、論理的な分析能力と、選んだ研究テーマに関して具体的な専門知識を掘り下げていく根気である。科学的営みや知識を分析対象とする以上、具体的知識を欠いた研究は不毛である。
科学史研究は,さまざまな地域・時代における知識生産の歴史学的研究を通して,科学と呼ばれる知識生産が立ち現わる過程を明らかにし,科学についての理解を深める学問である。科学についての理解を深めることを目指す限り、対象とする知識の形態は狭い意味での科学である必要はなく、そもそも科学と科学でない知識との境界はあいまいであり、歴史的に形成されたものであるので、人間(あるいは人間以外の存在)のほとんどあらゆる形態の知識が科学史研究の対象となると言って良い。
知識生産は個人の脳内で完了するものではなく,分散化されたな認知を含む社会的な営みであり,そこでは人間とその集団だけでなく,認識の対象やその環境,認知のための物質的・社会的装置など人間以外のアクターも作動する。様々な知識生産のうち,あるものが科学として分別され,境界が設定されるのも,これらのアクターの織り成す社会的・歴史的過程である。また,科学と密接に関連する「自然」,「事実」,「正常性」,「客観性」,「科学者」なども同様に歴史的過程をへて分節化され,制度化されている。科学史はこの過程を理解することを目指すが、そのためには,知識内容はもちろんのこと,具体的な知識生産の実践とその実践者,知識を生み出す文化やインフラストラクチャー,それらが正当なものとして認知されたり,伝播されたり,拒絶されたりする社会的な仕組み,そしてその歴史的な発展のメカニズムも研究の対象となる。また普遍性を標榜し,志向し続ける科学を考える上で,西洋中心主義・男性中心主義にとらわれないグローバルな視点やジェンダー観点も欠かせない。
このように科学史の研究は豊富な内容を持ち,分野を越えた複数の学問的方法の組み合わせによって実践されている。どのような「科学者」も「科学」の全領域について理解していることがあり得ないように、科学史の研究者も、科学史のすべての領域、すべての地域と分野、すべての研究手法を習得していることはあり得ない。逆に、科学史の研究においては様々な素養を生かせ,多様な知的関心にこたえることができると言える。