第12回研究会

清初の法秩序

松浦 茂

発表要旨

 通説によると、清初ヌルハチ(太祖)時代は慣習法による政治が行なわれ、ホンタイジ(太宗)時代になって『大明会典』を用いたのが、成文法の始まりであったという。しかし清初の文献を検討すると、それよりも早くヌルハチ時代の初期から、かれが制定した法がすでに存在していたと推測されるのである。

 清が法秩序の整備を急いだ理由は、ハダが政治腐敗により滅亡した同じ轍を踏まないためであった。ハダは明の後押しを受けて16世紀後半に成立した女直最初の国家である。ハダがいかなる制度、体制を形作ったのか、すべては失われて何も残っていないが、少なくともその成立が後発の勢力に影響を及ぼし、その国造りに何らかのモデルを提供したことは確かである。ヌルハチの場合はハダをモデル(ときに反面教師)として、それから歴史的な教訓を引き出し自らの治世に生かそうとした。とくにかれはハダのワイロ政治を否定して、公正な裁判を行なうことが清の生き延びる道であると考えていた。そのためにヌルハチは早くから特別な法を制定し、それにもとづいた政治を行なおうとしたのである。

 ヌルハチは初期の法を?ajin と呼ぶ。『満洲実録』によれば、ヌルハチは1587年にそれを定めたという。清初の史料から?ajin の例を抽出すると、その多くはさまざまな状況下で出されたヌルハチの命令であったことがわかる。その内容はまちまちで、それらの間に統一性はみられない。しかし清初の史料には、同じ法(命令)が繰り返して現れ、また人びとにそれを声に出して唱えさせ、その内容を記憶させたというので、清がそれらの法(命令)を文書に書いていたことは確実である。

 こうした法(命令)に違反する行為は、告発により明らかになるのがふつうであった。その際にヌルハチが最も重視したのは、裁判は公開の場所で、合議により行なうべきであるという原則であり、それを実現するものとして三覆審制が考え出された。

 清が遼東地方に進出し漢人社会を統治するようになると、このような法だけでは不十分となったので、『大明会典』を並行して利用することになった。そのためにヌルハチとホンタイジはその翻訳を急がせたのであった。

討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

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