第一回国際シンポジウム(第二回研究会)・第一日目

朝鮮李裕元『薊槎日録』に見える中国李鴻章との交渉について

夫馬 進

報告要旨

朝鮮燕行録と称される旅行記の史料的価値は、学界の一部ではつとに知られるところであった。資料集としては、すでに『燕行録選集』(上下2冊)、『国訳燕行録選集』(12冊)、『朝天録』(4冊)が早くから刊行されており、韓国史を研究する者のみならず中国史を研究する者に対しても大きく貢献するところがあった。しかし、林基中編『燕行録全集』(ソウル、東国大学校出版部、100冊)と林基中・夫馬進編『燕行録全集日本所蔵編』(ソウル、東国大学校韓国文学研究所、3冊)がともに2001年に刊行されるに及んで、燕行録そのものの研究、及び燕行使の研究は、全く新しい一段階を迎えたといってよい。

燕行録はのちに述べるように、中国−朝鮮関係史を研究する上での第一次史料といってよい。しかし、歴史史料としてこの燕行録を使う場合には十分に注意する必要がある。なぜなら、それらは先輩が書いたものをしばしば転用するからであり、ある燕行録をある年代の北京旅行記であると確定できたとしても、それが数十年前の旅行記を転用したものであることがあるからである。たとえば、鄭徳和撰『燕槎日録』(哲宗5年=咸豊4年=1854)がそれである。これは『随槎日録』(純祖29年=道光9年=1829)をしばしば盗用している。二つの燕行録の各条を対照すると、鄭徳和撰『燕槎日録』は鄭徳和個人の行動と見聞を記す場合でも、25年前のある人物の行動と見聞をほとんど「盗用」しているのであって、ただ日付や固有名詞を若干入れ替えているだけである。このように燕行録を歴史史料として用いる場合には、十分な史料批判をする必要がある。

燕行録が中国−朝鮮関係史の研究にとって重要である一例として、ここでは李裕元撰『薊槎日録』(天理図書館蔵、『燕行録全集日本所蔵編』収録)を紹介する。李裕元『薊槎日録』は、天理図書館カード、『今西博士蒐集朝鮮関係文献目録』(東京、書籍文物流通会、1961)、『増補東洋文庫朝鮮本分類目録』(東京、国立国会図書館、1979)、『韓国古書綜合目録』(ソウル、大韓民国国会図書館、1986)などではすべて李裕元『燕槎日録』として登録されているが、これは誤りである。

李裕元が彼の燕行時に清朝の李鴻章と関係を持つにいたったことは、韓国近代の形成において重要な意味を持っており、このことはすでに指摘されるところであった。しかし、これまでの研究では、李裕元の燕行録である『薊槎日録』は使われてきたようにない。そこでは李裕元と李鴻章の橋渡しをした永平府知府游智開と、李裕元とがどのようにして出会ったのか、游智開がどのように李鴻章に対し李裕元の意図を伝えたのか読み取ることができる。李裕元は高宗12年(光緒元年=1875)11月7日、永平府城に宿をとり、この日の夜游智開と痛飲し、この機をとらえて李鴻章と関係を持つことを頼み込んだ。翌日には彼の部下を游智開のもとへ二度まで派遣し彼の意のあるところを伝えさせた。しかも游智開は李裕元の手紙を託され、これを李鴻章と会ったときに自ら手渡したのであった。従来の研究では、たとえば田保橋潔が「李裕元の書簡は全然国事に触れて居ない。けれども知府游智開の紹介状には、当然それに言及したであろう。」(『近代日鮮関係の研究』京城、朝鮮総督府中枢院、1940、頁545、第31、清韓関係の新段階 李鴻章と李裕元)などと述べるにとどまっていたが、游智開はこの時、李鴻章と対面しつつ、書簡を手渡したのである。単なる紹介状ではなかった。たしかに、李裕元の李鴻章宛書簡あるいは李鴻章の李裕元宛返書ともに国事にかかわる重要なことは何も述べていない。しかし、李裕元が李鴻章に言いたかったことは、游智開を通して詳細に伝えられたのであって、これをもとに李鴻章は総理衙門に指示を出し、総理衙門から礼部を通して朝鮮国王に文書が送られたのである。おそらく外交とはこのようにしてなされるものであり、最も重要な部分は口頭での伝言により、一切の証拠を残さなかったのである。

なお、報告者は「日本現存朝鮮燕行録解題」(『京都大学文学部研究紀要』第42号、2003、予定)において、日本現存の33種の燕行録に解題を付しつつ、この李裕元『薊槎日録』についても論じている。

討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

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