第一回国際シンポジウム(第二回研究会)・第一日目

明清史書の朝鮮記事に対する朝鮮の是正外交

李成珪

報告要旨

    T.

韓国の歴史に対して中国は歴代の正史をはじめとする様々の文献を残しているものの、その中には皮相的なものもあれば不正確のものもあるし、時には故意に歪曲された叙述も少なくもない。他国人が自国の歴史を歪曲したり不正確に記録することが不愉快なことなのは言うまでもない。しかしながらその記録が現実の利害と直接に繋がっていない場合、それに対して積極的に是正を要求するまではしないのが普通であろう。筆者にしても、以前は管見によるかぎり東アジアの歴史上、'曲筆'の是正をめぐって外交戦が展開されたことは聞いていなかったが、最近朝鮮時代の学人たちの『史記』の理解に関する問題を調べているうち、一つの興味深い事件を遇目することになった。すなわち朝鮮英祖47年(1771)、平安道の儒生桂徳海が陳建の『皇明通紀』を所持したことで国王の自らの取り調べを受けた事件である。筆者は'理解に苦しむ'この事件の真相を明らかにするために、関連資料を調べることにした。その結果漸次これは単なる国内の事件に止まらない、対清外交と絡み合ったものであることが分かってきた。それだけでなくこの外交問題は当時はじめて提起されたことではなく、朝鮮の建国初から朝鮮末期まで朝鮮の君臣たちを悩まし続けた大きな問題の一部分であることを確認することができた。本報告は、中国史書に対して是正を要求した朝鮮の是正外交の意味及び性格を分析したものである。

一方、朝鮮の是正外交は特定の史書の入手を前提とするものであるゆえに、この事件は朝鮮の中国書籍の入手状況あるいは書籍を通じた中国文化收容の一断面を理解する糸口にもなる。

朝鮮がはじめて問題を提起したのは、朝鮮太祖3年(1394)海嶽山川に告する明使の祝文の中に太祖李成桂が高麗末附元派の権臣李仁任の息子として明記されていることを見つけた直後であった。朝鮮は即時解明の上奏をしたが、是正されず、太宗3年(1403)『皇明祖訓』(1395年公布)にも同一の誤謬が見つけたのである。以後是正を要求する外交が繰り返され、明は是正することに合意したにもかかわらず、正徳4年(1509)に編纂された『大明会典』巻96朝貢1にも次のように『祖訓』の本文がそのまま載ってあった。

"朝鮮國即高麗 其李仁人 及子李成桂今名旦者 自洪武六年至洪武二十八年 首尾凡弑王氏四王 姑待之"

勿論李成桂と李仁任は(李仁人は誤記)父子の関係でもないし、高麗恭愍王の弑害に李成桂はあずかっていないので上記記事が誤謬であることは間違いない。ただしこの記事は朝鮮王朝にとって三つの点で重大な意味を持っている。

(1)李成桂は附元派であり,したがって中華王朝の明のかわり胡族の元に事えた。(2)朝鮮王室は自己の先祖もろくに明かせない不孝を犯している。(3)朝鮮の建国は累代にわたっての反逆の結果で臣下に忠誠を要求する正統性を持てない。

華夷論に基づいている'朝貢秩序'のなかで忠と孝を体制の基本理念としている朝鮮王朝においてこれよりおおきい名分の損失はなかったとしても言い過ぎではないであろう。しかもこのことが朝鮮の正統性を保証する'天子の国'の基本法典のなかで記されていることはどうしても放置できない重大な事であった。

この問題は朝鮮の執拗な外交のすえ、1587年の万暦改修本『大明会典』(万暦15年)に朝鮮の要求をほぼ受入れたことで一段落した。しかしながら明代には宋代のような史書に対する私撰禁令がなかったので史書の私撰が盛行し、朝鮮の建国史に言及した数多くの史書は『皇明祖訓』の記事をそのまま踏襲した。この問題は清代にも引き続いて朝鮮の君臣を苦しめたが、ほかにも仁祖反正、日本との関係、党争に関する中国史書中の'曲筆'も朝鮮の君臣にとっては決してみすごせない問題であった。

    U.

『大明会典』の是正要求が貫徹した以後、朝鮮がまたも中国史書の'曲筆'に巻き込まれることになったのは光海君6年(1614)のことで、以後朝鮮は前後5回にわたって20種の史書に対して是正を要求した。

(1) 1614年: (a)鄭曉(1449-1566)撰『吾學編』(1567年) (b)雷禮(1505-1581)編『皇明大政記』 (c)王圻撰『續文獻通考』(1603年) (d)馮應京『經世實用編』(1555-1606) (e)饒伸(万暦11年進士)輯『學海』巵言 (f)王世貞撰『弇山堂別集』(1590年) 史乘考誤 (g)黄光昇(1586年死亡)撰『昭代典則』 (h)萬表(1498-1566)撰『灼艾集』(1555年以前) (i)李默(嘉靖年間 獄死)撰『孤樹裒談』(1555年以前) (j) 伍袁萃『林居漫録』(稿本、1608年) (k)劉仲達『劉氏鴻書』

(2) 顯宗14年(1673): (l)『皇明通紀』 (m)『十六朝廣記』 (n)『兩朝從信録』 (o)『皇明通紀輯要』 (p)『皇明紀略』

(3) 英祖47年(1771): (q)朱隣撰『明紀輯略』(r)陳建撰『皇明通紀』(1555年)

(4) 純祖21年(1821): (s)『皇朝文獻通考』(1762年)

(5) 哲宗14年(1836): (t)鄭元慶『廿一史約編』(1696年)

以上の史書の中で朝鮮が問題にした内容はつぎのようである。

(A) 太祖李成桂は李仁任の息子として高麗王を弑害簒奪した。(a, b, c, d, e, f, g ,h ,i, q, r, t).

(B) 釜山はもと日本の領土であり、壬辰倭乱は朝鮮の君臣が自招した禍である。(c, d, j, k).

(C) 光海君の即位は不当である。(j, k).

(D) 倭の壻である仁祖が光海君を殺害簒奪した。(l, m, n, o, p).

(E) 朝鮮の大臣金昌集ら4人は逆謀の罪で処刑せられた。

(A)の問題が朝鮮末期までつづいて挙論されてきたのは、朝鮮においてこの問題がいかに深刻なものであったのかを十分に示している。(B)と(D)の記事も同じく明らかな誤謬であるばかりでなく、先王たちを冒涜し王朝の正統性を否定したので、朝鮮の君臣には默過できなかったものである。一方(C)の場合は實際'曲筆'ではなかったが、光海君やその継承者の正統性を否定したものである。(E)の場合は景宗時の朝鮮の報告をそのまま記録したものであるが、しかし四人の大臣の'逆謀'とは景宗の世弟である英祖が即位した後には、四人の逆臣が逆に忠臣となったので英祖の正統性を主張する側から問題として提起したものである。

以上の内容は朝鮮の君臣としては十分問題にすべきものであったが、問題になった史書の刊行年度と問題を提起した時点を比べてみると、この問題の提起は単に曲筆に対する糾弾と是正のためのみではないことが分かる。(1)の場合『孤樹裒談』と『灼艾集』の時差は少なくとも60年以上であり、『吾學篇』は約50年、そして朝鮮使臣との交遊のことで有名な明末の大文章家王世貞の著作で中国ではほぼ家ごとに所藏しているほど大流行した『弇山堂別集』はおよそ25年、『昭代典則』はすくなくとも20年以上と推定される。もっともはやく問題として提起されたのは未刊本の『林居漫録』で、選者の自序年度とはわずか6年の差に過ぎない。『經世實用編』も10年未満、王圻『續文獻通考』は11年、『皇明大政記』(増補本)は12年の偏差を示している。一方顯宗14年(1673)以後問題となった『十六朝紀』のほか直接関連した『兩朝從信録』はおよそ40年、朱璘『明紀輯略』は76年、陳建『皇明通紀』(正確には沈國元訂『皇明從信録』)は144年、『皇朝文獻通考』は27年、『廿一史約編』はおおよそ167年も差がある。

このような偏差は、明清の史書禁輸の政策による中国史書入手の困難な事情を勘案しても、理解し難い場合もある。特に『吾學篇』・『昭代典則』・『皇明通紀從信録』・朱璘『明紀輯略』等は、問題になる以前にすでに朝鮮に流通した明確な証拠もある。そして報告者は問題が提起された状況を検討したのであるが、その結果このような状況とは例外なく何らかの政治的'演劇'を演出せねばならない危機と葛藤の激しかった状況であることが明らかになったと思う。なかんずく(4)の場合は、対中国貿易の不調を打開するためのものであり、対中国貿易を事実上主導した訳官に対する大規模な弾圧と関連したことであったのである。

    V.

問題の史書が報告されるとすぐ非常対策会議が召集された。中には中国の雑事・小説に対して一つ一つ対応する必要はなく、また是正のための外交には莫大な費用(賄賂を含む)が必要になるので、'無用の平地風波'を起こすべきではないという主張も常にあった。しかし問題の提起は政治的に必要であるという意図的なものであり、問題になった内容は朝鮮の君臣にとって名分上坐視することができないものであったので、結局強硬論が勝利し、是正を要求するための'辨誣使'が中国へ派遣されるのが慣例となった。朝鮮の要求は概して『明史』の編纂を分界として内容が変り、またこれに対する中国の措置もあい異なった。光海君7年の朝鮮の要求は、(1)すべての'曲筆'を刊正すること、(2)もしこれができなければ朝鮮の上奏文(詳しく'曲筆'のことが解明されていた)を天下にまわしてすべての人にその真相を知らせること、(3)史館に命じて真偽を明らかに判別した特別の記録を書き残し、今後'国史'に私撰の曲筆が巻き込まれることがないようにすること等であった。朝鮮の要求に対し明側は、撰者たちはすでに死亡し書籍もひろく伝播したので改正の方法がない、ただ'曲筆'部分を信じられないものという'明旨'を下すならば、それは曲筆を破棄したことに他ならないものだとして(1)の要求を断り、上奏の抄文だけを史館に保管させ国史纂修の資料とすることに止めて(2)の要求をも断り、ただ(3)の要求をのみ許諾した。

これがために朝鮮は清朝の『明史』の編纂に重大な関心をもって、'曲筆'史書の個別的な訂正刊行よりも、『明史』の朝鮮関係の記事が朝鮮の望む'正筆'になるように交渉を続けた。清側も『十六朝記』等の'曲筆'を認め、『明史』の完成後、'曲筆'の是正された朝鮮列伝の頒示を約束した(英祖2年、1726)。しかし雍正元年(1723)告成した『明史藁』の朝鮮関係の記事も依然として朝鮮に満足できるものではなく、朝鮮は続けて交渉してようやく英祖8年(1732)、概して満足すべき朝鮮列伝の謄本を公式的に入手することに成功した。だから英祖47年(1771)と哲宗14年(1863)、古くなった太祖の世系を'曲筆'した『皇明輯略』・『皇明通紀』及び『廿一史約編』をまたもや挙論したのは、ただ問題をつくるためだけのいたずらなことに過ぎなかったのである。とにかくこれに対して清は、『明紀輯略』はもうすでに禁書となって銷毀されたし、『皇明通紀』や『廿一史約編』も書肆からみえなくなったので改めて刊正する必要がないと答えた。ただ各々学ヘに対して、朝鮮関係の記事は『明史』が標準であることを通報することを約束する一方、朝鮮が中国内の本を集めて問題の八字をみずから訂正刊行することを許した。また『皇朝文獻通考』中の四人の'逆臣'を'忠臣'に改正することを要求したことに対して、清は問題記事の削除を約束し、その証拠として改訂版一部を朝鮮に頒給した。

    W.

'曲筆'の是正外交が展開する過程の中で、清はむしろ史書禁輸の原則を挙げて朝鮮が問題の史書を入手したことを問題にし、朝鮮を問責した場合もあったが、莫大な費用と労力を消耗した朝鮮の是正外交は概して'成功的'であった。朝鮮が是正外交の反対論者及び問題史書の輸入者と所持者を苛酷に処罰しながら、みずから満足すべき明史まで編纂したりしたのは、'曲筆'ということが朝鮮にとっていかに深刻な問題であったのかを十分に現している。これはこれを問題にする場合、誰にしても積極的に反対することができない、体制の存立につながる名分の問題であったからである。したがって是正外交が'成功'した際、大感激して中国へ感謝の使臣を派遣するなど大規模の慶祝行事がつづき、特に君王に対する尊号を競争的に上奏したりしたのも当然のことであっただろう。しかし例えば光海君8年の場合、尊号をめぐって5月から8月まで3ヶ月以上にわたって、ほぼ毎日(時には一日にも数回)繰り広げられた政治劇、すなわち尊号の採納を懇請する臣下たちの'忠誠'とこれを繰り返し辞讓する君王の'謙讓之コ'との競争を見ると、'曲筆'是正の外交が全体として如何に'空虚なる政治の浪費'なのかを感ぜざるをえない。このような観念的'政治遊び'を媒介にして、体制の正当性が弁護し続けられてきたことこそ、朝鮮の悲劇であった。

一方このような観念的'政治遊び'は、中国の史書禁輸の政策とも関係あるものであると思われる。そもそも経と史は分離することができないものである。経なき史の世界は典範が不在する'禽獸夷狄'の世界であり、史なき経の世界は発展と変化が停止した世界であるからである。然れば中国が周辺民族に対し経を開放する一方、史への接近を原則的に封鎖した意味は自明であろう。つまり中国からすれば、'中国的典範'に化石のように駆られた周辺民族は'恭順な藩臣'であるばかりで、'威脅的隣國'にはならないだろうと判断したのである。これはあくまでも現実の国際政治であり、決して'理念の遊び'ではなかった。自ら小中華をもって自認し特に明朝の滅亡以後は'唯一の中華'を自負した朝鮮の君臣は、史が拒否されたことをいかに理解したのであろう。'曲筆'をめぐって展開された朝鮮の是正外交は、朝鮮士大夫の歴史意識とともに、中国の史書禁輸の政策に対して全般的な再検討をもうながすものである。

「明清史書の朝鮮'曲筆'と朝鮮の'辨誣'」(『五松李公範教授停年退任紀念東洋史論叢』、1993、原文ハングル)は、群山大学校教授朴永哲氏によって翻訳され、「明・清史書の朝鮮記事に対する朝鮮の是正外交」という論文名で、国際シンポジウムの当日配布された。この日本語訳は、さらに推敲した上で、COE研究報告書(2004年3月予定)に掲載する予定である。

討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

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