第一回国際シンポジウム(第二回研究会)・第二日目

朝鮮人の眼から見た中国の運河風景―崔溥『漂海録』を中心として−

范金民

報告要旨

15世紀末期、朝鮮人崔溥が朝鮮李朝国王成宗の命により著述進呈した『漂海録』は、運河の行程を記録した朝鮮人による明代最初の日記であり、朝鮮人の口を通して、当時の明代社会の政治・経済・文化・交通と生活習慣といった各方面の状況が映し出されており、とりわけ運河の交通とその沿岸の風景の記録は、非常に貴重で豊富な資料と学術価値を備えていると言える。

『漂海録』という書物は、長い間中国の学者にはあまり知られていなかったが、しかし韓国と日本、アメリカなどの学者は、これに比して研究も多く、豊富な成果があり、ここ10年来、中国の学者もこの書物に対して非常に優れた詳細な研究を行ってきた。しかしながらすでにあげられた成果の大部分は、『漂海録』そのものと作者崔溥その人の研究に集中しており、崔溥の前後に運河を通過した人間の記録と比較することはできていないし、また崔溥が通過した地域の地方文献を利用することもできていないし、さらに言えば関係する明代の制度と崔溥が書き記したこととを結びあわせて論ずることもできておらず、これでは崔溥及び彼の『漂海録』に適切な評価を下すことは難しい。そこで『漂海録』が書き残す広大な空間について一歩進んで検討する。

中国側の官僚や日本の朝貢使節に比べて、運河を通過する彼にとって、事柄・土地・人物、すべてのものが新鮮であり、そのため彼にとって目の当たりにしたものはすべてが興味深く、至る所で注意を払い、こまやかに観察し、あれこれ比較して自分の評価を下している場合すらある。崔溥が運河上について書き記した地名は、600以上に達し、その内には駅站が56、鋪が160余、閘が51、逓運所が14、巡検司が15、浅が19、橋梁が60余記されている。これは注目するに値するであろうが、策彦といった朝貢使節が書き残した物や、後世商用路程書物に大きな影響を与えた嘉靖14年の『図相南北南京路程』などは、地名を300ほど記載しており、運河の交通事情の記載についてはかろうじて『漂海録』に比肩しうるが、しかし鋪については全く記録がない。明代後期に中国の商人によって商用目的に編纂された路程書は、ただ日常生活用に作られている。隆慶四年の黄汴『天下水陸路程』は、地名と里程を載せ、駅站と閘の名前を中心に記しており、その数は少なくない。しかし浅はわずかに1箇所、その他にいたっては扱っていない。天啓六年の憺漪子『天下路程図引』は、同様に地名と里程を載せ、駅站と閘の名前だけを記し、その数も崔溥の記載に匹敵し、何箇所か巡司についても記載しているが、しかし具体的な名称は挙げず、舗、逓運所等は全く記載していない。総合的に見て、崔溥の前後、また中国人であると日本人であるとを問わず、当時の人々の運河沿いの交通事情についての当時の人々の記載で、崔溥の『漂海録』ほど詳細かつ具体的なものは、未だ嘗て存在しなかったと言ってよいであろう。

崔溥の『漂海録』は、まず明代中期の運河全体の交通状況を全面的に系統立って反映している。彼は運河上の駅站について地理的分布とその管理の人員について記録し、これらについては、葛振家の研究がすでに言及している。しかし彼は崔溥の記録のみに依拠しており、制度上の規定と駅站の具体的な状況とを結びつけて考察を行っておらず、明代運河の駅站の基本的な実態を明らかにするまでには至っていない。崔溥は基本的には通過した駅の具体的な状況を記載してはいないが、しかし記録されている駅名に基づいて、地方レベルの文献を参照すれば、これらの駅の当時の実態をあらまし知ることができるであろうし、運河上の駅の時代的変遷を知ることもできるであろう。崔溥に前後して、運河を通過した人間で、運河沿いの鋪について記録した者はいない。この点は、『漂海録』のその他の水路路程書の類に比べて顕著な特徴であり、今までの先行研究では全く触れられていない。崔溥の鋪に対する見聞や記録は、完全なものではなく、場所によっては書き落としていることも多い。しかし大体においては運河沿いの急逓鋪設置の基本的状況を映し出しており、それらは各地方レベルの文献に登録されている。崔溥は運河上にある水量を調節し漕運を効果的に行う閘門について詳細に記録した。彼は運河沿いの逓運所を見て記録している。これは基本的に同類の書籍には記載されておらず、現代の研究者の先行研究もまだ言及していない。崔溥は運河沿いの巡検司を見て記録した。彼はまた浅も少なからず記載したが、現在まで研究者の注意を惹いていない。崔溥は洪の迫力ある様とそれを通過したときの驚くべき経験を生々しく記載している。

崔溥は通過した多くの堤塘を記録し、大部分が実際と一致する。彼は運河上の堤・壩・堰・閘といった交通施設を総合的に記述し、明代の運河交通の状況をかなり具体的に描写している。もとより、初めて運河を通過した外国人の個人の手になる著作であり、慌ただしく通り過ぎているので、記載漏れの所があったり、記載に食い違いがあるのは免れがたいし、また中国側の護送役人の話だけを根拠にした地名もあり、確かめようもなく、間違いも犯しやすい。以上のように、崔溥は『漂海録』の中で、行程中絶えず注意を払って運河の交通を観察し、まだ先人が注意しなかったりあるいは、慣れて日常的なあまり記載しなかった、駅站、急逓鋪、浅鋪、逓運所、巡検司及び堤・閘・堰・壩・橋・渡・塘といった多くの運河上の交通施設の内容について記録したし、これらの交通施設には先の人間の記録には見えず、また後の人間の記載にも見えず、崔溥が通過した時期にしか存在しないものがあるのである。これらの内容に基づき、関係ある文献とくに地方レベルの文献の記載と結びつけ、崔溥に前後する同類の記述と対照すれば、明代中期特に15世紀後期の運河交通の基本的状況を解明できるだけでなく、明代の交通特に運河交通の施設がどの程度整備されまた荒廃していたか観察することができる。

崔溥一行は運河を通過し、運河の経済・文化交流と運河沿岸の城鎮の様子を系統的に且つ完全に描写した。これらは崔溥『漂海録』より以前、また以後も非常に長きにわたって同類の著述が記載しなかったところであり、そのためいやまして貴重であり、頗る価値は高い。運河沿いに一路北上して以降は、運河上の各地の城鎮に対する彼の個々の描写には満足がいかないが、これは運河の南北風景を継続的に書き表すというのが彼の全体的な考え方だからである。彼は長江を南北の区切りと見なし、その差違を総合的に論じた。彼は南から北へ運河を通過し、道中江南と江北の差違を比較し、個々の城鎮の差違にすら及び、運河の南北にある市井の様子、住宅の水準、飲食生活、衣服、文化程度、容貌身なり、葬儀の習慣、宗教と信仰、農業工業商業の態度、それらの従事レベル、生活様式、生活用具、水利資源の運用といったものに対して、具体像を論述しており、明代中期の運河沿岸の市井の様子を描いた一幅の絵巻物が生き生きと現在の我々の前に広がるのである。 つまるところ、運河の市井の様子について、その見方は総合的で、系統立っており、統一性を持っており、崔溥『漂海録』はただ時代的に最も古い物であるだけでなく、明代の同類のものの中でも唯一のものであるといえる。明代中期とりわけ15世紀後期における運河沿岸の市井の風景をはっきりと眼前に浮かぶように描写しただけでなく、また運河沿岸における経済文化、社会生産、生活習俗、城鎮の風景といった当時の人々の貴重な資料を提供し、これらは運河文化研究において不可欠の重要な内容なのである。

(この一文は京都大学文学部文部省項目「東アジアの国際秩序と交流の歴史的研究」の為に執筆した。2003年2月)

今回の国際シンポジウムに当たり、范金民教授より書き下ろしの原稿「朝鮮人眼中的中国運河風情―以崔溥《漂海録》為中心」が送られ、研究発表の際に配布された。これはほぼそのままCOE研究報告書(2004年2月予定)に掲載する予定である。

討論内容

(上記 発表要旨につきましては、後日発行のニューズレターにも掲載されます)

第一回国際シンポジウム(第二回研究会)の概要

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