第六回研究会

薛福成の領土意識―滇緬国境画定交渉を中心として―

箱田恵子

発表要旨

清末の洋務思想家、外交官として名高い薛福成が、欧州赴任中に携わった外交交渉の中で、特に先行研究の注目を集めてきたものの一つが滇緬界務交渉である。薛福成が英国と締結した国境条約(1894年)は、曾紀澤によるイリ交渉の成功とならび称されるほどの高い評価を受ける一方で、「失地交渉」との厳しい評価も受けている。なぜこのように正反対の評価が下されるのか。これは、清末以降中国が近代領土国家に変容する過程と密接に関わる問題であろう。薛福成の滇緬界務交渉を通じて、清末中国人の領土意識を探ることができると思われる。

滇緬界務交渉は1886年の「ビルマ・チベット協定」に由来する。清朝の朝貢国であるビルマが英国によって併合されるという新事態を受け、中英間で締結されたのがこの協定である。「ビルマ・チベット協定」では、英国はビルマ人による貢使派遣の継続を認め(第1条)、その代わりに清朝は英国のビルマ統治を容認することが規定された(第2条)。琉球やベトナム、朝鮮に関しては、これら諸国と清朝の宗属関係をめぐり、日本やフランスとの間で激しい対立に至ったのとは対照的である。駐英公使曾紀澤は英国のよるビルマ併合を容認する見返りとしてバモー割譲を提案するなど、積極的な政策を主張したのに対し、本国の総理衙門や李鴻章、西太后を中心とする首脳部は朝貢の継続と言う「虚名」を重視、こうした清朝本国の方針が「虚名を譲って実利をとる」との政策を採る英国側と妥協が可能であった、というのがこれまでの見方である。

しかし、このように、曾紀澤と清朝本国との外交活政策を截然と区別することは、清末中国外交の重要な性格を見逃すことになる。「虚名を譲って実利をとる」との基本方針を提示したハートの協定案は、実はマカートニーや李鴻章の策動に対抗するために作成されたものであった。英国によるビルマ併合が清朝にもたらす重大問題は、内陸通商ルートの確保を企図する英国と直接国境を接することから、中国西南辺境地域へ英国勢力が侵入してくることであった。このような認識は曾紀澤も清朝本国にも共通するものであった。そして、緩衝地帯としてのバモー割譲がマカートニーによって提案され、李鴻章もこれを支持した。マカートニー・李鴻章への対抗上、ハートはバモー割譲要求は名分を重んずる清朝本国の方針ではないとの報告を英国に行い、朝貢継続を認めることで清朝から雲南の対外交易開放という譲歩を求める方策を提案した。このように曾紀澤と清朝本国の方針は異なるとのイメージは、ハートによって強調されたものであった。そしてこのハートの方針を受け継いだオコナーは、朝貢継続容認(虚名)と領土問題での譲歩(実利)を交換条件とする方針を採った。ただし、こうした妥協が清朝との間で成立した背景として、李鴻章の動きを見逃すことはできない。西南辺境を対外交易に開放することによって生じる当該地域の秩序の動揺を危惧する李鴻章は、バモー割譲要求を支持したり、フランス人の警告文を北京に報告したり、様々な方法で英国と境界を接することへの清朝側の警戒感をオコナーに伝えた。その一方で、朝貢継続の容認と引き換えに清側から領土割譲を放棄させたいオコナーに、「バモー割譲要求は曾紀澤の考えである」との言質を与えた。こうして李鴻章とオコナーとの間で、中国西南辺境地域の現状維持を認める妥協を成立させた。「ビルマ・チベット協定」第3条で、国境画定と通商問題に関する交渉が事実上棚上げされた理由はここにある。

中国西南辺境地域の現状維持が優先されたことから棚上げされていた滇緬国境画定問題を再び交渉の俎上に挙げたのが薛福成であった。1890年に駐英公使としてロンドンに赴任した彼は、1886年当時英外務省が曾紀澤に承認した「三端」(@サルウィン川東岸のシャン族の土地の割譲、Aバモーの開港と清朝税関の設置、Bイラワジ川の清英両国公共化)の存在を知り、「ビルマ・チベット協定」がこの「三端」を含まないことから、この「三端」を根拠に英国との交渉を開始することを本国に奏請した。これには当時英国が計画していた鉄道建設予定地にシャン族の土地があたり、早急に「三端」を確定する必要があると考えたためである。1891年初めには、前駐ドイツ公使館員の姚文棟が帰国するに際し、彼に滇緬境界地域の調査を命じた。

しかし、1892年より本格化する英国との実際の国境交渉においては、焦点は「野人山地」の帰属問題に置かれた。バモーと雲南境界の間に存在する「野人山地」は、緩衝地帯として防衛上の意味を有するだけでなく、経済面においても、インド・ビルマ方面への通商拡大のために不可欠なイラワジ川につながる地域であり、その天然資源も注目された。また、ビルマの英兵が調査と称してこの地に派遣され、原住民との間でたびたび衝突事件を起すなど、英国側の侵入に対抗する必要に迫られていたからである。

さらに、このたびの薛福成の国境確定交渉が特異な点は、歴史的な統属関係に根拠を置くのではなく、「野人山地」を国際法上の「無主の地」と規定し、清英両国による分割の対象と看做したことである。英兵による侵出が進んでいたことから、国際法に基づくほうが戦術的に効果的であるとの判断であったのかもしれない。ただ、こうした国際法を根拠とした積極的な「拓地」交渉を展開した背後には、薛福成の国際観、外交思想を認めることができるだろう。たとえば、地理学の重視について。彼の『出使日記続刻』の内容は世界地誌ともいうべきもので、滇緬国境画定交渉時に得た知識も盛り込まれている。彼は西洋の教育や行政が「地理学を以て始基と為し、商務を以て帰宿と為す。故に其の風気は皆善く荒地を尋ねて之を墾闢す」と、当時の殖民地開拓に励む西洋列強の姿を好意的に見る。列強によるアフリカ「開拓」は、「文明化」の事業とみなされた。その一方で、西洋諸国の間で「外交」の果たす役割が増大し、外交官の社会的地位が高いことも彼の注意をひいた。こうした当時の西洋社会の現実の中で、薛福成は、「遠略に勤めず」とのこれまでの清朝の外交方針こそが辺境の喪失、海外華僑の苦境、商務の不振の原因であると批判するに至ったのである。

1880年代において、李鴻章は西南辺境地域の現状維持を優先し、国境問題を棚上げにしたが、そうした外交政策に疑問を持った薛福成功は、国際法に依拠した積極的な「拓地」交渉を行った。しかし、この戦術ゆえに彼は非難されることとなる。薛福成は「野人山地」を「無主の地」として先占の対象とみなしたが、「野人山地」が清朝帰属の土司の地であることを論じた姚文棟の『雲南勘界籌辺記』のもたらす清末知識人への影響のほうが大きかった。守るべき領土として、乾隆期の版図が清末知識人の意識の上でその根拠とされたのである。「野人山地」の帰属をめぐっては、以後1930年代まで英国との間で争われることとなるが、1930年代の研究が、薛福成の外交政策を、「野人山地」における清朝の歴史的統治という事実を知らない「失策」と非難することは、こうした近代中国における領土意識の変化を象徴するものであろう。

討論内容