第六回研究会

中国・チベット文化交流における理解と誤解―明代チベット仏教の中国における流行を中心として―

沈衛栄

発表要旨

明王朝は、異民族の征服王朝を滅ぼし樹立した漢人を主体とする王朝であり、百数十年の異民族支配に終止符を打ったあと、明の朝廷はよく「我が先王の道に式(の)る」のをもって標榜し、中華王朝の支配秩序を回復させることをもって自ら任ずる。明朝の制度について元朝のそれを継承するものが多いとは言え、根本的な見直しをも行なっていた。そのなかでもっとも重要なのは、かつてモンゴル人によって破壊された「夷夏の弁」を再び樹立し、明朝の「華夏の治」としての資格とアイデンティティーを確立したことである。このアイデンティティーより、明の朝廷は、歴代の漢人王朝が実施した伝統な「懷柔遠夷」の政策を持ち出し、これを周辺諸民族との往来・交流の基本原則とした。こうしたことは、かつて大元ウルスが支配した天下一家の局面を変える一方、明の中央王朝と周辺諸民族との関係にも大きな影響を与えた。本報告は、「懷柔遠夷」という理念(discourse)より明王朝・チベット文化交流における理解と誤解について私見を述べさせていただきたい。

漢民族とチベット民族との政治や文化交流の歴史は、唐の時代よりスタートしたとすれば、明の時代に至るまでにはすでに千年以上の歳月を経過したことになる。この二つの異なる文明が初めて出合った唐の時代では、漢民族の文化は全盛期にあったのに対し、チベット(吐蕃)はなお文字さえできていない文明発展の初期段階にあった。この時期に導入した漢民族の文化は、チベット(吐蕃)の政治と文化を発展させる重要なエネルギーであった。その後、チベット(吐蕃)文明の発展は、きらびやかに輝く成果を収めた。チベット(吐蕃)は、漢文化圏周辺の最も強大な軍事勢力と強い影響力を有する文化形式となっていた。チベット(吐蕃)王国の強盛は長く続かなかったが、その文化はかつて支配した漢民族地域で無視することのできない影響を残し、そして漢民族に対し、かつて吸収した漢民族の文化の一部をも返した。敦煌で発見した文書・壁画、およびその他の文物から、チベット仏教の影響が確認される。敦煌で発見したチベット(吐蕃)宗論についての漢文とチベット語で書かれた文書からは、漢民族が信奉する仏教とチベット(インド)仏教との軋轢、および二つの文明の交流を読み取れよう。チベット(吐蕃)の有名な翻訳家・法成がチベット語仏典より漢訳した仏典は、漢文仏典の不足を補いながら、かつまた漢訳仏典の翻訳水準を高めるものでもあった。ランダルマ(Glang darma)による仏教弾圧より、チベット(吐蕃)王国が解体され、チベットの歴史は数世紀にも及ぶ暗黒の時代に入り、漢民族文化との交流を余儀なくされた。ところが、後伝期になって、チベット仏教が復興されると、すぐ東に伝播し、漢民族文化の中心地である中原に進出することになった。西夏(1032〜1227)王朝の朝廷のなかでは中国歴史上はじめてのチベット皇師が誕生した。チベット仏教は西夏王朝の宮廷の内部のみならず、漢民族の民間においても広く伝われるようになった。西夏黒水城遺跡より出土した漢文文書のなかに、チベット仏教の密教瑜伽修習、特にカギュ派の傳世要門《那若六法》(N? ro chos drug)に関する修習儀軌文書の翻訳が含まれている。大元ウルス(1206〜1368)の時代になって、中原地域は異民族によって支配されるようになったが、巨大帝国の出現は従来の民族と社会の秩序を改め、帝国内部における民族間の融和および民族間の交流に対し、かつてないチャンスをつくりだした。チベットは大元ウルスの一部として、モンゴル王朝の直接支配下に入った。政治の面においては、チベット人はモンゴル皇帝により支配されるが、文化の面においてはモンゴル皇帝の教師となっていて、しかもモンゴル皇帝の命令により、「天下の釈教を領す」、つまり仏教の最高指導者の地位を得たのである。チベット仏教サキャ派の法王であるパスパは、フビライにより帝師と任命され、胡僧の身分をもって、漢文化の祖師である孔子と並んで、高い尊崇を受けた。弘法のために中原に来られた司徒・司空と称される彼の弟子は、後を絶たない。この時代より、漢民族地域の仏教は、チベット仏教色を強め、チベット式の仏廟塔像は京師や北方の都市のみならず、旧南宋が支配した華南地域と農村でも多く見られるようになった。異民族支配下の漢民族士大夫は、モンゴル支配者から厚い信頼を受け、モンゴル支配者の手先になって悪事を働くチベット仏教僧侶をひどく恨んだため、元代の漢文文献のなかで書かれているチベット仏教僧侶のイメージはあまりにも悪かった。しかし、チベット仏教僧侶たちは、けっして風を吹かせ雨を降らせる神通力を有する「神僧」や房中術を唆す「妖僧」、および横暴を極める「悪僧」だけではなかった。たとえば、チベット仏教僧侶が、仏典の漢訳に対し大きく貢献したことはよく知られている。今日に伝わる『至元法宝勘同総目』によれば、チベット仏教の僧侶のなかで漢民族仏教とチベット仏教の文化交流に対し、優れた功績を挙げた高僧の存在を確認できる。なお、チベット仏教の密法を修業する漢人より尊崇された『大乘要道密集』は、チベット仏教の密法は人々が想像しているような異端邪説ではない、と証明している。これらの文献は、漢民族仏教とチベット仏教の文化交流の歴史における黄金時代の存在を証明するものである。

元王朝を滅ぼした明王朝は、元王朝の遺産として、かつてモンゴル人が百年にわたって支配してきたチベットを相続し、そして制度の面においてはチベットを支配するシステムをも確立した。しかし、異民族政権を滅ぼし樹立した漢人政権として、明王朝は再び「懷柔遠夷」の政策を打ち出し、それをチベットおよび周辺諸民族との関係を処理する基本原則として、冊封を用いて「夷狄」を制御することによって、国境ないし国家の安全をはかろうとしていた。そのため、明朝時代の中国は、かつてモンゴル人支配下の民族が雑居する天下一家とは異なっていた。明朝士大夫たちは、また「夷夏の弁を厳にす」ということをよく口にするようになった。このように、明朝時代の漢民族とチベット民族との関係は、「懷柔遠夷」の枠組みのなかに限定された。元末明初、チベット仏教僧侶は、元王朝が滅ばされた禍根と見なされたため、明朝初年の歴代皇帝は、常にその教訓を生かすようにと言った。しかし、異民族を懐柔するために、明朝の皇帝はチベット仏教僧侶を排除せず、かえって大いに歓迎し、これを優遇した。そのため、北京の城内と郊外に住んでいるチベット仏教僧侶は数千人にのぼり、チベット仏教の寺院も次から次へと建てられた。チベット仏教僧侶および彼らが伝える教法に対する明朝皇帝の興味は、歴代の皇帝をはるかに超えるものであった。チベット仏教の儀式と舞踊などは、宮廷行事や祭典の一部となり、北京でチベット大蔵経を出版する番経廠もでき、そこから出版されたチベット大蔵経は中原・チベット・モンゴルの各寺院に配布された。明朝永楽年間より出版が開始されたチベット大蔵経北京版は、今日においてもチベット大蔵経のなかでもっとも早く出版され、もっとも信頼できるテキストである。明朝年間、チベット仏教の密法を学び、チベット仏教に興味をもつ漢人が大勢いるため、チベット仏教の法器を扱うのは北京で大儲けができる商売の一つとなった。元朝時代で悪名の高い歓喜仏・双修法などに関するチベット仏教の絵画と儀軌は、中原で姿を消すことなく、かえっていっそう広まっていった。チベット仏教の行事は、北京内外の高官や有力者の家での結婚式や葬式において、人目を引くものとなった。しかし、「懷柔遠夷」や「夷夏の弁を厳にす」という理念(discourse)に基づいて、明朝の明代士大夫は、「以夏変夷」に対して興味を示さぬ一方、「夏変於夷」に対しては絶対容認できなかった。ゆえに、チベット仏教とその僧侶に対し、全力を尽くしてこれを批判した。チベット仏教とその僧侶に対する朝廷の優遇政策は政治的な意図によるものとし、チベット仏教は神通力による方術邪説、皇帝を惑わす「鬼教」や「秘密法」、あるいは仏教の異端である「ラマ教」であると批判する目的は、いずれも漢人社会に対し大きく影響するチベット仏教の宗教と文化としての意義を否定することを通じて、チベットを「化外遠夷」に位置づけようとする、というところにある。

悠久の伝統をもつ漢文化は、さまざまな外来文明を吸収融和し、ないし同化することによって発展してきたものである。漢文化は一種の単一文化ではなく、異文化の影響を受ける多元的復合文化(Intercultur)である。チベット仏教文化は、異文化特有の魅力をもち、中原の漢文化地域に粘り強く浸透しつづける。今日においても、チベット文化は、漢文化を中心とする中華文明を構成する重要な部分である。さまざまな政治的・民族的な要素の影響を受け、歴史上の漢民族とチベット族の文化交流は、いつも直線的かつ良性的なものとは限らず、場合によって曲折的かつ非理性的なものもあった。漢文化と異なるチベット文化は、一定の歴史時期において曲解され、甚だ意図的に醜く描き出された。こうしたことは、漢文化とチベット文化との間にさまざまな誤解を引き起こし、お互いの交流と相互理解に対する支障となった。そのため、こうした誤解や曲解の現象、およびそれらを生んだ歴史的・社会的・文化的な原因を指摘することは、誤解や曲解を解消し、そして漢文化とチベット文化の融和および共栄を推進することができよう。

討論内容