第七回研究会

アン・オルトゥナー

発表要旨

曇陽子(1557-1580)は1585年に文淵閣大学士になった王錫爵の娘である。彼女は幼いときから観音を信仰し、宗教的信仰に対する徴を見せていた。彼女の両親が、太倉にすむ友人の徐景韶と結婚させる準備を始めたとき、彼女は断食をした。両親が心配を口にすると、彼女は神々が食べ物を持ってきてくれるので心配する必要はないと語った。結婚式が行われる前に婚約者が亡くなったとき、彼女は寡婦として生きる許しを請い、許された。彼女は一族の敷地内に宿舎を与えられ、そこで宗教を勉強したり教えたり実践したりする時間と自由を得た。彼女は空想的経験の中で観音と西王母を訪れたが、これについては『曇陽大師伝』に非常に詳しく描写されている。彼女は次第に男女の弟子を魅了するようになった。彼女の教えの要点は恬(質素)と澹(静寂)であって、弟子たちはそれを道の本質だとみなしていた。彼女はまた弟子たちに八つの訓戒を授けたが、それらは16世紀後半のほぼ完全に因習的な中国的道徳であった。明後期の宗教的人物の多くに見られたことだが、彼女は仏教と道教の経典にふけり、不死の達成を目指した。1580年9月9日、10万人の聴衆を前に、彼女は真昼間に昇天し、不死を達成した。ここでは、1580年に曇陽子が昇天してから、1590年に王世貞がなくなるまでの10年間、曇陽子の死後の歴史を追うことにする。

王錫爵は曇陽子の宗教的進展を書き留めた日記をつけていた。彼はその日記を曇陽子に与えたが、彼女はしばらくしてそれを燃やしてしまった。彼女の昇天の16日後、曇陽子は同時に夢の中で父親と王世貞の前に現れた。王錫爵は、人々が学ぶことができるように曇陽子の伝記を書きたい、そして王世貞に書いてもらおうと思う、と言うと、曇陽子はそれを認めた。曇陽子の権威は、彼女の人間としての寿命を越え、彼女は破壊されたテキストの再構築とその流通を認めた。伝記は後代の人々に真の道を教えることを約束し、権威ある伝記としてそれは曇陽子の名声を傷つける噂(すでに1581年に問題になっていた)を鎮めることへの期待を示していた。

王世貞の『曇陽大師伝』は王錫爵との共同制作の産物であったが、王錫爵自身も別の伝記を書いたようだ。曇陽子の兄である王衡や屠隆も伝記を書いた。王世貞は屠隆の伝記に対して不快感を表明した。「君は彼女のことを不注意に話してはいけないし、ましてや書くのはなおさらだ」と。王世貞は屠隆に、暫くの間、伝記を秘密にしておき、曇陽子がその文章を承認するなんらかの徴候を待つよう言った。王世貞は当時、曇陽子の伝記作成にとりかかっていたが、それを屠隆に知らせなかった。それはすばらしい物語であった。誰しも最初にそれを語りたいと思わずにいられなかったのだ。その後暫くして、王は屠の伝記と和解し、彼自身の作品により積極的になった。屠隆が先に伝記を完成させ、王はそれに対し、ある一節にだけ反対を表明し、それを修正すれば伝記は問題ないと書いた。初期の手紙で彼は屠が曇陽子についての文章を書いているという事実そのものに反対していたことからすると、大きな変化であった。曇陽子が王の伝記を認定した夢を、屠の伝記をも同様に認定したものと解釈したのだろう。屠隆の伝記は後世に残らなかったようである。おそらくそれは王世貞の彼に対する勝利がどれほど完全であったかを示している。

王世貞は伝記の創作を、(曇陽子を非難する)噂と闘い、彼女の権威を証明する手段とみなしていた。しかしながら、実際には伝記自体が論争の焦点となった。しかし論争が加熱する中にあってさえ、彼は伝記を支持した。王世貞の伝記は極めて急速に流布したようである。その速さこそ、弾劾をおこなった牛惟炳をとりわけ警戒させた側面であった。

王世貞の全集には数千通の手紙が含まれているが、うち百通ぐらいが曇陽子に関係する。曇陽子に言及する手紙は、少なくとも42人の人に宛てられている。当然のことながら、最も多いのは王錫爵にあてたもの(17通)で、次が屠隆(9通)である。興味深いことに、王世貞が年をとるにつれて、弟子たることやその意味を熟考する手紙がでてくる。また、曇陽子に対して宛てた手紙が一通ある。以下、いくつかの重要な手紙において、王世貞が弟子であることを語る仕方を再構築してみよう。

曇陽子が不死を獲得した後、王世貞と王錫爵はともに道に入った。彼らは曇陽の寺院に引きこもって生活し、肉食をやめ、文章を書くのをやめ、家族との接触もたちきった。彼らの兄弟の世懋と鼎爵もまた家にいて、道教の修養に身を捧げた。鼎爵は亡くなり、他の三人は様々な官位についた。三年もたたないうちに、寺院から四人の王の痕跡がなくなった。錫爵は大学士になり、衡は科挙に合格した。彼らの世俗的成功は宗教的修養を不可能にしたのである。

王世貞自身は隠遁生活をけっして熱心には語らなかった。彼は曇陽の寺院で六年間過したと書いているが、寺院が当時の彼の唯一の居住地ではなかった。寺院を訪れた人が記した詩は、それが活気に満ちた社交的な隠遁であったことを暗示している。

王世貞が語った曇陽子の物語を見ていこう。「彼女は文字をほとんど識別することができないが、突然、二つの戒律を完全に理解した。彼女は「教えの源は二元的ではない。学者がそれを分けてしまったのだ」としばしば言った。」テキストや言葉の力(と伝達の力)に対する幻滅は王世貞にとっていささか異常であった。王は書物や学識を使って、曇陽子の宗教的経験を理解した。ある手紙の中で、彼が彼女を理解するのに役立ったテキスト――例えば、Tripitikaの曇鸞の伝、茅山道教の伝説、西王母の伝記など――だけでなく、彼女が評価していたテキストについても議論している。

王世貞は手紙の中で曇陽子の道徳的教えを繰り返し述べた。呉明卿への手紙では、道教の性的修養に対する禁止を何度も述べ、他の何通かの手紙では、「八戒」に言及している。王世貞は何度か世俗的生活を去る決意を書き記している。「私は家族を見捨て、子供を手放した。私はひょうたんと法衣を手に取り、仏教と道教の経典を何冊かもってその寺院に入った。私はここで年をとり、死ぬだろう。」王世貞は宗教的修養と禁欲の代償を知っていたが、その代償は彼自身の生活に置き換えられていた。「曇陽子は瞑想と悟りを「門に入る」手段とした。彼女は恬と澹と欲望の停止を教えの中心とした。私は苦海の真っ只中にいて、私をそこから逃れさせてくれる指示を受け取った。それゆえに私は家族や名声を放棄し、人間関係におけるあらゆるよいものから自らを切り離したのである。」この手紙は弟子であることの実際的利益のいくつかを示している。王世貞は眼病に苦しめられ、王衡への手紙の中で、彼女が残した処方箋を記している。治療はもちろん道教の実践者の一般的活動の一部であった。

手紙について最も興味深いことの一つは、曇陽子の再来の問題に関する議論である。『曇陽大師伝』は、彼女が本当に再来するであろうと示唆している。彼女が王世貞に与えた最後の指示の中で、彼女は言う:私はこれからしばらく、あなたの前から去ろうとしている。実のところ、私は本当にあなたにいとまごいをするつもりはない。もしあなたと私の父がお互いに助け合って、大いなる道を追求し、私を見捨てないのならば、私はあなたと私の父に背を向け、私だけが道を獲得するようなことはないことを誓います。

この約束は弟子たちにとって大いなる慰めとともに心配の源であった。彼女が再来するという約束に加えて、ここで注意すべきは、二人の男が協力するようにという彼女の指示である。――道は一つのコミュニティである。王世貞と王錫爵は同時に同じ夢を見た。曇陽子が現れ、もし彼らが道の実践に精進していれば、彼女は五年以内に再来すると語ったのである。その約束は脅迫を伴っていた。もし彼ら自身が世界によって汚染されたならば、彼女が戻ってこられないだけでなく、彼らを罰するであろう。曇陽子の再来にたいする道徳的心配と、自分たちは彼女のかなり高い基準に添っていないという不安は、全ての弟子が共有していたものであった。曇陽子はその死後も、追随者にとっては現実の存在であり続けた。

再来しないという脅威と結びついていた再来の約束は、1580年以降の弟子の中に見える多くの宗教的不安をまぎれもなく促進した。王世貞は彼の宗教的追求において何ら進歩が見られない不安を表明していた。彼は先生が再びやってきて彼を指導してくれる日を待ちこがれていたが、まだ世俗の事柄をあきらめる準備ができていなかった。甲申の歳(1584)の元日、王世貞は曇陽子に手紙をかき、その中で彼と他の弟子たちが彼女の教えに従うことの難しさを書き留めた。彼は弟子たちはいまだに苦海の中にはまりこんでいると記す。彼は彼女に家族の最新のニュースをもたらした。彼は自分の息子が挙人の試験に合格したこと、彼の祖父が亡くなったことを話した。彼はつづけて祖父の死にさいして父が打ちひしがれたことについて長々と話した。彼はまた、彼女の追随者たちに対してもともとの誓いを守らせまいとする家族の圧力を語った。さらに、彼女が甲申の歳、すなわち1584年の元日に再来すると約束したことに言及した。

別の手紙では、「私は世俗の世界から離れることを許すような性質を持ち合わせていない。私の先生はこのことを知っており、私を哀れんだ」という。王世貞は曇陽子について書いた詩のなかで、宗教的失敗に対する不安を表明している。1590年の彼の死の前年に書かれた手紙の中で、王世貞は曇陽子を崇拝し始めて以来、天と地の偉大さを理解するようになったといっている。しかし彼は続けて、彼と弟子たちは世俗との紐帯を捨てきれていないので、彼女は彼らに偉大な道を示していないと述べている。宗教的ビジョンの失敗は彼ら自身の失敗であった。

屠隆は城隍神に祭文を書き、城隍神に曇陽子を冒涜したある人物を懲らしめるよう嘆願した。私は、祭文は屠隆の生き生きとした宗教的想像力と、宗教的想像のなかで人間と神々が作用しあう仕方を明らかにしている点で重要だと考える。彼によれば、曇陽子は現世における道徳的力であり、誹謗を超越していた。冒涜は道徳性に対する宗教的制裁の構造そのものを掘り崩してしまう。神々(と曇陽子)への崇拝がなければ、社会の道徳的性格全体が崩壊してしまうだろう。もし冒涜者が罰せられなければ、「一般人は仏陀や不死は存在しないと考え、道徳的修養は冗談であると信じることになるだろう」と屠は繰り返し述べている。

我々は曇陽子についての文章を見ることを通して、王世貞について何を学んだのだろうか。まず第一に、彼女の弟子であることは、彼の知的複雑さに別の次元を加えたと考える。私は弟子であることの真剣さを十分に納得し、これらの手紙が疑いなくそのことを示していると考える。第二に、王世貞が曇陽子を位置づける主要な伝統の一つ、つまり茅山道教のそれは、大いにテキストに依拠した思弁的伝統であり、若い女性がしばしば男性の神々と男性との媒介役をつとめることで、神聖なテキストの伝達者になる、ということを指摘するのは重要なことである。茅山道教は、王世貞の古典テキストのレパートリーの一部であった。しかしもちろん、曇陽子の経験は単にテキスト的経験ではなかった。それは生きられた経験であった。人々が、自らが経験したことを理解するために読んだことのあるテキストを利用するのは、私にとってそれほど驚くべきことではない。

三番目に、私は、禁欲と道徳的真剣さについて何かを学んだと考える。別のところで私は曇陽子が弟子たちに訴えたものの一部は、彼女のラディカルな他者性であると書いたことがある。彼女は男性でもなく、官僚でもなく、中年でもなかった。彼女は現世を放棄した。彼女は不死を獲得するためには、先ず最初に現世を放棄しなければならないことをきわめて明瞭に示した。王世貞の手紙は、彼が苦海から自由になりたいと望んでいながら、世俗的紐帯を断ち切ることができなかったことを示している。1580年代の十年間が過ぎ行くにつれ、彼は彼女が彼に期待したであろうことに添うことができないことにますます苦しんでいた。私は失敗は二つの部分からなると考える。一方でそれは道徳的罪であるが、もう一方では世俗的愛着をあきらめることができないという、単純ではっきりとした失敗である。これらの文章は王世貞が自身を世界の中にどのように位置づけたかを我々に教えてくれる。自分の子供を見捨てるという時点まで禁欲を望みながらも、いまだ完全なる禁欲をやり遂げることができなかったのである。この問題をめぐる彼の感性は複雑で微妙であり、手紙にみえる曖昧さのほとんどは『曇陽大師伝』に潜在的に見られるが、手紙の中で我々はそれらが王世貞の日常生活の中で表にあらわれているのをみることができるのである。

討論内容