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発表概要

2004年

11月27日(土) 研究会

於:京都大学文学部新館第五講義室 13:30〜17:30

調査報告:

概要紹介

奥書院は金刀比羅宮金光院歴代院主の私的居住空間として使われてきた建物で、創 建は万治年間(1658‐1661年)と伝えられている。建物の中で障壁画が描かれている のは、上段の間、春の間、菖蒲の間及び柳の間の4部屋である。上段の間には伊藤若 冲によって描かれたとされる「花丸図」が残っている。制作年代は明和2年(1764 年)、若冲49歳の時で、依頼者は当時の金光院別当宥存と考えられている。「花丸 図」はおよそ縦30cm横40cmの長方形をひとつの単位とし、延べ総数201の花々 を、いずれも濃彩の着色画で折枝画風に描いている。形態の把握の仕方や、ほとんど すべての葉を病班や虫食い穴をともなって描く点などに、若冲の特徴が窺えるが、同 時期に制作された「動植綵絵」と比べると、緊迫感や力強さに欠ける点も見逃せな い。春の間には「春野稚松図」、菖蒲の間には「水辺花鳥図」、柳の間には「水辺柳 樹白鷺図」が岸派の祖岸駒の息子岸岱によって描かれている。これら3部屋はもとも と若冲の障壁画で飾られていたが、おそらく痛みの激しいこれら障壁画を新しくする べく岸岱に依頼がきたのではないかと推測されている。なお上段の間西面床の間の天 袋には4面の小襖があり表裏に水墨山水図が描かれている。表には狩野松栄の「直 信」印が見られるが真筆とは断定されていない。裏面は中川馬嶺という小豆島出身の 画家によって天保15年(1844年)に描かれたことが確認されている。

概要紹介

冷泉為恭は、江戸後期における復古思潮の隆盛などを背景に伝統的大和絵の復興を目指した復古大和絵派の画家として知られている。そして、金刀比羅宮には、為恭筆の襖絵や絵馬、いくつかの模本があることが従来から注目されていたが、この度の大遷座祭に伴い開催された展覧会では、その一部が展示されるとともに、展覧会図録として編集された『冷泉為恭とその周辺―模本と復古やまと絵』によって、金刀比羅宮に所蔵される、為恭筆の襖絵や絵馬、天井画の他、為恭関係の模本187本全てが紹介され、為恭研究に大きな示唆を与えるものとなった。発表では特に、「法然上人絵伝」と「中殿御会図」の模本を取り上げ、為恭の絵巻物学習のあり方について考察した。
「法然上人絵伝」については、絵具の剥落や原本の下描きの跡までを写し取るような現状をなるべく忠実に写したものから、墨を基調として輪郭線を写すことを重視したものなど、模写のあり方も様々であり、為恭の絵巻研究の多様性が窺えた。また、京狩野家に伝わった粉本を写したものが多く存在しているのも大きな特徴である。一方で「中殿御会図」は、現存しない狩野永納の模本を写しており、「中殿御会図」の模本系統を考える上で興味深い資料となっている。また、これも京狩野家に伝わった模本であることが注目される。為恭が、京狩野家の宗家に近い家系に生まれながら(為恭は京狩野家第九代当主である狩野永岳の甥である)、やまと絵に没頭するようになることについては、為恭の出身とその後の展開が逆接的に捉えられることが多いが、格式ある狩野家の家系に生まれたからこそ、良質の絵巻模本を幼少から目にすることができ、伝統的やまと絵の模写に精力を傾けることとなったのではないだろうか。ある意味執着的とも言える、莫大な絵巻物の模写は、同時期の江戸狩野の晴川院にも見られ、為恭の画業は、狩野家出身だからこそ、と言える部分も多いと思われる。
ところで、為恭は模本ばかりでなく、オリジナルの作品も残しているのだが、その特徴は、故実にできるだけ基づいた、王朝趣味あふれる繊細な描写であり、このような描写に絵巻物研究や有職故実研究の成果が見られる。特に、前景・中景・後景とつながりが希薄なまま画面を層のように重ねる構図などは、伝統的やまと絵の特徴がよく表れている。ただ、絵巻だけでなく、縦長の掛け軸にもこの構図を取り入れているため、やや画面が間延びしている印象もあり、また描かれる人物なども豊麗ながら生気に乏しい感がある。先述したように、為恭の絵巻学習に京狩野の模本も重要な役割を果たしていることから、為恭にもどこか狩野派の粉本主義とどこか通じる部分が見られる。ただ、王朝世界に対する純粋な憧れや勤勉な古画学習を背景とした為恭作品の精緻な衣裳文様や典雅な人物表現、雅やかな世界描写は他の追随を許さないものがあると言えよう。

研究発表:

概要紹介

中国や朝鮮半島からもたらされる大陸文化の影響のもとで、我が国が独自の仏教文化を形成するにいたった背景には、日本固有の文化的土壌や伝統的な価値観、あるいはそれぞれの時代の社会情勢などを前提とした、ある明確な意図に基づく受容文化の取捨選択が行われていた、という状況が想定される。こうした大陸文化受容の実態を明らかにするため、発表者は、中国歴代王朝の都として中国文化形成の中枢を担い、また、我が国の遣唐使が最終の目的地とした長安、すなわち現在の陝西省西安市およびその周辺地域に現存する仏像彫刻に焦点をあて、長安を都として栄えた西魏、北周、隋、唐の各時代に、どのような造像様式が行われていたのか、そしてそれらが長安をキーステーションとして伝播し、日本を含めた各地域の造像にどのような影響を及ぼしたのか、という問題について研究を進めている。
しかし、長安の周辺には、北魏の都平城における雲岡石窟、あるいは洛陽遷都後の龍門石窟などのように、年代の比較的明らかな大型の石窟寺院が存在せず、西安碑林博物館などに所蔵されるごく限られた作品の検討を通して、当時の中央様式ともいうべき長安造像のありようをイメージするには、自ずから限界あった。
近年にいたり、陝西省域内に遺存する中小規模の石窟群が我々外国人にも開放され、また、県や区レベルの博物館、文物管理所等に保管される単体石刻、造像碑についても、次第に情報が公にされ、長安における造像様式の変遷をより的確に把握するための環境が整いつつある。発表者は、現在、それら造像作例について体系的な調査を行い、長安造像の枠組みを再構築する試みを進めているが、本発表では、そうした調査の過程で見出された興味深い作例のひとつとして、西安市の北に隣接する陽県の太壼寺大殿に安置される北周・保定二年(562)銘の釈迦如来立像を紹介する。本像は、総高3メートルに及ぶ石灰岩製の丸彫り像で、台座方形基壇部に北周・保定二年造立の旨を伝える題記が陰刻されている。北周時代における長安造像の水準を示す大作として位置づけられる本像の分析を通して、その様式的特徴を明らかにするとともに、それがのちの隋、唐時代の長安造像にどのように継承されていくのか、という問題についても言及したい。

概要紹介

「清水寺縁起絵巻」(東京国立博物館蔵、以下、東博本と略称)は、永正十四年から十七年(一五一七〜二〇)頃に制作された。『宣胤卿記』『実隆公記』等の記録によれば、詞書は中御門宣胤や三条西実隆らが記し、絵は時の絵所預・土佐光信が描いている。本発表では、東博本の制作事情、注文主等を考察するとともに、室町時代における絵巻と足利将軍との関係の中に位置づけを試みたい。
清水寺の草創縁起は、藤原明衡(九八九?〜一〇六六)による「清水寺縁起」(『続群書類従』二四所収)、鎌倉中期までに成立したとされる「清水寺縁起」(『続群書類従』二六下所収)などがあり、後者から派生した「清水寺仮名縁起草稿」(金剛寺蔵)には数段分の絵が含まれている。東博本は『続群書類従』二六下所収本をもとに『今昔物語』等から観音霊験譚を増補して成立したと考えられる。東博本は三巻三十三段からなり、上巻は大和国子島寺の賢心(後の延鎮)が山城国愛宕郡の山中に坂上田村麻呂の助力を得て清水寺を建立にいたる過程、延暦十四年(七九五)、征夷大将軍となった田村麻呂の蝦夷征討を描く。中巻は田村麻呂の戦勝と凱旋、そして延暦十七年(七九八)の清水寺改築、そして田村麻呂の死までを描く。下巻は清水寺の観音によるさまざまな霊験譚を連ねる。
各巻の巻末に古筆了伴(一七九〇〜一八五三)が記した詞書筆者の極書によれば、上巻第一段から第六段が近衛尚通、第七段から第十一段が中御門宣胤、中巻第一段から第六段が三条実香、第七段から第十一段が甘露寺元長、下巻第一段から第五段が三条西実隆、第六段から第十一段と奥書が足利義政(一四三六〜九〇)の染筆とされる。このうち足利義政を除く五名の筆者については筆跡の比較から確認されているが、義政については筆跡や活躍年代が異なる。また、東博本に附属する筆者目録に記される、義政が本絵巻を清水寺に奉納したとする説も同様に否定される。下巻後半の詞書筆者については、すでに『大日本史料』第九篇之六において興福寺一乗院良誉とする見解が示されており、『守光公記』永正十四年(一五一七)四月十九日条に良誉が本絵巻詞書に後柏原天皇の宸筆を請うている事実とも併せ、近年の研究においても支持されている。島谷弘幸氏は近衛尚通と良誉が異母兄弟で両者が絵巻の企画者であるという推定に基づき、近衛家と足利将軍家との近しい関係から本絵巻の寄進者が足利義稙(一四六六〜一五二三)ではないかと指摘している。
本絵巻の制作された時期の状況を詳しく検討すると、尚通・良誉は姻戚・養子関係だけでなく興福寺で発生した飛礫事件の善処などにおいて義稙との密着を深めており、絵巻制作の契機として義稙の存在は大きかったと予想される。ここで東博本の内容を見ると、全段のほぼ半分は坂上田村麻呂の逸話で占められており、特に征夷大将軍としての蝦夷征討に多くの紙数が費やされている。義稙は義政の弟義視の子として生まれ、義政の子義尚没後、延徳二年(一四九〇)第十代将軍に擁立される。前将軍義尚の遺志を受け、義稙は近江六角氏征討や河内畠山氏の内紛など積極的に軍事介入し武力による政権基盤の安定と将軍権威の向上を目指した。ところが明応二年(一四九三)、細川政元は義稙に叛旗を翻し足利義澄を第十一代将軍に擁立する。このクーデターは明応の政変と称され臣下による将軍廃立劇は戦国の幕開けを告げる出来事であった。その後、義稙は北陸に落ち朝倉氏などの庇護を受け、さらに周防山口の大内氏を頼る。そして細川氏の内紛に乗じて大内義興に擁されて上洛、永正五年(一五〇八)将軍位に復し、細川高国を管領とした。東博本成立当時の義稙は大内氏・細川氏連合政権に推戴される存在であったが、一方で独自の権力強化にも取り組みしばしば両氏と対立、大永元年(一五二一)には将軍を廃され、のち阿波に没する。このような義稙をめぐる状況を、近い姻戚関係で結ばれた近衛家からみれば、伝説の将軍である田村麻呂と重ね、その政権の安定を祈念することは十分にありえたであろう。
歴代の足利将軍は絵巻の制作と蒐集に積極的であった。それはおそらく後白河院の蓮華王院宝蔵の絵巻コレクションがひとつの規範になっていたであろう。初代尊氏は自らを源頼朝に重ねる「泰衡征伐絵」を制作、第三代義満は積極的なコレクション充実を目指し、第四代義持は父義満の追善を目的とした「融通念仏縁起絵巻」(清凉寺蔵)の、第八代義政も父義教追善目的の「融通念仏縁起絵巻」(禅林寺蔵)の制作に関与している。後に、天文元年(一五三二)、第十二代義晴は「桑実寺縁起絵巻」(桑実寺蔵)を制作させた。このような室町期を通しての将軍家と絵巻の関係の中に東博本「清水寺縁起絵巻」も位置づけることが可能ではなかろうか。

11月13日(土) 日本カント協会第29回学会 カント没後200年記念学会

於:京都大学文学部新館第三講義室

公開講演(10:00〜12:00)

概要紹介

数学一般を「構成」による知として捉えたカントの数学論。しかし「構成」とは何か。また、そのような数学観は現代でも有効なのか。本発表では、近世の数学史・数学思想史の文脈の中で、カント的「構成」概念の持つ意味を探り、カント数学論の独自性を明らかにするとともに、その「構成」概念の現代的翻訳を試み、21世紀初頭における現代数学のさまざまな流れの中で、「構成的知」とされるにふさわしい研究動向を同定したい。
近代の数学史の流れの中で、本発表が注目するのは「総合幾何の成立」である。「分析 / 総合」という対概念は、ユークリッド『原論』に対する古代の注釈に端を発する。しかし、ヴィエト、デカルトによる分析(解析)幾何学の成立以降、その意味は変容し、「分析」幾何は代数的方法を用いる幾何を、「総合」幾何は専ら作図的方法を用いる幾何を、それぞれ指すようになった。だが、「分析幾何が近代の発明であるのに対し、総合幾何は古代以来の姿を保った学問である」という理解は、厳密に言えば正しくない。近代的意味での総合幾何、即ち、(全面的な「生成定義」の採用、作図題における作図道具の指定などによって)「作図的方法を貫徹させた幾何学」もまた、近代の産物なのである。本発表では、スピノザ、サッケリ、ヴォルフらのテキストを通じて、この「幾何学における作図的方法の貫徹」=「総合幾何の成立」の過程を辿り、その延長線上に、カントの「構成的数学観」を位置づけてみたい。
他方、本発表では、現代数学の数あるキーワードの中でも、「可視化」と「アルゴリズム」という術語に着目して、「構成」概念の一つの現代的翻訳が試みられる。このような翻訳の下、1990年代の中頃から台頭した「実験数学」において見られるような、アルゴリズム的手続きに則って遂行され、コンピューターによって三次元空間内に視覚化されるような思考の形態こそが、「構成的知」の一つの現代的なありようであると認定される。カントの「構成」概念における「直観的な(intuitiv)側面」の現代的表現は、直観主義の祖・ブラウワーの言う、言語・記号といったコミュニケーション手段一般とは峻別された私的「直観」よりも、コンピューター・グラフィックスによって物象化され、公共的に共有されうる視覚イメージにおいてこそ見出されるべきなのである。

概要紹介

私の研究の基本的問題関心は、リクール、レヴィナス、デリダ等の現代フランス哲学を主たる発想源としながら、現代というきわめて特異な思想的状況、すなわち哲学と宗教の双方が根底から問い直される状況において、ありうべき「宗教哲学」の姿を探るということである。このような「現代の宗教哲学」において、カントの体系自体が、近代における宗教哲学の成立に際して果たしたような決定的な役割を担いうると考えることは難しいであろう。だがそれは、カント哲学の基本精神、フランス語で言うところのkantismeが、この種の思索にとって重要性をもたないことを意味するわけではない。例えば、レヴィナスがkantismeなる語を口にする数少ない事例を見ると、我の自己現前を他者の「人質」でしかない絶対に受動的な自己へと転じさせ、神の存在を「存在に汚されない神」に転じさせるという、彼の思想の要となる地点において、この語が発せられていることが分かる。まさに現代の宗教哲学の「現代」性に呼応するこのような転回に、一体いかなる意味でカントの名を冠することができるのであろうか。
この問題を考究するために、本発表では、「フランス反省哲学」において独特の仕方で受け継がれてきたkantismeの有りように焦点を当てる。というのも、メーヌ=ド=ビラン的な土壌へのカント哲学の移植を起点とするこの思潮は、カントの体系への忠実よりもむしろカントの精神を異様なまでに凝縮して自らに生かすという点において特徴的であって、それによって「我」の問いと「神」の問いを鮮明に浮き上がらせるものだからである。カントのこのような摂取は、とりわけこの伝統の最後の代表者であるナベールにおいて極点に達する。根元悪を中心に据えてカントの体系全体を反転的に受けとり直すかのようなナベールの特異な思索は、「我」と「神」の問いというところから見た場合、カントから何を引きついだことになるのか。この点を明らかにすることによって、「現代の宗教哲学」ならではのカントの受けとり方を探るための手がかりとしてみたい。

公開シンポジウム(13:00〜16:00)

「京都学派の伝統とカント」

【提題】

概要紹介

かつて何度か指摘したが(『西田幾多郎撰集』第6巻「解説、西田幾多郎と芸術」等)、西田の思想は常に、「日本・東洋哲学と西洋哲学の磁場」、「東西言語の磁場」の中を動いている。「知」と「行為」の成り立つ基本的条件を解明すること、このことを西田は、自らが学んだ東洋思想と西洋思想とをつき合わせながら模索した。西田はこのとき、自ら親しんでいた東洋思想の哲学的意義を理論的に語りうるために西洋思想を参照し、また、新しく接した西洋思想を自らの問題として引き受けるために、それを東洋の伝統的な漢字を組み合わせた、新しい日本語的漢語から成る哲学用語に置き直して、理解しようとした。西田の思想においては、東洋思想は西洋的に、西洋思想は東洋的に組み替えられ、またそのような特殊な言語の枠組みが生み出す連想作用が西田の思想を動かしている。「西田哲学」とは、このような異種交配的(ハイブリッドな)思考運動が、その都度の姿をとったものであり、したがって、それは、特定の思想家や、特定の哲学、宗教に還元しうるものでも、またそこからすべて説明しうるものでもない。カント哲学も、このようなハイブリッドな思考運動の中で、その都度の東西言語の磁場のうちに取り入れられ、磁場に応じてその受容の視点は変化している。このような可変的な思想の中で、カント哲学は西田をはじめとする京都学派においてどのように受け取られ、またその特色はどのようになっているのか、さらにはこのようなカント理解は、その後現在に至るまでの京都(あるいは日本)におけるカント研究にどのように作用しているのか、この点に関して考えてみたい。

概要紹介

西洋哲学が近代日本に移入されて以来、西田幾多郎とともに独創的思想を展開した田辺元がカントとどのように出会い、カント受容が彼の思想の発展にどのような仕方で寄与したかについて考えてみる。田辺のカント受容の全貌を紹介することはできないが、「種の論理」の形成までの彼の思想発展にカント受容が果たした役割に重点を置き、両者の思想的対話の可能性に光を当ててみたい。
田辺が哲学研究を自らの道として歩み始めたのは、ドイツで新カント派が全盛の時代であり、我が国でもその影響は多大であった。カントそのものの研究はかなり以前から始まっていたが、田辺に対するカントの影響は、当初新カント派を通してのものである。とはいえ田辺自身の思索の展開とともにカント受容の形はその様相を変えていき、新カント派的解釈の枠組みを超えていく。いずれにせよ、田辺の思想展開とカント受容との密接な結びつきがどのようなものであったのかは、田辺自身の思想を理解するために欠かすことができない。
私自身の見通しをあらかじめ述べておくと、田辺の思想的展開の時期とカント解釈の変化とは必ずしも重なっておらず、一方では、彼のカント理解には一貫したものが見いだされるが、他方、カント解釈を主軸に据える初期から、ヘーゲル弁証法との対決やハイデッガーの影響を被った時期に移っていくにつれて、カント理解のための思想的枠組みもかなり変化していく。特に「種の論理」をはじめとする田辺の独自の思想が展開されていくにともない、カント哲学は表面的には主題とはならず、田辺の関心から外れていく印象を与えるが、それでもやはりカントはつねに田辺の思想展開をリードする役割、少なくとも思想発展の次の時期を準備する役割を果たしていた。

概要紹介

野田又夫先生は西洋近現代哲学を、それもその全般にわたって深く究められ、戦後の京都哲学を代表される存在であった。そのお仕事は、とりわけ、戦前からの数々の先駆的で指導的なデカルト研究によって知られる。しかし、先生とカント哲学との関係は、デカルト哲学とのそれに劣らず深い。先生が、初めに、卒業論文で取り扱われたのは「カントの実践哲学」であり、われわれの学生時代には、『世界の名著』シリーズで『デカルト』とともに『カント』の編集を担当され、そこでカントの思想形成とその哲学全般について長い解説論文を書かれるとともに、『人倫の形而上学の基礎づけ』を自ら訳された。先生は、ご自分の『著作集W巻』の「あとがき」で、「原理的な問題ではデカルトとともにカントにいつも教えを乞うて来た」と書かれている。本報告では、野田又夫先生とカント哲学の関わりを顧みて、先生がカントの哲学をどう受けとめられどう重視されてきたかということを、先生の論述に従って確認することを試みたい。

【司会】 福谷茂(京都大学・哲学史)

公開特別講演(16:00〜17:00)

概要紹介

カントとアウグスティヌス
魂の本質をめぐる問題 純粋理性の誤謬推理
T.カントにおける魂をめぐる問題
1.「我々の内」「我々の外」をめぐる問題
「外に行くな、汝の内に還れ。内的人間の内に真理は宿っている」(アウグスティヌス『真の宗教について』)
 フッサールやハイデッガーが超越の問題として考えた問題でもある
A. カントにおいて、第四の誤謬推理(様相(現実性)に関わる問題)(第1版)との関連で取り上げられている。
カントは、外的世界は間接的で不確実だが、内的世界は確実であるという考えを否定する。内と外は同じ資格(表象のIdentitat)のもとに立つ。
「我々の外」という表現の多様性
1. 超越論的対象 2.経験的に外的対象
空間が我々の表象であるとすれば、「この空間中に何らか我々の外なるもの(超越論的意味において)が与えられるなどということは不可能である」(A375)
その意味ではすべては「私の内」にある(超越論的意味)
しかしここでは、内的直観が外的直観に比してより確実という優位性はなくなる。
「私の外」という表現獲、超越論的な「私の内」に対してそれの外なる空間的広がりが考えられるなら、そのような外なる空間はない
B. 第二版では、観念論論駁として追加されたものにおいて論じられる。常住なもの(das Beharrliche)は内的直観にはなく、我々は外的直観に依存して対象を規定しうるのみ。
外的直観の優位性 空間によって対象を規定せざるをえない。
外から固有に区別された「内的魂の世界」はない。
C. 超越論的意味での「私の内」を総合的に統一する超越論的統覚
超越論的対象に対応する超越論的主体
2.カントにおけるコギトの位置付け
カテゴリーの超越論的演繹、ことに第二版における論究
cogito ergo sumは、すべて考える主体は存在するという意味ではない
(そうであるなら考える主体の必然的存在性がいわれていることになる)。そうではなく「考えつつ存在する」という漠然とした知覚(unbestimmte Wahrnehmung)を意味する。「それは現象でもなく、物自体(本質体)でもなく、事実存在する或るものとして、「私は考える」という命題において示される実在」(B423)
「現象の世界と本性界が触れ合う接触点」(P.F.Strawson)
U. アウグスティヌスにおける魂の問題
1. アウグスティヌスの時間把握「魂の広がりdestentio animi」
内的主観的時間なのか?
カントの場合と同じように、アウグスティヌスにおいても世界全体を含むような「内」が考えられているのではないか。
2. 『三一神論』における精神の三一構造の分析
A. 十巻の精神の本質論
この思想がデカルトのコギトの思想と親近であるというアルノーの指摘
あらゆる疑いにも抗しうる自己知が精神の本質である
se nosse (恒常的潜在的自己知)とse cogitare(意識的自己知)の区別
精神の三一性 memoria, intelligentia, voluntas
存在して以来常にあるもの
B. 十四巻でのcogitoについてのさらなる探求
存在して以来精神の根底にある三一性と現実的意識との関係が問題
精神の根底に常に在る三一性こそ神の似像だとすると、それは記憶のみに属するのであって、人が意識的にcogitoする時、はじめてintellligentia, voluntas の三一性が生じるのではないか。cogito と cogito 以前の記憶、存在の関係が問題
アウグスティヌスはcogito を恒常的な知へ還帰させる働きとみる
しかしcogitoは現在の一時的な知ではなく、根源的な知 intelligentiaが貫かれ、現前していると洞察している。
現在的なcogitoにおいて、人間の最後的場を自覚している。

7月16日(金) 研究会

於:京都大学文学部新館第七講義室 14:00〜17:00

研究発表:

概要紹介

「知識とは何か」を探究するプラトンの対話篇『テアイテトス』では、その問いに対する最初の返答として「知識とは感覚である」という定義が提案される。テアイテトスによるこの第一定義は、プロタゴラスによる相対主義テシス、また、ヘラクレイトスの流転説と複雑に結びついた形で提出される。したがって、テアイテトス、プロタゴラス、ヘラクレイトスのテシスがどのような相互関係にあるのかという問いは、『テアイテトス』第一部を解釈する上での中心的な論争点となっている。本稿は、このような論争を念頭におきつつ、「知識=感覚」定義が最終的に直接論駁されている議論(最終的論駁)の意味を考察する。では、第一部後半の構造を簡単に確認しておこう。
ソクラテスの問題提起
ソクラテスは、あらゆる人の判断は(判断者本人にとって)正しいとするプロタゴラス説に対して様々な批判を行う一方で、「だが、それぞれの人が今現在持っている感覚は不可謬であり、その点においてテアイテトスの定義は正しいのではないか?」と問う。
ヘラクレイトス説(流転説)の論駁
万物の完全な流転は、言語の不可能性という不合理を導く。ここでひとまず、流転説だけでなく、それに基づくとされるテアイテトスの定義が論駁される。
「知識=感覚」定義の論駁(最終的論駁)
テアイテトスの定義が改めて検討される。魂は個々の感覚を通じて固有の対象を把握する。我々は目を通じて色を、耳を通じて音を把握する。だが、目を通じて音を、耳を通じて色を把握することは出来ない。すると、その音と色の両方について何かを考えようとする場合、どちらか一方の感覚を通じてそれらを把握することは出来ない。ところで、音と色の両方について我々がまず第一に考えることは、それらが両方とも「ある」ということである。このような、諸感覚の対象をまたがる「共通のもの」(「あること」など)を、個々の感覚を通じては捉えることが出来ない。魂がこれら「共通のもの」を捉えることが出来るのは、個々の感覚を通じてではなく、感覚を統合する魂自身によってである。ところで、感覚は「あること」に到達できない以上、真理には到達できない。また、真理に到達できない以上、知識にも到達できない。こうして、感覚は知識に到ることができず、「知識=感覚」の定義は論駁される。
この「最終的論駁」の意味についてはこれまでに様々な解釈が提出されてきた。だが、それらの解釈は主にこの最終的論駁の箇所の詳細なテクスト分析に基づいたものであった。本稿はより広い文脈から、その直前で語られるヘラクレイトス説に対する応答としての、つまり、流転説により失われた世界の安定と言語の可能性を回復する試みとしての、「最終的論駁」の意義を考察する。

概要紹介

カントの『純粋理性批判』において、「感性的直観」という言葉は自明の概念であるかのように用いられているが、しかし哲学史的に見るならば、カント以前には「直観」は必ずしも、「感覚」の能力である感性と直ちに結びつくような認識様態ではなかった。ではなぜ両者は結び付けられたのか。なぜ、感性の認識様態は単なる「感覚」であってはならないのか。本発表ではこのような問題意識のもとに、「直観」という概念に込められたカントの洞察を探ることによって、その感性との結びつきが決して自明の前提ではなく、「感性の弁護」(Apologie der Sinnlichkeit) というプログラムの内実を成す重要な成果であった、ということの解明が目指された。
この目的のために本発表では、単なる「感覚」にも見出される〈直接性〉や〈個体性〉という特徴だけによって「直観」概念を捉えようとする従来の解釈を見直し、直観のTotum性、つまり〈部分に先行しそれを可能にする全体〉という性質に注目した。直観がTotumという本質のものとして感性に属するということは、悟性の認識様態が合成・総合であることと対を成し、この組み合わせの意義は、二つの異なる「量」概念の区別において明らかになる。すなわち、悟性の捉える「量」が常に部分の合成にもとづく非連続量であるのに対し、直観が捉えるのは、そのいかなる部分も最小ではありえないような連続量である。連続量とは、部分に先立つ全体を前提にしなければならず、この全体性を与えているのが、直観のTotum性である。
次に、このTotumとしての直観がカテゴリーと共に認識の可能性の制約を成すということから、無際限性、連続性、「汎通的合法則的連関」を本質とするカントの「自然」概念が帰結する。それは〈無際限に分割・合成の可能な規則的統一体〉であり、そして我々の認識対象である現象は、常にこのような統一体の部分としてのみ可能である。つまり現象は、現象として成り立つ限り常に、他に対する空間的・時間的関係、因果関係、相互作用によって結び付けられており、そのような規則的連関を捨象してしまうならば、我々に対する対象としては成り立ちえないことになる。
以上のことから、カントにおける直観が単に個体性の直接的把握そのものを意味するのではなく、部分としての現象を可能にする全体的連関の、その全体性を支えるTotumとして、対象の可能性の制約であることが理解される。そして合成・総合によっては捉えられないこのTotum性のゆえに、直観は感性に帰属するのである。こうして直観が帰されることによって感性は、ア・ポステリオリな単なる感覚の能力、つまり判明性において悟性に劣る能力としてみなされるのではなく、可能性の制約を求めるという超越論的探求の視点から、悟性に並ぶ認識のア・プリオリな能力として位置づけられることになる。ここに、『純粋理性批判』における「感性の弁護」が果たされる。

4月28日(水) 研究会

於:京都大学文学部新館第三演習室 18:30〜21:00

研究発表:

概要紹介

オランダ絵画の黄金時代がいままさに始まろうとするころ、北部ネーデルラントにおける芸術の中心地ハールレムでは、ホルツィウスやファン・マンデルらが活発な活動を展開していた。彼らは単に制作活動を行なうだけでなく、自分たちの芸術のアイデンティティをも模索し、それを著作や作品に反映させていた。彼らの活動は、オランダ絵画の規範形成を考える上で無視できないものだといえる。
本発表では、そうしたホルツィウスの作品のなかでも、最も戦略性が高いとみなされてきた傑作のひとつ、版画連作『聖母マリア伝』をとりあげて考察する。この版画の際立った特徴は、その模倣の対象が、「自然」や特定の「先行作例」などではなく、先人たちの「様式」あるいは「手法(handelinghe)」だったことだ。連作をなす6点のうちの2点は、デューラーおよびルーカス・ファン・レイデンという北方の先行規範の手法を模したもので、そのことはファン・マンデル『絵画の書』の「北方の画人伝」部分にも明確に記されている。従来、残る4点については、バロッチやラファエロなど、イタリアの規範的画家のそれを模倣したものだという説が唱えられてきた。しかしこれら4点に関しては、ファン・マンデルも特定の芸術家を名指ししておらず、研究者によって見解が異なるのが現状である。
そこで、まずはこれまでに挙げられてきたバロッチ、ラファエロ、パルミジャニーノ、バッサーノ、ズッカリなどが、この版画連作で模倣された先行者として適切であるかどうか、彼らの作品を検討する。さらに、近年メリオンやレーフランクなどによって唱えられた見解、即ち、ここで模倣されているのは「イタリアの画家」というよりもむしろ「北方の版画家」の手法であるという可能性についても、より詳しく考察をおこなう。その際、本発表でとくに着目するのが、ファン・マンデルの『絵画の書』の「画人伝」部分である。「ホルツィウス伝」のなかで《聖母マリア伝》に関する記述を見ると、そこではこの連作が「絵画」に基づくものであるとは確かに一言も述べられていない。出てくるのは、版画にも絵画にも適用可能な「制作手法(handelinghe)」という言葉だけである。また、バロッチやバッサーノらの伝記部分を検討すると、彼らの絵画作品に対する高い評価とともに、それらを北方で知ることができるのは、コルトやサデラーといった名高い版画家たちの手による複製版画のおかげであることが明記されているのだ。またラファエロ伝をヴァザーリのそれと比較検討してみても、ファン・マンデルが北方の版画に抱いていた尊敬の念がうかがえる。
さらに複製版画に関するホルツィウスの態度が垣間見える箇所として、「ムツィアーノ伝」をみる。加えて、他人の手法を自家薬籠中のものとして他人の目を欺く先例として、ティツィアーノの元で学び、その手法を我が物とした「ファン・カルカー伝」などを詳しく検討する。その結果、ホルツィウスは複数の様式を操れる「手の技術」を誇ると同時に、他人の構想に盲従して制作することに対するジレンマを抱えていたのではないかと推察される。ホルツィウスは、北方のお家芸である「複製版画」制作に自らの「着想」を取り入れることによって、自らの力量を遺憾なく発揮して見せた。そしてファン・マンデルは、そのことをあらためて我々に教えてくれるのである。

概要紹介

ピエール・アンリ・ド・ヴァランシエンヌ(1750―1819)は、18世紀後半から19世紀初めのフランス風景画を考えるとき、ジョゼフ・ヴェルネやユベール・ロベールのやや後の世代の代表として位置づけることのできる画家である。近年、上述の時期に野外で制作された風景画をテーマとする展覧会が多く開催され、研究も増えているが、その中で必ず言及される重要な画家である。最近2003年には、フランスにおいてヴァランシエンヌ展が行われたことも記憶に新しい。
彼の作品に関してとりわけ注目されるのは、完成作における非常な保守性と、準備段階としてのオイルスケッチに見られる自由さの際立った対照である。前者についていえば、彼がフランスにおける新古典主義的風景画の大立者であったことが想起されるであろう。とはいえ、彼が17世紀の古典主義的風景画の復興のみを目指していたわけではないことは、その理想とした画家を見ても明らかである。彼は、プッサンだけでなく、ジョゼフ・ヴェルネもあげるが、その理由は、自然の模倣再現の素晴らしさなのである。いわゆる「理想的自然」を現出させるべき風景画に、見たままをなるべく忠実に再現しようとする意志が滑り込んでいる。この事実は、当該時期の風景画をめぐる状況をまさに反映したものとして注目できるだろう。
野外での制作が盛んになるとともに、画家個人の視覚・その場での感興が重視されるようになる。しかし、画家たちの眼そのものは先例を学習することによって形成される。それは伝統的な風景画学習が、巨匠の版画をそっくり模写して構図法を学ぶ段階を踏むことからも明らかであろう。結果として、先例の規範から意識的に脱却しようとする動きと、強い伝統の拘束とが拮抗することになるのである。
本発表では、ヴァランシエンヌの1800年の著作『芸術家のための実用的遠近法提要、ならびに、絵画、特に風景画についての省察と学生への忠告』を検討することによって、風景画制作において、何が規範となるべきか、揺らいでいた当時の状況の一端を観察したい。フランス革命以降、経済的困窮に陥っていたヴァランシエンヌは、遠近法などを個人的に教授することで糊口をしのいでいたようであるが、この教則本は、その成果の一つである。 この著作は、新古典主義的な潮流の中で風景画の地位向上を目指す戦略的性格をも持ち合わせているため、伝統的な価値観に貫かれている。しかしながら同時に、自然を見たとおりに再現しようとするとはどういうことなのか、という問題に対する反省の萌芽も随所に観察され、興味深く、また読解に注意を要するテキストである。
そもそも、伝統的には遠近法教育を担当したのは、建築家・建築画家であったことを思えば、風景画家が遠近法を扱うこと自体が、注目すべきことである。遠近法、そしてそれを支える幾何学は、風景画家が伝統的構図を乗り越えて独自の空間を構築するための規範となったのではないか、とも予想されるだろう。確かに、ヴァランシエンヌの教則本を検討した結果、幾何学の正しさを根拠として、遠近法の重要性を述べる箇所も散見された。しかし、全体の論理としては、幾何学よりもむしろ、画家の主観が重要視されていることが分かった。その他、本テキストにおける遠近法記述の特徴などを指摘し、当該時期の風景画における規範の揺れの一端を明らかにした。

4月13日(火) 講演会

於:京大会館 14:00〜17:30

講演:

概要紹介

プラトンは『ゴルギアス』の結末部分において、はじめて終末論的なミュートスを提示する。彼は多数の対話篇において、こうした終末論にかかわるものをはじめとして、さまざまなミュートスを取り入れている。しかしそれらは、大きな関心を引きつけてはきたものの、対話篇の解釈に援用されることは、これまでほとんどなかったに等しい。
しかし、すでに別の機会に『パイドン』について見たように、ミュートスと対話篇本体とは密接な呼応関係にある。『ゴルギアス』の場合にも、ミュートス全体に、それに先行する対話内容と呼応したモチーフや言表が満ちあふれており、この `intertextuality'が最後の2ページで頂点に達するような構造をなしている。実は、すでに前半部においても、欲望がハデスにおける穴の開いた容器のミュートスになぞらえられている個所(492a ミ 493d)で、ソクラテスはすでにはっきりと、死後の懲罰のミュートスがこの世の生における道徳的真理のアレゴリーの役割を果たしている、とする考えを提示している。とすれば、結末におけるミュートスにおいても、それと同様のことを意図していたとしても、何ら驚くにあたらないであろう。むしろ、驚くべきは、この意図が近現代の『ゴルギアス』解釈において取り上げられたことがない、ということのほうである。
『ゴルギアス』においては、末尾のミュートスに描かれている、ゼウスの御代とクロノスの御代における裁きのあり方の違い、ゼウスの御代になってからの裁きによる死後の魂の運命が、先行する対話本体と密接に関連しているのが認められるし、さらにソクラテスは、このミュートスの内実がいかに先行議論の帰結と呼応するものであるかを強調し、結論として、カリクレスにたいしてあやまった人生観を改め、災悪を免れるよう説き勧めているのである。
このような仕方で認められる`intertextuality'を通じて、ソクラテスのエレンコス(吟味論駁)の意義が明確化され、また彼が「自分一人だけが本当の意味で正しい<政治家>である」と主張することの意味も明らかとなる。彼は、それによって、実際に行われている政治も弁論術もまったく無価値であると見なしているのであり、それに哲学を対置させることによって、政治なるものの根本的改革を要請しているのではなく、むしろ(少なくともここでは)それのもつ意義を否定しているのである。

3月1日(月) 研究会

於:京都大学文学部新館第六講義室 13:00〜15:30

研究発表:

概要紹介

去年の9月17日から26日までアメリカに滞在し、ニューヨーク、ボストン、ワシントンの主要な美術館を訪ね、琳派作品を中心に調査してきた。メトロポリタン美術館では、尾形光琳の「八橋図屏風」や池田弧邨の「三十六歌仙図屏風」、ボストン美術館では光琳の「松島図屏風」、渡辺始興の「農夫図屏風」や酒井抱一の「花魁図」、フリア・ギャラリーでは俵屋宗達の「松島図屏風」、光琳の「群鶴図屏風」、抱一の「三十六歌仙図屏風」などを見ることができた。現在、画家の違いによって、同一画題の作品がどのように変化するのかについて興味をもっているのだが、今回の調査旅行の中では、宗達・光琳の「松島図屏風」と、抱一・弧邨の「三十六歌仙図屏風」の、二組の同一画題作品を見ることができた。そこで発表では、この「松島」と「三十六歌仙」の二つの画題を通じて、琳派において同一画題がどのように継承されたのか、その特徴について考察した。
血縁関係などを基本とした確固たる流派継承を図らなかった琳派の画家にとって、同じ画題の作品を描き継ぐことは、自らが琳派の流れを継ぐ者であることを証明するのに、最も有効な手立ての一つであった。宗達の「松島図屏風」が、宗達周辺や光琳周辺で数多く制作されたのは、華やかな大作であり、他派にあまり似た作例のないこの作品が、宗達の流れを継承したことを誇示するのに相応しい作品であったということが考えられるだろう。しかしモチーフは継承されるものの、その内容にはかなり差異が認めら、作者の違いによって描かれる世界が多様に変化した。「松島図屏風」は、原画となった宗達作品の画題が曖昧だからこそ、より各自の解釈の独創性を許容する琳派の自由さが窺える作例となっていると言えよう。
「松島図屏風」が宗達や光琳周辺で数多く制作された一方で、抱一やその弟子たちは、光琳の「松島図屏風」を知っていたのにも関わらず、この画題を積極的に受け継がなかった。この画題を陸奥の松島と認識した抱一にとっては、あまり伝統的深みがないように感じたのではないかというのが、現在のところの私の考えである。
「松島図屏風」とは反対に、光琳の「三十六歌仙図屏風」は、抱一ら江戸琳派に繰り返し模写された。この光琳の「三十六歌仙図屏風」は、デフォルメされた形の歌仙たちが笑ったりしかめ面したりした表情を見せるそれまでになかったユーモラスな作品で、江戸後期における三十六歌仙の諧謔的受容の風潮に合うだけでなく、業兼本や琳派の始祖的存在であった光悦の描く三十六歌仙絵からも影響を受けており、伝統的性格も持つものであった。三十六人の歌仙が一同に集まって描かれるという構成の独創性、親近感を感じさせる歌仙の表現などに見られる時代の風潮に合った流行性、そして大和絵の伝統、琳派の伝統をしっかりと継承している伝統性。この三つの要素を併せ持つ光琳の「三十六歌仙図屏風」は、抱一らにとって、時代の要請に応え、かつ琳派継承をも誇示できる格好の画題であったと考えられる。

概要紹介

従来の彫刻史研究では、摂関期に和様彫刻が大成され、その大成者の名を取った定朝様の彫刻様式が平安後期を通じて支配的であったが、平安末期頃に奈良地方から萌芽した新たな新様式が慶派仏師の台頭と共に新しい時代様式となり、鎌倉時代は慶派仏師が仏師界の中心になっていったというように筋立てで語られてきた。さらに言えば、慶派仏師の遺品は、興福寺や東大寺などに卓越した造形性をみせるものが数多く残るが、その一方京都を中心に活躍していた前代以来の院派や円派といったいわゆる京都仏師の遺品は鎌倉時代に入るとその存在を確認することさえかなり困難になってくる。そして、こうした事情もあってか、鎌倉時代の彫刻史、あるいはより正確に言えば鎌倉前期の彫刻史は慶派の彫刻史として語られてきた観もあり、そして彼等の代表的な遺品が奈良に偏在していることともあって、その語りを素直に受け取れば、造仏の中心がまるで奈良にあったかのようにさえ思えてくるのである。
しかしながら、鎌倉彫刻史のその後の展開を考えると、逆に鎌倉前期、ことに鎌倉再興造営事業が進められた鎌倉初期の南都の造仏の場、さらにはそこから生み出され、現在も我々の前に呈示される慶派仏師達の造形こそ、きわめて異様で、また例外的なものであったとも言える。ところで、南都の再興造仏の問題を考えると、この場で行われた再興造仏においても造形上の拠るべき規範が存在していたかと思われるが、それは鎌倉前半頃までの京都においてはなおも規範として大きな影響を有していた定朝様ではなく、奈良時代、あるいは平安初期の仏像様式、さらにはその背後にある「唐風」の美術であると思われる。慶派仏師は、それを再解釈して新しい時代様式に造り上げていったのではなかろうか。規範とすべき様式が、かなり時を隔てた時代のものであったことも仏師達の造形上の解釈に幅を許したとも考えられる。あるいは、平安末期から南都周辺で芽生えた新たな様式の胎動も、こうした規範の問題と関わるかもしれない。
この問題を解く新た手掛かりとして、本発表では、11世紀後半頃に制作された陝西省陝西省延安市鐘山石窟3号窟の老比丘形像の作風と、13世紀初頭の運慶一門の手になる興福寺北円堂無著・世親像のそれとが一見類似していることに注目したい。西夏国境に近い、北宋辺境の肖像彫刻と、日本の、それも時代が大きく異なる肖像の作風に類似性が何故起こってきたのか。両者の背後にある「唐風」美術の影響といった視点から、少し論じてみたい。

2003年

12月21日(日) 研究会「西洋古代哲学と現代」

京大会館 13:30〜17:00

概要紹介

本報告では、まず古代哲学と現代の応用倫理学の関係を考え、プルタルコスの哲 学に応用倫理学の原型を見出せることを指摘し、ソクラテスの対話的哲学の復活 として応用倫理学を位置づけ、次に古代哲学と現実的問題を関係づける場合の解 釈学的問題点を反省したうえで、最後に具体的な実践例としてプラトンの技術論 を工学(技術者)倫理に応用した例などを取り上げ、現代的問題を理解する知的 源泉としての古代哲学の可能性を考察した。

ヒポクラテスの『誓い』には、安楽死禁止と見なされる一節がある。そこには、身体 のピュシスに基づくという原点に医者が立ち返り、医の領分を明確にすべきとする倫 理的態度がみられる。この点を踏まえて、現代医療における安楽死問題に対して、 『誓い』の倫理観がどのような示唆を持っているかを報告した。

現代の深刻な問題である環境破壊に対する哲学的な解決を探る試みとして近年注目さ れている環境倫理学における自然の価値の問題を扱う議論を検討しつつ、プラトンが 後期思想において類比的な議論を哲学的な課題の中心に据えていたことを明らかにす ることによって、現代における環境問題へのプラトン的アプローチを試みた。

プラトン『国家』の詩人批判は、詩や悲劇という当時の主流メディアの仕組みと効果 を批判的に分析し警鐘を鳴らしたものである。その意味で、近年注目されつつあるメ ディア教育(メディア・リテラシー)の必要性を西洋思想史上最も早期に唱えたもの といえる。その分析は映像メディアが主流の今日でも有意義である。

12月13日(土) 研究会

於:京都大学文学部新館第六講義室 16:30〜18:00

研究発表:

概要紹介

本発表は、絶対の秘仏として有名な東大寺二月堂本尊、十一面観音立像(大観音)に付属していた銅造光背の図像の意味について、新たな解釈を加えようとするものである。
同光背は乗雲の如来像などを刻した頭光部と、表に千手観音像を中心に諸仏菩薩や種々の眷属、裏に大仏蓮弁としばしば比較される世界図を刻した身光部(現状では裏面の図様は拓本によってのみ知られる)からなり、現状では寛文7年(1667)の火災に際して焼け出された断片が、復元的に配列されている。制作年代については天平勝宝(749-757)末年近くに鋳成のうえ線刻が施された大仏蓮弁よりやや遅れる、天平宝字(757-765)頃とする見解がほぼ定説として流布している(この点に関しては二月堂の創建、東大寺における十一面悔過の始修時期などの諸問題をより詳しく検討して、改めてこれらと整合する解釈を示す必要があるが、少なくとも8世紀第三四半期の様式を示す作例であることは、疑いの余地がない)。見事な線刻技術、身光の表裏全面にわたって展開される壮大な画面の構成、いずれをとっても本光背は、大観音が奈良朝創建期の東大寺を代表する仏像の一つであったことを確証するとともに、複雑な図様のうちに盛られたゆたかな内容は、奈良朝の仏教美術を考えようとする際、実に多様な手がかりを与えてくれる。しかしながら、その意味を包括的・体系的に解読する作業は、今日に至るまで行われていない。
発表者は先に刊行された論考(「東大寺二月堂本尊光背の『千手観音五十二仏図』−奈良朝仏教における観音信仰と『華厳経』入法界品解釈の接点」、科研報告書『日本上代における仏像の荘厳』奈良国立博物館、2003)において、本光背身光表面の図像に関して、(1)数ある千手観音関係の経軌のうち、『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』(いわゆる『千手経』、永徽〜顕慶年間・650〜661頃漢訳)を主たる典拠としており、同経に説く観音菩薩の「神変」−大悲心陀羅尼なる陀羅尼の力で千手千眼を具備し、光明を放ち、千仏を化現させる−の瞬間を表現している。(2)千手観音像と、その上方と左右を区画して並列的に配されるほぼ同形同大の五十二体の仏坐像は一連の図像をなしており、それが『千手経』と『華厳経』「入法界品」(善財童子が善知識を歴参し、さとりへの階梯をのぼっていく物語)の内容を複合的に表現している。(3)「千手観音五十二菩薩図」は、善財童子の歴参の過程、すなわちさとりに至るまでの菩薩の修行段階を五十三とする、中国華厳宗の大成者である法蔵以降の華厳教学に基づき、礼拝の対象である大観音(観音は善財童子の歴参した善知識の一人)が示す神変によって、出会うべき全ての善知識への歴参の完遂が五十二仏の化現による見仏体験によって達成され、自他が完全なるさとりに到達するという願望を表現している蓋然性が高い。という新解釈を提示した。
本発表ではこの成果をふまえ、同光背の全体像を、(a)その他のモチーフに込められた意味を解明する。(b)従来の研究において、法蔵に代表される正統的な華厳教学と抵触する内容を含んでいると考えられがちであった裏面の世界図(及び、類似する内容を含む大仏蓮弁の図像)が、実は華厳教学の体系と整合するものであることを示すことによって把握し、その東大寺史上、さらには東アジア仏教史上に占める位置を見極めるための手がかりをつかみたい。

シンポジウム「Academica ―学の制度と規範」

パネリスト:

フィロンは、紀元一世紀前半、当時の一大国際都市アレキサンドリアのユダヤ人名望家の出自であり、『聖書』(旧約)のギリシア哲学、ことにプラトンの援用による解釈を中心とする膨大な著作が伝存し、その思想が後代のクリスト教教父やいわゆるネオ・プラトニズムの展開に多大な影響を及ぼしたことで知られている。だが彼の生没年代は不明であり、ただ『フラックスへの反論』及び『ガイウスへの使節』の二著から、38年夏アレクサンドリアで勃発したギリシア系住民によるユダヤ人迫害(ポグロム)に際し、自民族の立場を弁護するため、同地のユダヤ人代表の一人として、ローマ皇帝ガイウスに謁見したことが、彼の生涯における歴史的事実として知られているだけである。彼は、著作の中で、「モーセの使徒」と自認し、割礼を受け、「祈りの家」(プロセーケ=シュナゴグ)において篤信のユダヤ教徒としての教育を受ける一方、他面「ギュムナシオン」に出入りし、ギリシア的教育(encyclios paideia)を身につけており、これが『聖書』の解釈にあたって活用されたといってよい。
このような彼の二面性をめぐって、近代の研究者は、彼に対し、<Philo Judaeus>、<Philo Al exandrinus>の二様の呼び方をし、彼をそのいずれの側に位置づけるべきかをめぐって論争をくり返してきた。たしかに、彼と同様の環境と教育を受けたであろう一族の中には、甥のティベリウス・ユリウス・アレクサンデルのように、規範としてのユダヤ教を棄教し、上級ローマ騎士としてユダヤ総督となり、同胞ユダヤ人を弾圧した人物もいる。しかし、フィロンの場合、いわゆるヘレニズム(ギリシア的教養)とユダヤ教の伝統との関係は、対立・異他性において、ディコトミーにおいて把握することは必ずしも妥当ではない。例えば彼は、ある著作の中ではプラトンに対し「最も神聖な人」とモーセに匹敵する形容をしながら、『創世記』解釈(『世界の創造』)では、『ティマイオス』の大幅な援用にもかかわらず、プラトンの名前はあげず、「古人の一人」として暗示するに止まり、屈折した態度をみせている。本発表では、フィロンのヘレニズムに対する観点で、例えば大カトにみられるローマ人のそれとの類似を指摘し、彼の思想を中心としつつ、権力の側としてのローマ帝国(政治)、ヘレニズム(思想・文化)、ユダヤ教(宗教)の関係の一局面を分析してみたい。

〔付 記:なお、フィロンについては、『西洋古典叢書』所収『フィロン フラックスへの反論、ガイウスへの使節』に付された秦剛平氏の解説、もしくは、拙著『謎の古代都市アレクサンドリア』(講談社現代新書)第五章「哲学都市アレクサンドリア」、拙稿「ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ思想」(岩波講座『東洋思想』第1巻所収)のいずれかを参看いただければ幸いである。〕

美術史において、アカデミー、アカデミズムといった問題は、今日でも死語でない。それは、今日なお再生産され続けてやまない、いわゆるモダニスト・アカデミズムといった現象を反芻するだけでも明らかであろう。
西洋美術史において、こうした現象の原基と見なされてきた、公的制度としての美術アカデミーは、16世紀後半に誕生し、その後、西洋各地に設立されるに至ったものであった。なかんずく後代の重要なモデルと目されたのは、フィレンツェ、ローマ、パリなどのそれである。ここでの報告は、とくに前近代イタリアの事例を通して、美術アカデミーの孕む問題を、あえて現代に通じるマクロな観点を意識しつつ「前景化」してみることにある。
前近代のアカデミー教育の立場は、無意識のうちに、二、三の前提を内包している。第一に、芸術の基礎は言語習得同様、教示かつ学習しうるという観念、また芸術を――この時代の芸術は歴史画を主としたことを想起すれば明らかなように――観者を説得する視覚のコミュニケーション行為と見なしているということ、さらに言えば、芸術にはすぐれた手本となるものがありうるという意識である。こうした発想を、近代以降の主観主義的芸術論に対して、あえて芸術の主知主義的な理念モデルと呼ぶなら、それはすでに15世紀イタリア人文主義において芽生えていたものであった。
報告では、フィレンツェ素描アカデミーと、サン・ルカ・アカデミーについて、人文主義芸術論の制度的帰結ともいえる、「実践」と「経験」の知性化としてのティーチング・システムの実態を、前近代アカデミーにおける幾何学、遠近法、解剖学といった芸術のスキエンツィア、あるいは裸体素描研究に焦点を合わせて、史資料上、ほぼ確実視される事実を中心に、ごく簡単に紹介・報告する。
さらに芸術をめぐる規範の境界、そして才能を制度内部に吸収しうる制度の開放性の問題をめぐって、フィレンツェ、ローマのコントラストを意識しつつ、その現実を検討してみたい。中でも、もっとも興味深い現象は、所与の芸術家集団において、芸術を枠付けし、境界付ける観念としてのカノン意識であって、前近代ローマのアカデミーにおいて17世紀後半以降、言い換えれば、一般にジョヴァン・ピエトロ・ベッローリたちに代表される、イデアルなローマ古典主義の言説空間の確立期と想定されてきたサン・ルカ・アカデミーで実践されたコンクールの実態や、18世紀初頭のルドヴィコ・ダヴィッドの芸術論草稿『芸術への愛』の美術アカデミー批判などを通して、前近代における美術アカデミーの意義と限界を再考してみる。

狩野派は我が国において15世紀末に狩野正信が雪舟伝来の中国の画法を修得し、工房を持ったことに始まるもので、幕府に仕える御用絵師として実に500年の長きにわたって存在していた。
中国画法を正統的に理解し、再現した開祖正信から、それを展開させ拡大化させていったのが元信、それを更に武士の気風に合う、雄大な構成と和画法としての完成を見せたのが永徳である。その後、幽玄さを追求する描法に傾倒していった探幽によって、様々な狩野派の描法がルール化され、狩野家のお家流として定型化し、認識されるようになった。
ここで注目すべき事は、中国画を直接学んだ雪舟から、次にその雪舟画を通して中国画を学習した正信、更に正信の作品を手本として育った元信、それを継いで結果的に漢画とはニュアンスの異なる独自の画法を成立させた永徳と、代を追うに従って漢画描法そのものからは離れ、和様化が進み、漢画法というよりは狩野家の描法となっている点である。 狩野家では「学画」と「質画」という考え方を持っており、学画とは、学んで伝えることのできるもの、質画とは、その絵師個人の才能によって描かれる絵、という考え方である。つまり、学画は代々伝えていき、もとの型、描法、技法を何代もの先の絵師に伝えることができるというものである。ここでの利点は、一代では完成不可能な、長い年月を掛けてこそ完成できた高度な描法や技法が、初めて絵を学ぶ絵師にも再現できるようになるということである。
また、個人の才能に関わらず、学画は誰であっても一定のレベルに到達することのできるよう教育法も確立されていた。既に理論化も完成されているもの、手本とするものがあり、学ぶ技術があり、修得すべきルールがあって、習い覚える、それが「学画」の学習形態である。 一方の「質画」は、個人の才能に頼るものであるので、感性の鈍い人には描けるものではなく、いわば、天才の作画方法として、唯一無二、その本人にしか描けないという制作方法になる。これであれば、伝統や規範に捕らわれることなく、どのような時代のルールや価値観にも縛られることなく、突然高度なものを出現させることもできる。しかし一方、そのように個人の感性に関わるものであるだけに、ルール化のしようもなく、教育方法の理論化の方法もなく、他者がそれを継ぐことは不可能なものである。
アカデミカを考察するとき、この伝統流派狩野派の発展、展開、継承、分裂という様々な状況は、実に多くのことを私共に示唆してくれる。時代や社会の変化、あるいは分野の違いを越えて、アカデミックであることの大本にプラトンの設立したアカデメイアを意識することで、その知的営みの持つ知識や理論の蓄積の力と、新しい発想、展開の力との二つの異なる方向性のエネルギーに注目して論考していきたい。

近世哲学史において、いわば在野で通したデカルト、スピノザ、あるいはロック、ヒュームの時代とは違って、カント以降は哲学のアカデミズム化という事態が顕著になる。アカデミズムとしての哲学の成立はなにによって可能となり、またそれによってなにがおこったのだろうか。この報告においては、「伝統の発明(invention of tradition )」(ホブズボウム)という概念を手がかりにして、18世紀末から19世紀はじめに生起した哲学の自己再定義とその制度化という事態に焦点を合わせることを試みたい。
カントは哲学そのものにおいてだけではなく、哲学史記述においてもまた転回点を画した。カントの哲学史的知識のソースはピェール・ベイルとブルッカーだと見られており、カントもまた批判前期においてはブルッカーの哲学史を引き継いだ哲学史観を持っていた。具体的にはブルッカーは哲学という概念を幅広く取り、ギリシャ世界以前のまた以外の地域・民族・時代に亘って哲学の存在を認めている。ところが、1781年以降批判哲学の形成と同時に、カントは哲学を排他的にギリシャに誕生して批判哲学に直結しているものとして捉えるようになるのである。これは哲学そのものに「歴史」のディメンジョンが内面化されたことを意味するとともに、きわめて特殊な哲学史像が批判哲学の制覇とともに自明化することでもあった。こうして19世紀初頭ドイツで確立された、古代ギリシャに発して北部ヨーロッパで完成される哲学という描像が出来上がり、ドイツ観念論においては広く世界史の全体像にまで拡大されたのである。この強力な描像そのものが20世紀中葉にいたるまでその後の哲学史自体の展開の原動力の一つとさえされてきたといえよう。ここに「伝統の発明」の哲学版を見ることができるのではないか。
そして19世紀初頭は独仏の哲学的交流が、フランスがドイツの最新哲学に学ぶというかたちで実現した時点でもあった。その立役者であるヴィクトル・クーザン(1792−1867)はドイツで実際にドイツ観念論の大物たちに会ったうえで、彼らの哲学を咀嚼してフランスに導入した。しかしフランスにおいてはドイツでは起こりえなかった事態が生まれた。すなわち、教育界に大きな影響力を持ったクーザンを通して、哲学が国家的な制度のうちに取り入れられたのである。現在私たちがフランス哲学の特徴として受け取る強固なアカデミズムの存在(そのうちにはドイツのカントが核心部分として組み込まれている)はこのような事情において形成されたのである。フランス哲学の伝統もまた「発明」されたものという面を明らかに持っている。 本発表では、カントとクーザンという実例を通して、哲学におけるアカデミズムが「伝統の発明」を媒介として生まれる現場をとらえ、それがどのように定着し、成果を生み出してゆくのか、という点を一瞥したい。

8月27日 研究会

於:京都大学文学部新館第五講義室 15:00〜18:00

研究発表:

概要紹介:

この発表は、19世紀末頃のアメリカ合衆国における東アジア美術の受容の問題を考察する試みであり、さらにこの問題を通して中国宋代絵画が米国や日本において再評価されていく歴史の考察を行おうとする試みである。以下、その発表要旨を記す。
1894年12月から1895年3月にかけて、ボストンの人々は西洋世界ではそれまで決して見せられることのなかった、驚きにみちた図像と描写による仏画たちを目の当たりにすることになった。44幅の中国の羅漢図がそれである。この羅漢図は、周季常と林庭桂という画家が1178年から1188年までに完成させ、16世紀以来、日本の寺院、大徳寺に伝来してきた100幅一具で構成される五百羅漢図の一部であった。大徳寺の仏画たちは、19世紀後半、日本から海外に送られてボストン美術館で陳列され、アメリカの都市でビクトリア朝の時代精神を有していた知識人をはじめ、鑑定家、仏教信者たちの間で、センセーショナルな波紋を巻き起こしたのである。羅漢図は、さらにフィラデルフィアの美術アカデミー(5月3日〜11日)で陳列され、ついで19世紀協会(the Century Association)(5月25日〜30日)によってニューヨークでも展観されており、その後は、ヨーロッパに旅した可能性もある。
ボストン美術館における展覧会は、壮大な見世物を創出したばかりか、素晴らしい収蔵品へと結びつくことになった。宋代中国仏教美術の傑作と褒めちぎられた10幅は、展覧会を企画したアーネスト・フェノロサによって選別され、美術館の支援者であったデンマン.W.ロスによって一万ドルの金額で購入されることになり、彼らは、ボストン美術館を永久に住処とし、故郷の京都へ帰ることはなくなってしまった。(20世紀の最初の10年間、さらに2幅が、アメリカ人の億万長者チャールズ.L.フリーアのコレクションに加えられている。)
この発表では、19世紀後半における大徳寺五百羅漢図のボストンへの旅を検証し、あわせて、当時における彼らの受容(一般的および美術史的コンテクストの双方における)、資産ともいえる彼らの住処の分裂、大徳寺における彼らの再構成(100幅一具の仕立て直し)、さらには日本の中国美術の再評価の問題といったことなどについて、それらの事情をさらに理解する手助けとなる資料として紹介したい。

6月21日 研究会

於:京都大学文学部新館第一講義室14:30〜18:00

研究発表:

概要紹介:

我が国における法華経美術の歴史の中で、平安時代後期から鎌倉時代を中心に多くの普賢十羅刹女像が描かれたことは、記録の上からも知られ、現存作品は二十点余を数える。『法華経』「普賢菩薩勧発品」第二八、及び『観普賢菩薩行法経』に説かれる普賢菩薩の影向に、「陀羅尼品」第二六において、法華持経者を守護すると説かれる二菩薩、二天王、十羅刹女、鬼子母を併せ描いた普賢十羅刹女像の図像は、従来、平安時代後期に我が国において独自に成立したものとされてきた。但し、唐から元代に至る中国における普賢菩薩像の遺例を概観すると、普賢十羅刹女像そのものは見出せないものの、その先蹤となり得るような、普賢菩薩に天女等の眷属が伴う図像を見出すことができる。我が国における普賢十羅刹女像の図像形成には、規範とすべき大陸の先例のあったことが想像される。
我が国における普賢十羅刹女像の遺品には、羅刹女が羯磨衣等のいわゆる「唐装」を成すものと女房装束の「和装」を成すものとが存在する。現存作品から考える限り、唐装のそれが和装に先行すると思われ、このことも、大陸における規範の存在を予想させる。忠尋『法華文句要義聞書』、長宴『四十帖決』等の記録から11世紀前半における普賢十羅刹女像の存在が予想されるが、前書においては、その濫觴を9世紀、円仁の在世中に遡らせ、彼の入唐との関わりを示唆する。十羅刹女の持物等については、『法華十羅刹法』に説かれるが、最古の掛幅本である京都・廬山寺本(唐装、12世紀末)においても、図像と所説は相違し、規範となる儀軌からの乖離が早い段階から起こったとみられる。
十羅刹女の「和装化」は、12世紀前半にその濫觴があるものと私考されるが、大治二年(1152)頃の「扇面法華経冊子」表紙絵が、最古の遺例である。これに続く「平家納経」、旧益田家本、奈良国立博物館本等の和装本を概観すると、「扇面法華経冊子」の十羅刹女の図様がそれらの中で繰り返し描かれ、和装十羅刹女像の規範とされたと考えられる。また「平家納経」においては、和装の羅刹女が厳島社の祭神・伊都伎島神を象徴することが、興然『五十巻鈔』の記載から判明する。神仏習合を背景とする、この和装化の構造は、十羅刹女が我が国の女神とダブルイメージとなり得ることを後世に示し、これ以降の和装本の展開に一つの指針を与えた。
このように普賢十羅刹女像においては、唐装本という、大陸由来の規範の形成とその多様化、唐装本から和装本への展開、和装本における規範の形成とその多様化等の様々な次元における規範の形成と展開を確認できる。但し、多様化は先行する規範を否定するものではなく、和装本の成立以降、唐装本とそれは並行して描かれ、また、和装本における十羅刹女の「形」は連綿と継承されている。この現象を注視することが日本美術における「和様化」の構造を考える一つの端緒となるのではないだろうか。

調査報告

概要紹介

2003年2月23日から3月6日まで12日間、アメリカ東海岸の主要美術館を中心に調査旅行を行った。まず、ニューヨーク・メトロポリタン美術館では、京都・九品寺旧蔵像を中心とする日本の彫刻、ならびに北魏から元・金代にまで至る中国彫刻を中心に調査をおこなった。ボストンでは、ボストン美術館、ハーバード・サックラー美術館を訪れた。ボストン美術館では、快慶無位時代の作品として名高い文治五年(1189)制作の弥勒菩薩立像を主としながら、紀年銘があり基準作として重視すべき中国の石造四面造像碑などを、サックラー美術館では、やはり年記のある作品を中心に資料収集を行った。さらに、クリーブランド美術館、シカゴ美術館へも足をのばしたが、飛行機の便の関係で十分な時間をとることはできなかったものの、東洋美術の充実したコレクションにあらためて目を見張った。
調査報告としては、ボストン美術館蔵快慶作弥勒菩薩立像を出発点としながら「鎌倉時代初頭彫刻史における古典学習をめぐる問題」について、これまでの研究の問題点と今後の展望について報告した。
まず、ボストン像については、それに以後の快慶の作品に見られる端正さを認め、その先駆的作品として積極的に評価しようとする論考もあるが、やはり、その三年後に制作された三宝院弥勒菩薩坐像との作風上の径庭は大きいものと私考され、その差異をいかに把握するかは、初期慶派の様式形成を考える上で重要である。三宝院像での面部のやわらかな肉付きは、むしろ興福寺南円堂不空羂索観音像に近いようにも思われ、快慶の作風形成の一端にも南円堂の復興造営が大きく関与している可能性も考えられるのではないだろうか。また、ボストン像については、岐阜・横蔵寺大日如来像との近似性が西川新次氏等によって指摘されているが、快慶の出自の問題も含め初期慶派の様式については改めて検討する必要があるものと考えられる。 ところで、いわゆる鎌倉新様式の形成には古典学習が大きく関与することは周知のとおりであるが、古典学習の問題を扱う上で気を付ける必要があるのは、形状や作風の比較の際、現存する作品が極めて限られた上での比較であることと、比較対象になる作品の時代区分が現在の美術史学で提唱されているものにすぎないという点であると考えられる。古代の作品との細部の形状の比較は、重要な作業であることは事実だが、そのような比較においては、総体として仏師等がどのような像を範と見なしてしていたか、あるいは発願者の意向といった個々の造像におけるコンテクストが脱落してしまっているように思われる。
こうした問題点を踏まえれば、平安末から鎌倉時代初頭にかけての古典学習の問題については、個々の作品の制作背景を押さえながら、それが範としていた作品が何であったかを明らかにすることが必要であろう。それを起点として、当時の古典学習のあり方を跡付けていきたい。

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3月15日 研究会「デューラーとティツィアーノをめぐって」

於:京大会館14:00〜17:00
本研究会では、平川の研究発表にもとづき、北方ヨーロッパ絵画における規範と翻案の問題に関して討論を行った。また、ロンドン、ナショナル・ギャラリーにて開催の「ティツィアーノ展」の報告を剱持が行い、引き続き、巨匠の個展が抱える諸問題について議論がなされた。

研究発表:

概要紹介:

ルネサンスのドイツを代表する画家アルブレヒト・デューラーの諸作品は、制作当初より常に多くの模倣を引き起こしていたが、とりわけ、16世紀末から17世紀初頭にかけての北方ヨーロッパでは、デューラー作品の模倣、借用、翻案がにわかに集中する、いわゆる「デューラー・ルネサンス」と呼ばれる現象が確認される。本論では、この「デューラー・ルネサンス」の中心地の一つであり、最も質の高い作例を輩出した神聖ローマ皇帝ルドルフ二世のプラハの宮廷に目を向け、ルドルフ二世によって収集されたデューラーの作品が、宮廷で活動する画家たちによって翻案されていく過程を、具体的に考察した。
稀代の芸術愛好家であるルドルフ二世は、質、量ともに他に類をみないデューラー・コレクションを形成していたが、ルドルフ二世の宮廷における「デューラー・ルネサンス」の性格は、こうした極めて質の高い数多くのデューラーの真筆作品の存在に規定されていると考えられる。例えば、デューラーの油彩画を購入できない一般的な美術愛好家の間では、絵画風の彩色を施したデューラーの版画、あるいは、デューラーの版画を賦彩模写した油彩画が流行していたが、こうした実践はプラハの宮廷においては、ルドルフが収集したデューラーの素描を絵画化する実践へと変貌を遂げている。ヤコプ・フフナーヘルの《ペリシテ人と戦うサムソン》等、描かれた個々の作品を分析すると、ルドルフ二世という洗練された愛好家のもとでデューラー素描の絵画化を行う画家の側にも、それを文字通り賦彩模写するだけでなく、自らの創意を加えて翻案しようという意識が生まれているのがわかるまた、ヤン・ブリューゲル(父)の二枚の板絵で構成されたデューラーの素描《大カルヴァリオの丘》の保存箱においては、扉の開閉という行為を通じて古の画家と現代の画家の競合を鑑賞者が享受するという独特の鑑賞形態が認められるが、これは、バイエルン公マクシミリアン一世が所有していたデューラーの板絵《ルクレツィア》にも共通するものであり、ルネサンス絵画に対するこの時代特有の鑑賞形態といえる。クラナハ作《ユーディット》やレオンハルト・ベック《竜を退治する聖ゲオルギウス》など、ルドルフ二世が収集した他のドイツ・ルネサンスの画家たちの作品にも、ハインツやスプランゲルの手により、翻案作品あるいは対となる作品が描かれており、古の画家の作品に現代画家の作品を対比させることでより複合的な享受形態を生み出そうとする態度がみてとれる。
総じて、ルドルフ二世の宮廷における北方ルネサンス美術の翻案・競合は、手本自体の質の高さと翻案作品のそれが拮抗し、鑑賞者の心を強く魅了する稀有な例といえよう。

展覧会報告:

概要紹介:

2003年2月19日より5月18日まで、ロンドン、ナショナル・ギャラリー、セインズベリー館において、『ティツィアーノ展』が開催されている。カタログによれば、本展覧会開催の主旨は、ロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する十一点のティツィアーノ作品を、意味のある流れの中に位置付け、よりよく理解する機会を提供することである。さらに、本展覧会には最大の目玉として、かつてフェラーラ公アルフォンソ・デステの書斎「カメリーノ・ダラバストロ」を飾っていた絵画作品が、約400年ぶりに集まるという企画も用意されている。
展覧会会場は六室にわかれており、展示構成は、大きく次の五つのグループにわけることができた。すなわち、@1510年代の初期作品(第一室、二室)、A「カメリーノ」の再構成(第二室)、B1530年代の作品(第三室)、C1540年代の肖像画(第四室)、D晩年の作品(第五室、六室)である。
このような展示の中で特に目を引いたのは、やはり「カメリーノ」の再構成である。第二室の一画を使って、今回再現された配置は、左壁に《バッカスとアリアドネ》(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)、正面壁に左から《アンドロス島の人々》(プラド美術館)、《神々の祝祭》(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)、ドッソ・ドッシによる失われた「ウルカヌスのいるバッカナーレ」(実際の展示では空き場所)、右壁に《ヴィーナスへの奉献》(プラド美術館)であった。このうち、《神々の祝祭》は、ジョヴァンニ・ベリーニにより描かれた後、他作品との統一感を出すためティツィアーノによって加筆されたものである。しかし会場の混雑も手伝い、再現された「カメリーノ」の「統一感」をじっくり味わうことは困難であった。展覧会の目玉であるならば、「カメリーノ」の部分を明確に区画するなど、より独立した形での展示方法が検討されてもよかったのではないだろうか。
出品作品の主題および年代は、ティツィアーノの画歴全般からバランスよく選別されており、総出品数は四十三点であった。従って展覧会全体としては、画家の幅広い制作活動を包括的に紹介しており、美術館側の主旨にかなっていたということができる。しかしその結果、逆に展覧会全体を通じたテーマが見えにくくなってしまった。目玉である「カメリーノ」の再構成のみに焦点を絞る、または特定の主題を集め様式の変遷を追うなどして、全体のテーマを限定させたほうが、より統一感のある展覧会になったと思われる。

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2月19日 研究会「近代日本絵画における伝統的規範の伝承」

於:京都大学文学部第6講義室  13:00〜15:00
京都を中心に活躍し、仏教的な主題の絵画を数多く手がけた秦テルヲ(1887〜1945)の作品を通して、近・現代の日本画において、伝統的な主題がどのように受け継がれ、また変容したかについて、斬新な視点から論じた。

研究発表:

発表概要:

明治時代から現代に至るまで、仏教に関わる主題がなおも頻繁に取り上げられ、院展や日展そしてその他の様々な公募展にもこの種の絵画がよく見られた。こうした現象については様々な解釈が可能であるが、この種の作品は当時美術展に登場してきた「古典的」な日本芸術の作例と、近代的な作品とを結びつける任を果たしていたとも考えられる。しかしながら、こうした仏教的な主題の作品は「展示絵画」として一部では評価されたが、「仏画」としては失敗しているという批評もなされた。たとえば、矢代幸雄は、狩野芳崖の「悲母観音」について、それが伝統的な仏教主題を利用しているにしても、制作の動機が真に宗教的な感情から発したものでなければ、作品としては成功していないという見解を述べている。
それでは、近・現代の宗教的な芸術作品が、芸術的な側面と宗教的な側面の両方から成功するためには、何が必要であろうか。この問題を、秦テルヲの作品、特に1937年に制作された「仏化開縁の図」を取り上げて考察してみる。この作品は、注文者の手紙によれば、ある信心深い老女の見た夢に基づいているが、構図には「二河白道図」や「地獄草子」「地獄極楽図」などの伝統的な仏画の影響があることは明らかである。しかしながら、画面の中には近代的な添加物も見られる。たとえば、様々な「主義」(「唯物主義」「個人主義」「民主主義」「世界主義」など)が書かれた抗議運動の幟を持って、浄土に渡ろうと渇望する人々からなる群衆が描かれている。こうしたものは老女の夢に出てきた可能性もあるが、少なくとも一部は作家の自伝的要素を含んでいるのではなかろうか。したがって、この作品を読み解くためには、テルヲの人生及び芸術活動を知る必要がある。そして、こうした試みを行った結果、この作品はテルヲが伝統的な宗教絵画を参考にしながら、個人的な寓話を創り出したものであるという結論を得た。すなわち、「モダニスト仏画」には、テルヲの「仏化開縁の図」に見られるように、伝統に基づく宗教的な要求と、モダニズムの創造的な要求という両者が併存することが必要なのである。

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2002年

12月24日 哲学・哲学史合同研究会

於:京都大学文学部新館第7講義室 14:00〜17:30
西洋の哲学思想に関して、以下のような研究発表会を開催し、近世と中世における倫理学的思想の多元的な特質について討論を行った。

司会:川添 信介

研究発表:

概要紹介:

ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界 正編』において、アシジの聖フランシスコは「禁欲の真の人格化」と評されてはいるが、ショーペンハウアーにおける禁欲は、キリスト教における完徳の方法ではなく、ある個人が「聖人」であることの徴表である。従って、ショーペンハウアーにおける禁欲は、キリスト教的な意味においてだけでなく、日常的な意味においても用いられているような、何らかの目標を達成する為の方法としての努力を意味しているのではない。禁欲は、努力をその根本的な性格とする意志の否定を先行体験としてのみ可能となる。この禁欲の体現者である「聖人」は、キリスト教における聖人ではなく、「意志の否定」の体現者である。
ショーペンハウアーは「聖人」を倫理学において扱うが、有徳者とは区別する。有徳者とは、苦痛を契機として形而上学的な意志において自他を同一化し得る者であり、「自分と他人の苦しみとの間に均衡を作り出そうと努め、他人の苦しみを緩和する為に喜びを諦め、不足を忍ぶ」者である。有徳者は、形而上学的な意志において、現象的により大きな苦痛を避けようとする。しかし、それは苦痛の平均化をもたらすだけであり、苦痛からの完全な解放をもたらさない。
それに対して、世界の真相が苦痛であることを自らの苦痛の極限状態において直接的に確信することによって、「諦め」という仕方で一切の努力を放棄する者が「聖人」である。ここにおいて「意志の否定」という体験が生じ、意志と不可分であった苦痛からの完全な解放がもたらされる。しかし、「意志の肯定」と身体の存続は本質的に同一のことなので、その体験は持続しない。それ故に、「快適なものの拒否と不快なものの追求によって意志を意図的に挫く」という禁欲が生じる。即ち、解放の体験の契機となる苦痛の極限状態にその身を置き続けるということが、ショーペンハウアーにおける禁欲の本質なのである。このとき、苦痛は避けられるべきものではなく、迎え入れられるものとなる。このことが意味しているのは、禁欲を体現する「聖人」が苦痛という感情を核心とする有徳者を超えており、苦痛を唯一の意味とする方法とは全く異なる仕方で世界を捉え得る可能性を示唆しているという意義を持っているということである。このことによって、「聖人」は、倫理学において、道徳にその限界を自覚させる役割を果たすのである。

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概要紹介:
トマス・アクィナスは正しい判断に至るのに二つの道があると主張している。一つは「理性の完全な使用による」ものであり、もう一つは「(判断する)対象との親和性(connaturalitas)による」ものである(S.T.II-II,q.45,a.2,c.)。後者の認識様態については、次のような事柄がその具体例として考えられている。 これらのテクストは、認識主体が有する徳が、我々の倫理的そして宗教的知識の獲得において重要な役割を果たすことを示唆している。そこに見てとられるのは、ある徳を有するものは、その徳が関係する対象を認識するための適応性を有し、その適応性によって、対象を正しく、あるいはより優れた仕方で認識するという認識論的構図である。
親和性による認識の概念は、倫理的・宗教的認識の個別性や情意性にふさわしい説明を与えるように思われる。親和性の有無によって各人の認識の様態は異なるはずであり、トマスによれば、親和性とは一種の「愛」であって、「愛」は、愛する対象への「欲望」をもたらし、さらにその欲望が満たされる時には「喜び」をもたらすからである。「親和性」による判断が「理性の完全な使用」ないしは「理性による探求」によってなされる判断と対置されていることから、親和性の認識の非推論的性格が伺える。理性のメルクマールは推論にあるとされているからである。このように我々の認識、とりわけ倫理的、宗教的認識が個別的であること、情念と強い結びつきを有すること、また非推論的(non-inferential)でありながら正当化されうることは、現在、米国を中心に盛んになりつつある「徳認識論(virtue epistemology)」が、従来の現代知識論に比した場合の、その理論的優位性として強調する諸点である。したがって、トマスの「親和性による認識」は、今日の哲学界の文脈においても十分に注目すべきものを含んでいるように思われる。
本発表では、まずトマスの「親和性」の概念の用法を分析し、続いてその「親和性」が我々の認識において、どのような仕方で関与するかを解明した。さらに「親和性による」と呼ばれる認識が、倫理的・宗教的認識の場面において、「正しい理性の使用による」認識とどのように異っており、それがどのような哲学的意義を有するかを考察した。

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12月20日〜21日 調査

於:山形県寒河江市本山慈恩寺
本山慈恩寺当局の協力を得て、実査を行い、各像の詳細な写真撮影を行った。

調査対象:

調査参加者:

概要紹介:
現在、本山慈恩寺の本堂の宮殿内に安置されている群像で、いわゆる五台山文殊化現像の一群と、普賢菩薩に法華経持者の守護尊十羅刹女と組み合わせた一群からなる。一部の像が失われているが、おそらく当初は釈迦如来像の脇侍群像として平安時代末頃に造られたものとみられ、その中尊像については現在阿弥陀堂に安置されている阿弥陀如来像を当てる見解もある。
文殊(像高37・6p)・普賢(像高37・5p)の二菩薩像は、ともに檜材を用い、一木割矧造りの技法で造られ、表面を彩色と切金文様で装飾している。この二菩薩の乗る獅子や象については、概ね当初の姿が保たれている点は注目される。一方、文殊菩薩の脇侍像(像高39・5〜42・3p)も用材はいずれも檜を用いるが、造像技法は優填王像については一木割矧造り、他像については一木造とし、4躯とも彩色仕上げとする。十羅刹女像(像高36・5〜41・7p)は、檜材を用いた一木造りの技法で造られていて、表面はいずれも漆箔、彩色、切金文様で装飾している。
引き締まった顔立ちや、漆箔の上に彩色、さらには精緻な金銀の切金文様を施すような入念な加飾の仕方は、平安末期の京都の仏像表現や装飾法がほとんど時を置かずにこの地にもたらされたことを示す。当代の仏教美術の伝播の問題を考える上で重要な遺品であり、また中国に源を発する五台山文殊の日本に於ける受容を考える上でも見逃すことのできない遺品である。

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12月15日 レンブラント・コロッキウム "Rembrandt as Norm and Anti-Norm"

於:京都大学文学研究科第一講義室 13:00〜
司会:平川佳世(近畿大学講師)

研究発表:

概要紹介:
17世紀オランダで活躍したレンブラント(1606-1669年)は、西洋美術史上もっとも偉大な画家の一人として高く評価されている。しかし、一方で、彼の芸術は、その過度な自然主義的描写ゆえに、美の規範からの逸脱として、古典主義者たちによって、しばしば、厳しく批判されてきた。平川の司会により開催された本コロッキウムでは、四つの研究発表を通して、さまざまな視点からの、彼の芸術の再検討が試みられた。
小林は、レンブラントの絵画における背景の表現法に着目して、その構成の特徴を詳細に分析した。その際、ファン・マンデルやライレッセなど、17-18世紀のオランダの美術文献に述べられた"doorsien”(見通し空間)などの構図構成に関する用語が検討され、レンブラント作品との関連が明らかにされた。中村は、レンブラントが制作した最初の神話画である《アンドロメダ》を取り上げて、その主題の表現がきわめて特殊であること、人体表現における優美さの欠如などを指摘した。そして、レンブラントがバルタザール・ジェルビエのホルツィウス追悼詩に刺激されてこの絵を描いた可能性について指摘した。尾崎は、レンブラントが、自身および妻サスキアを描いた数多くの絵画や素描において、手に顔をのせて肘をつくという伝統的なメランコリー気質のポーズが認められることに着目して、レンブラントとメランコリーの問題に関する詳細な考察を行った。芸術家にとってのメランコリー気質の意味、さらにはデューラーとの関連が詳しく論じられた。ミッデルコープは、《デイマン博士の解剖学講義》が外科組合を飾る絵として如何なる特徴を有していたのか、同時代ならびに後世の作品との比較を通じて明らかにした。また、レンブラントが、肖像画において、それまでの図式的な表現を打破し、時間性を導入することに成功したことを多彩な作品に基づいて論じた。
ミッデルコープをアムステルダムから招いた国際コロッキウムという性格上、発表ならびに質疑応答はすべて英語で行われたが、来聴者からも数多くの質問が出て、長時間に及ぶ熱気あふれる研究会となった(13時から始まった会が終了したのは20時前のことである)。なお、このコロッキウムの研究発表を集めた論文集が、2003年末に刊行される予定である。

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12月2日 シンポジウム「自然という文化」の射程 

於:京大会館

概要紹介:
2002年12月2日(月)13時より17時まで京大会館101号室において思想文化学系を中心とする文学研究科国際シンポジウム「〈自然という文化〉の射程」が行われた。
このシンポジウムが企画された趣旨は以下のようなものである。
20世紀後半に登場した資源枯渇と環境破壊への危機感は、自然と人間のあるべき関係についての反省をわれわれに迫っている。自然はもはやわれわれの操作や克服の対象としてではなく、人間がまさにそのうちでしか生きられない「環境」として強く意識されている。哲学においても環境倫理学という新しい学問分野が誕生し、人間と自然の共生が模索されている。しかしまた、自然は環境に尽きるわけではない。フランスの地理学者オギュスタン・ベルクは、自然もまた一つの文化的形成物であり、それ自体が文化であると指摘して、〈文化としての自然〉という観点を提唱している。ベルクは和辻哲郎に基づく「風土」概念を用いて〈文化としての自然〉、さらには〈自然という文化〉にあらわれた日本文明の特質を明らかにし、それが世界に対して発言しうる普遍的メッセージを所有していると主張する。わが国近代の哲学思想と密接に連関したこのような論点が、外国人研究者によってあらたに提起されたことは、今日ひときわ注目に値するものである。グローバル化の必然性と諸文化の独自性の保持の必要性という事態に直面した現代において、自然と環境という問題が今後の社会において持つ重大性を考えるとき、自然概念の歴史性を強調し自然と文化との一体性を説くこの主張はさまざまな観点から検討され、その意義と射程を明らかにすることは今日喫緊の課題である。
また、わが国における環境倫理学のパイオニアである加藤尚武名誉教授を擁し、さらにベルク教授が大きな影響を受けた京都学派の哲学者たちの本拠でもあった当文学研究科がこのような外からの呼びかけに応答し、議論の高度化に寄与することは「グローバル化世界における多元的人文学の拠点形成」というCOEプログラムに照らして極めて意義深いことだと言わねばならない。
当日はフランス国立社会科学高等研究院教授で哲学および風土論専攻のオギュスタン・ベルク氏の日本語による基調講演がおこなわれた後、思想文化学系の片柳栄一教授(キリスト教学)の司会により、加藤尚武(鳥取環境大学学長・本学名誉教授、倫理学)、内山勝利(西洋古代哲学史)、藤田正勝(日本哲学史)、岩城見一(美学芸術学)の各教授がそれぞれの専攻を踏まえてテーマに関する発表をし、シンポジウムをおこなった。(なお、シンポジウムの詳細な記録は近日中に京大文学部HPで公開される予定である。)
出席者は217名、各提題者に対して会場からも活発に質疑が提起され非常な盛会であった。またシンポジウム終了後には同じく京大会館でレセプションがもたれ、約40名の出席者が引き続き熱心な意見交換をおこなった。

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11月21日 研究会「平安後期仏教美術の諸相」 

於:美学美術史学研究室 15:00〜18:00

研究発表:

概要紹介:
本セクションは、「和様」というわが国独自の美術規範が成立したと繰り返し語られてきた平安後期の美術史観の再検討を目指している。今回は、二人の若手研究者に、経典見返絵と仏画の図像という観点から平安時代の仏教美術に関わる発表をしていただいた。各発表の概要は、以下の通りである。
まず、最初の緒方氏の発表は、経典の見返しを通して平安後期の絵画史の再検討を試みている。平安時代の装飾経は数多く現存するが、その中心となるのが、10世紀頃から認められる紺紙金字法華経で、平安後期に入る遺品は40件を超えている。法華経説話画が自然の風景を伴って描かれるのを常とする当時の紺紙金字法華経見返絵は、東アジアに広がる法華経説話画の展開という図像学的観点からだけでなく、平安時代における風景表現の展開の観点からも重要な研究対象になる。とくに、11世紀半ばの平等院鳳凰堂壁扉画や京都国立博物館山水屏風(11世紀)に代表される絹本や板地の障屏に彩色された大画面絵画とは異なる紙本に線描で描かれた小画面説話画が、どのような空間構成の展開をたどり、どのような特質を持つに至るかという過程を、見返絵を通して具体的にたどることも可能かと思われる。
氏の発表は、こうした観点から、改めて滋賀・百済寺本、岩手・中尊寺一切経といった当代を代表する法華経見返絵を取り上げ、さらに大英博物館版本金剛般若波羅蜜経(中国・唐、868年)といった大陸の作例にも目を配り、平安後期の見返絵の展開について再検討を試みた。結論として、わが国平安後期の経典見返絵は、新局面を拓くことのなかった大陸の見返絵と対照的に、空間構成の変化や画題の限定という問題によって、小画面説話画としての成熟を遂げたとする。さらに、氏は経典見返絵と絵巻の関係にも触れられ、きわめて刺激的な発表を行われた。
続く、松岡氏の発表は、滋賀県常楽寺に伝えられる鎌倉末期頃に制作されたとみられる「釈迦如来及四天王像」(重要美術品)を取り上げ、天台宗独特の図像が何故、平安末期後白河院政期頃に再評価され、鎌倉時代にこのような画像として描かれるにいたったかを考察した。
氏は、まずこの画像の図像等の検討から、中尊の釈迦如来像の印相が初門の釈迦、すなわち叡山西塔釈迦如来像の姿を表すもので、四隅の四天王像は、聖徳太子の物部守屋討伐のエピソードと結びつく、四天王寺様の四天王像であるとし、この画像が『門葉記』『阿婆縛抄』等に山門の秘法として記される四天王法の本尊となる遺例稀な画像であることを明らかにされた。そして、こうした特殊な四天王法は、叡山では後白河院期に新たに登場してくると推測されると言う注目すべき点も指摘された。
白河、鳥羽、後白河と続く、平安院政期には、しばしば新奇な尊像を本尊とする修法が流行したことはすでにしばしば指摘されているが、山門の四天王法は、日本国内の伝承に題を取り、既存の修法を再評価し、新たな修法として誕生したものと言える。こうした修法のあり方は、やはり院政期仏教の性格の一面を良く表している。常楽寺本は、この修法が誕生してから少し時間を経た時期に描かれたものであるが、平安時代末の院政期の美術の諸相を考える上で貴重な遺品と言えよう。

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