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NEWSLETTER No.2

2003/02/28

―森のなかの木の株に―

 森のなかの木の株に腰をおろして、本を読む。毎日毎日、本を読む。本のうえに
花びらが舞い、枯れ葉が散り、雪が降りかかって一年が過ぎる。来る年も来る年も
切り株に座って本を読み続ける。やがて株と体が溶け合って一つになり、全身が古
木の幹に化してしまう―読書人の姿をこのように思い描くのは、20世紀までの
ことでしょうか。21世紀の大学はずいぶんせわしくなりそうです。学会やシンポジウム
を開いたり、国内外のそれに参加したり、あれこれ書きまくったりしゃべりまくったり、
席のあたたまることも、煙突にすすがつくこともなく絶えず動き回る、動き続けて
いなければまるで存在が否定されてしまうかのように。数年前までの、購入しておく
べき本すら買えなかったみじめなありさまに較べれば、経費のうえでは恵まれてきま
したが、静から動へのこの転換にはとまどわざるをえません。これまでの文化の
なかで積み重ねられてきた学のかたちも、時代に応じて変貌しなければ次の世代
に伝えられないのかも知れません。せめて一人で本を読むという根本のところを、
この喧噪のなかでも保ち続けなければと思うのですが、あわただしさに取り紛れて
いるうちに最初の半年が過ぎてしまいそうです。(研究会代表 川合康三)

これまでの活動報告
○2002/02/19
第二回 「乾の会」
研究発表:陳尚君先生(復旦大学中文系教授・早稲田大学交換研究員)
「唐代の亡妻と亡妾の墓誌」
○2003/2/25
第四回 「坤の会」
担当:長谷川千尋、堂薗淑子
内容:「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」輪読 3回目

今後の活動予定 今後の研究会・輪読会の日程は以下の通りです。
○2003/03/03 午後2時〜
第二回 「乾の会」
研究発表:李鍾振先生(梨花女子大学教授)
「比較文学の観点からみた韓国・日本・中国の近代文学の特徴」
李炳漢先生(ソウル大学名誉教授)「詩人 花を賞す」
場所:文学部新館2階第4講義室

○2003/03/25 午後3時〜
第五回 「坤の会」
担当:橋本正俊、好川聡
内容:「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」輪読 4回目


第二回「乾の会」研究発表要旨

「唐代の亡妻と亡妾の墓誌」 陳尚君(復旦大学教授)

 唐代の文人達によって書かれた墓誌は現在でも数多く見ることができるが、
自分自身の妻や妾の為に書いた墓誌となると、その数は極めて少ない。現存する
文集の中では、柳宗元が妻にむけた一篇と、元稹と沈亞之が妾にむけた二篇が見ら
れるのみである。しかし近年発掘調査が進み、新たな資料が次々と発見される
ことによって、今では亡妻の墓誌が約八十篇、亡妾の墓誌が約二十篇見られる
ようになった。今回の発表は、これらの新たに発見された墓誌を分析することで、
唐代の家庭生活の実態や実情などを明らかにしていきたい。
 墓誌というのは、基本的には著名な文人に代筆を頼むものであるが、それを
自ら執筆するのは我が妻に対して特別な思い入れがあるからである。亡妻墓誌中
に見える妻達はその大部分が二、三十代で夭折しており、また貧苦や艱難を共に
したという記載がよく見られる。こうした境遇が自ら妻の墓誌を書くという行為
を生み出すのであろう。ただ、その叙述の大部分は妻の先祖や一族の紹介に費や
され、妻に関する記述はごく僅かにすぎない。例えば盧軺が妻鄭氏を弔った墓誌は
全文が二千字であるが、その内五分の二が妻の先祖達についての記述に割かれ、
さらに続けて妻の兄鄭の経歴が五百字にも及んでいる。それに対して、妻に
関する記述はわずか百字にも満たないのである。これは墓誌の中では妻自身より、
その一族の功徳や栄誉がより重視されていることを物語っている。
 また、妻に関する記述の内容も型が決まっていて、その徳や才能を顕彰すること
が基本である。様々な書物に精通しているその博学ぶり、あるいは「嫉妬しない
美徳」などが誉め讃えられるのだ。一方、その容貌が記されることは稀で、また
夫婦間の関係についても「巫山雲を彩る」等の典故を用いた抽象的な表現が普通
であり、具体的にその親密な様子を記したものはほとんどないのである。

 これが亡妾墓誌になると、内容が大きく異なってくる。妾となる者は家柄が
低く妻には決してなれない身分であり、そうした者に対して自ら墓誌を書くのは
珍しいことである。その墓誌の中では、「粉黛も其の美を増すに足らず」、その
美しさを強調するものが見られ、またその才能も、学問についてではなく歌舞に
ついて書かれたものが最も多い。こうした亡妻と亡妾の墓誌における内容の差異
の中に、唐代の士人の妻と妾に対する接し方の違いが垣間見られる。
 次に、唐思礼の墓誌を取り上げて当時の家庭環境を分析してみたい。唐思礼は
彼自身の墓誌が残されている他、前妻の王氏の墓誌と後妻の兪氏の墓誌をそれぞれ
自ら書いており、これらの墓誌から三つのことが読み取れる。
 一つは、夫との年齢差が二人とも二十歳ほど離れていることである。これは当時に
おいては珍しいことではない。次に、妻と妾と妓女の他に「女奴」という奴隷を
家に買うことがあり、これが寵愛を受けることもあったということ。そして、
王氏も兪氏も子供に恵まれず、他には二人の息子がいたが、庶子であるために
二人は家を嗣ぐことが出来なかったことが分かる。ただ、嫡子がいなければ庶子
でも家を嗣げるのが普通であり、この唐思礼の場合は特殊な例といえる。
 先に述べたように、妻が妾に嫉妬しないことが妻たるものの重要な徳目の一つに
数えられているが、妾を娶るのにも様々な情況がある。まず、結婚前から妾を蓄え
ている例。それに、結婚後に妾を納める例。妻が夫のために妾を捜してくるという
こともある。また、妻が亡くなった後に妾を娶ることもある。柳宗元がそうであり、
亡妻楊氏の服喪期間中に妾との間に子供が産まれている。さらに、柳知微のように、
陳蘭英という妾を娶るだけで終生妻を娶らなかった例もあるのである。
 最後に亡き夫の為に書いた墓誌と亡き妓女の為に書いた墓誌を見てみたい。
妻が夫の墓誌を書くことは極めて稀であり、現在ではわずか三篇しか見ることができ
ない。しかし、そのどれもが哀切な表現に富んでおり、また妻鄭氏によって書かれた
李府君の墓誌に「公の身長六尺四寸、素き膚に青き髭」という身体の特徴や、「公の
性は朋友を好み、門に食客多く、家には餘産無く、盡く以て人に濟う」という懐の
広い性格が描かれているように、夫が妻の為に書いた墓誌には見られないような、
具体性に富む描写がなされている。また、源匡秀が妓女である沈子柔の為に書いた
墓誌は、彼の沈氏に対する熱い思いにあふれており、例えば「火は我が愛を燃やすも
愛は銷けず、刀は我が情を斷つも情は已まず」という墓誌には有り得ないような
ストレートな愛情表現が見られ、興味深い。(好川聡記)

  実隆・公条と和漢聯句

和句と漢句を交えた連句、すなわち和漢聯句は、現代から見れば奇異な文芸
形式に思われかねない。しかし、現在「坤の会」で輪読中の「永正七年正月二日
実隆公条両吟和漢百韻」
の連衆である三條西実隆(この時五十六歳)・公条(同
二十四歳)親子が活躍した十五・十六世紀には盛んに行われていた。実隆の日記
『実隆公記』を繙けば、頻繁に和漢聯句が行われていたことがわかる。特に永正
七年頃の記事で目立つのは、毎月禁中で行われていた月次の和漢御会である。いま
『実隆公記』から、「実隆公条両吟和漢百韻」の行われた前年、永正六年に禁中で
月次和漢御会が催された日を拾い出してみる。
  正月二十五日、二月十六日、三月十日、四月十日、五月十日、六月十二日、
  八月十日、閏八月十九日、九月十三日、十月十日、十一月十日、十二月十日
  (七月は日記欠)
毎月欠かさず、十日頃を目安に禁中で和漢聯句の会が行われていたことがわかる。
参加者は毎回十名程度で、実隆・公条親子は特に事情がない限りは毎回出席している。
また和漢の会であるから、和句・漢句共に詠む必要がある。実隆は自身が発句または
入韻句(脇句)を詠んだときにはその句を日記に記していて、例えば八月の御会では
東坊城和長の発句「山もけさ木の葉吹さく野分哉」に実隆が「波驚蘆散花」と付け、
また十二月の御会では実隆の発句「行水に年のおもはん氷哉」に後柏原天皇が
「梅早影清流」と付けている。当時学者としても一流の地位にあった実隆は和句・
漢句両方において月次御会をリードしていたのであろう。一方、十七歳で初めて
宮中の歌会に登場して以来七年、すでに歌壇で活躍していた公条も、その父と同席
しながら自身の腕を磨いていったに相違ない。そうして迎えた翌永正七年正月。父子
相対しての和漢百韻は、日頃の月次御会とは異なり肩肘の張らないものであった
かもしれないが、公条にとっては直接父から指導を受ける良き修錬の場となったで
あろう。
 また、永正六年四月には五山の詩僧、月舟寿桂による杜甫の詩の講釈が小御所に
おいて行われ、これに出席した実隆は「講義殊勝、舌瀾誠洗耳者也」(七日条)と
賛嘆している。実隆はこの月舟を詩作の指導者として仰いでおり、「月舟が詩作指導
の面において三條西家に及ぼす影響力は、永正六年より急速に増大したかに見える」
(朝倉尚『抄物の世界と禅林の文学』)という。「永正七年正月二日実隆公条両吟
和漢百韻」には、親子が日頃の学問の成果を競い合いつつ、実作に励んでいる姿も
映し出されているのではないだろうか。 (橋本正俊記)




後記
 32研究会のニューズレター第2号をお届けします。
 なお、ペーパーでお配りしましたニューズレター(p2)に、誤りがございました。
 第三回「乾の会」の発表者並びに発表内容は、このページに記載したとおり
です。訂正してお詫びいたします。(中島)

京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム
「極東地域における文化交流」
kanwa-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp