京都大学大学院文学研究科21世紀COE 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」

王権とモニュメント


NEWS LETTER Vol.10

update:2005年10月25日

  1. シンポジウムの開催について
  2. 第17回研究会報告
    • 慶陵の造営とその時代(向井佑介)
  3. 第18回研究会報告   
    • 宮廷女性の仏教信仰−御願寺建立の史的意義−(本郷真紹)
    •   
    • 安祥寺開祖恵運の渡海−9世紀の東アジア交流−(田中俊明)
  4. 今後の予定

14研究会「王権とモニュメント」では月1回のペースで研究会を開催し、世界各地における王権とモニュメントの諸相について議論を深めるとともに、主たるテーマとして京都市山科区に所在する安祥寺の調査研究を文献・美術・建築・考古など多面的な分野から進めてきました。 今年11月にこれまでの研究・調査成果を総括し、安祥寺をテーマとするシンポジウム「皇太后の山寺−山科安祥寺創建の背景をさぐる−」を下記の通り開催します

日時:平成17年11月20日(日)10:00〜16:30(9:30受付開始)

会場:京都市醍醐交流会館(パセオ・ダイゴロー西館2階)※無料・当日先着200名

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慶陵の造営とその時代

向井佑介(京都大学大学院博士後期課程)

遼(契丹)の文化や諸制度は、契丹族に独自の要素も多くみられる一方、唐のそれを継承した部分も少なくない。遼文化の二面性は文献史学の方面からもすでに指摘されているが、近年続々と発見されている大小の皇族・貴族墓や、そこから出土する文物によりその実態が具体的な資料に基づいて語られるようになった。これにより遼代の考古学的研究は新たな段階へと進みつつあるが、一方でそのような考古学的分析を歴史復元に結びつけようとする試みはまだ少ない。そこで本報告では、考古学的検討から歴史像をえがくための基礎作業として、遼代墓制の頂点に位置する皇帝陵の立地と構造について検討した。

遼代の皇帝陵は立地や構造において一定の共通性がみられる。それらは規模の差はあるもののいずれも袋状の巨大な谷のなかにつくられ、また岩肌が露出する秀麗な山を好んで選んでいた。しかし、陵により見逃しがたい差異があることも事実である。例えば、太祖が葬られた祖陵の構造は、周囲を環状にめぐる山の稜線上に石墻を築いて陵園を囲んでいる。これには、実際的な防御機能もあった可能性があるものの、もっとも重要視されたのは陵園の閉鎖性をより完全なものにすることで、視覚的に外部から遮断することをきわめて重視していたのであろう。次の太宗の懐陵は谷の規模が大きく、構造もやや異なるが、石墻を築き閉鎖性を高める点で、祖陵の構造を踏襲している。

これに対し、聖宗・興宗・道宗の3皇帝が葬られた慶陵の場合、陵園を囲む石墻が認められず、巨大な谷を囲む尾根上にも石墻はない。また、慶陵のある慶雲山は、巨大な谷の奥に位置しながらもなだらかな独立丘陵のような正面観を呈しており、加えて谷を囲む尾根の高さに対して谷がきわめて広大であるため、他の陵に比べて開放的な印象を与える。祖陵以来の皇帝陵は閉鎖性を指向してきたが、慶陵造営の段階では伝統的な立地を踏襲しながらも開放的で雄大な空間を創出しようという意図が働いていたようである。

このような景観の差異は、陵ごとに設けられた奉陵邑との関係をみるといっそう明確になる。奉陵邑には構造や規模においてそれぞれ差異があり、城壁の外周を比較すると祖州城1750m、懐州城2000m、慶州城4000mと時期の下降にともなって規模が拡大していることがわかる。このような規模の差は、一般的な遼代の城郭の規模の変遷とも対応しているが、京城の場合でも、太祖が建設し、太宗が大規模な改修を加えた上京城に比べ、聖宗の統和25年(1007)に建設された中京城は規模が圧倒的に大きい。この中京城建設の契機は、聖宗朝にいたって遼宋間の国交が安定し、使者の往来も活発化するなかで、宋からの使者に対し遼の国力と威厳を示すための外交の場が必要とされたことにある。

一方、『遼史』や皇帝・皇后哀冊の記載からは、皇帝陵に附設された奉陵邑が陵寝への奉仕や守衛を担うだけでなく、皇帝崩御から葬送の儀までの間、中心的な役割を果たしていたことがうかがえる。また、奉陵邑は葬儀までに訪れる諸外国からの弔問使に対応する場でもあった。つまり、聖宗朝において中京城という大きな都城が建設されたことと、その聖宗を葬った慶陵に附設された慶州城の規模がそれ以前の奉陵邑にくらべて圧倒的に大きいことは無関係ではないだろう。さらに皇帝陵の景観についても同様のことが指摘できる。石墻の有無や地形の差異が象徴するように、遼の皇帝陵は元来、「隠す」「守る」ということを重視していたが、慶陵にいたってこのような要素は弱まり、むしろ陵園外からの眺望を意識してつくられた可能性さえある。都城と同じく政治装置のひとつであった皇帝陵が、都城と同様の変化をたどるのはむしろ当然といってよく、慶陵の地はまさに国内外に威容を示すために選ばれたのであろう。

このように、遼代皇帝陵の立地や構造は慶陵造営の前後に大きく変化するが、そこでおこなわれた儀礼はどのようであっただろうか。『遼史』禮志二・凶儀の記載をみると、慶陵に聖宗を葬ったときの儀式には契丹族独自の風習が色濃く残っていることがわかる。つまり、皇帝陵や都城といったモニュメントの視覚的な変化と、そこでおこなわれた儀礼の変化は必ずしも対応しているわけではない。このような葬送儀礼の変化とその背景を考古資料や文献史料の検討から明らかにすることが今後の重要な課題である。

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宮廷女性の仏教信仰−御願寺建立の史的意義−

本郷真紹(立命館大学教授)

安祥寺開祖恵運の渡海−9世紀の東アジア交流−

田中俊明(滋賀県立大学教授)

第18回研究会は、来る11月20日(日)に、京都市醍醐交流会館で開催するシンポジウム「皇太后の山寺−山科安祥寺創建の背景をさぐる−」において、基調講演を担当してくださる 立命館大学文学部教授(日本史)の本郷真紹氏、滋賀県立大学人間文化学部教授(朝鮮古代史)の田中俊明氏の両氏をお招きし、それぞれの講演題目で御発表いただいた。今回は先シンポということで、正式の成果は11/20の配付資料やシンポジウムの成果をまとめた出版物で御参照いただきたい。本報告では、両氏の御発表の概要と、研究会でなされた質疑や発せられた感想に関して、簡単にまとめて紹介する。

本郷報告「宮廷女性の仏教信仰−御願寺建立の史的意義−」は、まず、皇太后藤原順子が発願し恵運が開基となった安祥寺は、これまで日本古代寺院史が通説としてきた「氏寺から官寺へ」というシェーマ、あるいは「王権の寺」という概念で律しきれない事実を指摘する。その上で、古代寺院の特質を分析する指標として、@建立の経緯・目的、A経営の実態(財政基盤・外護者の性格等)、B立地条件・構造的特質、C宗教機能(法会等の宗教活動)の4つをあげ、これをもとに、飛鳥期(〜7世紀前半)、白鳳期(7世紀中葉〜)、天平期(8世紀)、桓武朝の各時期における寺院の特質を示し、それと対比して、安祥寺が建立された平安初期(9世紀中葉〜)の寺院の特質を、『特定の個人、特定の僧を「開山」的・「開基」的存在とする御願寺』、すなわち『天皇やその近親者、貴族、僧等の発願にかかる「私寺」で、追善、治病祈願、男児出生等、特定の目的を有して建立された例が多い。平安初期の御願寺の大半は、発願者(外護者)一代もしくは数代で衰退するが、時には護国法会等の公的機能を担う場合もある』と性格づける。

さらに、安祥寺の檀越となった宮廷女性による仏教信仰の流れを、推古朝からたどり、そのなかでも藤原光明子の造寺活動を高く評価する。とくに夭折した基王のために建てた金鐘山房は、御願寺の初現形態となる可能性を指摘する。また、平安初期に建った御願寺のなかでも、橘嘉智子(嵯峨天皇皇后)による檀林寺を、発願主体の意向が強く反映された初例と評価し、その後宮のあり方や宗教活動が、光明皇后を模範としている事実を指摘する。桓武朝の平安京造営に際し、南都にあった官大寺は移転できず、新設官寺の西寺・東寺だけが京内において国家的法会を行なう寺院だった。しかし、両寺に直属する僧侶はおらず、法会に際しては、南都諸寺や平安京周辺の諸寺・山寺から僧を招聘した。宮中法会を含めた公的仏事以外の個人的目的の仏事の場として、御願寺は発願者に必要不可欠であり、一方、宗派意識が興隆した平安仏教においては、各僧は、王権の有力者に仮託して王城周辺に拠点となる寺院を設け、その庇護・経済保証を受ける必要があった。こうした宮廷女性と僧侶の要求のもとに、平安初期に成立したのが、安祥寺をはじめとする御願寺であったと結論づける。

以上の本郷報告に対して、御願寺の多様さが問題になった。第15回研究会の勝山報告で提示された平安中期の円宗寺をはじめとする四円寺や、平安後期の六勝寺も御願寺であり、それは平安初期に成立した御願寺と同一に論じられない。また、東大寺は聖武天皇の発願でありながら、同時代には「御願寺」と認識されなかった。また、御願寺のなかでも安祥寺や法金剛院のように発願者自身が寺院内に埋葬される場合と、発願者の葬地が別にある御願寺の違いがあるなどの諸点が問題となった。

田中報告「安祥寺開祖恵運の渡海−9世紀の東アジア交流−」は、恵運の渡唐年代(842-847)に先行して、838-847年に円仁が渡唐している事実に注目し、彼の旅行日記『入唐求法巡礼行記』(以下『行記』)をおもな史料として、9世紀前半における東アジア交流史の問題点を明らかにする。特に、公式の入唐僧(遣唐請益使)として渡海した円仁が、旅行中に多くの新羅人と会い、その恩義・助力によって唐国内の移動や帰国を果たしていること、唐国内における新羅人の様々な活動を見聞して記録していることに対して、『安祥寺資財帳』などに記載された恵運の(非公式の)渡唐に際しては唐商人の船が利用され、新羅人との交渉がまったく記録されていない事実を指摘する。そして、その違いが、入唐が公式か非公式かという差に起因するのではなく、恵運の渡唐年代が、新羅の清海鎮大使として海上交易を掌握していた張保皐(張寶高・弓福・弓巴)の没後であった事実に着目する。

円仁は渡唐以前から張保皐の存在を知っており、渡海に際して手紙をやりとりしている(『行記』)。張保皐は唐の徐州で軍中少将を歴任後、帰国して清海鎮大使となった(『三国史記』新羅本紀10)が、大宰府に滞在していた新羅還俗僧李信恵が824年に張大使の船で唐に帰国しており(『行記』)、それ以前から東アジアの海上交易に関わっていたらしい。張保皐は清海鎮大使という一新羅官人として活動したのではなく、独自に唐や日本との交易活動を推進していた(『行記』『続日本後紀』)。山東半島の赤山法華院は張保皐が創建したもので、赤山浦には新羅人村があって交易拠点となっていた。円仁も赤山院に長期滞在し、帰国に際しても赤山浦から出航している(『行記』)。しかし、円仁が入唐する前後から、新羅王室では内紛が続き、張保皐も王位継承をめぐる抗争に関わっていく(『三国史記』同巻)。新羅本紀は、張保皐が反乱を起こし、846年に殺害されたとするが、『続日本後紀』の記事などからその死は841年のこととするのが妥当である。その死後、清海鎮は廃され、それに頼っていた日本の外交・交易関係はたちまち不安定となり、843年には新羅人の入境を禁止し、鴻臚館における新羅人との貿易も閉ざされる。恵運が渡海したのは、まさに新羅における内乱によって、張保皐が殺害された直後にあたる。恵運も渡海以前は大宰府で新羅商人から銅器等を購入している(『安祥寺資財帳』)が、渡海にあたっては唐の商人に頼らざるを得なかった。唐商人が主流を占めるに従い、新羅商人は海賊視されるようになる(『扶桑略記』寛平6年9月条)。しかし、それを根拠に新羅を「海賊国家」と規定するのは、史料の誤読である。

以上の田中報告により、恵運の渡海が、東アジアの激動期にあたる事実が鮮明となった。『安祥寺資財帳』のなかで、恵運は多くを語っていないが、恵運が唐で巡礼求学した5年間は、武宗による会昌の廃仏(842-845)の嵐が吹き荒れる真最中だった。円仁の旅行記はその深刻さを伝えている。張保皐の死が、当時の東アジア外交・交易にもたらした影響が、円仁と恵運という同時代の入唐僧の動向に見事に反映されている事実は興味深い。

第18回研究会は、本郷報告・田中報告後、11月20日のシンポジウムのタイム・スケジュールなどを確認して終了した。両氏によって、日本古代仏教史のなかでの安祥寺造営の意味、古代東アジア交流史のなかでの恵運の入唐の意味が位置づけられ、一四研究会による安祥寺調査の意義がいっそう明確になったと考えられる。

(文責:上原真人)

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第19回研究会の開催

第19回研究会を、下記のとおり開催する予定です。研究会メンバーだけでなく、このテーマに興味をおもちのかたは、遠慮なくご参加ください。

日時
2005年11月15日(火) 18:30〜
場所
文学部旧陳列館1階 会議室
発表
五十川 伸矢氏(京都橘大学教授)
韓 サ氏(陝西省文物交流中心副主任研究員)