京都大学大学院文学研究科21世紀COE 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」

王権とモニュメント


NEWS LETTER Vol. 3

update:2003年6月20日

  1. 第3回研究会報告
  2. 第4回研究会報告
  3. 今後の予定

安祥寺資財帳を読む

鎌田元一(京都大学大学院教授)
中町美香子(京都大学大学院日本史学研究室)

本研究会が現在進めている山科安祥寺の調査・研究に関し、文献面での根本史料となる「安祥寺資財帳」について、校訂・釈読などの基礎的検討を行なった。

安祥寺資財帳は、同寺の開基恵運が貞観九年(867)みずから勘録し、同十三年、本願藤原順子の死去の直前、その太皇太后宮職から、以後の公験たるべく職印を捺して同寺に下されたものである。その後の伝来の詳細は不明であるが、保延二年(1136)十月、勧修寺宝蔵の梁上において「数十年来、人不知之間、湿損雨露、多失文字」という状態で発見され、それを新たに写して一本を作成せしめたものが勧修寺に伝えられた。その勧修寺本を至徳二年(1385)七月、さらに書写した一本が近年まで東寺観智院に伝来したが、残念ながらその後流出し、現在ではこの古写本の所在は不明である。しかし幸いなことに文政二年(1819)、塙保己一のもとでこの観智院本を書写した一本が現存しており、これが今日所在の知られる唯一の写本となっている。

このような状況下に、今日まで活字本としては『続群書類従』所収本、『大日本仏教全書』所収本、『平安遺文』所収本などが刊行されているが、相互に文字の異同も多く、またその句読・釈読にも問題が多い。報告は時間の関係上、冒頭の縁起部分についてのみであるが、諸活字本および一部写真の知られる観智院本の対校の結果を示し、また釈読試案を示して、新たに現存文政写本の調査を基とし、関連史料との総合的検討をも踏まえた、より厳密な校訂本作成の必要性を明らかにした。現在その作業に取り組んでいる。

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安朱古墓の発掘調査

高正龍(立命館大学文学部助教授)

本発表は、1993年に発掘された平安時代前期古墓(9世紀後葉)の調査報告である。安朱古墓は現在の京阪山科駅南側に所在し、安祥寺下寺推定地として調査が行われた。また、国内では類例が非常に少ない木炭木槨という構造を持っていることでも知られている。以下、この古墓の構造を紹介する(図1)。

木炭木槨墓実測図

まず東西約3.4m、南北約2.0m、深さ約0.4mの墓壙を掘り、その底に炭を敷いている。その上に遺体を収めた木棺と、それを覆う木槨(内槨)を置き、そのまわりに木炭をめぐらせている。ここから、従来の木炭墓・木炭槨墓とは異なる「木炭木槨墓」という呼称を用いたのである。さらに木炭の外側にも埋め土がみられることから、もうひとつ槨(外槨)が存在した可能性もある。御所市所在の巨勢山古墳群で発見された巨勢山室古墓(9世紀前半)のように、こうした木炭木槨墓の類例が知られるようになっており、かつて「木棺の周囲を木炭で充填した」と紹介されている山科区の西野山古墓なども、この木炭木槨墓の可能性が高いだろう。

出土した鉄釘の配置から、木棺は長さ約195cm、幅45〜50cmと考えられ、長側板と小口板に底板側から釘を打ち付けている。また小口板は、長側板で挟んで釘で固定されていたと考えられる。槨の下部には南北方向に2対4本、東西方向に1対2本の横木が渡されていたことが、出土した釘から想定される。

内槨は東西約235cm、南北約105cmで、外槨は東西約265cm、南北約145cmを測るが、その構造は不明な点が多く、木棺のように板の組み方などを復元することはできない。木炭槨は、この内槨と外槨の間に木炭及び土を充填して作られている。

安朱古墓出土鏡

出土遺物としては、銅鏡片、乾漆製品、銅銭(富寿神寶・818年初鋳)、土師器などが挙げられる。銅鏡(図2)は蛍光X線分析によって中国産の銅と組成が近いことから、舶載品の可能性が高い。また、この鏡と重なるようにして出土した乾漆製品は、鏡箱として使用されたものかもしれない。土師器(図3)は、椀・杯・皿が合わせて9点出土しており、9世紀後葉に編年される資料である。古墓の年代は、この土師器を基準として割り出している。なお、これらの遺物は、その出土位置から推定して槨の上に置かれたものと考えられる。

安朱古墓出土土師器

この古墓が安祥寺下寺の寺域内、もしくはそれに非常に近い場所にあることから、被葬者は安祥寺に深い関係を持つ人物と考えられる。また、『続日本後紀』では、嵯峨上皇の喪葬に関して「重以棺槨、繞以松炭」という記載がみられ、同じ構造を持つこの古墓が身分の高い人物の墓であることも推定できる。中国製とみられる鏡の存在もあり、安祥寺に深い関係を持つ高位の人物として、藤原順子の墓である可能性も考えられるのではないだろうか。

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安祥寺以前−山階寺に関する試論−

吉川真司(京都大学大学院助教授)

7〜9世紀における山科盆地北部の地域史を考え、安祥寺成立の歴史的前提を明らかにする目的で報告を行なった。文献史学の方法に徹しながら、特に11〜12世紀の史料を遡源的に活用する方途をさぐった。得られた成果はおおむね以下のごとくである。

一、7世紀中後期は、山科盆地が比較的注目された時期であった。大化改新以後、逢坂関が畿内北限とされ、盆地東辺を北陸道が貫通し、さらに宇治橋までが大津京の近郊域となったらしい。この時期に注目されるモニュメントとしては、盆地北端に造営された天智天皇陵と、興福寺の前身寺院山階寺があげられる。山階寺の創建については伝承的部分が多く、その位置をめぐって大宅説・中臣遺跡説・盆地北部説などが提唱されているが、いまだ通説となるような論考は現われていない。

二、山階寺の位置をさぐる際には、かつて坪井清足がそうしたように、貞観9年(867)「安祥寺資財帳」を利用することができる。安祥寺下寺の四至に「南限興福寺地」という記載があり、山階寺の故地を示している可能性があるからである。そこでまず、同資財帳および保元3年(1158)「安祥寺領寺辺田畠在家検注帳案」によって安祥寺の四至と寺辺所領を復原すると、下寺は現在の安朱地区を中心に、石雲北里・大槻北里・陶田北里(天智陵まで)にあり、上寺はそれに北接する山林に立地していたと推定され、さらに寺辺所領についても両史料を整合的に解釈して、分布域をつかむことができた。これによって、「興福寺地」は大槻里北半〜陶田里にあったと推断するに至った。

三、この「興福寺地」は、興福寺の史料に山城国宇治荘として現われる所領に該当すると考えられる。承安3年(1173)「興福寺維摩会不足米勘文」から、宇治荘が維摩会料所であったこと、それが藤原鎌足の功田百町に由来するらしいことが知られ、また「不沽田」という特別な扱いをされている宇治荘・草和良宜村は、ともに鎌足邸第(山階第と三島別業)の故地と考えることができる。大宅の「興福寺橋」をどう処理するかという問題は残るが、山階第・山階寺は右に推定した位置にあったと考えるのが自然である。

以上のように論じたのち、山階第・天智陵がなぜこの場所に置かれたかと考えるか、また田辺史氏(上毛野朝臣氏)がこの地で継続的に勢力を保ったことをどう意義づけるか、といった点を課題として提示し、報告を終えた。

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第5回研究会を、以下の要領で実施予定。

日時
2003年7月8日(火) 18:30〜
場所
文学部旧陳列館1階 会議室
研究発表
根立研介氏 「安祥寺伝来の仏像をめぐって」