京都大学大学院文学研究科21世紀COE 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」

王権とモニュメント


NEWS LETTER Vol. 5

update:2004年2月26日

  1. 第6回研究会報告
  2. 第7回研究会報告
  3. 今後の予定

安祥寺と刀祢

西山良平(京都大学大学院教授)

はじめに

「安祥寺伽藍縁起資財帳」(以下、資財帳)の[縁起部]と[資財部](「山五十町」以下)の対応については、すでに井上正・水野敬三郎氏や、丸山士郎氏の検討がある。また、資財帳の末尾(「施入常燈分稲官符案一枚」以下の[文書部])には、資財の所有を保証する文書群が列記される。そこで、本報告では井上氏らの研究を参照しつつ、歴史的な観点から、[縁起部] と[文書部]の照応を検討し、安祥寺の寺田・山の性格を考察する。とくに、安祥寺「上寺山」と「当土刀祢」の関係に着目する。

1.「資財帳」[縁起部]と[文書部]

「資財帳」[縁起部]には安祥寺の資財の由来が記述されるが、そのうちの多数は[文書部]と正確に対応する。

  1. [縁起部]の「(仁寿)二年秋閏八月、頴稲一千斤、以為常燈分、即下官符、付之山城国」は[文書部]の直前の「常燈分頴稲一千斤/仁寿三(二カ)年秋閏八月下官符附之山城国」に該当し、[文書部]の「施入常燈分稲官符案一枚/山城国勘収燈分本稲牒一枚」に一致する。
  2. 「斉衡二年歳次乙亥言上編官額」は「応預定額安祥寺官符案文一枚/奉行同官符山城国牒一枚」に一致する。
  3. 「(斉衡)三年歳次丙子冬十月、施入寺之四辺山」は[資財部]冒頭の「山五十町、・・・」に該当し、「安祥寺上寺山券文一通/・・・」に一致する。
  4. 「貞観元年歳次己卯夏四月、上啓請毎年度僧、…」は「応得度年分者太政官牒一通/応得度年分者僧綱牒一通」に一致する。
  5. 「(貞観元年)又開供、以擬講三蔵教法」は「開三蔵供太政官牒一通/開供僧綱牒一通」に一致する。
  6. 「(貞観元年)講於(進出)維摩最勝会之立義、聴衆等人」は「毎年請用維摩最勝両会聴衆竪義各一人之状 太政官牒一通」「聴衆竪義僧綱牒一通」に一致する。

また、「承和十四年・・・、其取来儀軌、経論、仏菩薩祖師像、曼荼羅道具等如目録」は「僧恵運請来目録」(『平安遺文』四四五四)に照応関係がある。また、嘉祥元年の「上毛野朝臣松雄之松山」の施入と、仁寿元年の七僧の設置は国家的な処置ではない。したがって、私的(非国家的)な文書はありうるが、国家的な文書はないと推定される。

2.寺田の券文と分布

寺田は、山城・近江・阿波・下野・周防に分布し、宇治郡では一条〜四条にある。

この寺田の文書群は、「勘定同山四至当郡刀祢并郡司判解文案一枚正解文進定(宮)了」とあり、正文と案文を区別し、正文と案文の書き分けは正確と推定される。したがって、「同(民部)省符施行宇治郡国符一枚施入田九町」「国符一枚池田(内)空閑地」などのように、安祥寺は国符の正文を保有すると想定される。この山城国符は「宇治郡司同国符施行余戸郷之符案一枚」とあり、充所は宇治郡司と推測される。安祥寺は、郡司充の国符の正文を獲得する。

また、「墾田并野地七町国判券文一通」(山城国宇治郡)「野地六町五段百九十二歩国判券文一通」「地十町五段六十歩国判券文一通四条大槐里之内、坪付在券文」(宇治郡)「墾田家地并林九十六歩国判券文一通」(宇治郡)「在近江国神崎郡墾田六町八段三百十四歩畠地一段百八十歩国郡判券文一枚」「墾田四段国判券文一通」など、多数の券文に「国判」が強調される。国判を格別に重視すると推定され、寺田の集積は権威的・威嚇的である。

3.上寺山・下寺地の成立と券文

斉衡三年の「山五十町」(安祥寺上寺在其裏)は、[文書部]に多数の関連の文書があり、施入の経過が詳細に判明する。

「同(安祥寺上寺)山施入安祥寺官符案文一枚」「同山依官符施入安祥寺状山城国下宇治郡符案一枚」から、官符が国へ下され、官符に依り山城国が宇治郡に符を下す。その官符案文や国符案が保有される。「同山依官符施入安祥寺山城国公験一枚」は、山城国が官符に依り安祥寺に交付する公験と推定される。

また、「安祥上寺山四至勘定当土刀祢等解文一枚/中宮職勘定同山四至差使下当土刀祢符案一枚」から、中宮職が上寺山の四至を勘定するため、使を差し「当土刀祢」に符を下し、「当土刀祢」はその四至を勘定し、解文を進上する。さらに、「同山留郡券文并施入安祥寺国符請納宇治郡解文一枚」とあり、宇治郡が上寺山の「留郡券文并せて安祥寺に施入する国符」を「請(う)け納め」解文を言上する。このうち、中宮職の符は案文である。

なお、この中宮は藤原順子である。嘉祥三年(850)、順子は皇太夫人となり、中宮職が設置される。斉衡元年(854)、順子は皇太后になり、天安二年(858)、中宮職が皇太后宮職に改組される。かくして、斉衡三年、中宮職(藤原順子)が上寺山を施入する。

安祥寺は上寺山以外にも、セットの文書群を保有する。「山城国請納民部省符之牒一枚念定院建立文/同省符施行宇治郡国符一枚施入田九町/宇治郡司同国符施行余戸郷之符案一枚・・・/右三枚為一巻」は、山城国の安祥寺への牒・国符・郡司符案である。「近江国奉行民部省符之牒一枚」以下も同様である。

一方、「下寺地」(拾町八段十二歩)の文書群は貧弱もしくは存在しない。下寺地の可能性があるのは、その面積から、「山十町進中宮職公験一枚/同山進中宮職山城国下宇治郡符案一枚/勘定同山四至当郡刀祢并郡司判解文案一枚正解文進定(宮)了天安二年郡券見在/同山中宮職施入安祥寺文一枚/右四枚為一巻」である。この文書群は「中宮職」とあり、嘉祥三年から天安二年に限定される。嘉祥元年の松山とは時期に差異があり、また「山」の表記と「下寺地」の地種は相違する可能性がある。なお、面積や「地」の共通性から、「地十町五段六十歩国判券文一通四条大槐里之内、坪付在券文」が注意され、「下寺地」に相当する余地がある。

この「下寺地」は[資財部]の末尾に記載され、その位置はきわめて特殊で、上寺山が[縁起部]の直後つまり[資財部]の冒頭にあるのと全く対照的である。また、下寺地が嘉祥元年の施入との明確な根拠は存在しない。かくして、嘉祥元年の松山は「山上」(上寺)、斉衡三年の「寺の四辺山」も「山上」(紺野敏文氏説)との解釈は充分に成立すると想定される。嘉祥元年に文書群は存在せず、斉衡三年に太政官符以下が伝来すると推測される。あるいは、「山十町進中宮職公験一枚/・・・」が嘉祥元年の松山である余地はあり、嘉祥三年以後に文書が作成される可能性はある。

さて、「同山留郡券文并施入安祥寺国符請納宇治郡解文一枚」の「留郡券文」に注意する。これは「郡に留むる券文」で、「郡判/地二通一通留郡一通賜買人買人料」(承和三年・山城国高田郷長解案、嘉祥二年・山城国高田郷長解[『平安遺文』五九、九二])の「留郡」である。承和十三年・賀茂成継家地売券(『平安遺文』八一)の「国判参通郡判」の「郡判」は正確には「郡料」で、「留郡券文」 に相当する。国や郡に売券の一通が保管される。また、「請(う)け納める」は、「山城国請納民部省符之牒一枚念定院建立文」の「請(う)け納める」で、請文(うけぶみ)にほかならない。この請文は「留郡券文」と国符を受領するので、国への解文の可能性がある。さらに「墾田野地漆町留郡券文請宇治郡解文一枚墾田二町六段/野地四町四段三条」があり、「留郡券文」の郡解文はこの二例以外に類例がない。安祥寺は請文の郡解文まで保有する。

4.山と刀祢

安祥寺上寺山は、斉衡三年、太皇太后宮(藤原順子)が「件の山を買い上げ」施入する。なお、貞観六年(864)、順子は太皇太后となり、太皇太后宮職が付置される。「山」の売買は、[文書部]に「在同(宇治)郡山四町郡判貞観八年薬王寺法性買与、在券契」とあり、天長元年(824)、紀鷹成は野地五七町・畠地三町・山六〇町を俊子内親王家に「売り進」める(近江国大国郷野地売券、『平安遺文』四九)。山の売買は一般的と推定され、延暦十七年(798)、寺や王臣百姓が山野藪沢浜嶋を占点するが、「官符有りて賜う及び旧来占め買うを論ぜず」、皆収還する(『類聚三代格』延暦十七年十二月八日官符)。

さて、「当土の刀祢」が安祥上寺山の四至を勘定し、解文を提出する。中宮職が「使を差し当土の刀祢に符を下す」。その解文と符案が安祥寺に伝来する。また、山一〇町について、「勘定同山四至当郡刀祢并郡司判解文案一枚正解文進定(宮)了」とある。山野の領有・四至の認定は刀祢の「独自の任務」である(木村茂光氏)。一方、中宮職は「使を差し符を当土の刀祢に下す」。中宮職は国郡を介在せず、直接に当土の刀祢を指揮する。また、当郡刀祢と郡司判の解文は「山城国下宇治郡符」に対応するので、国に上申されると推定される。しかし、その「正解文」は「宮(順子)に進め」る。中宮職と当土(当郡)の刀祢は支配関係にある。これも留意される事実である。

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安祥寺現存堂舎の調査

山岸常人(京都大学大学院助教授)

現在の安祥寺の伽藍は、山科盆地の北を限る山地の麓、琵琶湖疎水の北側の山裾に約100メートル四方の範囲に広がっている。疎水のすぐ北に土塀で囲まれた本坊がある。参道に向かって西面して表門があり、表門の東南に鐘楼がある。参道を北へたどると、尾根の裾に平坦面を作って本堂が立ち、その東に西面して、北側に地蔵堂、南側に大師堂が並んで立つ。地蔵堂の北側の一段高い位置には多宝塔の礎石が残る。本堂の西北方の小さな谷を遡ったところに青龍権現社が立つ。

上記六棟および多宝塔跡の実測調査の結果は、以下の通りである。

本坊表門

一間薬医門、切妻造、本瓦葺、袖塀・貝形付、18世紀前期

ごく一般的な規模・形式の薬医門である。上田進城『山科安祥寺誌』(安祥寺 昭和4年)は根拠は明示しないものの元禄年間の再建と記しており、様式的な判断と一致する。

鐘楼

桁行一間、梁間一間、切妻造、桟瓦葺、18世紀中期

この建物は中規模の方一間、切妻造で柱に内転びのある極めて一般的な形式の鐘楼である。繰形や虹梁絵様は18世紀前期から中期にかけての様式をよく示している。『山科安祥寺誌』は宝暦年間の建立としており、首肯される。

本堂

桁行三間、梁間三間、入母屋造、向拝一間、桟瓦葺、背面下屋庇付、文化14年(1817、棟札)

やや規模の大きい三間堂である。木鼻や絵様肘木の意匠は鐘楼などと同種であるが、特に向拝の虹梁形頭貫の絵様や、象鼻に近い頭貫木鼻の意匠は、19世紀前期の特質を示している。棟札三枚が須弥壇の下に置かれており、文化14年に建てられたことが判明する。

地蔵堂

間口三間、奥行三間、宝形造、向拝一間、桟瓦葺、明和9年(1772、棟札)

小規模な三間堂である。天井の格間には極彩色の花卉の絵を描く。全体に構造や意匠に本堂と共通する要素が多いが、本堂より木太く、上質の建物である。棟札が本坊に保管されており、明和九年に建てられていることが判明する。

大師堂

桁行三間、梁間三間、寄棟造、向拝一間、本瓦葺、背面軒下張出付、安永2年(1773、礼盤墨書)頃

平面は桁行三間、梁間は二間で寄棟造である。中世風に見えるものの、向拝の虹梁形飛貫や手挟の絵様は18世紀後期から19世紀前期の様式を示しており、実際に建てられた年代は18世紀後期と考えられる。堂内の礼盤に安永2年にこれを作った旨の墨書があり、それよりやや遡った時期の建立と考えて良い。『山科安祥寺誌』は宝暦年間の建立とする。

青龍権現社

一間社流造、鉄板葺、嘉永6年(1853、棟札・壁墨書)

本社殿は間口が2メートルに満たない小規模の一間社流造の建物である。構造形式は極めて一般的なもので、特記すべき特色は持たない。殿内に多数の棟札が散乱し、身舎背面の板壁にも墨書があって、嘉永6年に建てられたことが判明する。

多宝塔跡

本堂の東北の一段高い位置に多宝塔の跡がある。この多宝塔は『山科安祥寺誌』によれば宝暦9年(1859)に建てられ、明治39年に焼失したとされる。天明6年刊の「拾遺都名所図会」には方三間の多宝塔が描かれており、南面・西面には石段とおぼしきものがみえるので、現状と合致する。

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バーミヤーン遺跡の現状

岩井俊平(京都大学大学院博士後期課程)

バーミヤーン遺跡の概略

バーミヤーン遺跡は、アフガニスタンの中央を東西に走るヒンドゥー・クシュ山脈中に存在し、多数の仏教石窟のほか、複数の都城址が残されている。6世紀後半以後、ヒンドゥー・クシュ山脈を南北につなぐ交通路が、このバーミヤーンを通過するように変化したことで、急速に富裕化した。石窟群に残された華麗な壁画と、崖の東西にそびえる大仏の存在で著名であり、日本からは京都大学と名古屋大学が調査隊を送っていた。

1979年以来のアフガニスタン内戦に加え、2001年にはタリバンによる大仏破壊という暴挙が行われ、遺跡は激しく損傷している。

遺跡の現状

バーミヤーン遺跡は、現在特に3つの要因で損傷を受けている。一つ目は、先にも触れた故意の破壊である。大仏の破壊に伴い、その仏龕に描かれていた壁画も完全に消滅した。これにつては、東西の大仏窟のみが報道の対象となっていたが、現地での調査により、座仏窟も爆破されていたことが明らかになった。そのほか、壁画に故意に足跡をつけて汚している例もみられる。

二つ目は、20年以上続いた内戦の間に進行した壁画の盗掘である。主要な壁画の写真を網羅した京都大学の報告書と比べてみると明らかなように、壁画の重要なモチーフの部分が持ち去られている。鋭利な刃物で切り取った跡が多くの石窟でみつかっており、切り取られた壁画はヨーロッパや日本の骨董市場に現れている。

三つ目は、難民の居住による破壊の進行である。石窟は、その当初から住居として使用されていたが、現在は壁画が残っていた洞窟にも人が住んだ痕跡があり、床の岩盤をくり抜いてカマドが作られている例が多い。したがって、天井にも煤が付着し、壁画が損傷を受けている。これについては、難民用住居の建設などともかかわるため、非常に複雑な問題である。

現在進行中のプロジェクト

以上のような様相をふまえて、現在日本隊による保存修復プロジェクトが進行している。2003年の夏・秋には、散乱した壁画片の収集作業が行われ、同時に岩窟の前に広がる平坦地において、遺跡の範囲確定を目的とした地中レーダー探査も行われた。今後は、収集した壁画の保存と学術的な活用、ひいては遺跡全体の活用を考えていかねばならない。

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『安祥寺の研究 I 』の刊行
「王権とモニュメント」研究会では、今年度の活動報告書として『安祥寺の研究 I 』を3月に刊行する。これまで、このニューズ・レターでも紹介してきた安祥寺に関する研究会の内容を1冊にまとめたものある。
第9回研究会の開催
4月13日に、第9回研究会を実施予定。詳しい内容が決まり次第、このサイトでお知らせします。