京都大学大学院文学研究科21世紀COE 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」

王権とモニュメント


NEWS LETTER Vol. 6

update:2004年6月1日

  1. 「王権とモニュメント」研究会の新体制について
  2. 『安祥寺の研究 I ―京都市山科区所在の平安時代初期の山林寺院―』の刊行
  3. 第9回研究会報告
    • 慶陵調査の過去とこれから(上原真人)
  4. 第10回研究会報告
    • 倭王権考(下垣仁志)
  5. 今後の予定

平成16年度に第14研究会「王権とモニュメント」は新たな会員を迎え、以下の新体制で臨むことになりました。とくに、2004年3月1日に締結した京都大学大学院文学研究科(代表・紀平英作研究科長)と韓国海上王張保皐研究会(会長・金文経)との「共同研究協約」(2カ年)にもとづき、共同研究「7〜10世紀東アジアにおける海上を通じた人的物的交流」を遂行するために、滋賀県立大学地域文化学科助教授の田中俊明氏をお迎えし、吉川・吉井を加えた3名がおもにこれを推進することになりました。また、レバノンでの発掘調査に携わっておられる泉拓良氏をお迎えするなど、国際的共同研究にもとづく海外の「王権とモニュメント」を視野に入れた今後の活動にご期待ください。新しい研究会メンバーは当サイトに掲載されています。

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2カ年におよぶ「王権とモニュメント」研究会の成果のひとつとして、『安祥寺の研究 I ―京都市山科区所在の平安時代初期の山林寺院―』(A4版、136頁)を刊行しました。本書は以下の報告4編と論考2編とから構成されています。

『安祥寺の研究 I 』目次
はじめに
凡例
報告篇
第1章 安祥寺の歴史と環境 梶川敏夫・上原真人
第2章 安祥寺上寺跡の測量調査成果 梶川敏夫・上原真人・岩井俊平
第3章 安祥寺資財帳の校訂・釈読 鎌田元一・中町美香子
第4章 安祥寺下寺の建築的調査 山岸常人
論考篇
安祥寺五智如来像の造像と仏師工房 根立研介
安祥寺以前―山階寺に関する試論― 吉川真司

第2章は、平成15年度に実施した安祥寺上寺跡の測量調査成果で、『安祥寺資財帳』に記載された上寺の施設と測量で判明した遺構との対応関係も検討されています。第3章は、東京大学総合図書館所蔵写本を底本とした『安祥寺資財帳』の本格的校訂・釈読で、今後の安祥寺研究における基礎資料となります。第4章は、安祥寺下寺の法灯を継ぐ現安祥寺に存在する近世建築(本坊表門・鐘楼・本堂・地蔵堂・大師堂・青龍権現社)および多宝塔跡の建築学的調査成果で、棟札釈文も付載されています。

根立論文は、現在京都国立博物館に寄託されている安祥寺五智如来の造立年代や本来の安置場所を検討し、その造像主体である奈良時代の伝統を受け継いだ官営工房系仏師について論究しています。吉川論文は、『安祥寺資財帳』や『山科郷古図』を手掛かりに特定した興福寺領宇治荘の性格を新史料から検討し、興福寺の前身とされる中臣鎌足の陶原家=山階寺の所在地を安祥寺下寺の南西に求めています。今後の考古学的調査の大きな課題が一つ増えました。

以上の報告・論考はいずれも、今後、安祥寺研究や山階寺研究を進める上での基本となります。おもな考古学研究機関や大学図書館などには本書を寄贈していますので、御参照ください。なお、公的機関や研究室などで御入用の場合は、御一報ください。

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慶陵調査の過去とこれから

上原真人(京都大学大学院教授)

戦前に京都大学が調査した慶陵(=内蒙古にある遼の皇帝陵で東陵の壁画が著名)に関する近年の動向を簡単に紹介し、朝日放送作成のビデオを放映した。昨年12月、上原は内蒙古考古文物研究所を訪問し、京大隊の報告書などの日本側の資料と、1992年に同研究所が行った調査成果資料とを交換するとともに、今後、日中共同で慶陵壁画保存に向けて、共同調査・共同研究を進めることを提案した。今後、共同研究の実現に向けて「王権とモニュメント」研究会も積極的に協力することとなった。

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倭王権考

下垣仁志(学術振興会特別研究員)

昭和から平成の代替わりに際し、天皇制を比較論的な「王権」概念で把握しようとする研究が高まりをみせた。文献史学・文化人類学・社会学・民俗学・考古学などを巻きこむ活況のなか、「王権」概念は深化されていった。

そうした研究成果をふまえて、本発表では王権を「その規範が面識圏を凌駕する範域におよぶ、単一ないし複数の身体を核として求心的に構成された(有力)集団構造」と定義した。この定義をもって、倭王権、すなわち倭国王を核として求心的に形成された(有力)集団構造の特質とその変容過程、および求心化の背景を探った。対象時期は、以下の二つの理由から弥生時代末期〜古墳時代後期(2世紀末〜6世紀)とした。第一、律令期の王権論は活発であるが、その形成過程は不闡明であること。第二、格差のいちじるしい中心-周辺構造を有する古墳は、律令前の王権構造を剔出する有力な手がかりになること、である。

王権像について研究史を振り返ると、古墳の突発的な出現と圧倒的な巨大古墳の存在から導出された、「大王を中心に世襲的首長がピラミッド的構造をなす専制的支配体制」なる像は、古墳の諸地域でのゆるやかな醸成過程と地域性の存在から否定され、「能力によって推戴される非専制的な非血縁継承首長が王権のもとへ結集する、ゆるやかな連合体制」像へと塗り替えられた。

地域性や独自性はたしかにある。また、畿内中枢部の生産的・物理的優位性は圧倒的でもない。だが、畿内中枢部を核とする中心性や定型性や格差性が厳として存在するのも事実である。したがって、追究すべきは、これら一見相容れない性質を包括する説明体系である。本発表では、有力集団内関係(レヴェル I )・有力集団間関係(レヴェル II )・東アジア内関係(レヴェル III )の三つの分析レヴェルを設定して、説明体系を摸索した。

まず有力集団内関係である。近年、系譜分析や歯冠計測による親族分析、人骨と副葬品目による性判別が飛躍的に進展した。結果、5世紀後半以前には父系世襲制は発生しておらず、女性支配者の存在や(男女)連立的な統治体制があり、5世紀後半に画期があると主張されるにいたっている。発表者はこれを承け、一古墳の埋葬に支配状況が反映するとの前提のもと、複数埋葬を分析した。古墳時代前期には「女」性的な埋葬施設が卓越し、「男」性的埋葬施設と補完的関係にあり、両性格の連立支配体制が想定されるが、中期に入ると後者が卓越の度を増し、中期末葉(5世紀後半)には前者は圧倒される。これは、「女」性の埋葬を鞏固に守りつづけた前方部墳頂埋葬が、5世紀後半頃に「男」性一色に染まることと一致する。これが有力集団内関係の基本構造とその変化である。ただし、これらが広域的かつ期を一にし、また畿内中枢部が設定した埋葬施設・副葬品等の格差が、複数埋葬において守られているのは、畿内中枢を核とする広域的な規範が諸地域でも反復されている結果と解釈した。

次は有力集団間関係である。銅鏡を主材料として、畿内中枢部による中心-周辺構造の意図的な創出を読みとった。かつては銅鏡の分布の変化から「大和政権の勢力圏の拡大」が論じられていたが、三角縁神獣鏡の最初期から広域分布を示すことと、格づけの観点から別個の解釈をとった。文様要素の抽出・融合によって多様な面径を揃えた倭製鏡(倭国で製作された鏡)は、畿内中枢部を核とした傾斜減衰分布を示し、その傾向は鏡径の増大に比例する。また、時間差・性格差ととらえられがちであった石製品3種も、格差とみなせば倭製鏡と同様の分布状況を呈している。こうした畿内中枢から拡散させられる文物は、諸古墳で良好な共伴状況を示すことから、畿内中枢を核として諸地域を分節的に格差づけるべく、契機的に分配されたものとみなせる。

そして、諸地域の分節化は、各種文物の分布状況を通観すれば、その時々の王権の戦略に応じていることがわかる。例えば、前期中葉に分布域が縮小するのは中国王朝との結びつきの弱化と、前期後葉を境に西国の分布が増すのは半島との関係の強化と、中期末葉に東国の比重が増大するのは東国経営の開始と、それぞれ関係している可能性が高い。諸地域の分節化は「王陵」の相似墳の分布からも想定できるが、とくに前期後葉の「佐紀陵山型類型」がのちの畿内四至にほぼ一致することは、王権による意図的な分節を明瞭に示す。

ただし、中心-周辺構造の創出は中心による一方向的なものではなかった。古墳祭式の生成構造を分析すれば、諸地域で醸成された祭式や外来の文物・思想を畿内中枢が吸収・統合し、格差を施して諸地域に再分配していたことが明らかである。つまり、政治的下位から上位への働きかけが、祭式の委譲という形でみてとれる。また、この吸収・再分配は契機的になされ、諸文物とともに諸地域に拡散させられた可能性が高い。

最後に東アジア内関係である。公孫氏との関係が大和東南部における中枢成立と、魏との関係が広域的な倭王権成立と、南朝や半島との関係が西国重視の政略と、両者との関係の弱化が東国経略と密に関連していることは、両者由来の文物の採用・分布状況から明瞭である。単に文物のみを導入していたわけではなく、支配構造のアイデアも中国王朝からえていた蓋然性が高い。たとえば、古墳時代中期には府官制なる軍事的統治体制と、冊封関係をモデルとした仕奉関係が導入されたと説かれている。さらに、それ以前の弥生時代末〜古墳時代前期にも、契機的な祭式・文物の吸収・再分配や分節的な格づけ方式などには、証拠不十分ながらも中国礼制の元会儀や冊封の思想がうかがえる。つまり、倭王権では、2世紀末の成立以降、より中枢である中国王朝の儀礼的方式を積極的に導入し、同型的に反復していた可能性がある。こうした外的契機と外部の方式の意図的な模倣が、倭王権の展開にとって重要であったと考えた。

以上をまとめると、次のようになる。生産関係や階級関係の矛盾がとくに進展していたわけでない畿内地域が、広域におよぶ中心-周辺構造の中枢でありつづけた要因は、長距離交易の中枢であったからだけでなく、中国大陸との関係のなかで採用(模倣)した中心-周辺構造の再生産方式(格づけをともなう文物・祭式の吸収再分配方式等)を積極的に推進したことにあったのではないか。この格づけ方式は有力集団内でも同型的に反復されることで、より浸透の度を増したと考えられる。中国王朝を中核とする、自律的政体の同心円的構造において、政治的上位が下位に文物等を分配し、また下位が上位を積極的に模倣することが、倭王権の基盤となっていたと考えた。

今後は、この中心-周辺構造と生産関係・生産力の展開との関係、さらに対外関係が弱化しはじめた5世紀後葉に画期が存在し、これ以降、国家形成が大幅に進展した理由などを分析することで、より細やかな王権展開過程を追究していかねばならない。学位論文において詳論することで、責を果たしたい。

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第11回研究会の開催

日時
2004年6月15日 18:30〜
場所
文学部旧陳列館1階 会議室
研究発表
山田邦和氏(花園大学教授):「幕末の天皇陵改造―文久の修陵―」